goo blog サービス終了のお知らせ 

浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】佐藤至子『江戸の出版統制』(吉川弘文館)

2018-01-27 14:32:14 | その他
 近代日本に於ける出版統制について調べていたので、ついでに近世はどうであったのかを知りたくて読んでみた。私の知りたいことと本の内容が等号では結ばれないものであったが、なかなか面白かった。

 私は近世の文は読めないことはないが、引用されている史料がほとんど現代語訳されていたり、解説が付されていたので、すらすらと読み進むことができた。

 享保、寛政、天保と、改革が為される時に統制が厳しくなるのだが、しかし戯作者や板元、貸本屋などが服従し、抵抗し、また処罰される。士族出の戯作者は手鎖などの処罰は下されなかった。検閲は国家権力が行うのではなく、行政に関わる末端の者がやっていたこと・・・そういうことを知ることができた。

 また統制の歴史ではなく、読んでいて戯作文学を読みたくなった。

 眠る前、布団の中でよみついで、読み終えた。書名はいかめしいが、内容的には難しいものではない。

 暇な人は読むとよい。



 

政治家の質

2018-01-26 22:22:15 | その他
 すべてのレベルで、議員の質が低下している。こういう人たちが当選してくるということ、これは選挙民の質の低下を物語る。

 今度は国会議員。

 松本内閣府副大臣が辞任 米軍機事故の国会ヤジで引責

 しかし25日のこのヤジ、メディアはその問題性を指摘していたのだろうか。私はテレビを見ないのでテレビが報じていたかも知れないが、新聞は報じていなかった。

〈追記〉

今リテラを見たら、このヤジの問題性を取り上げたのは、『しんぶん赤旗』だけだったそうだ。沖縄の2紙すら報じていなかったようだ。

 メディアの頽廃でもある。記者は、いったい何をしている、何を考えて報道の仕事に携わっているのか。

松本内閣府副大臣スピード辞任はただの選挙目当て! 沖縄米軍機事故に「何人死んだんだ!」卑劣ヤジは安倍自民の本音だ
 

野菜を作る人にとって

2018-01-26 17:14:07 | その他
 ここ数日寒いので畑には行っていない。野菜は温度が低いと生長しないし、霜にやられてしまうことがある。生きているから、天候に大きく左右される。また私自身も、天候の具合を見ながら畑に通う。遠州地方は「からっ風」という強い風が吹く。風が強いだけならいいが、それがすごく冷たいとなると、もう畑には足が向かない。

 さて、冷たい風に吹かれながら、大地にへばりついている野菜たちの姿をみると、がんばれよと言うしかない。

 スーパーに行くと、野菜が高い。つくっていない野菜は買わざるを得ない。高いなと思う。

 でも、あまりにも安すぎると、これではお百姓さん、大変だ!と思うことがよくある。種を蒔き、草を取り、肥料をやり、時には水も遣る。なかなか世話があるのだ。

 今日、稲垣さんの文を読んだ。その通りだと思った。

稲垣えみ子「野菜の値段、高いことはニュースになっても、安いことは話題にもならない」

驚きの中国

2018-01-25 19:30:39 | その他
 『朝日新聞』記事。本当でしょうか?その部分を紹介。

中国メディアによると、黒竜江省ハルビンの三つのホテルで客室清掃を隠し撮りした映像が、昨年12月末に動画サイトで公開された。映像ではハルビン・ケンピンスキーホテルの清掃員が便器を洗うブラシでコップを洗い、ハルビン・シャングリラホテルの清掃員は一つの雑巾でコップと便器などを拭いていた。ハルビン香坊永泰シェラトンホテルでも、同じブラシで便器と洗面器を洗っていた。

重慶にある激辛鍋料理の全国チェーン店で、客が食べ残した鍋のスープを厨房(ちゅうぼう)の大鍋に集めて使い回している動画が今月10日に中国メディアで報じられた。撮影者は「大鍋の中にはたばこの吸い殻やつまようじも見えた」と証言した。


 知らぬは客ばかり。日本ではどうなのだろうか。

また暴力事件が発覚

2018-01-25 14:21:54 | その他
 「国技」と自称している相撲界に、また暴力事件が発覚した。春日野部屋で起きた。ネットで、春日野部屋の親方という人物の顔が出ていたが、顔が悪いね。人間の顔は、その生き方によって変わる。あの顔はよからぬ生き方をしてきた顔だと思う。

 相撲はそれ自体が暴力のようなものだから、相撲界は、要するに暴力に覆われているのではないか。

 春日野部屋で不祥事、力士が傷害罪で16年有罪判決

【本】石川啄木『一握の砂・悲しき玩具』(新潮文庫)

2018-01-24 15:07:10 | その他
 石川啄木について、6月に話す。ずっと前、筑摩書房の石川啄木全集を購入し、実家の書斎に鎮座している。今まで繙いたことのないこの全集に日の目を浴びさせるために、石川啄木をテーマに選んだ。動機が不純なのであるが、しかし「明治150年」を一面的に評価しようとする安倍政権の意図に抵抗するためには、石川啄木もその役割を果たしてくれると思っている。

 とりあえず、彼の歌集を読もうと思った。もちろん全集には、入っている。だが、友人であった金田一京助の解説がついているというので、この本を注文した。

 折節、啄木がよんだ歌は、私の来し方に同感するものがたくさんある。

 啄木は、みずからのいのちを愛し、そのいのちを精一杯生かそうとしたのだと思う。精一杯生きようとする時、まわりとの摩擦はかならず生じる。その摩擦を乗り越えて生きていかなければならないときの煩悶。

 啄木の生き方は、伊藤野枝と通じるところがあると思う。

 生まれる家庭環境を選ぶことは出来ない。人は、その家庭に生まれる。生きたい、こう生きたい、と思っても、与えられた家庭環境が桎梏となることがある。その桎梏から逃れるために家を出る、それは野枝の生き方であった。

 しかし、啄木にはその家庭を支えるという役割があった。

 生きるということは難しい。生きることをしながら、その生の一部を歌に詠む。いや、歌に生を刻むというのだろうか。啄木も早世であった。26歳で逝った。まだまだ青春であった。死は遠いところにあったはずだ。死は現実ではなかった。だからこう歌う。

 青空に消えゆく煙

 さびしくも消えゆく煙

 われにし似るか


 いずれ消えてゆくみずからを思う。だがこの歌にある「消えゆく」はずっと先にある。

 だが、『悲しき玩具』の

 夜おそく何処やらの室の騒がしきは

 人や死にたらむと、

 息をひそめる


 は、みずからにも近づくものであるという認識があるような気がする。

 孤独であること、孤独である自己をみつめること、これなしに文学は生まれないと思う。


 

拷問

2018-01-23 20:54:24 | その他
 戦前の静岡高校(現在の静岡大学につながる)の学生運動家たちは、警察から激しい拷問を受けた。警察による拷問は、虐殺された小林多喜二が有名であるが、警察にとって問題視される活動をしていた者にも、激しい拷問が行われた。

 先日少し言及した、『抗いの青春』から、拷問場面をここに紹介しよう。日本の特高、あるいは警察官が、どれほど残虐であったのかを、歴史の事実として掲載する(156~158頁)。

 簀巻き同然の格好で神奈川署2階の高等係の部屋に放り出された彼は、しばらく顔面を泥靴で踏みにじられて後、特高の手下が奇妙なことを始めたので息を呑んだ。

 彼らはなわを解き、両手を後ろにしばり上げた後、靴を脱がせ、腰のベルトを引き抜き、ズボンの前をはだけ、 1人が手を後ろの腰骨あたりに突っ込んだかと思うと、パンツもズボンも、あっという間もなく剥ぎ取ってしまった。まさに手練の早業で、ちょうどそれは、山家の悪童蛙の皮をひん剥くような具合であった。

 さらに彼らは、両足首をロープで縛り始めた。何のためか、両足を揃えてではなく、片方ずつ別々に足首をしばったのである。

 二人の特高が、足に最も近いロープを手に絡めるようにして握り、左右に分かれてさっと立ち上がった。うんもすんもない。この「思想犯」はものの見事に逆さ吊りにされたのである。その手際の鮮やかなこと。上着やシャツは当然ずっこけて頭部にかかり、足から胸板まで全くの裸身である。身をもがいて抵抗すると、彼らは足の間隔をわずかに開いて、股をさきにかかる。これだけでも苦痛だが、これはほんの「前技」でしかなかった。

 この日は、幸か不幸か、3月にしては底冷えのする日で、部屋の一隅に大ぶりの鉄の火鉢があり、炭火が盛大に燃え盛っていた。

 怒り悶える彼は、突然幾千の針を全身に打ち込まれるような、強いて表現すれば鋭角的な痛みに襲われた。赤ら顔の中年の男が十能を片手に、もう1人の若造の刑事と共に傍に立っていた。今、彼らは炭火をひとすくいすくい取って、この思想犯の股の間に盛り上げたところだった。

 後に分かったことだが、彼らは中村忠勝(当時警部か警部補)とその手下の今西宏であった。しかもこの2人は前年の共産党狩りの功績で表彰された「模範」警察官であった。

 振り払うとして身をもがけば、確かに炭火は床に落ちる。だがその中のいくつかは腹から胸へところがり、上衣にせき止められて腹や胸を焼く。特高が火だねに思い煩うことはなかった。床の炭火は元に戻され、新しい炭も追加された。

 股の尻毛はむろんのこと、皮膚も、下の脂も焼かれた。陰のうも火ぶくれた。彼は生きながらにして自らの死臭をかぐ思いであった。

 「踊れ、踊れ、もっと踊ってみろ」と悪態をついてはやしたてた。彼らはこれをお祭りとよんでいた。

 祭りは火祭りで終わったのではなかった。長い間立っていたので、足首を持っていた特高もさすがに疲れたのであろう。逆さの彼の足をさらに開きながら、椅子を引き寄せて腰を下ろした。これで首筋が十分床についたので、反動をつけて炭火を全部ふるい落としてやろうともがいたとき、脳天を一気にぶち割られるような圧倒的痛みが彼を再び見舞った。これは強烈な「鈍角」的いたみだった。

 特高の片手には、それぞれ文鎮と昔の十手らしきものが握られていた。後にこのらしきものは確かに十手であることがわかった。ここの高等係の一人が趣味で大切にしていたものを、特高が無断で机の上から手当たり次第借用におよんだもので、文鎮も同様であった。ちなみに、ここの高等係は特高のお祭りが始まると、いつの間にかこの部屋から姿を消していた。

 特高はこの思想犯の踊りを楽しむために、そのくるぶしもドラムがわりに叩き始めたのである。のち10数年にわたって、冬になるとしみ入る疼痛を彼に与えた。このドラムと炭火の洗礼はいつ止むとも思えなかったが、彼がこの悪魔の所業に怒り狂い、己の舌を噛み、溢れ出た血ヘドを悪魔たちに向かって吐きかけ失神するまで、この饗宴は続いたのである。


 もちろんこうした暴力をふるった警察官は処罰されていない。

 残念ながら、日本では、司法に関わる者たちに対する、敗戦にともなう責任追及はほとんどなされなかった。彼らの人脈は、いまもつながっているはずである。




世間は勝手なんだ!

2018-01-23 19:02:49 | その他
 この記事は、正当な指摘をしている。

小室哲哉の不倫を報道した週刊文春は悪くない! おかしいのは女性と小物だけを糾弾する世間とテレビだ

 世間の非難は、日本の社会意識をそのまま反映する。まず男女差別。同じことをしても、女性に対する非難がひどい。そして力ある者、権力者を非難しない。要するに、弱い者いじめなのだ。世間の非難は、社会のあり方をそのままなぞるだけ。

 私は芸能界その他にはまったく関心がないが、世間の非難の向かう先に、人権軽視を見る。


予測

2018-01-23 18:42:49 | その他
 草津白根山が噴火したというニュースに接した。気象庁は噴火地点から2キロほど離れたところには観測態勢をとっていたようだ。ということは、気象庁は噴火の予想がまったくできていなかったということである。また噴火の兆候はなかったというから、予測はできそうもない。白根山の噴火は3000年ぶりだとのこと。

 要するに、地震や噴火は予測できないということだ。東日本大震災の時も、突然来た。御嶽山の噴火も、今度も突然である。


 そういう自然の大きな力のが奔出を、人間は制御できないということでもある。

 ところが、現代の科学は、あたかも制御可能であるかのような言説を振りまいている。その結果、我が日本列島のあちらこちらに、人類を滅亡させることができる原子力発電(原子爆弾と原理は同じだ!)所が鎮座している。

 原発は、人間の奢りの象徴である。

 先に、愛媛県の伊方発電所が、阿蘇山大噴火の予測から期限付きの稼働停止となったが、今後どのような噴火や地震があるのか。

 私たちは、謙虚にならなければならない。このままなら、愚かというしかない。

今時の学生

2018-01-22 09:17:26 | その他
 大学の教員には、講義で話すのがとても下手な人がいる。すばらしい講義で、その講義も知的なものが詰まっている人もいる。早口でまくし立てている人もいる。

 実は私は大学は卒業しているけれども、講義にはあまりでていない。4月に選択したすべての講義を一度は聴くが、これは聴いた方がよいと思った講義だけ出席した。出席した講義は、知的な、聴くだけでなんか得をするようなそんな内容のものだ。

 しかし話し方がまったく下手で、聴いていても眠くなるだけの人もいた。しかしその人の研究は超一級のもので、講義は下手かもしれないが、その人の著書はすばらしいものであった。学界での評価はずば抜けていた。だから講義は出なかったが、その本は熟読した。

 講義に出なくても、単位を取得するためには、テストを受けるか、あるいは科目によってはレポートを提出しなければならない。だから、試験期間は、必死に勉強した。講義に出なくても、みずから本を読んで、それも複数の本を読んで試験に臨んだり、レポートを書いた。

 だが、本日とても驚いたことがあった。私が卒業した学部の学生が、被害者の会をつくってネットで発信していたのだ。講義がつまらない、講義に全出席しているのに単位がとれなかった・・・などという、他愛もないことを書きつらねていた。

 彼らは、学問は誰かから与えられるものと思っているようだ。大学生になったら、みずから勉強するのだ。講義に出ていたらそれで単位を与えてくれなんて、それは愚かなことだ。

 こういう学生は、学生の資格はない。すぐにやめて社会に出て働きなさい、といいたい。

【本】草深会編『抗いの青春 戦中を生きぬいた静岡高校社研運動の系譜』(同時代社)

2018-01-21 19:58:13 | その他
 1988年に出版されたもの。書庫に鎮座していた本である。30年経過して、始めて読んだ。とても面白く、一気に読んでしまった。

 戦前の静岡高校、今の静岡大学の学生たちの学生運動を振り返ったものである。ということは共産党に関わった活動も当然その視野に入っているのだが、とにかく面白い。

 私は横浜事件に関わった人物。森数男の友人である中村正也を追跡するなかでこの本を読んだのだが、戦前の静岡高校の学生たちの闘いに感動してしまった。もちろんこの時代は治安維持法があり、特別高等警察が暴力を背景にそうした運動を弾圧していたのだが、静岡高校の学生たちの思慮深い行動(といってもいつでも、というわけではないが)、あるいは勇敢さ、そして知性に。

 30年前ではなく、現在読むからこそ、意義深いと思う。

 まず一つ。

 多くの応援団また運動部に長く培われた封建性、それに伴う右翼的体質と暴力主義、自由抑圧、体制への無批判的屈服と癒着着

 現在でも同じような状況がある。
 ではこうした状況に対して静高生はどう闘ったか。運動部員(選手)制度をなくしたのである。


 1 従来校友会員の一部を部員と称し、部員以外のものと区別せし習慣を撤廃す。

 2 全校友会員は同時に各部の部員にして一部の拘束よりまったく自由になり得べきこと

 3 一部校友会員が特に対外試合のため、一般校友会員に経済的負担をかけ、且つ運動場及運動器具を独占することを得ず

 4 全校友会員は等しく運動場並びに器具等を使用し得ること


 運動部を廃止して、誰でもスポーツに参加して運動場や体育器具を自由に使えるようにしたのである。同時に、今まで校友会会費の中から運動部にわたっていたカネを、全校友会員がつかえるようにし、また会費を値下げしたのである。

 つまり、スポーツの大衆化、民主化を行ったのである。これは他の学校でも行ったのだが、静岡高校はとてもうまくいった。昭和4(1929)年のことであった。

 近代オリンピックの始祖・クーベルタンのことばが引用されている。

 現代のスポーツは、その取り上げ方とその与えられる方向によって人々に利益ももたらすし、害悪も与える。スポーツは高貴にもなれば卑俗にもなる。それは人間を誉れ高くもすれば退廃にも導く。人間らしくもすれば 野獣的にもする。平和の増進にも役立つし、戦争の準備にも利用される。

 野獣的にするほうが多い、というのが現在のスポーツであるように思う。

怒りもしない

2018-01-21 19:43:01 | その他
 安倍首相でなくても、日本社会には会社の上司など「上」の者から誘われれば、にこにこしてほとんどがその誘いにのるのだ。

 私の友人にこういう人がいた。

 その友人は、私たちの前では、民主主義・平和を唱え、あるいは日本人の奴隷根性を批判したりしていたが、他方で管理職から声がかかれば管理職宅でおこなわれる新年会の幹事などを熱心にやっていた。私も誘われたことがあるが、管理職宅で行われるなら確実に「ワリカン」ではないだろうと推測し参加しなかった。その彼はもちろん管理職になった。わたしはもうつきあっていないけれど、わたしの知人に私の考えが「過激だ」などと言っていたそうだ。

 しかしこれは一つの例。普通のひとは、ほとんどが権力者に誘われれば喜んでかどうかは知らないけれどもついていくのだよ。それが日本社会をつくってきたのではないか。私はそういうひとをいっぱい見てきた。

 だから古市憲寿が安倍と会食しようと、その弁解じみたことを書こうが、怒りもない。だって、古市って、そういう奴じゃないか。

古市憲寿が安倍首相との会食に失笑言い訳!“焼肉屋セレクトは韓国文化を理解している証拠、リベラルは評価せよ”

 彼が書いたものに、鋭い指摘があったことがあるか。なかった。

「報道の自由」

2018-01-20 09:08:49 | その他
 安倍首相はじめ現在の政治権力を掌握しているウルトラ右翼は、なぜ朝日新聞に敵意を抱くのだろうか。記者には優秀な者もいるが、社説その他を見ると、ウルトラ右翼が目くじらを立ててまで怒る必要はない。

 ウルトラ右翼は、別に朝日新聞を読んでいるわけではない。彼らは人の罵詈雑言を口まねをして叫んでいるだけであることは、彼らの批判を一度でも検証してみたことがあれば一目瞭然である。とにかく自分たちの荒唐無稽の主張を批判するのが朝日新聞であると信じ込んでいるのだ。

 昨日の新聞に、朝日新聞の元記者、犬飼氏が亡くなられたことが報じられていた。犬飼氏は、1987年の朝日新聞阪神支局襲撃によりケガを負った。一緒にいた小尻記者は殺された。いまだその犯人は捕まっていない。

 報道の自由に対する、苛烈な攻撃であった。

 報道に携わる者が、真実を報じるが故に、こうした蛮行により命を失う事例は、世界各地にある。そうした仕事に従事する人びとの仕事が意義ある崇高なものであるが故に、狙われるのである。

 犬飼記者は、なぜ自分が生きて、小尻記者が殺されたのか、ずっと自問自答しながら生きてきた。今日の「天声人語」の末尾。あのとき、阪神支局員はすきやきを食べていた。

いまごろ小尻記者と再会をはたし、すき焼きの鍋をつついているだろうか。