浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

寂聴さんの本

2022-03-31 08:12:57 | 読書

 『ユリイカ』を読んでいるが、寂聴さんが寂聴さんだけに、寂聴さんを論ずるに、全力投球していることが文章から匂い立ってくる。

 寂聴さんは誰とでも話し、ほめて伸ばす人だという。そうだろうと思う。晴美さんの頃、静岡の大杉栄らの墓前祭に来静されたとき、運転手を務めた私とも気さくに話していただいた。そのときの会話の一部は今も覚えている。にこやかに、クリアでエネルギッシュな話し方をされていた。

 私は、『比叡』を読んだとき、これぞ文学だと思ったことがある。今読んでもそう感じるかどうかは分からないが、感動した記憶がある。

 寂聴さんの文学は、寂聴さん自身の生き方と作品を重ね合わせて批評されることが多い。私小説が多いからだ。ただ私は、伊藤野枝や管野須賀子など、評伝文学の方を好んで読んでいる。

 『ユリイカ』をはじめから読んでいて、黒田杏子さんの、寂聴さんとの俳句との関わりを記した文はよかった。寂聴さんの「御山のひとりに深き花の闇」という句が紹介されているが、その説明に感心したし、文学者としての寂聴さんの句も、卓越していると思った。

 高村峰生さんの「おしっことお風呂」は、寂聴さんの作品の中から、おしっことお風呂を記した情景を切りとり、それらがどういう意味をもたされているかを考察したもので、寂聴さんの文学を文学としてきちんと読むことを示唆するものであった。

 寂聴さんは、石牟礼道子さんが亡くなられたとき、「いいわね・・こんなにいろんな人が文学のことを褒めてくれて」と言ったそうだ。私小説作家としての寂聴さんではなく、文学者として彼女の文学を鑑賞していくことの必要性を、高村氏は記していた。

 中上紀さんの文も良かった。中上さんも寂聴さんにより作家になった人のようだ。父君は中上健次。

 その次は「栗原康」の駄文。毒にも薬にもならない、わけの分からない単語を並べただけの戯れ言であった。おそらくこの人は、寂聴さんの本は大杉や野枝のことを描いたものしか読んでいない。

 多くの人が、寂聴さんを真剣に論じているのに、まったく失礼な文である。ここまで読んで、しばし休憩。

 

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