川俣締切址は、羽生市役所の西北西約4kmのところ
国道122号線が利根川を渡る手前に、道の駅羽生が有ります
利根川の土手道側に石碑が立っています

道の駅羽生の位置です

群馬県境の利根川を渡る昭和橋です

男体山をはじめとする日光連山が見渡せます

埼玉県指定史跡 川俣締切址石碑です

説明版です
県指定旧跡 川俣締切跡(昭和38年8月27日)
川俣締切跡は、それまで分流していた利根川流路のうち会の川筋を文禄3年(1594)に締め切
った跡である。
近世以前の利根川は、武蔵・下総両国の国境を南へ流れ、現在の東京湾に注いでいた。千葉・茨城
両県境を東流し、千葉県銚子市から太平洋に注ぐ現在の流路は、利根川東遷事業と呼ばれる近世前期
の大規模な流路変更と河川改修によって付け替えられたものである。この東遷事業は、水害からの江
戸の防備、関東平野の開発、物資輸送のための船運水路の整備などを目的としたといわれ、徳川氏・
江戸幕府によって、半世紀以上にわたって段階的に行なわれた。羽生領新郷川俣付近における会の川
筋の締切は、江戸開府前に行われ。その最初の工事であった。
当時、利根川の流れは幾筋にも分流しており、新郷川俣付近においては、南流して現在の加須市志
多見、加須を経て川口へ向かう会の川筋と、現在の河道を東流する一流とに分かれていた。文禄元年
(1592)忍城主となった松平定吉の命を受け、付家老の小笠原三郎左衛門吉次が指揮して、新郷
に堤を築いて会の川筋を締切り、同三年に利根川本流を東流させたと伝えられている。この工事は困
難をきわめ、僧侶が人身御供として入水したという伝説も残されている。この締切工事により、会の
川や古利根川が利根川から切り離され、以後、江戸や流域の治水がはかられるとともに、利根川流域
の広大な新田開発が進められていった。
(石碑には史跡とあるが、場所の移動に伴い旧跡に指定替えとなった。)
平成十六年四月一日 羽生市教育委員会
埼玉県教育委員会

歌碑や神社石碑が有ります


締切されたのは道の駅の東側、この辺でしょうか~
では、次へ行きましょう

国道122号線が利根川を渡る手前に、道の駅羽生が有ります
利根川の土手道側に石碑が立っています

道の駅羽生の位置です


群馬県境の利根川を渡る昭和橋です


男体山をはじめとする日光連山が見渡せます


埼玉県指定史跡 川俣締切址石碑です


説明版です
県指定旧跡 川俣締切跡(昭和38年8月27日)
川俣締切跡は、それまで分流していた利根川流路のうち会の川筋を文禄3年(1594)に締め切
った跡である。
近世以前の利根川は、武蔵・下総両国の国境を南へ流れ、現在の東京湾に注いでいた。千葉・茨城
両県境を東流し、千葉県銚子市から太平洋に注ぐ現在の流路は、利根川東遷事業と呼ばれる近世前期
の大規模な流路変更と河川改修によって付け替えられたものである。この東遷事業は、水害からの江
戸の防備、関東平野の開発、物資輸送のための船運水路の整備などを目的としたといわれ、徳川氏・
江戸幕府によって、半世紀以上にわたって段階的に行なわれた。羽生領新郷川俣付近における会の川
筋の締切は、江戸開府前に行われ。その最初の工事であった。
当時、利根川の流れは幾筋にも分流しており、新郷川俣付近においては、南流して現在の加須市志
多見、加須を経て川口へ向かう会の川筋と、現在の河道を東流する一流とに分かれていた。文禄元年
(1592)忍城主となった松平定吉の命を受け、付家老の小笠原三郎左衛門吉次が指揮して、新郷
に堤を築いて会の川筋を締切り、同三年に利根川本流を東流させたと伝えられている。この工事は困
難をきわめ、僧侶が人身御供として入水したという伝説も残されている。この締切工事により、会の
川や古利根川が利根川から切り離され、以後、江戸や流域の治水がはかられるとともに、利根川流域
の広大な新田開発が進められていった。
(石碑には史跡とあるが、場所の移動に伴い旧跡に指定替えとなった。)
平成十六年四月一日 羽生市教育委員会
埼玉県教育委員会

歌碑や神社石碑が有ります



締切されたのは道の駅の東側、この辺でしょうか~

では、次へ行きましょう

