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ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

群馬県片品村、花咲山崎「武尊神社の楓の木」です!!

2025-07-16 06:41:25 | 文化財・樹木
 花咲山崎地区は、片品村役場の南西約4kmのところですが間に山がありますので南側から周り込む様になりますので道程は約10kmの所です

 片品村役場(道の駅尾瀬かたしな)東側の国道120号線を南へ進みます

 約5.6kmの「平川」信号を右(Uターンするように)へ入って道なりに進みます、県道64号線です

 約5.4kmで斜め右への道路が工事の為通行止めでしたので、直ぐ先の「迂回路」表示で廃校となった花咲南小学校の校門を入ります


 校庭北側に「片品村立 片品南小学校 跡地」の石碑があります、後方に目的の「楓の木」です

 隣の開校60周年記念事業の碑には 「昭和30年度から平成27年度まで、花咲のこども達、1148名が学び、巣立ちました」とありました。

 石碑の北西側に武尊神社が南向きに鎮座していますので、工事が無ければ南東側からの道路脇に車を止める事になります

 南東側から

 根元に「武尊神社と楓の木」の標柱です

 説明版です
   武尊神社と楓の木
 武尊神社のことを村の人は社と呼んで、この辺りはトチ・スギ・モミ・ニレなどの木が茂っていました。
 このカエデの木も、その中の一本で推定樹齢350年余といわれています。
 350年以上ずっと続いているという猿追い祭りをカエデの木は最初から見ているわけです。
 そして私たちの暮らしも武尊神社と共に見守り続けている大切なカエデの木と武尊神社なのです。
            令和2年8月 第三区・武尊神社・花咲おらあの村づくり推進委員会

 東側から

 北側から見上げました、目通り幹囲3.4mのイタヤカエデの大木です

 北西側から

 西への参道を進んで、武尊神社へお参りしましょう

 南側からの鳥居です

 手水鉢です

 拝殿です

 説明版です
   片品の猿追い祭
     国指定重要無形民俗文化財
     文化財の所在地 群馬県利根郡片品村花咲
     保護団体    猿追い祭保存会
     公開期日    旧暦9月の中の申の日
     文化財の概要
 片品の猿追い祭は、旧暦9月の中の申の日に鎮座する武尊神社で、大字花咲の鍛冶屋・山崎・登戸・杤久保・栗生・針山の六つの集落が参加して行われる祭で、組という地縁集団とイッケと呼ぶ同族集団が、特定の役割を分担しあいながら行われる。
 祭りは、集落ごとに組内でまわり番で、サカバン、ヒツバンという当番をつとめる。
 サカバンは甘酒を用意し参加者へ振る舞う。ヒツバンは赤飯を用意し、神事の後に神社拝殿の前で東西に向かい合い赤飯を交互に投げあう。
 この後、拝殿に集落別にイッケの代表が東西に分かれて着座し、謡が行われる。最後の曲である「千秋楽」が始まると同時に、白装束の猿投が口に半紙をくわえ、手に幣束を持って神社のまわりを右に3周し、これをサカバン・ヒツバンが追いかけ、祭が終わる。
 この行事は、猿の害を防ぐために始まったとの伝承があり、参加者の席次が固定し、役を務めることのできる家が特定されるなど、東日本には珍しい宮座的な組織によって行われる貴重な行事である。
             平成13年2月28日 指定  片品村教育委員会
 *後方の説明版は、国指定前の県指定時の説明版です。


 本殿覆い屋です
 *明治41年(1908)に花咲村内の栗生武尊神社・栃久保諏訪神社・井戸尻諏訪神社を合祀したそうです。



 本殿周りには、石祠が多数と石仏や庚申塔も並んでいます

 鳥居東脇には境内社が二社並んでいます、鳥居には諏訪宮の額です

 東側の境内社にも「諏訪宮」の額が掛けられています

 説明版です
   諏訪神社
 花咲地区に昔上の諏訪さまが、杤久保地区に下の諏訪が、鍛冶屋の部落にあって運の神養蚕神とし、信仰されていた。
 昭和の中頃武尊神社の境内に移築して信仰している。

 では、次へ行きましょう





 2025・7・6・09・25
  
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群馬県前橋市、堀越町「大胡小の大ケヤキ」です!!

2025-07-15 18:48:34 | 巨樹・大木
 堀越町は、前橋市役所の東北東約9km、前橋市役所大胡支所の直ぐ南西側に大胡小学校があります

 前橋市役所大胡支所を南西に出て、南へ、右手には前橋市立大胡小学校の三階建て校舎です

 突き当りの丁字路一時停止を右(西)へ、校舎南側の県道34号線です

 校舎の西側にケヤキの樹冠が見えましたが、車を止められませんので、次の「堀越町」信号を右(北)へ入ります

 校庭西側の大胡郵便局の駐車場に車を止めさせて頂きました

 大胡小学校校舎西側の校庭南に目的の大ケヤキです

 校庭西側の校門から

 校庭を囲うネットが開けられていたので、大ケヤキをはっきり見ることが出来ました

 *前橋市HPの学校概要には・・・
 「本校は明治6年10月開校、創立153年目を迎えた歴史と伝統のある学校です。
 平成16年4月に児童数千人を超え、新設された大胡東小学校に330名程の児童を送り出しました。
 その後児童数は年々減少傾向にあり、2025年度は、353名でスタートしました。
 新校舎の建設は、平成17年10月に始まり、平成19年2月に完成しました。
 校歌に歌われている校庭の大欅は、周囲が10m、樹高20m以上あり、子どもたちに親しまれています。四季を通して、木のまわりで遊ぶ子どもの姿が多く、学校のシンボルツリーとなっています。
 陸上競技や水泳競技など運動が盛んであると同時に、俳句や詩の創作活動も伝統的な取組となっています。
 また、創立42周年を迎える「けやき合唱団」の歌声も大変すばらしく、地域行事やコンクールなどで、多くの方に親しまれています。」
 とありますが、遠くから見ただけですが周囲10mは根回りのようです、目通り幹囲に関してはWikipediaでは、樹齢300年以上、周囲約5m、高さ20m以上のとされていますので、こちらが正解のようです


 ネット越しではやはりはっきりしませんね

 では、次へ行きましょう




 2025・7・5・10・10
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栃木県真岡市、亀山1丁目「太子の笠松」(県指定・とちぎの名木)です!!

2025-07-15 06:55:04 | 巨木・文化財
 亀山1丁目は、真岡市役所の北西約3kmのところ

 真岡市役所北側の県道257号線を西へ、約200mで県道47号線に変わって進みます

 約2.2kmの「上高間木3丁目」信号を右(北)へ、高間木通りです

 約1.1kmで道路左手に「太子堂公園」があります

 公園西側に駐車スペースがありますので利用させて頂きました

 公園東側に階段上(高間木通り沿い)に「太子の笠松」の案内板です

 階段上から目的の笠松を見下ろしました

 南東側の階段から

 南側から

 とちぎの名木百選の標柱です

 説明版です
   栃木県指定天然記念物
     太子の笠松  1本
       所有者 真岡市 昭和33年8月29日指定
   枝張り東西南北 13.1m
   樹根高さ     75cm
   樹齢      約250年
 松科のクロマツで、栃木県内ではクロマツの野生は少なく、ほとんどが庭木である。
 様々な樹形に仕立てられ、見事な古木も各地にあるが、この様な笠作りは少ない。
 「太子」は、旧所有者鈴木家の屋号「太子堂」から付けられたものである。
 丸形均等に枝張りを形成し、菅笠を伏せた形であるため笠松と呼称されている。
 樹勢は旺盛であり、また、県下に例をみない奇形の松である。
               栃木県教育委員会・真岡市教育委員会

 根元には石垣が組まれています、この高さが75cmのようです

 南西側から

 西側からは、離れて撮影できません

 北側から

 東側から

 南側に離れて見ました

 公園には東屋が有ります、後方の土手状の上に「高間木通り」が通っています

 では、次へ行きましょう




 2025・7・2・13・50
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茨城県つくば市、上大島「真福寺の不動カヤ」です!!

2025-07-14 19:02:50 | 巨樹・大木
 上大島地区は、つくば市役所の北約17km、つくば市役所筑波窓口センターの北北西約6kmのところ

 つくば市役所筑波窓口センター(市民ホールつくばね)を北東へ出て、国道125号線を北西へ進みます

 約900mの「内町下交差点」信号で左に国道125号線を分けると、直進は県道14号線で北へ進みます

 約4kmの「クボタつくば営業所」の先を斜め右(北)へ入ります

 見たい成りに約900mの「真言宗豊山派 一乗院参道入口⇨」の案内板の有る交差点を右(東)へ、道成りに左へ曲がると

 右手に一条院の駐車場です

 西南西向きの参道の先に山門です

 「不動尊霊場筑波山 一乗院 」寺号標です

 山門前の石仏です

 右手には手水鉢です

 山門を潜ると石段です、左手には墓地への入り口です

 石段上には門状にイチョウが立っています

 右手には十三重塔です

 左手に目的のカヤのようです

 境内に上がると右手にお不動様です

 お不動様前から西向きの本堂です

 目的のカヤには注連縄が巻かれています、太陽が正面に成ってしまいました

 南東側から、幹が2本に分れて立ち上がっています

 東側から、樹高16.3m、根廻(地上面)7.8m、目通り幹囲6.0mの巨木です

 北側から

 根元にはお不動様です

 句碑ですね

 西側から

 墓地側から見上げました

 では、次へ行きましょう





 2025・7・2・12・45
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埼玉県上尾市、原市五番町「宝蔵寺のラカンマキ」(市指定)です!!

2025-07-14 06:47:23 | 巨樹・大木
 ここからは2025年7月2日取材分です

 原市五番町地区は、上尾市役所の南東約3kmのところ

 上尾市役所前の県道150号市役所通りを東北東へ進みます

 約1.4kmの「埼玉・県道5号線⇒」の標識に従って信号を右(南東)へ、第二産業道路です

 約2.1kmの「原市五番町歩道橋」信号を左(北北東)へ

 次の「原市五区」信号の直ぐ先緩く左カーブの先左手(東北・北陸・上越新幹線の高架直ぐ西側)に

 宝蔵寺が有ります

 手前の駐車スペースに車を止めさせて頂きました

 宝蔵寺寺号標です

 北側に本堂です

 目的のラカンマキです

 観音様です

 東側から

 天然記念物標柱です
 
 説明版です
   上尾市指定天然記念物
     らかんまき 宝蔵寺(大字原市3659)
 らかんまきは、庭園などによく植えられいるマキ科の木である。
 枝が多く、葉は平らな線形または披針形(先のとがった、平たく細長い形)で、長さ10cmから15cm、幅0.7mmから1.2mmで厚く密生し、四季を問わず青々としている。
 種子は、楕円形で、紅色の衣を着た「羅漢(仏教において尊敬されるべき修行者を意味し、袈裟を着た僧侶の姿で表される)」の姿に似ていることから「らかんまき」と名付けられた。
 高さは通常5m前後、開花期は5月から6月、千葉県南部から中国(雲南省)辺りに分布する植物である。
 この宝蔵寺にあるらかんまきは、根本から2本の幹がねじれながら上に伸びている。
 一つの幹は半ばから欠けているが、幹の直径は約1m、高さは10mあり、樹齢は500年から600年ともいわれている。
 もともとは宝蔵寺境内の西寄りに生えてていたが、昭和56(1981)年に新幹線の建設工事に伴い、現在の本堂南脇に移植され、今日に至っている。
             上尾市教育委員会

 南東側から

 南側から見ました

 では、次へ行きましょう




 2025・7・2・10・25
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三重県伊賀市、柘植町余野「余野公園の松切株と蒸気機関車」です!!

2025-07-13 19:41:19 | ドライブ
 柘植町は、伊賀市役所の北東約17km、伊賀市 柘植地区市民センターの北北東約1.5kmのところ

 伊賀市柘植地区市民センター東側道路を北へ、約200mの丁字路を左(西)へ、県道50号線です

 約550mの交差点信号を右(北北西)へ、道成りに約250mで斜め左(北北西)へ

 約250m関西本線の踏切を越えた「倉部北」信号を右(北東)へ、県道4号線です

 約1.5kmで右手に余野公園入口です、広い駐車場に車を入れました

 公園案内図です

 奥余野森林公園の案内図です

 管理棟近くに目的のマツの根株です

 説明版です
   余野公園と松
 この松の根は、巨人伝説がある。「モッコ山」(通称)頂上部にあった松が枯れたため、平成15年7月伐採、土中深くにあった根を堀り起したもの、もともと3本の松の木が根元から重なり合い、あたかも1本の大木に見える珍しい樹形でした。
 この松の樹齢は120年程。調度明治23年(1890)、草津線(柘植~草津間)の開通を記念し、余野公園に松とツツジを植樹したという地元に今も残る言い伝えと一致します。
 しかし、近年、マツクイムシによる被害や自然環境の悪化等が影響して根元から幾本かの幹に分かれ、天空に笠松状に広がる余野公園を象徴した立派な松が枯れてきまった。
 私たち余野公園管理協力会は、長い歴史の中で先人が大切に育ててきた松を枯れたのは忍びず、このように松の根を遺したのは、ここを訪れられる人々に、せめて先人の労苦に思いを馳せ、往時の松の姿を偲び、あわせて環境保護の大切さを認識していただきたいと願っているからです。
     平成19年7月14日  
       いがまち観光協会・余野公園保勝会・余野公園管理協力会


 東側から

 南側から

 西側から見ました

 公園の中央部の高台へ行って見ます

 ハクモクレンのようです

 色々な種類のサクラが咲いています

 ここから上がります

 上って行きます

 マツの大木です

 大きな石碑は「東柘植村林碑」です

 公園南西隅近くに「蒸気機関車」が展示されています

 先頭部分から

 運転席です

 後方の石炭車側から

 後面です

 説明版です
   D51-831号の概要   1974年6月20日
 本形式は、1D1過熱テンダ機関車で昭和11年から製造され、わが国における標準貨物用機関車であります。
 大正12年以来主要幹線の貨物用および勾配線用の最重要機関車として活躍していたD50形(9900形)は、昭和4年以降は不景気のためその製造は休止されておりました。
 しかし、昭和10年度に再びこの形式の製造が必要となり、D50形の各部構造に改良を加え、かつできるだけ多くの区間で運転できるよう軸重をいくぶん軽減したものが「D51形機関車」であります。
 昭和の興隆期に経済輸送の王座として活躍し、主要幹線の大量貨物列車(1200トン)を牽引し疾走した猛者の雄姿を後世に伝え生きた教材として保存するため、当町では、町民みなさんの強い要望と、国鉄当局の深いご理解と関係者の力強いご協力を得て伊賀町蒸気機関車設置委員会に諮問し、ここに天下のツツジの名勝鈴鹿国定公園余野遊園地の一角にをみたのであります。
 私たちは当町蒸気機関車保存会と共にD51ー831の労をたたえ末永く大切に保存しようではありませんか。
 経過歴 製造年月日 昭和17年2月・製造所名 国鉄鷹取工場・当時の価格1000万円
     配置年月日        配置区所    走行粁         使用路線
     昭和17年12月     吹田機関区   319734.6km  東海道本線
     昭和23年10月 9日  鳥取機関区   788571.8km  山陰本線
     昭和34年 9月22日  豊岡機関区   739355.6km  山陰本線
     昭和44年10月 1日  福知山機関区   95414.4km  山陰本線
     昭和47年 3月18日  奈良機関区    68864.1km  関西本線
     昭和48年 9月30日  休止となる    (関西本線運航休止)
     D51ー831走行粁          2010940.5km

 蒸気機関車設置事業に高額の寄付をされた方の碑です

 南西側から見ました



 2025・4・17・11・25

 以上で、15日間に渡った取材旅行を終了します、国道24号線から国道23号・国道1号・国道246号と進んで埼玉に23時過ぎに帰りました



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三重県伊賀市、玉瀧「玉瀧神社のスギ」です!! 

2025-07-13 06:33:13 | 巨樹・大木
 玉瀧地区は、伊賀市役所の北北東約16km、伊賀市役所阿山支所の北約5kmのところです

 伊賀市役所阿山支所東側の県道673号線を北へ、直ぐ先の一字停止を右(北東)へ

 直ぐ先の「馬場」信号を左(北西)へ、県道49号線です

 道成に約2.7kmの「槙山口」信号からは、県道49号線を左に別けると県道775号線です

 約2.3kmの「下柘植・県道50号線⇒」の標識で信号を右(東南東)へ、間も無く

 右手に北向きに玉瀧神社の参道一ノ鳥居です

 参道を南へ進むと「鞆田川」の橋を渡った右手に駐車場がありますので利用させて頂きました

 ニノ鳥居は木製の両部鳥居です

 参道石段を上ります

 三ノ鳥居です

 手水舎です

 大きな水槽は、石風呂です

 説明版です
   石造湯槽  阿山町指定文化財
 手洗鉢として利用されているが、もとは石風呂である。
 鎌倉から南北朝時代に行われた湯屋信仰の名ごりを留めるものである。
 普賢院の過去帳には、天和3年(1683)に大石の手水鉢が、献上された記述がみられる。
 全国で六十数基確認されている石造湯槽のうち、最大のものとされる。
                阿山町教育委員会
 *阿山町は、平成16年(2004)11月1日に上野市、阿山郡伊賀町・島ヶ原村・大山田村、名賀郡青山町と合併して伊賀市になったため消滅しました。

 一段上に拝殿です

 由緒石碑です
   玉瀧神社由緒記
 鎮座地 三重県阿山郡阿山町大字玉滝7609番地
 御祭神 建速須佐之男命
     大山咋命・大山祇命・天忍日命・伊邪那岐命・速玉男命・大國主命・宇迦之御魂命・大彦命・火之迦具土命・応神天皇・蛭子命・大日孁貴・菅原道真・天児屋根命・菊理比咩命
   由緒
 当神社は、かつては豊田神社と称し、勧請は「准后伊賀記」に日く「玉瀧儀ノ郷豊田天皇延喜三年勧請廣峯ノ禰宜道勝掌之云々」と、また「伊水温故」に曰く「豊田天皇牛頭天王延喜三年播磨廣峯より勧請云々」とあるが如く、延喜3年(903)姫路市の北方広嶺山廣峯神社より勧請して祀られしものである。
 本社は天正の兵火、また安永4年(1775)別当普賢院よりの出火延焼に罹り焼失した。
 明治40年玉瀧・内保地区に点在する津島神社、鈴鹿神社、日吉神社、愛宕神社、山神社、八幡社、秋葉神社、宇都可神社等の27社を合祀し、明治41年2月6日玉瀧神社と改称した。
   例祭日 4月6日 神幸式斎行

 拝殿右手に目的の大杉です

 北東側から、大枝が伐られています

 北側から、幹の頂部も欠けているようです

 南側から、目通り幹囲5mの巨木です

 東側から、南側の面の皮は無くなってしまっています

 拝殿内です


 本殿です

 注連縄の巻かれた御神木はクスノキでしょうか



 境内北側の斜面にはショウジョウバカマの群落です
.

 では、次へ行きましょう





 2025・4・17・10・55
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三重県伊賀市、馬場「阿山小学校(河合小学校)のセンダン」(市指定)です!!

2025-07-12 19:22:46 | 巨樹・大木
 馬田地区は、伊賀市役所の北北東約12km、伊賀市役所阿山支所の直ぐ東側に「阿山小学校」があります

 今回は伊賀市役所から出発しました、市役所西側の道路を北へ

 約500m名阪国道のトンネルを貫け久米川の橋を渡って直ぐを右(東)へ

 約300mで斜め左(東北東)へ、名阪国道沿いの坂道を上がります

 約300mで一時停止を左(北)へ出て「⇐名古屋方面」の標識を左へ、名阪国道に乗ります

 約7.4kmの「⇖出口・壬生野」の標識で名阪国道を降り、交差点を左(北西)へ、県道679号線です

 約900mの「西之沢」信号からは県道49号線となってさらに

 約2.6kmの「⇐馬場・県道673号線」の標識に従って信号を左(南西)へ

 約100mの「河合警察官駐在所」手前交差点を左(南)へ

 間も無く左手に「阿山小学校」です

 南側の道路脇に車を止めさせて頂きました

 校庭では体育の授業中でしたので、しばらく待っていましたが、生徒たちが視界のセンダンの根元を離れたので、写真を撮らせて頂きました。

 校庭に目的のセンダンです(西側の校門前から)

 ズームアップして見ました

 根元近くに説明版です
   センダンの大樹  伊賀市指定文化財
 樹齢約百余年、高さ約18m、幹まわりが4mある。
 センダンは暖地に自生する落葉高木で初夏に淡紫色の花を多数つける。
 明治41年、河合尋常高等小学校がこの地に移転したとき、金台寺から記念樹として移植されたもので、三重県緑化推進協議会により四大樹の一つに選ばれている。
             伊賀市教育委員会

 可愛い忍者の模様の汚水桝の蓋(マンホールフタ)です

 では、次へ行きましょう






 2025・4・17・10・50
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三重県伊賀市、馬田「薬師寺跡のムクロジ」(市指定)です!!

2025-07-12 07:06:42 | 巨樹・大木
 馬田地区は、伊賀市役所の北北東約12km、伊賀市役所阿山支所の北約600mの所に薬師寺跡があります

 今回は伊賀市市役所からのルートです

 伊賀市役所西側の道路を北へ、約500m名阪国道のトンネルを貫け久米川の橋を渡って直ぐを右(東)へ

 約300mで斜め左(東北東)へ、名阪国道沿いの坂道を上がります

 約300mで一時停止を左(北)へ出て「⇐名古屋方面」の標識を左へ、名阪国道に乗ります

 約7.4kmの「⇖出口・壬生野」の標識で名阪国道を降り、交差点を左(北西)へ、県道679号線です

 約900mの「西之沢」信号からは県道49号線となってさらに

 約2.6kmの「中友田・県道673号線⇒」の標識に従って信号を右(北東)へ

 約200mの「薬師寺のムクロジの木」の案内板を左(北西)へ

 約200mの道路脇に車を止めさせて頂きました

 北西へ約100mで桜と並んでムクロジが見えて来ます

 薬師寺参道です

 参道左手に

 目的のムクロジです

 東側から

 幹の中は空洞になっています

 北側から

 説明版です
   薬師寺のムクロジ 伊賀市指定天文化財
 薬師寺の境内にあるムクロジは、幹の頂部が折れ、内部が空洞化するが、樹高が矢蓺10m、胸高周囲が3.43mあり、県下で確認されているムクロジの中では最大のもので貴重である。
 ムクロジは本州中南部・四国・九州・沖縄・台湾・中国・インドに分布し、6月頃、うす黄色で小粒の花を開く、果実の皮は、石けんの代用となり、紫黒色の種子は、羽根つきの玉や、数珠に利用される。
              伊賀市教育委員会

 西側から

 南西側から見上げました

 薬師寺本堂です

 説明版です
   油尾山 薬師寺縁起
 当庵は油尾山薬師寺と称し、薬師瑠璃光如来をご本尊とし、十二神将と呼ばれる神々に守護されており、他に愛染明王、青面金剛童子(庚申さん)、地蔵菩薩が合祀されている。
 薬師如来は大医王仏と云われ、大病を治癒する仏として信仰されている。
 尚、合祀されている愛染明王の法要会式(六夜さん)は、毎年8月26日に執行されている。
 当庵は、天正伊賀の乱で焼却され、宝物文献悉く焼失したが、ご本尊は油尾谷に避難し難を逃れた。
 元禄10年(1697年)中興の祖行順和尚により、本堂改築並びに鐘楼堂新築、釣鐘の銘には「元禄十四辛巳年(1701年)」願主当山開山願誉行順、御鋳師江州甲賀郡寺庄村とあり、当山の貴重な文化財であったが大東亜戦争(1941~1945年)の折り、強制供出された。
 老木「無患子」は、伊賀の乱後に植えられたものと云われ、幹回り3.48m、樹高約10mで県下最大とされ、三重の樹木百選に選ばれ、伊賀市指定文化財にも指定されている。
              清岳浄念和尚薬師寺縁起参照  令和6年

 石塔類が並びます

 では、次へ行きましょう







 2025・4・17・10・25
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三重県伊賀市、諏訪「諏訪神社の大杉(伊賀一の夫婦大杉)」(市指定)です!!

2025-07-11 18:43:09 | 巨樹・大木
 諏訪地区は、伊賀市役所の北約10kmのところです

 伊賀市役所西側の道路を北へ進みます、約700mの「伊賀白鳳高等学校 サッカー場」東側で斜め左(ほくほく栖)へ

 道成りに約800mの伊賀線茅町駅前に丁字路交差点を左(西)へ、建小津56号線です

 約300mの「信楽・県道56号線⇒」の標識に従って信号を右(北)へ

 約2.7kmの「信楽・伊賀上野駅・国道422号線⇗」の標識で信号を右(北)へ伊賀上野橋を渡ります

 約400m、伊賀上野橋を渡った「22km信楽⇨」の標識で信号を右(東北東)へ

 道成りに一山超えた約5.9kmの左(西)側に南向きで諏訪神社が鎮座します

 JAいがふるさと諏訪支店前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 南側から諏訪神社入口です

 村社諏訪神社社號標です

 「上野市指定諏訪神社大杉」の標柱です

 赤い欄干の橋を渡ります

 ニノ鳥居は木製です

 手水舎です

 参道右手に目的の大杉です

 南東側から

 東側の祠に中には石碑が納められています

 南側から

 説明版です
   上野市指定天然記念物
     諏訪神社の大杉の由緒記
 当神社は朱雀帝(930~945)の頃、真諒山長楽寺の境内に甲賀三郎兼家が自己崇敬の諏訪神社を信州より勧請したと伝えられ、天正の乱後の明暦3年(1657)本殿を再興、大正2年長楽寺を廃し、後年地区内神社を合祀、今日に至っている。
 平成5年11月、環境庁が行った巨樹・巨木調査の結果、伊賀地方での巨木といわれ、地上8.6mのところで大幹と小幹に分岐しているところから地域では伊賀一の夫婦杉と称し、保存管理している。
 樹齢約400年と推定され、この巨木の岩根の規模など虚空にそびえる様は、幾百年の星霜に耐えてきた、御神木として古く神社の歴史を物語っている。
 ●樹高46m、地上1.5mでの樹幹周囲6.18m
 ●直径、長径2.18m、短径1.47m、根元樹幹周囲7.4m
 ●上野市指定 平成7年4月27日
               諏訪文化財保存会

 「伊賀一の夫婦大杉」の表札です

 南西側から

 西側から見上げました

 参道向かい側の大きな切り株です

 参道石段を上ります

 拝殿です


 本殿です

 説明石碑です
   諏訪神社略記
     祭神 大己貴命 建御名方命 八坂入姫命 
      信濃国諏訪大社、同祭神にして富貴円満、御願成就、諏訪信仰を今に伝える諏訪地区二百数十戸の氏神
     記
 古代の霊地笹ヶ岳を望む直諒山長楽寺の境内に朱雀帝(930~945)の頃、甲賀三郎兼家と申す者自己崇敬の諏訪大神を信州より勧請したと伝える古社にして、天正伊乱後明暦3年(1657)現本殿を再興。
 明治初年長楽寺を廃し、同41年地区内神社を合祀し合せて境内整備に務め今に至る。 
 文化13年(1816)伯家神道長官、資延王扁額奉納あり。

 では、次へ行きましょう





 2025.4.17・09・40
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三重県伊賀市、西高倉「高倉神社の杉2本」です!!

2025-07-11 07:08:21 | 巨樹・大木
 西高倉地区は、伊賀市役所の北西約8km、伊賀市役所島ヶ原支所の北東約6kmのところ

 伊賀市役所島ヶ原支所南側の大和街道を東へ、約200mの「島ヶ原大橋」を渡って

 道成に約1.3kmでを左(北)へ「鯛ヶ峯大橋」を渡ります

 約500mの「JR関西本線}の陸橋を超えた交差点を右(東北東)へ

 道成に約2.7kmで左側に「西山春日神社」の参道入口を過ぎて

 約1.3kmの「西高倉地蔵尊」のある交差点を左(北)へ入って

 約100mの青い水門のバルブの間を右(東)へ道成りに左へ曲がって進むと

 約150mで高倉神社参道入口の鳥居が見えました

 アンダーパスを潜って高倉神社へ向かいます

 右手に「浅間ノ井」があります

 水が湧きています

 説明版があります
   浅間ノ井
 岩間から湧き出る水を飲料水とする鳥居出小場では富士信仰をここに移して浅間社を祀り、11月3日に祭儀を執行している。

 橋を渡ります

 高倉神社社號標です

 ニノ鳥居です

 車を境内に止めさせて頂きました

 説明版です
   高浦神社略記
     祭神 高倉下命
 神武天皇東征の功神にして、倉庫守護、延命長寿の霊験あり。
 七代の孫倭得玉彦命この地に移り住んで、祖神を祀るを最初とする。
 東、西高倉地区の氏神なり。
 創建は古く垂仁天皇のころと伝え、貞観3年(861年)従五位下の神階をうけ、国史見在社であります。
 現社殿は、天正2年(1574年)に伊賀国守護職仁木長政の造営、一間社流造りで檜皮葺の本殿を中心に右に八幡社、左に春日社を三社信仰を今に伝える古社。
 日本最古の補陀落寺町石の補陀落寺は当社の別当寺であります。
   重要祭典
 祈年祭 2月21日、御灯祭 4月第二土曜日(但、隔年)、倉暉祭夏祭 7月13日、例祭 10月15日、新嘗祭 11月27日。 

 県指定天然記念物アヤマスズ自生地の標柱です
 *アヤマスズは、スズタケに似たササの一種で、高さ1~1.5mを測る。
 スズタケに比べて葉が広く、枝の先についた葉の数が多いなどの特徴がある。昭和7年(1932)、県立上野中学校(現上野高等学校)で教鞭をとっていた黒川喬雄が、高倉神社の社殿背後のヒノキ造林地に自生しているのを発見、植物学者の中井猛之進により新種と認められたもので、命名基準標本の産地として特に貴重である。

 手水舎です

 この石段を上がると

 右てに目的のスギです

 南側から二本のスギの大木が並んでいます

 手前のスギです、目通り幹囲4.7mの大木です

 奥側のスギです、目通り幹囲4.5mの大木です

 奥側から見ました

 石段を戻って境内を進みます

 東南東向きに三ノ鳥居です

 参道石段を上ります

 拝殿です

 右側には八幡社です

 中央に高倉神社本殿です

 左には春日社の並んだ三社宮です

 説明版です
   国指定重症文化財・建造物
     高倉神社本殿・境内社(八幡社・春日社)附 棟札6枚
 本殿と八幡社本殿(向かって右)はともに一間社流造檜皮葺で土台上に建ち、組物連三斗、中備蟇股間斗束、妻飾り、虹梁大瓶束で、様式平面ともよく似ている。
 春日神社本殿(向かって左)は伊賀地方では珍しい一間社隅木入春日造で、檜皮葺とし、組物も出組、中備蟇股、間斗束、妻飾り木連格子で、屋根は千木堅魚木で飾る。
 天正2年(1574)仁木長政本願造立の棟札を残し、建立年代が明確である。他の二社も同時期と考えられている。
 彫刻や彩色には桃山時代の華麗な特色がよく表れており、県内の代表的な社殿である。
 その他境内には、国指定天然記念物シブナシガヤ、県指定のアヤマスズ自生地がある。(大正15年4月19日指定)(昭和34年6月27日棟札追加指定)
                伊賀市教育委員会

 *国指定天然記念物シブナシガヤは見つける事が出来ませんでした

 では、次へ行きましょう





 2025・4・17・09・00
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三重県伊賀市、西高倉「高倉神社のケヤキ」(市指定)です!!

2025-07-10 18:42:14 | 巨樹・大木
 西高倉地区は、伊賀市役所の北西約8km、伊賀市役所島ヶ原支所の北東約6kmのところ

 伊賀市役所島ヶ原支所南側の大和街道を東へ、約200mの「島ヶ原大橋」を渡って道成りに

 道成に約1.3kmでを左(北)へ「鯛ヶ峯大橋」を渡ります

 約500mの「JR関西本線}の陸橋を超えた交差点を右(東北東)へ

 道成に約2.7kmで左側に「西山春日神社」の参道入口を過ぎて

 約1.3kmの「西高倉地蔵尊」のある交差点を左(北)へ入って

 約100mの青い水門のバルブの間を右(東)へ道成りに左へ曲がって進むと

 約150mで高倉神社参道入口の鳥居が見えました

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 赤い鳥居の脇に目的のケヤキです

 鳥居下から見上げました

 南側から、目通り幹囲5.0mの巨木です

 北側から見上げました

 鳥居脇のアンダーパスを貫けて高倉神社へ行きましょう




 2025・4・17・08・55
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三重県伊賀市、西山「西山春日神社のスギ」です!!

2025-07-10 06:36:06 | 巨樹・大木
 西山地区は、伊賀市役所の北西約9km、伊賀市役所島ヶ原支所の北東約4kmのところ

 伊賀市役所島ヶ原支所南側の大和街道を東へ

 約200mの「島ヶ原大橋」を渡って、道成に約1.3kmでを左(北)へ「鯛ヶ峯大橋」を渡ります

 約500mの「JR関西本線}の陸橋を超えた交差点を右(東北東)へ、道成に約2.7kmで左側に

 南南東向きに「西山春日神社」の参道入口です

 村社春日神社社號標です

 一之鳥居です

 ここから更に参道を約200m進むと

 ニノ鳥居です

 ニノ鳥居西側の境内に車を止めさせて頂きました

 参集殿前の参道石段を上ります

 もう一段上に拝殿です

 手水舎です

 説明版です
   西山春日神社由緒
 1、主祭神 天児屋根命
 1、例祭  4月5日
 春日大明神縁起【奈良春日大社社誌】によれば、三笠山に御鎮座の春日四所大神に平安末期の久安3年(1147)正月7日西山庄より南都春日社の節供祭に御神供を備進、久安5年(1149)2月申日西山郷字赤衛谷を宮処と定め春日第三殿の天児屋根命を勧請とある。
 鎌倉初期の文暦元年(1234)社殿焼失文和2年(1353)4月社殿再興、室町時代の弘治3年(1557)赤衛谷より現在地に移転鎮座される。
 現在に社殿は江戸中期の延享2年(1754)造営にかかわるものである。
 当社は古く平安朝時代から春日大社の四節供祭の御神供料所であったので以来長く明治維新まで続けられた、大正12年神供料復興の意味で太平洋戦争まで玄米1俵を奉納して来ましたが、戦後中断平成4年に復活して現在に至っています。
 明治40年10月・木生神社【木之久々能智神・名山主真剣荒魂】、八幡神社【応神天皇】、石神社【息長足姫命】、粟島神社【少毘古那命・倉稲魂命】、佐三神社【熊野八荘司之後裔本村長佐三衛門】、津島神社【建速須佐之男命】、浅間神社【木花咲夜毘売命】、神明社【撞木賢木巌之御霊・天疎向津姫命】、山神社【大山祇命】、熊野神社【速玉之男命】は春日神社に合祀される。
 明治4年村社に制定され大正3年神饌弊帛料供進社に選定され今日に至る。
   木生神社【木尾権現】
 宣化天皇の御代(535~539)に大山の頂を宮処と定め、木之久々能智命・名山主真剣荒魂の二柱を祭神とし又神の使いは狼であるというも由緒不詳也。
   【三国地誌 西山考証】
 西山村字魔舘谷は真剣の頸を堕した処(首堕瀧)で、その多くの神霊は魔となって人々を悩ましたるに、その地を魔谷と云う、その魍魎は多くの村民を煩わしたので山獄の頂に真剣の霊を祭り、神木を盗んだ悪心を悔い善に帰りたいと願う荒魂と共に木の神をまつり社の称号を木生と号した。
 社を斎したが祭礼が行なわれなかったので村民が多く煩った。これが神の祟りと又社の東北阪を通る馬も多く煩うをもって東向なる祠を南に向けて弘治2年(1556)より始めし祭り(ナスビ祭)を今尚執り続けている。

 手水舎の西側に目的のスギです

 東側から、縦に走る傷は落雷によるものと思われます

 北東側から、目通り幹囲5.8mの巨木です

 手水舎脇にもう一本注連縄の巻かれたスギが有ります

 本殿です

 では、次へ行きましょう




 2025・4・17・8・35
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三重県伊賀市、島ヶ原中村「西念寺のカヤ」(県指定)です!!

2025-07-09 18:32:25 | 巨樹・大木
 ここからは2025年4月17日取材分です、今日から一日2件の投稿とさせていただきます<m(__)m>

 前日に神戸淡路鳴門自動車道の鳴門インターチェンジから高速に入って、奈良市の宝栄インターチェンジで降りました

 それから国道163号線を通って伊賀市内へ入りました

 島ヶ原中村地区は、伊賀市役所の西北西約10km、伊賀市役所島ヶ原支所の北北西約1.5kmのところ

 伊賀市役所島ヶ原支所南側の大和街道を東へ

 約200mの「島ヶ原大橋西詰」信号を左(北)へ、県道305号線です

 道成に約1.5kmの交差点を左(西)へ

 右手に西念寺の境内です

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 南向きに山門です

 (法然上人)伊賀西国二十五霊場標です

 説明版です
   天台真盛宗 鳥王山 西念寺由緒
 土御門天皇、足利義政、日野富子等の帰依ひとかたたらぬものがあった天台真盛宗宗祖真盛上人(1443年~1495年)の「無欲清浄・専勤念仏」の教えにより、明応年間(1493年)郷民あい集い一宇を建立と伝えられる。
 祈願寺である観菩提寺に対し、葬儀、年回法要など里人の仏事全般を司る菩提寺であり、宗内有数の檀徒数を数える。
 江戸中期、落雷による火災にて堂塔を焼失し現在の地へ移る。
 ⦿有形文化財
   (県指定)〇絹本着色仏涅槃図(108cm×85cm)
 鎌倉時代応永7年(1400年)の修理銘あり、かつて南都(奈良)興北寺にあったもの。
 釈尊が両手を身体にそってまっすぐ伸ばして仰臥に近い姿勢をとるのは古い要素。
 釈尊と向かい合うように坐す地蔵菩薩の姿を描く点に特徴がある。
 毎年2月初旬涅槃会前後に公開。
   (村指定)〇真盛上人供養塔
 明応4年(1495年)2月晦日と刻まれ、真盛上人の遺徳を偲んで建立されてもの。
        〇阿弥陀石仏
 石高124cm、幅64cm、ふくよかでおだやかな御面相。永禄7年(1564年)の刻銘あり。
 ⦿県の銘木巨木に選定されたカヤの樹。
 県下最大のカヤの木、樹周囲6m、樹高20m、樹齢500年といわれる。実は食用となる。
 ⦿年中行事
 2月12日 涅槃会・涅槃図を開帳し、法要とあずきがゆ接待。3月彼岸 彼岸会。4月8日 釈尊降誕会、花祭りの法要と甘茶接待。5月下旬 真盛上人御忌、永代経法要。8月7日 施餓鬼会。10月下旬 御十夜法要。11月初旬 成道会、法要と大根炊き接待。
            島ヶ原村観光協会 
*島ヶ原村は、平成16年(2004)11月1日に上野市、阿山郡伊賀町・阿山町・大山田村、名賀郡青山町と合併して伊賀市になったため消滅しました。

 本堂です

 左手に目的のカヤです

 南側から

 東側から

 手水舎です

 本堂前から

 六地蔵様です

 では、次へ行きましょう




 2025・4・17・08・15
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徳島県三好市、池田町白地ノロウチ「四国八十八ヶ所第66雲辺寺」です!!

2025-07-09 06:36:09 | 四国八十八霊場
 雲辺寺は、香川県観音寺市と徳島県三好市の境の雲辺寺山(標高927m)の頂上にあります。

 観音寺市側からは徒歩または「雲辺寺ロープ―ウェイ」を利用するようになりますが、三好市側からは車で頂上直下の駐車場まで行く事が出来ます

 遍路道は南西側の徳島・愛媛県境の「境目峠」を越えて、三好市池田町佐野から

 池田町白地ノロウチ地区は、三好市役所の西約8km、65番札所三角寺からは道程約32kmです

 三角寺駐車場から、上って来た道路を約3.7km下って、信号を右(東)じぇ、国道192号線です

 道成りに約9.6kmで県境の境目トンネル(長さ855m)です

 トンネルを貫けて約7.5kmの「⇐雲辺寺11km」の標識(標高170m付近)を左(北)へ、県道268号線です

 道成りに11kmでっ標高差約750mを上ります

 駐車場から雲辺寺までは車道を約500m歩いて行きます、閉門時間の午後5時までに戻らなくてはいけません


 さらに参道を進みます

 説明版です
   森のめぐみ
 このあたりは、夏でもひんやりとしています。標高が高いせいもありますが、このようにスギの木におおわれているためです。
 森林には、人の心を落ちつかせる特殊な機能があるようです。
 森林の中を歩いていると、すがすがしい気分になりませんか、これは、樹木から発散される「フィトンチッド」と呼ばれる物質の効用であるといわれています。
 森林の中の気象は、森林の外よりずっと温和であるといわれます。光合成によって二酸化炭素が吸収され、酸素が放出されること、水が保全され湿度が適度に保たれていること、樹木の防音効果により静かであること、”緑”の色が心にやすらぎを与えること・・・・・などなど。
 身近にある鎮守の森や、近くの山など、もっともっと自然に親しんで、健康な毎日を送りたいものですね。
               昭和62年3月香川県


 ここは矢印方向へ

 左手の石段は「亀山院桜岡陵」への参道です
 *亀山天皇(かめやまてんのう)、第90代天皇(在位:正元元年11月26日(1260年1月9日)~文永11年1月26日 (1274年3月6日)は、亀山天皇の亀山系の南朝と第89代後深草天皇の後深草系の北朝(持明院統)による対立が生じる端緒となった人物とされる。
 院政時には二度の元寇(文永の役(1274年)、弘安の役(1281年))時(天皇は子の後宇多天皇)に対処されたとされています。
 陵所の亀山陵は京都府京都市右京区天龍寺芒ノ馬場町にありますので、こちらは分骨?されているものと思われます。
 

 モミノキです

 西側から

 参道奥側から見上げました

 すぐ先の左手に夫婦杉です

 東側から

 北側から

 さらに進むと本堂への石段ですが、そのまま先へ進んで

 信徒会館前に東向きに新しい山門(二王門)です

 雲辺寺寺号標です

 手水舎です

 伝説説明版です
   雲辺寺の観音様
 香川県と徳島県の県ざかいの山に、雲辺寺というお寺があります。
 昔、このお寺の近くに与成という、てっぽうをうつのがじょうずな猟師が住んでいました。
 与成は、毎日朝早く、「今日もえものがたくさんとれますように。」と雲辺寺の観音さまにお参りをしてから山へ出かけていました。
 観音さまは、「与成が動物を殺すのをなんとかしてやめさせたい。」と、考えていました。そこで、山中でつりがねをかぶり、えものにばけて待っていました。
 いつものように山に出かけた与成は、なにやら動く、黒いものを見つけて、てっぽうでうちました。「グァーン」すごい音におどろいた与成は、木のかげにかくれてようすを見ていました。
 「与成はどこへ行ったのかなあ。」観音さまは、つりがねをそっともちあげてそっとのぞきました。与成は、光る目をめがけて、「ズドーン」ともう一度てっぽうをうちました。
 「やったぞ。」喜んだ与成は、えものの所にいきました。しかし、えものはいなくて、血がおちています。
 血をたどって行くと、雲辺寺の観音さまのところへつきました。
 不思議に思って見上げると、観音さまの目から血が出ています。はっとした与成は、それから動物を殺すのをやめてしまったということです。
 目をうたれた観音さまは、目の悪い人をなおしてあげることにしました。
 今でも、目の悪い人がお参りすると、よくなおるといわれています。
            「香川のむかしばなし」より 昭和62年3月 香川県

 鐘楼です

 大師堂です

 納経所前に下って来ました、「天祐の鼇(おおがめ)」です
 *雲辺寺の山号は巨鼇山(きょごうざん)といい、「巨大な、おおがめ」の意。
 「天祐」とは、人知を超えたものの助けにより、思いがけず物事が上手くいくの意。

 護摩堂です

 びんずるさんがいらっしゃいます
 
 本堂です

 納経所で御朱印を頂きました

 では、戻りましょう

 午後4時20分駐車場へ戻りました、今回の12日間に及ぶ、四国取材は終わりです

 次は、四国へ来る途中の三重県伊賀市で取材出来なかった場所を主材しに行きましょう





 2025・4・16・15・55
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