浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】小岸昭『世俗宗教としてのナチズム』(ちくま新書)

2014-02-17 11:19:00 | 読書
 日本において、局所的にはありうるが、日本全体ではナチズムのようなものはありえないという気がする。なぜならば、ヒトラーのような予言者然とした人物により、日本国民の多くが精神的に籠絡されるということは想像できないからだ。

 局所的にはあり得るというのは、オウム真理教の例があるからだ。それ以外にも知られていないカルト教団が存在しているかも知れない。ナチズムは、ドイツ一国がカルト教団化してしまったものだと言える。ドイツ国民は、ヒトラーという教祖への「自発的隷従」の徒と化したのである。

 日本人には、そうした「自発」というものが想定できない、それがボクの考えだ。つまり「自発的隷従」というのは、少なくとも自らが考えた後でのまさに「自発的」な「隷従」なのだ。日本人は考えないから「自発的」というのではなく、まさに「隷従」だけだ。そうした「隷従」の場合、ナチズムのように積極的に関わるのではなく、静かに消極的に関わる、つまり「隷従」させられる。

 さてこの本を読んでいくつかのことを知り、また考えた。

 まずドストエフスキーのことだ。ナチスの宣伝相ゲッペルスは文学愛好家だったようだ。彼はドストエフスキーから大きな影響を受けているという。その作品の中でも「悪霊」。

 ボクは学生時代、ひたすらドストエフスキーに耽った。今も、彼の小説や日記は、書庫に鎮座している。ドストエフスキーから、人は多くを学ぶが、その受け取り方はひとりひとり異なるようだ。ボクの場合は、「真実美しい人間」とは、いかなる人間かを学んだ。まさに求道者的アプローチであった。

 ゲッペルスは、「悪霊」のこの箇所に多くを学んだようだ。

 理知と化学は国民生活において、常に創世以来今日にいたるまで第二義的な、御用聞き程度の職務を司っているに過ぎない。それは世界滅亡の日まで、そのままで終わるに相違ない。国民は全く別な力によって生長し、運動している。それは命令したり、主宰したりする力だ。けれど、その発生は誰にも分からない。また説明することもできない。この力こそ最後の果てまで行き着こうとする、渇望の力であって、同時に最後の果てを否定する力だ。

 ゲッペルスは、この「力」を信じ、その「力」を持った人間を発見した。ヒトラーである。その「力」に救済を求めたのである。

 「救済」。強い指導力をもった人物による救済。人は、こういう救済を求めるようだ。ナチスに加わっていった者には、「知的・経済的によりすぐれた者」に対して大きなルサンチマンを持っていたようだ。憎しみ、憎悪、怨恨、そうした否定的な感情の力が、ヒトラーのような「力」を持つと思われた人物に向かって集められ、そして縒りあわされていった。その「力」に合一化する中で、人は救済されていった。

 現在日本にもルサンチマンを抱く者は多く、また増えている。そうした者が、「力」あると思われる人物に靡いていく。ボクたちは、その姿を、都知事選挙でよく見慣れている。石原、田母神・・・・

 ナチズムらしきものは、日々再生産されているのではないか。

 
※ボクは「悪霊」をもう一度読まなければならないようだ。
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