ペンと言っても、現在はキーボードの力と書くべきか。
今、本田靖春の『我、拗ね者として生涯を閉ず』下を読んでいる。圧倒的な迫力、それも正義の実現に向かってひた走る本田の正義感にただただ驚くのだ。
ボクは、若い頃献血を毎年やっていた。特段の考えがあってやったのではない。そのくらいはやってあげよう、という軽い気持ちからであった。しかしある年、献血中にめまいが始まり、途中で採血をやめてもらったが、めまいは小一時間続いた。そのときの気分の悪さを体験してから、献血はやめている。
さて、日本の輸血のための血液は、売血制度によるものであったことは知っていた。五木寛之の小説に売血の場面がでていたからだ。そして売血制度が『悪』であることも知っていた。輸血にふさわしい血液が集まらず、「汚い血」によりかえって肝炎などの致命的な病を発症させるからだ。
そのような知識のもとで、この本田のいわば遺書を読んでいたら、現在のような献血制度をつくりあげたのは、本田のペンの力であったのだ。本田はまさに売血制度を撃つために、売血までして、さらにウィルスに感染してまでも、売血制度の『悪』を追及し、献血制度の樹立のために奮闘した。ペンでもって、まさに壮絶な闘いを挑み、献血制度をつくりあげた。
本田による『読売新聞』のキャンペーンが、献血制度をつくりあげたのだ。
ボクはこれを読んでいて二つのことを感じた。まず自らに対してだ。本田のように、「断じて行えば鬼神もこれを避く」というような気概で正義を追求したことがあったかという自問自答である。ああもっとやれたはずだ、という後悔がある。
そしてもう一つ。新聞という社会的公器が、正義の実現のためにフル回転すれば、大きな力を発揮できるということだ。しかし逆に、正義ではなく、権力の思考を国民の中に広げようとすれば、それも可能になるという恐ろしさだ。現在の『読売』はそういう新聞になりはて、本田が在社していたころとは真逆の位置にある。渡辺恒雄という独裁者による、社会部つぶしが、正義追求の矛先を失わせたのである。
本田靖春という人物については、何度も書くが、『私戦』を読んでから、敬意の対象となっているが、さらにまた尊敬に値する人間にもなった。本田から、生き方の面においても、学ぶことは多い。
今、本田靖春の『我、拗ね者として生涯を閉ず』下を読んでいる。圧倒的な迫力、それも正義の実現に向かってひた走る本田の正義感にただただ驚くのだ。
ボクは、若い頃献血を毎年やっていた。特段の考えがあってやったのではない。そのくらいはやってあげよう、という軽い気持ちからであった。しかしある年、献血中にめまいが始まり、途中で採血をやめてもらったが、めまいは小一時間続いた。そのときの気分の悪さを体験してから、献血はやめている。
さて、日本の輸血のための血液は、売血制度によるものであったことは知っていた。五木寛之の小説に売血の場面がでていたからだ。そして売血制度が『悪』であることも知っていた。輸血にふさわしい血液が集まらず、「汚い血」によりかえって肝炎などの致命的な病を発症させるからだ。
そのような知識のもとで、この本田のいわば遺書を読んでいたら、現在のような献血制度をつくりあげたのは、本田のペンの力であったのだ。本田はまさに売血制度を撃つために、売血までして、さらにウィルスに感染してまでも、売血制度の『悪』を追及し、献血制度の樹立のために奮闘した。ペンでもって、まさに壮絶な闘いを挑み、献血制度をつくりあげた。
本田による『読売新聞』のキャンペーンが、献血制度をつくりあげたのだ。
ボクはこれを読んでいて二つのことを感じた。まず自らに対してだ。本田のように、「断じて行えば鬼神もこれを避く」というような気概で正義を追求したことがあったかという自問自答である。ああもっとやれたはずだ、という後悔がある。
そしてもう一つ。新聞という社会的公器が、正義の実現のためにフル回転すれば、大きな力を発揮できるということだ。しかし逆に、正義ではなく、権力の思考を国民の中に広げようとすれば、それも可能になるという恐ろしさだ。現在の『読売』はそういう新聞になりはて、本田が在社していたころとは真逆の位置にある。渡辺恒雄という独裁者による、社会部つぶしが、正義追求の矛先を失わせたのである。
本田靖春という人物については、何度も書くが、『私戦』を読んでから、敬意の対象となっているが、さらにまた尊敬に値する人間にもなった。本田から、生き方の面においても、学ぶことは多い。