某所での全二回の講座、ひとつは石川啄木にした。実家の書斎にある全集のひとつが、石川啄木のそれである。筑摩書房。若い頃読まなければと思って購入してもう何十年。ずっと書棚に鎮座していた。
今年は「明治150年」と言うことで、安倍政権は「明治150年」を称揚しようとしている。私はもちろんそんな気持ちはない。明治という時代を批判的に捉える。それは昨年も大逆事件をとりあげることで、人びとの前に示した。そのとき、聴衆の一人が、明治は良い時代だと思っていたがそうではなかった、というような感想を話された。
歴史は、どういう立場から見るかによって、その歴史像は異なってくる。私は、つねに底辺から見るように心懸けている。底辺からは、その社会全体をみることが可能だ。
果たして石川啄木の眼で、明治という時代を見抜くことができるか。
6月までの間に、啄木を読みあさる。
今日、『別冊太陽』が届いた。
昨年11月には、伊藤野枝を取り上げたが、二人に共通すること、それは孤独である。野枝も、早い時期からそれを感じていたようだ。孤独を自覚すると言うことは、おのれ自身を見つめるということでもある。ひとは、成長するにしたがい、孤独を孤独として感じなくなる。つまりみずからを見つめることすらしなくなる。
だがひとりの人間が生きるということは、孤独を背負って、いや孤独をいきるということに他ならない。その孤独をどのようにみずからが引きうけるか、それがひとりひとりの個性となる。
それが社会とどう関わるか、。私が啄木から導き出そうとするのは、社会である。
少しずつ、啄木を読む。また新しいノートが必要となる。
今年は「明治150年」と言うことで、安倍政権は「明治150年」を称揚しようとしている。私はもちろんそんな気持ちはない。明治という時代を批判的に捉える。それは昨年も大逆事件をとりあげることで、人びとの前に示した。そのとき、聴衆の一人が、明治は良い時代だと思っていたがそうではなかった、というような感想を話された。
歴史は、どういう立場から見るかによって、その歴史像は異なってくる。私は、つねに底辺から見るように心懸けている。底辺からは、その社会全体をみることが可能だ。
果たして石川啄木の眼で、明治という時代を見抜くことができるか。
6月までの間に、啄木を読みあさる。
今日、『別冊太陽』が届いた。
昨年11月には、伊藤野枝を取り上げたが、二人に共通すること、それは孤独である。野枝も、早い時期からそれを感じていたようだ。孤独を自覚すると言うことは、おのれ自身を見つめるということでもある。ひとは、成長するにしたがい、孤独を孤独として感じなくなる。つまりみずからを見つめることすらしなくなる。
だがひとりの人間が生きるということは、孤独を背負って、いや孤独をいきるということに他ならない。その孤独をどのようにみずからが引きうけるか、それがひとりひとりの個性となる。
それが社会とどう関わるか、。私が啄木から導き出そうとするのは、社会である。
少しずつ、啄木を読む。また新しいノートが必要となる。