浜名史学

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「非歴史的ー超歴史的なもの」

2024-07-09 12:19:58 | 読書

 以前紹介した『現代思想』増刊号「丸山真男 生誕100年」特集号、発売されたときにほとんど読んでいたが、長文である故に読まずにおいたものがある。木村直恵の「「開国」と「開かれた社会」」である。この論考は、丸山真男が「古層」(原型・古層・執拗低音)とよんだカテゴリーがどのような思考のなかで生みだされてきたのかを説明している。

 昨今、「開かれた社会」ということばが、丸山真男と関連したところで記されているが、このことばはカール・ポパーのものだ。

 わたしが属している研究会のメンバーなら、今から10年前に故金原左門さんが「大正期の「開かれた社会」-大正期デモクラシーの無限の地下水- 」を話し、また書いているが、この「開かれた社会」も、ポパーである。ポパーの概念をつかって、「大正期」を考えようとしてもので、丸山真男だけではなく、金原さんもポパーに関心を持っていたのである。その際金原さんはカーの『歴史とは何か』への批判的な言説としてポパーの『開かれた社会とその敵』に注目したのであった。ポパーのこの本は、とても大部で、以前は翻訳書が未来社から出ていたが、最近は岩波文庫から出ていて、その翻訳はとてもわかりやすいという評判となっている。10年前、金原さんから電話で、ポパーをよみなさいと言われていたことを思い出して第一巻を購入したところである。

 丸山真男が「原型・古層・執拗低音」を提起した契機は、「開国」(『忠誠と反逆』所収)に書かれている。丸山は、敗戦直後と明治維新の状況とが相似的である(「閉じた社会」から「開かれた社会」へ)ことから、幕末維新期と敗戦直後の日本社会を、「開国」であったとする。その際、丸山もポパー(丸山は、ポッパーと書く)に注目し、「非歴史的ー超歴史的なもの」を見つめることになる。

 ポパーの『開かれた社会とその敵』は、「全体主義と思想的に対決する」ために書かれたものだ。木村直恵は、「全体主義を前にしたときの存在拘束性ー歴史主義的立場の脆弱さと、それにたいする非歴史主義的立場の強靭さ」を指摘するが、全体主義に対決する際、歴史主義的立場は脆くも対決の場から離れていくが、非歴史主義的立場の者は強く、全体主義に負けない。それは戦時下の日本の知識人のありようでもあった。

 「過去の事象をそのまま「歴史的なもの」のうちに回収することなく、あえてそこに「非歴史的ー超歴史的なもの」を投げつけることによって、過去から「現在的な問題と意味とを自由に汲みとる」というこの狙い」が丸山の「開国」の「本質的な問題に関わっている」と、木村は記す。それが「開国」から「原型・古層・執拗低音」に至る、丸山の思考の方法であった。

 丸山は、日本思想に、「非歴史的ー超歴史的なもの」をみる。それは「「思想」にかぎりますが、日本の多少とも体系的な思想や教義は内容的に言うと古来から外来思想である、けれども、それが日本に入ってくると一定の変容を受ける。それもかなり大幅な「修正」が行われる」であり、「まさに変化するその変化の仕方というか、変化のパターン自身に何度も繰り返される音型がある」(「原型・古層・執拗低音」、『日本文化のかくれた形』、岩波現代文庫)、その「音型」を「原型」、「古層」、「執拗低音」というのである。まさに日本思想の根底に、「非歴史的ー超歴史的なもの」を発見するのである。

 そのような「非歴史的ー超歴史的なもの」としての「古層」には批判がある。

 たとえば末木文美士『日本宗教史』の巻頭には、次のような批判が並ぶ。わたしの視点も、末木と近い。

・・・・「歴史意識の古層」(『忠誠と反逆』所収)という論文の中で、丸山は記紀神話の冒頭の叙述から「なる つぎ いきほひ」という三つの範疇を取り出し、それが執拗な持続低音として、「日本の歴史叙述なり、歴史的出来事へのアプローチの仕方なりの基底に、ひそかに、もしくは声高に響き続けてきた」とする。そこには戦後、近代的、合理的な思考を日本の中に根付かせ、再び戦前に戻る前と努力してきた丸山が、その試みに挫折し、伝統的思考の根強さにお手上げとなってしまった状況が反映されているようだ。

 丸山はその「古層」の頑固さの背景に、「われわれ「くに」が領域・民族・言語・水稲生産様式およびそれと結びついた聚落と祭儀の携帯などの点で、世界の「文明国」の中で比較すれば全く例外的と言えるほどの等質性を、遅くも後期古墳時代から千数百年にわたって引き続き保持してきた、というあの重い歴史的現実が横たわっている」と指摘する。丸山の古層論は今日あまり評判がよくない。確かに「例外的と言えるほどの等質性」が歴史的に保持されてきたという前提は、今日すでに崩れている。そうとすれば、いわば有史以来変わらない発想法というのはあまりに非現実的であり、そのまま認められないことは明らかである。不変の発想様式を前提とすることは、形而上学的な決定論に陥ることになる。

 ・・・・・我々の現在を制約するような「古層」は、それ自体が歴史的に形成されてきたと考えるのが最も適当ではあるまいか。

 ・・・歴史を貫く一貫した古層を認めず、それを歴史的に形成されたものと考える。

 ・・・歴史を通じて、まったく変わらないものを認めようとすれば、こじつけとなりフィクションとならざるをえない。

 丸山は、「ぼくの精神史は、方法的にはマルクス主義との格闘の歴史だし、対象的には天皇制の精神構造との格闘の歴史だった」(座談「戦争と同時代」)と語っているが、「格闘」の結果が「原型・古層・執拗低音」の発見であったということ、それをどう考えたら良いのだろうか。

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