福沢諭吉の『文明論之概略』の文である。
「日本にて権力の偏重なるは、洽ねく其人間交際の中に浸潤して至らざる所なし。本書第二章に、一国人民の気風と云へることあり。即ち此権力の偏重も、かの気風の中の一箇条なり。
今の学者、権力の事を論ずるには、唯政府と人民とのみを相対して、或は政府の専制を怒り或は人民の跋扈を咎る者多しと雖ども、よく事実を詳にして細に吟味すれば、此偏重は交際の至大なるものより至小なるものに及び、大小を問はず公私に拘はらず、苟も爰に交際あれば其権力偏重ならざるはなし。
其趣を形容して云へば、日本国中に千百の天秤を掛け、其天秤大となく小となく、悉く皆一方に偏して平均を失ふが如く、或は又三角四面の結晶物を砕て、千分と為し万分と為し遂に細粉と為すも、其一分子は尚三角四面の本色を失はず、又この砕粉を合して一小片と為し又合して一塊と為すも、其物は依然として三角四面の形を保つが如し。権力偏重の一般に洽ねくして事々物々微細緻密の極にまで通達する有様は斯の如しと雖ども、学者の特に之に注意せざるは何ぞや。唯政府と人民との間は交際の大にして公なるものにて著しく人の耳目に触るゝが故に、其議論も之を目的とするもの多きのみ。
今実際に就て偏重の在る所を説かん。爰に男女の交際あれば男女権力の偏重あり、爰に親子の交際あれば親子権力の偏重あり、兄弟の交際にも是あり、長幼の交際にも是あり、家内を出でゝ世間を見るも亦然らざるはなし。師弟主従、貧富貴賎、新参故参、本家末家、何れも皆其間に権力の偏重を存せり。尚一歩を進めて人間の稍や種族を成したる所のものに就て之を見れば、封建の時に大藩と小藩あり、寺に本山と末寺あり、宮に本社と末社あり、苟も人間の交際あれば必ず其権力に偏重あらざるはなし。或は又政府の中にても官吏の地位階級に従て此偏重あること最も甚し。政府の吏人が平民に対して威を振ふ趣を見ればこそ権あるに似たれども、此吏人が政府中に在て上級の者に対するときは、其抑圧を受ること平民が吏人に対するよりも尚甚しきものあり。譬へば地方の下役等が村の名主共を呼出して事を談ずるときは其傲慢厭ふ可きが如くなれども、此下役が長官に接する有様を見れば亦愍笑(びんせう)に堪へたり。名主が下役に逢ふて無理に叱らるゝ模様は気の毒なれども村に帰て小前の者を無理に叱る有様を見れば亦悪む可し。甲は乙に圧せられ乙は丙に制せられ、強圧抑制の循環、窮極あることなし。亦奇観と云ふ可し。固より人間の貴賎貧富、智愚強弱の類は、其有様(コンヂ-ション)にて幾段も際限ある可らず。此段階を存するも交際に妨ある可らずと雖ども、此有様の異なるに従て兼て又其権義(ライト)をも異にするもの多し。之を権力の偏重と名るなり。」(『文明論之概略』)
日本人は、ヨコ関係よりもタテ関係を重視する。権力や権威に弱い。そうしたものに寄りかかろうとする。福沢は、もちろんこのような「権力偏重」を批判し、精神の独立を鼓舞した。
しかし今、若者も、あまりに権威や権力に拝跪している。就職する際に、大学などから「上に逆らうな、何でもいうことを聞きなさい」と教えられるそうだ。それがまた「過労死」や「ブラック企業」につながるのだろう。
出世や昇進を望むなら、ひたすら平身低頭して、御説ごもっとも、などと言っているわけだが、私が生きてくる上でも、そういう人は無数にいた。ヒラのときは、へいへいしていて、自らが昇進していくと、驚くべき居丈高である。その典型的な人物は、なぜか最近亡くなった。
力のある人は、決してタテ関係を重視しない。どのような人間に対しても、謙虚に対応する。私は、今までにも多くの学者研究者と交流してきたが、学識のある方ほど謙虚であった。
権力偏重が束になっているのが、現在という安倍政権を支えているのではないかと思ったりする。
「日本にて権力の偏重なるは、洽ねく其人間交際の中に浸潤して至らざる所なし。本書第二章に、一国人民の気風と云へることあり。即ち此権力の偏重も、かの気風の中の一箇条なり。
今の学者、権力の事を論ずるには、唯政府と人民とのみを相対して、或は政府の専制を怒り或は人民の跋扈を咎る者多しと雖ども、よく事実を詳にして細に吟味すれば、此偏重は交際の至大なるものより至小なるものに及び、大小を問はず公私に拘はらず、苟も爰に交際あれば其権力偏重ならざるはなし。
其趣を形容して云へば、日本国中に千百の天秤を掛け、其天秤大となく小となく、悉く皆一方に偏して平均を失ふが如く、或は又三角四面の結晶物を砕て、千分と為し万分と為し遂に細粉と為すも、其一分子は尚三角四面の本色を失はず、又この砕粉を合して一小片と為し又合して一塊と為すも、其物は依然として三角四面の形を保つが如し。権力偏重の一般に洽ねくして事々物々微細緻密の極にまで通達する有様は斯の如しと雖ども、学者の特に之に注意せざるは何ぞや。唯政府と人民との間は交際の大にして公なるものにて著しく人の耳目に触るゝが故に、其議論も之を目的とするもの多きのみ。
今実際に就て偏重の在る所を説かん。爰に男女の交際あれば男女権力の偏重あり、爰に親子の交際あれば親子権力の偏重あり、兄弟の交際にも是あり、長幼の交際にも是あり、家内を出でゝ世間を見るも亦然らざるはなし。師弟主従、貧富貴賎、新参故参、本家末家、何れも皆其間に権力の偏重を存せり。尚一歩を進めて人間の稍や種族を成したる所のものに就て之を見れば、封建の時に大藩と小藩あり、寺に本山と末寺あり、宮に本社と末社あり、苟も人間の交際あれば必ず其権力に偏重あらざるはなし。或は又政府の中にても官吏の地位階級に従て此偏重あること最も甚し。政府の吏人が平民に対して威を振ふ趣を見ればこそ権あるに似たれども、此吏人が政府中に在て上級の者に対するときは、其抑圧を受ること平民が吏人に対するよりも尚甚しきものあり。譬へば地方の下役等が村の名主共を呼出して事を談ずるときは其傲慢厭ふ可きが如くなれども、此下役が長官に接する有様を見れば亦愍笑(びんせう)に堪へたり。名主が下役に逢ふて無理に叱らるゝ模様は気の毒なれども村に帰て小前の者を無理に叱る有様を見れば亦悪む可し。甲は乙に圧せられ乙は丙に制せられ、強圧抑制の循環、窮極あることなし。亦奇観と云ふ可し。固より人間の貴賎貧富、智愚強弱の類は、其有様(コンヂ-ション)にて幾段も際限ある可らず。此段階を存するも交際に妨ある可らずと雖ども、此有様の異なるに従て兼て又其権義(ライト)をも異にするもの多し。之を権力の偏重と名るなり。」(『文明論之概略』)
日本人は、ヨコ関係よりもタテ関係を重視する。権力や権威に弱い。そうしたものに寄りかかろうとする。福沢は、もちろんこのような「権力偏重」を批判し、精神の独立を鼓舞した。
しかし今、若者も、あまりに権威や権力に拝跪している。就職する際に、大学などから「上に逆らうな、何でもいうことを聞きなさい」と教えられるそうだ。それがまた「過労死」や「ブラック企業」につながるのだろう。
出世や昇進を望むなら、ひたすら平身低頭して、御説ごもっとも、などと言っているわけだが、私が生きてくる上でも、そういう人は無数にいた。ヒラのときは、へいへいしていて、自らが昇進していくと、驚くべき居丈高である。その典型的な人物は、なぜか最近亡くなった。
力のある人は、決してタテ関係を重視しない。どのような人間に対しても、謙虚に対応する。私は、今までにも多くの学者研究者と交流してきたが、学識のある方ほど謙虚であった。
権力偏重が束になっているのが、現在という安倍政権を支えているのではないかと思ったりする。