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ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

愛媛県四国中央市、金田町三角寺「四国八十八ヶ所第65三角寺」です!!

2025-07-08 18:36:00 | 四国八十八霊場
 *平成16年(2004)4月1日に川之江市・伊予三島市・土居町・新宮村が新設合併して四国中央市が生まれました。

 金田町三角寺地区(旧川之江市)は、四国中央市役所(旧伊予三島市)の南東約6kmのところ、三角寺は地区の山の中です

 「四国中央市庁舎前交差点」信号を南東へ、約70mで左(東北東)へ、国道11号線です

 約3.5kmの「徳島・三好国道192号線⇒」の標識に従って右(東)へ

 約250mの「三角寺4km⇒」の標識で信号を右(南東)へ、坂道を上って約900mで松山自動車道のトンネルを潜ります

 道成に約2.8kmで三角寺参道脇の駐車場に入りました

 寺号標です

 参道石段を上ります

 標柱です

 鐘楼門(二王門)です

 梵鐘です

 日本遺産プレートです
   日本遺産「四国遍路」四国霊場第65番札所 三角寺
 弘法大師空海ゆかりの霊場を巡る四国遍路は、四国を全周する全長1400kmにも及ぶ壮大な回遊型巡礼路であり、1200年を超えて発展継承され、今なお人々により継続的に行われている。
 地域住民の温かい「お接待」を受けながら、国籍や宗教・宗派を超えて行われる四国遍路は世界でも類を見ない巡礼文化であり、2015年に日本の文化・伝統を語るスト-リーの1つとして、日本遺産に認定された。
 第65番札所の三角寺は、由霊(ゆれい)山と号する真言宗寺院で、弘法大師が本尊の十一面観音を刻み、三角の護摩壇を築いて秘法を修したと伝えられる。
 境内の三角(みすみ)の池はその跡といわれ、寺号もこれに由来する。

 参道を進みます

 右手に納経所です

 寺名の元となった「護摩壇遺跡」です

 薬師堂です

 桜の大木です

 南側から

 南西から

 本堂です

 三角寺略縁起説明版です
  高野山真言宗 別格本山
    四国65番 慈尊院由霊山 三角寺略縁起
 当山は人皇45代聖武天皇の御勅願所として、天平年間に行基菩薩の開創せし處なり。
 弘法大師四国巡錫の砌り、自ら一刀三礼の本尊十一面観世音菩薩の尊像を刻み境内に三角の護摩壇を築き、21日の間調伏護摩の秘法を修す。「三角の池」はその遺跡なり。
 蓋し大師が四国霊場中に於て調伏護摩の秘法を行せし所は唯当山のみにして、爾来この芳蠋を永く傳えんが為に三角寺と稱するに至れり。
 畏くも嵯峨天皇には、当山本尊を深く御叡信遊ばされ七堂伽藍を造営せしめ給いしが、天正9年長宗我部の兵火に罹り末院12坊と共に消失す。
 然るに御本尊は、火難を免れ給ひ、乗斎律師堂宇を再建し安置し参らせたり。
 斯くて開創以来1200余年の間変遷隆替ありしも、御本尊の 化利生益々深廣にしてその霊験を蒙むる者数知らず、殊に四国霊場中当山を伊予の関所として、尊信おかざるは偏に御本尊威徳力の如からしむ處と謂うべし。

 大師堂です

 お地蔵様です

 イチョウの大木です

 納経所で御朱印を頂きました

 では、今回の四国八十八か所霊場の最後となる66番雲辺寺へ行きましょう




 2025・4・16・14・35
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愛媛県西条市、飯岡「王至森寺のキンモクセイ」(国指定)です!!

2025-07-08 12:38:00 | 文化財・樹木
 飯岡地区は、西条市役所の東南東約3.5kmのところ

 西条市役所南側のアオイロードを東へ進みます

 約900mの時差式信号を右(南)へ、公園通りです

 約1.5kmの「小川交差点」信号を左(東北東)へ、国道11号線です

 約1.8kmの「西条市消防本部 東消防署 飯岡出張所」の先で斜め右(東)への道路に入ります

 約200mの「王至森寺、国指定キンモクセイ⇒」の案内板を右(南)へ

 約500mで参道入口です
 
 すぐ先左手の王至森寺の駐車場に入りました

 境内案内図です、目的のキンモクセイまでは直ぐですね

 参道を進みます

 右手(飯岡保育園南側)に目的のキンモクセイです

 北側から

 天然記念物石碑です

 標柱です

 説明版です
   国指定天然記念物  〈王至森寺のキンモクセイ〉
 昔より当寺のキンモクセイの香りにのって西条祭がやって来ると言われ親しまれています。
 秋の実りをもたらす「黄金の花」として珍重され開花時には枝一ぱいに星のような花をつけ一里四方(4km)にその高貴な香りを漂わせ王者の風格を見せてくれます。
 昭和2年日本で最大の巨木として国の天然記念物に指定され、高さ16m、根回り4m、樹齢は推定千数百年。開花時期は9月下旬~10月上旬
 ●終戦後昭和天皇陛下四国行幸の際キンモクセイの写真を天覧に供す。
 ●昭和21年2月22日植物学の権威者(東京帝国大学教授)本田正次博士が視察のため来寺日本一の大木と示される。
         当山

 説明石碑です


 幹はほぼ空洞化しています

 西側から見ました

 王至森寺へお参りしましょう

 石段上に山門です

 手水舎です

 鐘楼です

 菩提樹です

 西側から

 宝篋印塔は「吉結縁の塔」です

 本堂です

 大師堂前には日露忠死者碑や大僧正大憲像などがあります

 大師堂はもう一段上です

 では、次へ行きましょう




 2025・4・16・13・10
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愛媛県西条市、中野「大太刀君神社(オタチキさん)のムク」です!!

2025-07-08 06:31:00 | 巨樹・大木
 中野地区は、西条市役所の南約4kmのところ

 西条市役所南側の「市役所前交差点」を西へ、御殿前通りです

 約300mの信号を左(南)へ、県道141号線です

 約1.7kmの「常心交差点」信号を右(南西)へ、国道11号線です

 加茂川橋を渡って直ぐの「加茂川橋交差点」信号約500mで左(南東)へ、国道194号線で加茂川左岸沿いを進みます

 約2kmの北側一段下に大きな木が見えますが、車を止める所がありません

 約100mの交差点を鋭角に右(北)へ入ります、約200mで

 右手(南側)の田圃の奥にムクノキが見えました

 道路脇に車を止めさせて頂きました

 西北西側から田圃の畔を進みます

 「オタチキさんのムク」です

 北側から、手前には石積の段があります、祠が有ったのでしょうか

 北東側から、板根を挟んで石碑が建っています

 大太刀君神社社殿です

 *Googleマップでは「大太刀神社」となっていますが、正しくは「大太刀君神社」です。

 説明版です
   オタチキさんのムク(大太刀君神社の椋)
 高峠城の支城で氷見の高尾城主石川源太夫は、文武両道に優れていた。
 しかし、勢力があまりにも強いので、源太夫を討とうと徳永・塩出・工藤等が密談し、横山城主近藤但馬守を押し立てて、謀略をもって天文の末ころ(1550年ごろ)、端午の節句の時期に源大夫をこの地に誘い出し、200余騎の伏兵を用いて不意打ちした。大激戦の末、源太夫主従は一人残らず壮烈な討ち死にを遂げた。
 高峠城主石川伊予守はこのことを知り、源太夫主従を哀れみ保国寺においてねんごろに弔い、源太夫をこの地に埋葬した。
 後にこの所へ椋の木が生える。また、源太夫を祭る祠を「オタチキさん」と呼び、現在でも、木挽原自治会では毎年旧6月1日にお祭りをしている。
 *澄水記では榎木とある。(澄水記等の伝承より)
            令和5年1月 西条市教育委員会

 南側から、ムクノキらしいフォルムです

 南西側から、目通り幹囲6.0mの巨木です

 西側から、幹の穴は枝の折れて跡です

 北西側から見上げました

 では、次へ行きましょう






 2025・4・16・12・50
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愛媛県西条市、中野甲「伊曽乃神社」です!!

2025-07-07 18:32:11 | 文化財・寺社
  中野甲地区は、西条市役所の南約3kmのところです

 「西条市役所前交差点」信号を西へ、御殿通りです、約300mの信号を左(南)へ、県道141号線です

 約1.7kmの「高知・松山・国道11号線⇒」の標識に従って「常心交差点」信号を右(南西)へ

 約500mの加茂川を渡った「加茂川橋交差点」を左(南東)へ、国道194号線です

 約600mの横断歩道のある交差点を右(南南西)へ入り、約500mで大きな鳥居です

 鳥居右側から更に南へ参道を進みます、ニノ鳥居です、東側の駐車場に入りました

 ここから前回の続きです

 重要文化財説明版です
   国指定重要文化財 予州新居家系図
 これは、新居氏の一族である東大寺戒壇院の長老示観国師凝然が、弘安4年(1281)に伊予の豪族新居氏の家系を消息文の紙背へ詳細に書いたもので、3.6m余りの横系図である。
 伊曽乃神社の祭神である武国凝別命の子孫が新居氏とよばれ、系図には、上は一条天皇の頃から下は後宇陀天皇の頃までおよそ300年間にわたって12世500人が書かれている。
 この新居系図、和気系図、海部系図と共に日本三大古系図とよばれている。
       昭和27年3月29日指定

 神社略記です
   伊曽乃宮略記
 祭神 伊曽乃神(天照大神・武国凝別命)
 社格 名神大社 旧国弊中社
 宝物 與州新居系図(国指定重要文化財)、伊曽乃大社祭禮絵巻(市指定文化財)
 例祭日  10月15日
  成務天皇7年  137年 創祀
  天平神護元年  765年 伊予国初の神戸(十烟)を授かる
   仝  2年  766年 全国初の神位(従四位下)に叙す
  永治元年   1141年 神位(正一位)の極位に叙す
  寛文10年  1670年 西条藩主松平頼純公より社地寄進さる
  昭和15年  1940年 国弊中社に列格
  昭和57年  1982年 現天皇陛下浩宮親王殿下の御時御親拝
 当社は第12代景行天皇の皇子、武国凝別命が伊予の国土開発の大任をおび此の地に封ぜられた時、伊勢神宮より天照大神を奉斎し此の地に祀る。
 後に命の子孫である伊予三村別氏により天照大神と始祖武国凝別命とを合わせ祀り、伊曽乃神と称するを神社のはじめとす。
 奈良時代には皇室の尊崇厚く、新羅遠征や南海道の海賊平定などの国家的行事の奉幣祈願が数多く斎行され、伊予国第一の大社として社運隆々と栄え、全国で始めて神位を授かるに至る。
 また延喜式神名帳にも名神大社としてその名を知られる。
 江戸時代には絢爛豪華な祭禮で知られるだんじりみこしの奉納がはじまり、歴代藩主からも手厚く保護され、今なお連綿と当時の時代絵巻を受け継いでいる。
 昭和15年、県社から国弊中社に昇格し、社殿は入蜻蛉造りから現在の神明造に改められ、当時のままに伊予国有数の古社として威容を保っている。

 東向きに神門です

 神門を潜ると

 「桂乃井」です

 拝殿です

 寒風山トンネルの岩塊です

 奉納砲弾です

 木花開耶姫命像です

 本殿です

 本殿の軒下には大きなスズメバチの巣です

 御先神社(おんさきじんじゃ)です、御祭神は猿田毘古神です

 本殿裏(南)側の扉です

 鎮守神社(又野神社)です、御祭神は又野村の村上平兵衛、宇高の高橋孫兵衛、仝 高橋彌一左衛門です

 瑞枝神社です、御祭神は祖霊並びに久門家祖神です

 山王神社・厳島神社・妙見神社の社です

 遥拝社です

 天満神社です
 
 では、次へ行きましょう





 2025・4・16・12・25
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愛媛県西条市、中野甲「伊曽乃神社のクスノキ」です!!

2025-07-07 12:33:42 | 巨樹・大木
 中野甲地区は、西条市役所の南約3kmのところです

 「西条市役所前交差点」信号を西へ、御殿通りです、約300mの信号を左(南)へ、県道141号線です

 約1.7kmの「高知・松山・国道11号線⇒」の標識に従って「常心交差点」信号を右(南西)へ

 約500mの加茂川を渡った「加茂川橋交差点」を左(南東)へ、国道194号線です

 約600mの横断歩道のある交差点を右(南南西)へ入ると


 約500mで大きな鳥居が見えて来ます

 鳥居右側から更に南へ参道を進みます

 ニノ鳥居が見えて来ました

 「国弊中社 伊曽乃神社」社號標です

 ニノ鳥居東側の駐車場に入りました

 説明版です
   西条市名水・名木50選  伊曽乃神社の社叢
 伊曽乃神社は天照大神・武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)を祀っていて、古い歴史を持っています。
社殿は、昭和15年に新しく建て替えられたもので、総ひのきの神明造りです。
 神社の回りには、うっそうと茂った木々があります。
特に境内正面にある神木と呼ばれるくすは、目通り周り約5.5m、高さ約30m、推定樹齢700年の大木です。
             平成3年3月選定

 境内にはいります

 参道先に大きなクスノキが見えて来ます

 目的のクスノキです

 北東側から

 東側から

 南東側から

 南側から

 南西側から

 西側から見上げました、目通り幹囲5.9mの巨木です

 南側のもう一本です

 東側から、伊曾乃神社の大きな石碑があります

 南側から見上げました、目通り幹囲4.5m(目測)の大木です

 手水舎です

 東側には古茂理神社が西向きに鎮座します

 東向きに神門です

 神門を潜ると

 長く成りましたので続きとさせて頂きます<m(__)m>


 

 2025・4・16・12・25
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愛媛県西条市、洲之内甲「四国八十八ヶ所第64番札所前神寺」です!!

2025-07-07 06:34:22 | 四国八十八霊場
 洲之内甲地区は、西条市役所の南南西約3kmのところ、63番吉祥寺から道程3.0kmです

 吉祥寺指定駐車場の南側の「朝日町交差点」信号を左(東)へ、国道11号線です
 
 約2.7kmの「前神寺0.5km⇨」の標識を右(南)へ入ります

 約300mで駐車場に入りました

 寺号標です

 標柱です

 山門です

 参道を進みます
.
 手水舎です

 鐘楼です

 日本遺産プレートです
   日本遺産「四国遍路」四国霊場第64番札所 前神寺
 弘法大師空海ゆかりの霊場を巡る四国遍路は、四国を全周する全長1400kmにも及ぶ壮大な回遊型巡礼路であり、1200年を超えて発展継承され、今なお人々により継続的に行われている。
 地域住民の温かい「お接待」を受けながら、国籍や宗教・宗派を超えて行われる四国遍路は世界でも類を見ない巡礼文化であり、2015年に日本の文化・伝統を語るスト-リーの1つとして、日本遺産に認定された。
 第64番札所の前神寺は、石鉄(いしづち)山と号する真言宗石鉄派の総本山。
 役行者(えんのぎょうじゃ)が開基と伝え、近世には石鉄権現の別当寺として信仰の拠点となった。
 若き日の弘法大師が修行した地とされる。

 広い境内に出ました

 金毘羅堂です

 石祠の中には、地蔵菩薩と薬師如来像です

 お大師様に浮彫です

 お地蔵様です

 十三仏です

 参道を進みます

 滝の中にはお不動様です

 護摩堂です

 薬師堂です

 本堂前境内です

 石槌権現の標柱です

 右ての石段を上って行きます

 石鎚権現拝殿です

 本殿です

 戻ります

 本堂です

 説明版です
   石鉄山縁起之事
 当山は、天武天皇5年神変大菩薩の開山でありまして、石鉄大権現を感見得仏され、石鉄山中に鎮護国家、仏道修行の道場を開山されました。
 延暦年間、桓武天皇の叡信篤く国司に命じ伊予橘の里(現 石鎚神社の所)に七堂伽藍建立し、金色院前神寺と命ぜられ、以来勅願寺として文徳高倉、後鳥羽等格天皇は仏像経典を奉納、又、堂塔を建立せられました。
 当地、西条藩も祈願寺として境内に東照宮(現西条神社)を祀る等帰依篤く寺紋であります三ツ葉葵を許されました。
石鉄開山以来、石鉄山頂上、常住奥前神寺、里前神寺、入峰修行参道をはじめ七里四方の寺領を有し、石鉄山の根本道場として全国より参詣の信徒の中心として尊信せられました。
 然るに明治初年、所 「廃仏棄釈」の暴論により当山の境内地、建物、参道、寺領等総てを没収しその跡に石鎚神社を設立しました。
 時の住職大津上人は、石鉄開山以来石鉄信仰の中心であります石鉄大権現を奉じて現在地に移り石鉄山根本道場として古来よりの修験道の法灯を伝えました。
 前神寺は、真言宗石鉄派の総本山として、石鉄修験道の根本道場として、又四国64番霊場として数々の法灯を伝え現在に至っています。
                         総本山 前神寺


 大師堂です

 シャガが綺麗に咲いていました

 納経所で御朱印を頂きました

 では、次へ行きましょう




 2025・4・16・11・35


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愛媛県西条市、氷見乙「四国八十八ヶ所第63吉祥寺」です!!

2025-07-06 18:52:00 | 四国八十八霊場
 氷見乙地区は、西条市役所の西南西約6kmのところ、62番宝寿寺から道程約1.4kmです

 宝寿寺駐車場を南へ出て、国道11号線を東へ、約1.4km左手に「⇐吉祥寺」の標識ですが

 左下に「吉祥寺🄿前方信号左折⇐」の看板がありますので、約50m先の「朝日町交差点」を左(北)へ

 間も無く右手に「吉祥寺指定駐車場」(有料)があります

 向かい側の広い駐車場はJA氷見支所の駐車場ですので駐車禁止です

 JAの駐車場の北側道路を道成りに約120mで

 境内入り口です

 寺号標です

 参道を進むと

 右手(北側)の六角型のお堂は「福聚閣」です

 お大師様と観音様です

 左手にクスノキの大木です

 西側から

 鐘楼です

 本堂です

 大師堂と納経所に寄って御朱印を頂きました


 では、次は64番禅神寺へ行きましょう




 2025・4・16・11・05
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愛媛県西条市、小松町新屋敷甲「四国八十八ヶ所第62番札所宝寿寺」です!!

2025-07-06 12:52:00 | 四国八十八霊場
 小松町新屋敷甲地区は、西条市役所の西隘7km、西条市役所西部支所の南東約4kmのところ

 61番香園寺からの道程約1.5kmです

 香園寺駐車場を北東へ出て、約100mの一時停止を斜め右(東)へ

 約150mで信号を左(北)へ、約300mで信号を右(東)へ、国道11号線です

 約600mでの「⇐宝寿寺」の標識を左へ入ると、右てに駐車場です


 境内入口です

 「一国一宮 別当 宝寿寺」寺号標です

 祠や五輪塔、石仏が並んでいますが、一番大きな観音像の笑顔が不思議です

 手水舎です

 本堂です

 大師堂です

 納経所で御朱印を頂きました

 では、次は63番吉祥寺へ行きましょう

 


 2025・4・16・10・45
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愛媛県西条市、小松町南川甲「四国八十八ヶ所第61香園寺」です!!

2025-07-06 06:32:00 | 四国八十八霊場
 小松町南川甲地区は、西条市役所の西南西約9km、西条市役所西部支所の南南東約4kmのところ、60番横峰寺からは道程約14.5kmです

 横峰寺から平野林道を下って、県道142号線を通って西条市内へ戻ります

 国道11号線の「西条市氷見」信号を左(西)へ進みます

 約2.2kmの「⇐道の駅小松オアシス2km」の標識で信号を左(南西)へ

 約300mの「香園寺⇨」の案内板で信号を右(西)へ

 また約100mの「⇐子安大師61番香園寺」の案内板で左(南西)へ、間も無く左手の


 駐車場に入りました

 こまつ案内図です

 香園寺寺号標です

 説明版です
   栴檀山香園寺(第61番札所)
 この寺は、用明天皇の病気平癒を祈って聖徳太子が開創したといわれています。
 弘法大師が四国巡錫のとき、この寺の麓にさしかかったところ、一人旅の女の人が道の傍らで難産で苦しんでいるのを見かけ、さっそく祈祷したところ、男の子を安産したので、大師が「安産、子育て、身代わり、女人成仏」の4誓願と祈祷の秘法を寺に伝えたと伝えられています。
 このため、本尊は大日如来ですが、脇仏の子安大師に信仰が集まっています。

 大きなスギの木です

 手水鉢です

 鐘楼です

 子安地蔵尊です

 聖徳殿です

 大きなビル(大聖堂)が香園寺本堂と大師堂を兼ねています

 玄関です

 入口は右手の階段を上がった2階です

 日本遺産プレートです
   日本遺産「四国遍路」四国霊場第61番札所 香園寺
 弘法大師空海ゆかりの霊場を巡る四国遍路は、四国を全周する全長1400kmにも及ぶ壮大な回遊型巡礼路であり、1200年を超えて発展継承され、今なお人々により継続的に行われている。
 地域住民の温かい「お接待」を受けながら、国籍や宗教・宗派を超えて行われる四国遍路は世界でも類を見ない巡礼文化であり、2015年に日本の文化・伝統を語るスト-リーの1つとして、日本遺産に認定された。
 第61番札所の香園寺は真言宗御室派の寺院で、聖徳太子の開基と伝え、弘法大師が難産の女人を加持祈祷し、男の子の出産に至った故に子安大師という。
 安産、子育て、身代わり、女人成仏の四誓願の寺として信仰を集める。

 本堂への入口です

 本堂内部の画像を撮るのは禁止です

 本尊大日如来様の右手にお大師様がいらっしゃいます

 戻って、境内のプレハブ?で御朱印を頂きました

 では、次は62番宝珠寺へ行きましょう




 2025・4・16・10・20
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愛媛県西条市小松町石鎚「四国八十八ヶ所第60横峰寺」です!!

2025-07-05 18:34:00 | 四国八十八霊場
 小松町石鎚地区は、西条市役所の南西約11km、西条市役所西部支所の南南東約9kmのところです

 横峰寺は愛媛県の四国八十八ヶ所霊場の中で難易度の一番高いところとして有名です、歩き遍路の方は小松町大頭ちくから山路に入って大郷地区を通って横峰寺へ向かいます

 車なので、西条市内(標高約10m)から横峰寺の標高約740m(駐車場では標高約800m)まで登らなくてはいけません

 59番札所の国分寺(今治市国分・標高約30m)から道程約32kmのところです

 国分寺駐車場入り口を左(南東)へ出ます、県道156号線です、道成りに約2.4kmで県道38号線に合流して南下します

 約15.4kmの「⇐高松・新居浜・国道11号線」の標識に従って信号を左(東)へ

 約2.2kmの「石鎚山登山口・県道142号線⇨」と「横峰寺15km⇨」の標識で信号を右へ

 約道成りに坂道を上って約4kmで丁字路を右(西北西)へ、約100mで斜め右上へ入るとせとうちバス「横峰寺への乗り合いバスの停留所」です

 脇を通って約2.9km、峠を越えて少し下って昇り返すと

 平野林道料金所です、通行料を払います(この林道は横峰寺で終点なので往復料金と言ってよいでしょう)

 道成りに約3.5kmで右へ横峰寺作業道を分けて更に林道を上って行きます、約1.3kmで右手に横峰寺への遊歩道です、 左へぐるっとカーブして

 駐車場に入りました

 西条市内を見下ろします

 駐車場からの参道を下ります

 折り返した更に下ると

 作業用道路に合流しました

 作業用道路を更に進むと

 右手には赤い鳥居が並んでいます

 左手に星月堂です

 境内が見えて来ました

 お堂です

 大師堂前です

 鐘楼です

 石仏が並びます

 本堂です

 説明版です
   石鉄山横峰寺(第60番札所)
     ”たて横に峰や山辺に寺たてて あまねく人を救うものかな”
 と、御詠歌にうたわれているこの寺は、標高750m、八十八霊場のうち第3番目の高さにあり、四国遍路における3番目の*「関所」です。
 修験道の開祖、役小角の開基といわれ、弘法大師が石楠木の木に刻んだ大日如来が本尊として安置されています。
 ここから右手へ600mほど登ったところに、弘法大師が厄除の星供養をしたといわれる「星が森」があり、石鎚山の西の遥拝所となっています。
 *「関所」悪いことをした人、邪心をもっている人は、お大師さんのおとがめを受けて、ここから先へは進めなくなるといわれています。
 4つの関所、橋池山立江寺(第19番札所)竹林山神峰寺(第27番札所)石鉄山横峰寺(第60番札所)雲辺寺山雲辺寺(第66番札所)

 大師堂です

 で

 裏参道側から来たので、歩き遍路のルートである仁王門側へ移動しました

 山門の二王門です

 四国のみち(四国自然歩道)案内板です

 こまつ案内板です

 横峰寺寺号標です

 手水舎です

 庫裏前へ進みます

 納経所もこちらです

 石段を上って

 正面にお地蔵様です、本堂前に戻りました

 納経所で御朱印を頂きました

 では、駐車場に戻って、次へは61番香園寺へ行きましょう




 2025・4・16・08・55

 
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愛媛県西条市、坂元「天満神社のクスノキ」(県指定)です!!

2025-07-05 13:15:00 | 巨樹・大木
 坂元地区は、西条市役所の南西約6kmのところ

 西条市役所南側の「市役所前交差点」信号を西へ、御殿前通りです

 約400mの信号を左(南)へ、県道141号線です

 約1.7kmの「高知・松山・国道11号線⇒」の標識に従って信号を右(南西)へ

 加茂川を加茂川橋で渡って約4.1kmの「楢木交差点」信号を左(南)へ

 道成り約800mで左手に鳥居が見えて来ました

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 天満神社参道入口です

 天満神社社號標です

 神徳碑です
   菅原道真公御神徳記
 天満神社の御祭神菅原道真公は、5才で和歌を詠み、11才で詩を作り、白楽天の再来と言われた。
宇多天皇に仕えて、皇太子相伝の壷切剣の制を創始し、長年踏襲の遣唐使を廃止し、学者としては、三代実録、類聚国史その他の編著に当り、右大臣にまで登ったが、左大臣藤原時平の 訴にあって、遂に大宰権師に落され給うた。
    東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ
 住み慣れた紅梅殿を後にして配所に行かれたが、権師は名誉長官で実際の仕事はない。
    都府楼は 僅かに灰色を見 観音寺は只鐘色を聴く
 と歌われた様に、配所にひっそりと暮らし、法皇や帝の御恩を懐かしく思い起こされるばかりであった。
    去年の今夜清涼に侍し 秋思の詩編独り を断つ
    恩賜の御衣今ここに在り 棒持して毎日餘香を拝す
 学問の神、和歌の神、書の神、剣の神、そして梅花をこよなく愛された丑年丑時生まれの神様道真公が、無実の罪に落されて配所に寂しく薨ぜられた。
 延㐂3年(西暦903年)2月誕生と同じ25日であった。
 人々はその悲運を悲しみ、学徳を慕って神社を建てたが、その数は全国で1万。霊験天に満ち、祈れば必ず聞いて下さる天満神社、当社はその一郷一社の天神さまなのである。
           平成元年4月吉日 天満神社元宮司玉井忠臣撰文

 クスノキの標柱です

 説明版です
   県指定天然記念物  天満神社のクスノキ
 クスノキは、関東から九州にかけての暖地に生える常緑樹である。
 材は堅く光沢もあり、建材、器具材などに用いられ、芳香を放つ。
 その成分は、防虫剤、香料、などの原料に使われる。
 天満神社のクスノキは、樹齢は明らかではないが、根回り17m、目通り9.4m、高さ24mを測る。
 また枝張りは、東に18m、西に17m、南に24m、北に25mという広さで、境内全体を覆って茂る大木である。
 かたよりのないその枝張りは、美しく樹形を整え、端正さは県内を代表する大木といえる。
             昭和31年11月3日 指定

 参道石段を進みます

 手水舎です

 拝殿です

 本殿です

 社殿東側に目的のクスノキです

 北側から

 北東側から

 東側から

 大きな枝が北側に伸びています
.
 南東側から

 南側から

 南西側から見上げました

 西側から

 では、次へ行きましょう


 参道入口の鳥居越しに西条市内(北側)を見下ろしました





 2025・4・16・08・15
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愛媛県西条市、氷見「石岡神社のクスノキ」です!!

2025-07-05 06:32:00 | 巨樹・大木
 氷見地区は、西条市役所の西南西約7km、西条市役所西部支所の南東約6kmのところ

 西条市役所西部支所南側の「東予総合支所前交差点」を南東へ進みます

 約2.3kmで右手に「土田之木のエノキ」を見て、直ぐ先の丁字路を左(東)へ、県道149号線です

 約1.4kmの「小松・国道196号線⇒」の標識に従って右(南南西)へ、中山川大橋を渡ります

 約1.2kmの「⇐高松・新居浜・国道11号線」の標識で左(東)へ

 約2.0kmの「朝日町交差点」信号を左(北)へ、約400m予讃線の踏切を超えた所に参道入口の大鳥居(一ノ鳥居)です 

 大鳥居を潜ってニノ鳥居の西側の広い駐車場に車を止めさせて頂きました

 ここから前回からの続きです

 説明版です
   市指定天然記念物  石岡神社社叢
 この社叢は、常緑広葉樹の暖地樹林で、昭和45年の10号台風で多くの巨樹が倒れた後もなおごそかな雰囲気を保ち、また学術上樹種の研究にも役立っています。
 社叢を形づくる樹木の中で主なものは、大きい樹木でイヌマキ、クスノキ、エノキ、ホルトノキ、ミミズバイ、ヤブツバキ、小さな樹木では、クサギ、マサキ、ネズミモチ、ヒサカキ、サカキ等があります。
 天正13年(1585年)小早川隆景がこの台地に布陣して、高尾城を攻めた時、付近一帯に火を放ったと伝えられているが、此処に茂る社叢の中には、当時の樹木も残されていると思われます。
              昭和44年11月3日指定

 更に参道を進みます

 参道左手のクスノキです

 北側から、注連縄が巻かれています

 手水舎です

 手水舎脇から、クスノキの大木です

 拝殿です


 本殿です

 本殿西側のクスノキです

 南側から

 東側から

 境内社の塩竃神社です

 石鳥居の有る山王神社です

 お名前が分かりませんでした

 左側は狛犬のある金刀比羅神社、右側は狐の置物が並んでいますので稲荷神社の様です

 石台の上に二つの石祠です

 左側は宇賀神社、右側は厳島神社です

 地護大明神と玉積神社、楠社が祀られています

 高良神社です

 恵美須神社と杉見神社です

 若宮社の石碑です

 いろいろな岩や祠が並んでいます

 条内神社です

 本殿北側に目的のクスノキです

 南東側から、特徴的な形の幹です

 南西側から見上げました、目通り幹囲6.2mの巨木です

 では、次へ行きましょう

 参道から雪の残った石鎚山が眺められました




 2025・4・16・07・35

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愛媛県西条市、氷見「石岡神社」です!!

2025-07-04 18:47:03 | 文化財・寺社
 氷見地区は、西条市役所の西南西約7km、西条市役所西部支所の南東約6kmのところ

 西条市役所西部支所南側の「東予総合支所前交差点」を南東へ進みます

 約2.3kmで右手に「土田之木のエノキ」を見て、直ぐ先の丁字路を左(東)へ、県道149号線です

 約1.4kmの「小松・国道196号線⇒」の標識に従って右(南南西)へ、中山川大橋を渡ります

 約1.2kmの「⇐高松・新居浜・国道11号線」の標識で左(東)へ

 約2.0kmの「朝日町交差点」信号を左(北)へ、約400m予讃線の踏切を超えた所に

 南南東向きに参道入口の大鳥居(一ノ鳥居)です

 「県社 石岡神社」社號標です

 鳥居を潜って参道を進み、元禄鳥居(ニノ鳥居)です

 ニノ鳥居手前で斜め左へ、広い駐車場に車を止めさせて頂きました

 境内案内図です
   石岡神社ご案内
 石岡神社の起源は、神功皇后の三韓から凱旋した際に、竹内宿禰と皇子を奉じてこの地に上陸し、天神地祇を奉斎したことに始まります。
 清和天皇の貞観元年(西暦859年)に宇佐から勧請されて奉祀されたと伝えられています。
 延久5年(西暦1073年)8月15日、後冷泉院の御遺勅によって国司源頼義が国中18社準八幡宮を建立する際に、その18社に加列され再興されました。
 以後、源氏の隆昌と共に当社も繁栄を加えたことは、義経宝剣の寄進状が現存することから明らかです。
 その後、元亀・天正の頃(西暦1573~1586年)数度兵火に罹れ、殿宇宝蔵が悉く烏有に帰し、数多の神人も離散しましたが、長職(紀姓玉井氏)一人が神体を守護し奉りました。
 更に後、玉井民部忠良がこれを憂えて田地に仮殿を営み御神体を鎮め奉りました。
 文禄年間(西暦1592~1594年)に至って神殿を改修しましたが、未だ全きを得ないまま藩政時代に入りました。
 松平頼純卿が西條に封じられ、八幡宮が源氏の氏神であった為、寛文10年(西暦1670年)伊曽乃、一宮、黒嶋の3社と共に藩社とされ、以後累代深く藩主の尊崇を受けるようになりました。
 かくして石岡神社にも再び隆盛の春が訪れ、元禄2年(西暦1689年)に神主玉井石見守、同対馬守が大庄屋高橋立見をはじめ氷見、橘の氏子の絶大な協力と藩の加護を得て起工し、ほぼ現在の体裁を整えるに至りました。
 明治5年(西暦1872年)に郷社に列し、同17年(西暦1884年)には県社に昇格しましたが、終戦と同時に社格はなくなりました。
 終戦直後の昭和21年、南海地震で拝殿が倒壊しましたが、氏子達は総力をあげて復旧に邁進し、現在の拝殿が完成しました。
 このように由緒さる石岡神社は令和2年(西暦2020年)に1160年の式年祭を迎え、今もなお、歴史の上に燦として悠遠の光を放っています。

 境内摂社・末社兼務社の八幡宮です

 由緒説明版です
   本社由緒
 孝元天皇の曾孫で、景行天皇から仁徳天皇までの5代帝の長臣で、とくに仲哀天皇の薨去の後は神功皇后を支え、また応神天皇(八幡神)を守り育てた大臣で、高良神社の主祭神である竹内宿禰の子孫の紀氏玉井がその深い縁に因み古くに石岡の地の邸内東側中程に八幡宮を鎮座奉祀してきた。
 40代忠臣が昭和61年に宗教法人石岡神社の宮司を退く決心をした折、紀氏玉井が千余年にわたり同社の宮司として奉祀してきた縁を鑑み、摂社、末社、兼務社の全ての御祭神を合祀した。
 平成14年、都合により南に遷座、後、社が老朽化していた故、平成20年に現在地に改築遷座、さらに平成23年拝殿を増築、合わせ鳥居、狛犬を設けた。

 御祭神案内板です
   奉祀御祭神
 主祭神 石岡八幡大神(神功皇后・三女神・応神天皇)
 配祀神 皇大神宮大神(高良大明神・白鳥大明神・若宮・中宮・菟道社)
     高尾神社大神・塩竃神社大神・天満神社大神・一宮神社大神・出雲大社大神・石岡末社諸神・山野海万神・伏見稲荷大神・蛭子神・戦没英霊 

 参道を進みます

 石段を上って境内へ入ります

 神門です

 拝殿です


 本殿です

 説明版です
   「石岡地名の由来」
     橘の 島にしあれば 河遠み 曝さで縫いし わが下衣
 右の歌はおよそ1700年程前に神功皇后がこの地、橘島に上陸された時に詠まれた歌と伝えられる。
 皇后は新羅(朝鮮)討征の祝いをこの地で行ったとされ、この地が祝いが岡と言われ、やがて石岡となった。
   「石岡、氷見、橘の歴史」
 貞観元年(859)紀行教が国家鎮護の神として、御神霊を京都石清水男山に御奉安の時、同族の正六位上紀貞範及び従三位中納言紀長谷雄親子が紀氏の氏神として勧請する。長谷雄の子、従四位紀淑人が伊予守、南海道追補史に任じられ瀬戸の海賊平定のために下向奉祀する。その後、兄弟の従三位参議紀淑光の子孫が奉祀続ける。
 200年程後、後冷泉天皇の御代に継いだ子孫の紀出雲守忠元が氷見の橘島(石岡)の宅地に井戸があり、これを表す玉井と号し始める。この井戸は今も現存する。その後、伊予の国司になった源頼義公が延久5年(1073)予州18ヶ所に八幡宮を建立、その1社に加えられ隆盛する。
 文治元年(1185)正月、源義経が宝剣を寄進する。義経はその後屋島の合戦に向かう。この頃、玉井信濃守忠顕(号竹内)、玉井薩摩守忠長(号末長)、玉井忠重(号清兼)の兄弟親子が末長、竹内等石岡周辺を開拓する。武内・末長は地名に残る。末長、清兼は祠が残る。
 天正13年(1585)天正の陣で社殿・宝物・古記録など消失する。天正15年福島正則は社叢の木を伐って船の道具とする。長職(宮司)の玉井23代薩摩守忠良を除く神人は全て離散する。忠良は本殿を再建し、その後、慶長16年(1611)玉井和泉守忠宗が本殿の葺き替えをする。
 一柳氏西条藩主の時代、正保4年~寛文2年(1647~1662)西泉、坂元、楢の木、西田、野々市が氷見から分村した。この頃、橘新宮社が西泉村を氏子にしようとして石岡八幡宮との間で争いが起こった。
 玉井石見守忠政の代、寛文10年(1670)松平頼純公が新西条藩主となり石岡八幡宮に2石寄進する。伊曽乃、一宮、黒島と合わせて格社とし春秋幣帛を奉る。源氏(徳川)の氏神として藩主の信仰を受け盛える。延宝5年(1677)幣殿拝殿建立。延宝6年(1678)玉垣建立。元禄2年(1689)石鳥居建立(現存)。元禄8年(1695)長年橘新宮社と争われていた西泉の氏子帰属の争いに勝利。元禄12年(1699)本殿(現存)、楼門建立。宝永3年(1706)神輿(みこし)造立、渡御式再興。この時御旅所を今の猪狩川辺とする。宝永6年(1709)楼門再造立(現存)。以上、石見守忠政の業績なり。元禄9年(1696)玉井対馬守忠信(後忠幸)が「八幡大神宮私記」を書き残す。
 享保19年(1734)正六位玉井対馬守忠幸が応神天皇陵と誉田八幡宮を奉拝したとき、誉田八幡宮のだんじりを見て帰り「寺の下」の竹のだんじりを造った。これが西条、小松地方のだんじりの始めである。寛延4年(1751)~宝暦7年(1757)従五位下玉井和泉守忠宿が「公用誌」を残す。この公用誌に、祭りやだんじりの記述が多見される。寛政11年(1799)従五位下玉井上野介忠行参内のおり、白川家を訪問。大盃の酒を勧められ3盃飲み干した上、大盃の絵の浦島の舞を舞い姫君より大盃を拝領した。天保13年(1842)氏子900軒、だんじり16台と西条誌にあり。
 明治5年(1872)郷社となる。明治17年(1884)県社となる。明治7年(1874)社叢が上地せられ官有林となる。明治37年(1904)玉井38代忠孝の努力の末、社叢が払い下げられ社地に戻る。例大祭日は、藩政時代は旧暦8月14日、15日で、新暦になり10月1日、2日であったが、大正元年(1912)より10月14日、15日とする。
 大正9年(1920)神苑の土地の内、1反3畝を森広太郎氏が寄附。他に玉井忠男が、久米栄太郎氏と日野敏太郎氏より合わせて約1反買い入れ整備を始め大正14年(1925)に完成する。忠魂碑が昭和3年に発起し昭和10年(1935)に完成する。
 昭和21年(1946)南海地震で拝殿納殿など損壊。高良神社に御神霊を移し、仮拝殿を設け拝殿改築に着手。玉井39代忠男が私財を抵当に借金をして資金繰りをし、飛行場よりトタン板の払い下げを受け屋根とする、等苦心の末、幣殿拝殿の建築を進める。昭和22年再び社叢が上地され玉井忠男の私金を使っての努力で昭和26年払い下げをうけた社地に戻る。昭和29年(1954)大拝殿が完成する。本殿拝殿間は石畳であったが、忠男が、高齢ゆえ安全のため渡廊を設ける。その折、拝殿を広げ祝詞舎との案も出たが、庭上奉拝の古式を著しく損なうとして論外とされる。戦後、官費は出なくなり、信心が薄れ例大祭に祭礼費すら集まらず、又御神幸に乱暴狼藉の者が出る等神社護持に苦難が続く。この狼藉者等は悉く悲惨な死をとげ神罰と恐れられた。
 昭和48年頃、松の木が多く枯れ御旅所の松の大木も枯れる。この松が高値で売れその使途として社務所を新築する。松の切り株の処理で総代間に揉め事が起こり、玉井忠臣が総代達の不誠実さに失望し昭和51年宮司を辞し、後任に十亀司郎氏が就任する。昭和55年(1985)祭ヶ岡で古墳が発掘され整備される。この地は農地改革で畑となろうとしていたが玉井忠男が「古代神功皇后が三韓からの帰途、戦勝の祝いを行なった大切な地との先祖の言い伝えがあることを鑑み」自費で買取り後神社に寄附した土地である。昭和57年、十亀氏、他職と宮司職を両立できず宮司を辞す。後任に玉井忠臣を宮司に再任する。昭和61年、玉井忠臣体調不良で宮司を辞し石岡神社に縁のある有資格者の後継者が決まるまでを任期として宮司代務者を置きその旨を代務者に告知する。
                 平成23年秋
  8代孝元天皇第4皇子彦太忍信命―屋主忍男武雄心命―竹内宿祢
    本朝任大臣之始也 五代天皇之長臣也 母紀直祖菟道彦女影姫 景行天皇三年 於紀伊国誕生仁徳天皇七十八年薨 筑後国三井郡高良玉垂神社是也 
    諸国八旗宮摂社高良大明神者皆此大臣也(紀姓玉井系図より)
 竹内宿祢は神功皇后、応神天皇と非常につながりが深く、諸国八幡宮で摂社として祀られる。
 此れが竹内宿祢の子孫である紀氏がその氏神として八幡宮を祀る由縁である。
 氷見石岡の紀姓玉井は現在始祖である竹内宿祢より数えて65代であり、玉井と号してより41代である。

 長く成りそうですので、続きとさせて頂きます<m(__)m>




 2025・4・16・07・35
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愛媛県西条市、氷見「大喜多のイチョウ」(市指定)です!!

2025-07-04 12:35:59 | 巨樹・大木
 氷見地区は、西条市役所の西南西約7km、西条市役所西部支所の南東約6kmのところ

 西条市役所西部支所南側の「東予総合支所前交差点」を南東へ進みます

 約2.3kmで右手に「土田之木のエノキ」を見て、直ぐ先の丁字路を左(東)へ、県道149号線です

 約1.4kmの「小松・国道196号線⇒」の標識に従って右(南南西)へ、中山川大橋を渡ります

 約1.2kmの「⇐高松・新居浜・国道11号線」の標識で左(東)へ

 約1kmの「モンベルアウトドアオアシス石鎚」の案内板で信号を右(南)へ

 約400mの交差点を左(東)へ、約200mで左手に、林昌寺のクスノキを見て

 約400mの道路脇に車を止めさせて頂きました

 すぐ北側の「西条市立氷見小学校」の生徒さん達の通学時間でしたので、集団登校の生徒さんに「おはよう」と挨拶をして北側への路地へ入ります 

 ブロック塀の中にイチョウが見えます

 南西側から、目通り幹囲5.2mの巨木です

 西側から見上げました

 一般住宅のようですので、ここまでとさせて頂きます<m(__)m>

 では、次へ行きましょう




 2025・4・16・07・20
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愛媛県西条市、氷見「林昌寺のクスノキ」です!!

2025-07-04 06:32:53 | 巨樹・大木
 氷見地区は、西条市役所の西南西約7km、西条市役所西部支所の南東約6kmのところ

 西条市役所西部支所南側の「東予総合支所前交差点」を南東へ進みます

 約2.3kmで右手に「土田之木のエノキ」を見て、直ぐ先の丁字路を左(東)へ、県道149号線です

 約1.4kmの「小松・国道196号線⇒」の標識に従って右(南南西)へ、中山川大橋を渡ります

 約1.2kmの「⇐高松・新居浜・国道11号線」の標識で左(東)へ

 約1kmの「モンベルアウトドアオアシス石鎚」の案内板で信号を右(南)へ

 約400mの交差点を左(東)へ、約200mで左手に

 林昌寺境内入口です

 すぐ先の道路脇に車を止めさせて頂きました

 日蓮宗の寺号標です

 日蓮宗 林昌寺の看板もあります

 山門です

 境内社の様です

 本堂です

 本堂北西側の目的のクスノキが藪の中に見えました

 近付いて見上げましった、目通り幹囲6.0mの巨木です

 さらにズームアップして見ました

 境内は整備が行き届いていないようですので、ここまでにしました

 では、次へ行きましょう




 2025・4・16・07・10
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