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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

想像していたが・・・やはり ワクチン後遺症

2025-04-04 20:22:09 | コロナ

 日本でも、コロナ・ワクチンを接種したことにより、様々な、なかには重篤な副作用に遭い、苦しい日々を送っている人びとがいる。しかし、そのことは、あまり報道されない。唯一、名古屋のCBCだけが、「大石解説」として、報じている。

 その大石さんが、アメリカに取材に行き、アメリカでもワクチン後遺症に苦しむ人びとが、なんと3万6000人もいるのだという。

 日本でも苦しんでいる人がいるのだから、世界各国でも、コロナワクチン後遺症の人びとがいることは想像していた。

 その「大石解説」がこれである。

アメリカ取材緊急解説「深刻なワクチン禍」


「満洲」を訪問して

2025-04-04 16:54:22 | 近現代史

 2000年8月21日から28日まで「満洲」に行った。目的は、静岡県出身の一兵士の足跡を追うこと、もう一つは「満洲移民」に関わる現地を見てくること、であった。一人旅であった。私は歴史に関わる海外調査を何度か行っているが、いつも一人である。自由勝手に動き回るためには、一人が一番である。グループで行くと、グループ内で完結し、現地の人々との直接的な交流になかなか進まないのがふつうである。一人だと、現地の人々と交流せざるを得ない。それに、通訳はわたし専属となる。


  この旅で見聞したこと、感想などを、以下に書き綴ろうと思う。なおこの地域を「満洲」と記す。そうされていた時期の研究のために訪ねたからである。

21日
 21日10時40分、JAL781便は成田空港を離陸した。途中眼下に遼東半島を見る。「関東州」についても行ってみたいところだ。

 現地時間13時30分頃北京に到着、国内線のハルビン行き17時発を空港内で待つ。17時になりやっと機内へ。同じゲイトの先発成都行きが、乗客が来ないということで遅れたのだ。CJ-6218ハルビン行きのの離陸は17時30分、30分遅れである。

 上空から見る「満洲」は、豊穣な農地が拡がり、関東軍=日本帝国主義が欲しがった理由がわかった気がした。ハルビンへは19時到着、すぐホテルへ。空港からホテルまでは40分近くかかった。今まで南京、杭州、天津、北京などを訪れたが、自転車の数が少ないように思えた。自動車の数はやはり多い。主要道路は自動車がぎっしり。

22日
(1)ハルビンにて
 22日午前中、私と同行する通訳(黒竜江省中国国際旅行社所属)が大連から帰ってこれないからということで、ホテル周辺を散策。ホテル近くの松花江を眺め、旧ロシア人街=中央大街を歩く。歩行者天国になっており、夏休み中の子どもたちが多い。商店が並び、書店があったので入るが、日本のようには本は並んでいない。学習参考書が多かった。周辺を散策したとき、自動車も歩行者も交通規則を守っていないことに気づいた。規則を守らせるために、紅いベストを着た老人たちが交通整理をしていたが、多くは無視である。

  ホテルに戻り待っていると、ガイドが来て、担当通訳がまだ着いていないので代わりに市内を案内するという。その時、私を知っている日本人がいる、というので、その集団のバスに近づくと、「中国人戦争被害者の要求を支える会」の尾花知美さん、10月15日に開かれる国際シンポジウム「戦争と紛争の世紀の終わりにー今なぜ、真相究明なのか」の担当者=小川さんが、出てきた。初対面ではあったが、尾花さんとは中国人強制連行被害者の聞き取りの関係、小川さんとはシンポの関係でメールを交換していた。731部隊について調査に来たとのことで、世の中は狭い。そこで別れ、24日朝の再会を約す。

 昼食をとって「東北烈士紀念館」に。そこでは宣教部副主任の邢継賢女史に説明を受ける。ここは「満洲」地域における反満抗日運動「烈士」の業績が展示されているところで、澤地久枝『もう一つの満洲』(文春文庫)で知られた楊靖宇(東北抗日連軍第一軍軍長)などの戦歴が讃えられている。女性革命家の子どもに宛てた遺言が感動的であった(次号で紹介する)。そして一昨年の洪水の写真展も見る。大変な洪水であったことを知る。その後、「満洲」時代の建築物のいくつかを見る。各所に残されているのは、韓国と同様である。

(2)夜行列車に乗る
  密山へ行くためにハルビン駅にいく。旅行社の事務所が駅前にあり、ここで通訳と一緒になる。27日午前中まで一緒に行動することになる同年齢の男性、許さんである。福井県に住んだことがあるということで、道中そこでの体験をいろいろ聞いた。彼は、歴史に対する興味が特に強いわけではなくその点で不満が残った。しかしどういう手配をしてあったのか、私の調査が円滑に出来るように、行く先々で地方政府機関が協力してくれた。
  

 さてハルビン駅での出来事を記さなければならない。待合室にいると日本語が聞こえてくるのであった。高齢の女性たちを中心とした16人、最高年齢89歳の集団であった。一人は腰が曲がり、杖がないと歩けないおばあさん。若い人は日本人女性が二人、日本在住の中国人(梁新勇さん)とそのいとこの中国人男性、12人は老人で平均年齢は70代だろうということであった。私と同じ密山へまで行くというのである。ハルビンから密山までは夜行で12時間ほどかかる。たいへんな道のりである。

 私はもと「満洲移民」の人たちであろうと思い尋ねると、違うという。グループの男性の一人が戦時中佳木斯(チャムス)の部隊で軍医をしていたということで、その地を訪ねるという。梁新勇さんが日本留学時、福岡在住のその医者にお世話になったので、恩返しということで中国を旅行して回っていて、これで三回目。その医者が中国旅行をしているということを聞きつけ、次々と参加してきて、今回がいちばん多いという。梁さんは、3人分くらいの荷物を背負い、待合室から階段を下り上りする際には、杖をついたおばあさんの後をゆっくりと付き添っていた。また高齢になっても、海外へ旅行しようという意欲にも感心した。この日は、731部隊の関係施設を訪問し、その医者は、こんなことがあったのか、知らなかったと驚いていたという(医者とは話す機会がなかった。列車では食後すぐに寝たとのこと)。
 

 16時02分、密山行きの夜行列車は動き出した。コンパートメントで、いろいろな人と話をした。
  動き出して間もなく通訳の許さんが、密山の小学校の校長先生を連れてきた。密山についての情報を聞いたが、中国の学校についての話が面白かったのでそれを紹介しよう。

 中国では今までの教育を反省して自由化教育に進んでいる、今までは長時間子どもを拘束して、一律に学習を強要してきたが、そうではなく個性に対応した教育、子どもたちの意欲などを生かした教育にしようとしている、というのだ。日本の動きとたいへんよく似ているので驚いた。そこで、どういう変化が現れているかを尋ねたら、少数の勉強する子とそうでない子の二極分解がでている、という。それは一人っ子政策の影響もあるが、文革の影響もある、というのは文革期に子どもであった現在の親は、きちんとした教育を受けていないので、子どもたちに何も教えられない、だから自由主義的教育はさらにその格差を広げてしまう、教育はたいへん難しい状況にある、とのこと。現象面では日本とよく似ている。教員には本当に優秀な人はなりたがらないから人材確保がたいへんだ、ともいう。教育はいつの時代も、どこでも難問なのである。

 食後、前述のグループの梁さん、山田知恵子さん(福井県敦賀市在住)たちと話した。山田さんは既に中国各地を訪れていて、延吉などにも行き北朝鮮との国境もみてきたという。また女学校時代に「満洲」へ行く義勇軍の少年たちを見送りした時の光景が忘れられないという。戦争世代には、そこに行っていなくてもそれぞれ「満洲」の思い出がある。

 その後、私は眠られず夜中まで読書。私のコンパートメントのみ、なぜか、私一人。数時間眠ったかどうかという頃目が覚めた。あたりは明るくなっていた。私は窓の外をずっと眺め続けた。線路の両側に植栽された並木の向こうに、豊かな田畠が広がる。この付近は「満洲移民」として静岡県民が入植したところでもある(哈達河開拓団など)。私は二度「満洲移民」について書いたことがあるが、移民からの便りのなかの「肥沃な大地」、「作物は肥料なしでも良く育つ」は、より多くの移民を参加させるための宣伝であろうと思いこんでいたが、そうではないことがわかった。豊かである。冬になると凍結してしまうのだろうが、夏は豊穣そのものである。
 昨日まで雨が降っていたということで、緑は太陽により映えていた。

23日
(1)饒河へ
 朝5時20分頃、密山に着く。駅には密山市旅游公司総経理・市旅游副局長馬樹東さんが待っていた。とりあえずホテルに行ってシャワーを浴びる。朝食をとりすぐに出発である。目指すは饒河である。饒河はロシアとの国境付近、ウスリー河沿いのハバロフスクに近いところにある。密山から車で4時間くらいと聞いていた。ここは1943年1月、富士市周辺の「満蒙開拓青少年義勇軍」(植松中隊)が清渓義勇隊開拓団として入植したところである。「ソ満国境」であるから、敗戦時は悲惨であった。

  広々とした田園地帯を走り続ける。道路の両側は白樺の並木である。舗装はされていない。道路の片側には延々と盛られた土が並んでいる。紅いジャケットを身につけた人々が、その土を道路に入れ補修している。昨日まで強い雨が降っていたからか、とにかく多くの人が道路補修に従事していた。いわば人海戦術で、道路を守るのだ。その道を時速80㌔㍍で突っ走る。警笛は多用された(中国での使用は当たり前。規則を守らないから、警笛なしには安全は保てない)。アヒルの集団まで道路を横断するのであるからたいへんだ。

 さて順調に走ってきたところ、月牙というところに「公安検査駅」があり、そこには軍の国境監視隊が常駐していて検問を行っていた。そこで足止めを食らった。日本人は通過させないというのだ。密山で通過許可証をもらってこい、というのである。そんな時間はない。そこで密山の現地ガイドは、あちこちと連絡をとり(携帯電話が普及している)、近くの虎林市のトップ(そのような説明を受けた)に来てもらい、交渉の末、通過できることとなった。通訳の許さんは、中国は法の支配ではなく、人の支配によるのだとポツリとこぼした。兵士も混乱するだろう、とも。この間待つこと1時間30分余。

 待っている間、現地のスイカや瓜を食べた。道ばたで農産物を売っているのである。人々が集まり、アヒルが餌をつつく。そこに一人の老人が座っていた。通訳の許さんに質問してもらった。その老人の戦争体験の一つは、反満抗日の7人の学生が、日本軍により池に放り込まれ、銃で撃ち殺されたのを見たというものであった。戦時下を生き抜いたすべての人々が、日本軍(兵士)の蛮行を見、記憶している。

 さてそこからは悪路となった。ほとんど原生林ではあったが、荒れ地、湿地帯、人家があるところには畠。そして時折スコールのような雨が襲う。延々と続く原生林は、虎でも出てきそうな感じである。途中何度か深い轍ができていて通過できるかどうか危ぶまれるような箇所もあった。

 それでも午後2時過ぎ、饒河に着いた。7時間ほどかかった。饒河も広々とした田園に囲まれていた。通過してきた原生林とはまったく違う世界である。到着したところは饒河県賓館、そこには県旅游局々長の韓基勝さん、局員の楊忠明さんのお二人が待っていた。

(2)饒河にて
 賓館では昼食を出された。はるばる日本人が来るというので、県長は今まで待っていたのだという。県長からは、しっかりともてなすようにと言われているという。話のなかでは、どうも日本と何らかの関係を持ちたいということのようであった。戦後ここに来た日本人は商売人が二人、もと移民の人々が二回、女性一人で来た時と集団で来たときがあった、という。女性は帰国後、本を送ってきたという。集団は懐かしい、懐かしいと言って、帰っていったという。
 

 食後、清渓開拓団の入植地へ行った。そこで老人と会わせていただいた。郭英臣、金清松のお二人である。金さんは72歳の朝鮮人である。「開拓団が住んでいたままの住居ですか」という質問に、「(開拓団が入る前から)この通りで、私たちはその前から住んでいた」と答えた。「ウスリー河畔満鮮原住民の内国移民の跡に入植す。関東軍の要請により国境地区に村創りを始め、満鮮人の家屋及び耕作地を接収して」(静岡県『静岡県送出元満洲開拓民の概要』)というのが実状であるから、そう答えるのは当然であろう。接収は満州国政府機関の命令により行われ、補償金はもらわなかったという。日本の敗戦は開拓団が突然いなくなった後に知った。いなくなった後にもとの家に戻った。接収された後、郭さん、金さんらは近くの未開拓地へ移り住んでいた。日本人との交流はほとんどなかったという。

 聞き取りを終わって、県庁舎に行った。そこでは県誌編纂室長の姚中晋さんと会い、『饒河県誌』をいただく。B5・1000頁近い本である。また自伝小説『東大山伝』もいただく。山東省出身である姚さんの家族の伝記である。今後も様々な交流をすることを話し合った。

 再び賓館に行き、夕食をとる。姚さん、横浜のパン屋さんで修業したことのある賓館総経理王玉良さんも交えての楽しい語らいであった。
 

 18時40分、密山に向けて出発。道中のことを考えると不安であった。あの原生林を通過しなければならない。途中ドライバーがダウン、疲れてもう運転できないと言う。ほかに運転できるのは私しかいないので、国際免許証を持たないまま左ハンドルの車を密山近くまで走らせた。車幅がよくわからないので対向車が来る(ほとんど来ない)と徐行しなければならない。舗装のない道を時速約80㌔㍍で走らせたが、ライトは道の両側の白樺だけを浮き上がらせ、上からは漆黒の闇がのしかかるような圧迫感を受けながらのドライブであった。ホテルに着いた時の時刻は、0時40分。6時間かかったことになる。途中の小休憩時、雲の間から見えた無数の星の乱舞は見事であった。いつか「満天の星」を見たいと思う。
 

24日
(1)平陽鎮を訪ねる
 この日は平陽鎮にいくことになっていた。密山のホテルから、広々と広がる肥沃な田園地帯を眺めながら走る。大豆、とうもろこし、ひまわり、コウリャン、そして米。水田は各所にあった。「満洲」の水田稲作は、朝鮮半島から移住してきた人々(出稼ぎや、日本の帝国主義支配を嫌って、あるいは植民地支配の結果生活を破壊された人々、そして植民地支配に抵抗する人々)が始めたという。もちろん現在は中国人も米を作っている。水田もかなり多い。

 平陽鎮も国境地帯にある。連なる山に国境線が走っている。「満洲国」はここに平陽鎮国境監視隊を置いた。そのなかに朝鮮人だけで編成された中隊があった。最初の中隊長が静岡県出身の中谷であった。中谷はそこで病死したが、その後朝鮮人部隊は3度反乱事件を起こした。1930年代半ばのことであるから、その事件そのものについての調査は現地では不可能と思い、ただその周辺の風景を見ておこうと思ったのだ。そしてできれば朝鮮人の集落を訪れようと思っていた(時間不足でできなかった)。

 平陽鎮の役所を訪ねた。そこでは平陽鎮政府・中国共産党書記の郭宝成さん、鎮長の王□□さん、それから昔のことを良く知っている王永仁さん(もと教師、72歳)が出迎えてくれた。ここでの聞き取りは割愛するが、話を聞いた後に昼食をとった。食事の際には必ずアルコールが出される。アルコールに弱い私は困惑するのだが、中国料理はビールと一緒に食べないといけないようだ。味の点からも(濃い!)そういえる。

 ここでは驚くべき事があった。中国のどこでも米を食べるが、決しておいしくはない。しかしここのはとてもおいしかった。日本の銘柄米のレベルで、米粒に輝きがあった。日本の技術を導入しているようなのだ。また蚕もだされた。さなぎのまま食べるのだ。もちろん油で炒めてある(今回の旅行では、豚の耳、アヒルの水かき、ナマズ、フナなどを食べた。私は郷には入れば郷に従えで、だされたものは基本的には食べることにしている)。

 なお会話の中で、日本の農業後継者不足に触れ、中国ではどうかと問うたら、後継者はいっぱいいる、現にロシアの農業労働力として出稼ぎにも行っている、日本にも行ける、と応答があった。日本も中国の農業労働力を導入するのだろうか。

 もっとここで調査をしたかったのだが、16時22分ハルビン行きの夜行寝台を予約してあったので、やむなく駅へ。

 この密山で風邪をひいた。移動はすべて車であり、窓を開けて走る(通訳、運転手ともタバコを吸う。私は煙に極めて敏感で、そのためにのどを痛めることがよくあり、換気のために開けるのだ)。道路は基本的に舗装されていないから、ほこりが舞い込んでくる。そのため鼻と喉をやられてしまったのだ。

(2)夜行列車のなかで
 列車に乗る。私が入るコンパートメントでは、すでに一人の老人が書き物をしていた。話を聞くと80歳だという。名前は時林さん。戦争中は何をしていたかを問うと、新四軍の兵士だったという。華中の紅軍、日本軍と戦った中国共産党の軍隊である。新四軍では輸送業務に携わっていたという。物資はどのように調達したのかと問うたら、地主から、という。なぜ新四軍に加わったのかを尋ねたら、食えなかったからだと答えた。このような問答を繰り広げながら、思った。国家は不条理なものだ、と。国家は、戦時には勝手に人々を敵味方に分ける。しかし本来民族や国籍が違おうとも、このように語らいの相手となるのである。私たち二人は、「平和はよい」と確認しあった。江蘇省如皋市出身の老人は中華人民共和国成立後の1950年に牡丹江に移り住み、そこで農民として生きてきた。この旅行は古参党員への慰安旅行で、若い人がずっと付き添っていた。老人が眠れば静かにし、老人が語りかければ応じる、という対応であった。 

 この列車でも日本人がいた。私はこんなところは日本人も行かないだろうと思っていたし、日本の旅行社もそういう認識であった。しかしハルビンー密山の行き帰りで会ったのだ。日本人はどこにでもいる。ここであったのは大鳳商事の阿部松夫さん。穀物の輸入などの業務を担当しているとのことである。「満洲」の農業について話した。

 「満洲」は豊かで、開拓して三年間は無肥料で作物は育つ、その後は有機栽培であること、日本の農業技術が導入され、日本人技術者も来ていることなどを伺った。今回の訪中は、会社の人たちに「満洲」地域の農業の実態を見せるためであったとのこと、6人のグループであった。

  その後、私は風邪気味であったため、コンパートメントで横になる。眠れなかったが、とにかく横になり、水分をひたすら補給した。

 25日午前5時頃、列車はハルビンに着いた。

25日

   まずホテルでシャワーを浴び、9時出発。1934年8月30日におこった匪賊による列車襲撃事件の現場を確定し、撮影することである。場所は、当時の新聞報道によると、ハルビンを南下し、五家(子)駅を経て双城堡駅に近いところ、線路が橋を越え、両側が線路より高くなっているところである。

 ちょうど運転手さんの出身が五家であったので、彼の親戚をまず訪問した。その家の老人が案内に立つことになった。最初案内されたのは、おそらく日本軍の鉄道守備隊が駐留したところだろうと思われる、沿線に壊れた煉瓦の建物があった。老人は「ここだ」という。しかしここは、周囲より線路が高い。ここではない。通訳も、炎天下、といっても風は初秋であった、もう引き上げたいという風情であったが、私は「ここではない。第一地形的にもあわないし、五家駅にも近すぎる。説明した地点が判明しなければ、わざわざここに来た意味はない!」と話し、双城堡に向けて更に探すことを強調した。

 中国など、外国での調査は優柔不断は禁物である。断固として要求すべきである。通訳は基本的に歴史に興味を持っているわけではない、説明したら分かってくれるだろうというような、通訳の善意に期待する方法には限界がある。目的を完遂する決意が大切である。

 線路に沿って、ぬかるんでいる農道を、ゆっくりと進む。果たして車が通ることができるのか危ぶまれるようなところを何とか進んで行くと、古い橋脚があった。現在の線路と並行している。昔使用されていた鉄道の橋脚だという。そこからしばらく行くと、周りが高台になっているところがあった。現在鉄道の両側には鉄条網が張ってあり、入れないようになっている。しかし、鉄条網の隙間をみつけて侵入し、高いところに登ると、確かに襲撃にはうってつけの所である。私はほぼここだろうと断定した。そして、列車が走る姿を写真におさめることができた。

 これで一応旅の目的は達成した。
 

 なお、ここで面白いエピソードを書いておこう。この調査の途次、五家駅にたくさんの人が集まっていた。黒竜江省視察を終えた江沢民の列車が駅を通過するので、その列車を見るために集まっているというのだ。その時は「ふーん」と思っただけだったが、私たちはその被害を受けた。駅をすぎてしばらく行ったところに線路を横断する地下道があるのだが、江沢民の列車が通過するまでは通さないと言うのだ。公安警察が見張っている。地下道周辺には、トラック、自動車はもとより、たい肥などを載せた馬車(?)などが停車させられていた。人民の生産活動がストップさせられているのだ。通訳氏は「江沢民は皇帝ではないのにおかしい」としきりに同意を求めた。私は、日本でも天皇家の移動の際に同様なことが行われていると説明した。

 私たちはここで1時間ほど待たされた。江沢民の乗る列車は美しく青色に輝き、窓を覆うレースのカーテンは真っ白であった。あの窓からは人々の生活は見えないだろうと思った。そして列車は待たされている人民を一顧だにせずに足早に走り去っていった。

26日
 この日、平房に行った。言うまでもなく関東軍731部隊である。731部隊については説明を省くが、実際行って驚いた。731部隊は証拠を隠滅するために施設を徹底的に破壊したと聞いていたが、いくつかが残されているのである。主要部分はもちろん破壊されたようだが、本部建物、小動物地下飼養場、黄鼠飼養槽、ボイラーの煙突など、実際に見ることができた。
 

 「侵華日軍第731細菌部隊罪証陳列館」に到着すると、靖福和さんが待っていた。靖さんは、戦時中、731部隊の近くに住んでいた(メモを取らなかったので正確ではないが、部隊が設立される時に移転させられた?)。部隊が破壊された後、ペストが流行し、靖さんの家族は4人を残して(ここは間違っているかもしれない)ペストによって「殺された」という。現在は陳列館で、訪問してくる人々に、731部隊の実態を説明している。

 この日も、戦後、地域住民が部隊跡から持っていった水槽が届けられたという。そして現在、731部隊の「罪証」を後世に伝えていくべく、破壊された主要部分の跡を発掘している。

 陳列館での説明を受けた後、私たちは靖さんに連れられて、前述の残存しているところを案内していただいた。ボイラーの煙突に関わるコンクリートの建物は、本当に頑丈に造られていた。おそらく、毒ガス・細菌戦について、ずっと研究・開発・実験・実施していくつもりで建設されたのだろう。その後、地下飼養場、黄鼠飼養槽を見た。飼養槽は、まさにそのまま残されていた。残されている施設は、学校に利用されている本部建物を除いて周囲に柵があり、鍵がないと入れなくなっているが、靖さんは丁寧に私たちを案内してくれた。この731部隊関係の「遺跡」は十分見る価値がある。靖さんは、別れるとき、大勢の日本人を連れてきて下さい、と語った。この731部隊問題は、過去の日本の犯罪と言うだけではなく、「薬害エイズ」とも関わる現代的な問題でもある。また731部隊が行った細菌戦の被害者が日本国を被告として訴訟を起こしている。
 過去の犯罪ではなく、今も生きている犯罪なのである。

27日 
 午前中はホテルで帰国の整理などをして過ごした。おそらく発熱していたと思うが、風邪がなおらなかったためである。のど飴と風邪薬を購入したが、日本円で300円くらいであった。日本の薬は、高い。
 

 昼食後、14時40分の飛行機で北京へ。やっと帰る時が来た。風邪をひいてしまったので、いつもの「何でも見てやろう」という気力は、失われていた。

28日
 いよいよ帰国である。20日に家を離れているので、8日ぶりの帰宅となる。北京時刻14時50分発のJL782便に搭乗するも、しかしなかなか離陸しない。しばらく経ってアナウンスがあった。大連付近で中国空軍が演習を行っているため、1時間ほど遅くなると言うのだ。満席の乗客がじっと離陸を待つ。軍はこのようにして庶民を苦しませる。この日は河野外務大臣が訪中する日である。彼に対する示威行動なのか。

  16時頃やっと動き始める。しかし飛び立ったのはそれから20分後。成田到着は19時10分の予定であったが、とてもその時刻には着かない。結局成田へは、20時15分くらいに着いた。この時刻では、最終の新幹線には間に合わない。成田に泊まろうか、それとも鈍行(ムーンライトながら)で帰ろうか悩んだが、結局帰ることにした。指定席をとろうとしたが満席、駅員が小田原からならとれるから小田原で乗りなさいと教えられ、少し早い鈍行を利用して小田原で待っていた。しかし、だめ。中は学生でいっぱいであった。やむなくデッキで過ごす。29日午前3時40分頃浜松到着。中国軍の演習は、私の帰宅を一日遅らせた。軍隊はないほうがよい。
 長い旅は終わった。

 

【旅行を振り返って】
 旅の目的は、歴史に関する調査であった。その目的はいちおう達成した(ただし、平陽鎮ではもう一日欲しかった)。ここではそれ以外の感想を記す。
 まずタバコである。中国では、タバコを吸う男性が多い。日本以上に喫煙天国である。日本でも、まだまだではあるが、公共の場所での喫煙が許容されなくなってきている。しかし、中国はそのような配慮がまったくない。この点は改善して欲しいものだ。
 それからゴミ問題。中国では、ビニールなど分解しにくいゴミが散乱しているところをよく見かける。砂漠化の問題や有害な煙の排出などが問題とされるが、このゴミ問題も早くに取り組んだ方がよいと思った。列車に乗っている時、いろいろなゴミが窓から捨てられる姿を見た。おそらく線路付近はゴミだらけだろう。丹藤佳紀『中国 現代ことば事情』(岩波新書)を読んでいたら、「白色汚染」という語の説明があった。列車から発泡スチロール製品(弁当箱)が無造作に捨てられる様をそう表現したのだそうだ。「白色長廊」という言葉もあるという。なるほど、である。ちなみに同書によると、インターネットは「因特網」と書き、ハッカーは「黒客」、携帯電話が「手機」、小型化・軽量化したものは「小姐小」(若い女性のこと)・・いずれにしても外来の製品を中国語、つまり漢字で表現することは大変だ。日本はカタカナを発明してあったおかげでその苦労から免れている。
 また中国の若い女性が、茶髪で、日本で流行している厚底靴を履いているのを見て驚いた。悪しき日本の真似はやめて欲しいと思った。
 まだまだ書きたいことはあるが、紙数の関係でここで止めることとする。


「死者は語らないー「戦争の記憶」をめぐってー」

2025-04-04 10:09:34 | 近現代史

 以下は、2000年に歴史講演会で話したものを文章化したものである。

1.はじめにー戦争への眼差しー


 1945年6月21日、21歳の中央大学学生、溝口幸次郎が沖縄の海に向かって飛び立って行きました。後に遺書が残されました。「美しい祖国はおおらかなる益良夫を生み おおらかなる益良夫はけだかい魂を残して新しい世界へと飛翔し去る 我を思う我が父母はいかがあらん 強気を信じ我はゆくなり 日の本の早乙女たちを知らざりし 我は愛機と共に散るなり」とありました。これは浅羽町郷友会が編纂した『あけぼの』に載せられていたものです。これを読んだとき、私は溝口の「無念」を感じました。この遺書に、「死にたくない!!」という叫びを聞いたからです。しかし、彼は特攻隊員です。彼はとにかく死ななければならなかったのです(1944年11月、中島正少佐の言葉は「特攻の目的は戦果にあるんじゃない。死ぬことにあるんだ」でした。生出寿『一筆啓上瀬島中佐殿』徳間文庫1998,8)。


  特攻攻撃で陸海軍兵士6952人が、若い命を散らしたといわれます。

 去る3月下旬、私は有名な特攻基地知覧に行ってきました。その「特攻平和会館」の中には「英霊コーナー」があります。そこには、死を強制された陸軍特攻隊員の写真が掲げられていました。日本人だけではありません。そのなかに、少なくない数の朝鮮青年たちの写真も飾ってありました。

 1910年から植民地支配されていた朝鮮人は、「大日本帝国臣民」でした。戦時下、朝鮮人も戦時動員の渦中に放り込まれました。兵士として、軍属として、労働者として、そしてまた「従軍慰安婦」として。しかし、「帝国臣民」として動員された朝鮮の人々に、日本国民は戦後どのような対応をしてきたのでしょうか。

  現在60以上もの「戦後補償裁判」が提起されています。戦時下の日本国家が引き起こした戦争による被害に対して補償を求める、というものです。

 例えば石成基(ソク・ソンギ)さんの裁判があります。石さんは、 1921年12月生まれの78歳、韓国・慶尚南道出身、1942年7月、海軍軍属として徴用され、釜山港からマーシャル群島へ。第四海軍施設部に工員として配属され、1944年5月マーシャル群島ウォッチェ島で陣地構築に従事中、米軍戦闘機の機銃掃射を受け、負傷。 右上腕を15センチ残し切断。1991年1月28日 厚生省に障害年金請求、同年6月7日 厚生省、請求を却下、同年7月30日 請求却下に対し異議申立、92年6月23日 厚生大臣、異議申立を棄却。そこで 1992年8月13日、 東京地裁 民事2部に提訴。1994年7月15日敗訴(秋山寿延裁判長)の判決。1994年7月23日控訴しました。 

  このように在日韓国・朝鮮人の場合、いくら戦死しても、傷痍軍人であっても、補償は一切ありません。「1995年度の国家予算では、70兆円のうち1兆6369億円が、日本人の元軍人・軍属への恩給・年金として計上されました。恩給・年金・その他の戦後補償をあわせると、1952年に援護法ができてから、これまでに、すでに40兆円近いお金が、日本人の元軍人・軍属のために支払われてきました。在日韓国・朝鮮人も日本人とまったく同じように税金を払っています。それなのに、戦後補償は何も受けていません。同じ戦争犠牲者に対するこの差は何なのでしょうか。」(「在日の戦後補償を求める会 」のホームページから)

 また、特攻機のすべてではありませんが、しっかり飛べる戦闘機などは「本土決戦」のためにとっておいたと言われます。特攻機として練習機も使われました。練習機の翼は麻布です、それに銀箔をはったそうです。その麻布を織った労働者の中には、日本人の女学生もいましたが、朝鮮から東京麻糸紡績沼津工場に動員された12歳から17,8歳位の女子勤労挺身隊の少女たちがいました。彼女たちは、空襲におびえながら麻布を織り続けました。戦争が終わったあと帰還しましたが、未だにその間の賃金は支払われていません(日本人には払われたのに)。その賃金を支払って欲しいと元女子挺身隊が提起した裁判の判決が、1月27日、静岡地裁で出されましたが、敗訴でした。

 1945年に終わった戦争は、「大東亜戦争」と言われました。「大東亜共栄圏」を目指す、という名目で行われました。その言説を、当時の日本人の多くは信じていました。

 当時の浅羽地域の青年たちは、青年団の雑誌にこう書きました、安間ふみは「米英の圧迫によるアジア10億の民を救う大東亜建設」を、と書き、廣岡三浦は「亜細亜諸民族の膏血を搾取し来たったアングロサクソンの白人鬼を今こそアジアの天地より一掃すべきときが来た」と書きました。

 しかし、そういう日本こそが朝鮮、台湾に対する植民地支配を強化していました。強制連行、創氏改名、日本語強要などなど。また日本は、帝国主義諸国家に苦しめられていた中国民衆を救うどころか、残虐な侵略戦争をおこなっていました。

 「大東亜共栄圏」は「嘘」でした。百歩譲ってそういう面があったという方もいるかも知れません。では、日本国家のために「闘った」もと軍属、もと女子挺身隊に対する「無視」「放置」は、いったい何なのでしょうか。

 私は、今こそ、1945年に終わった戦争をきちんと総括し、謝罪すべきは謝罪し、補償すべきは補償するべきだと思います。今まで、それが出来ないで来たのは、日本人の戦争に対する眼差しが、極めて一面的なものであったからだと思うのです(アジアへの眼差しがない!!)。

2.拭えない「戦争の記憶」

 戦争は哀しいと、戦争体験を綴ったもの、何を読んでもそう感じます。戦死した遺族が記したものを紹介しましょう。浅羽町史の通史編に書いたものです。

  二人の息子を戦場に送った豊住の岡本ことじは、こう謳った。「二葉の若葉/散りに し母の/思いぞ 誰れぞ知る」、「戦い終えて/三十有余年/遺骨帰らず/子供等の魂 は/今いづこに」と。岡本太郎は自宅で戦病死、二二歳。関東軍兵士だった憲成は、ソ ビエト連邦抑留中に戦病死した。諸井の久保田忠夫は、終戦後他の父親は復員している のに、なぜ自分の父は帰ってこないのだろうと訝しく思っている時に「戦死公報」が届 けられた。一九五四年四月二十八日の葬式の際、謝辞のなかの「もう自分には父親がい ない」を泣けて読めなかったという思い出を持つ。父親は「満州」牡丹江で戦死、三二 歳。

  諸井の富田幸男は、弟勝朗の思い出を記す。勝朗は「出征」する際、何も言わず女性 の写真を残していった。戦後、一人の女性から「無事帰還の節は結婚を堅く約束した者 です。勝朗さんから連絡がこないのです。」という書簡が届けられた。既に葬儀をすま している旨の返事を出すと、後日その女性の来訪を受けた。位牌に額ずいて合掌する姿 に、弟が残していった写真を見せると、「私です」。富田は「弟の胸中察し、彼女の心 情を思い、感無量、戦争の非情さが身にしむ」と書く。勝朗はビルマ・マンダレーで戦 傷死した。二四歳だった。

  河原一男(浅羽)の弟操はサイパン島で戦死した。四三年十一月頃、「俺の死ぬ日は 何時になるだろう」と尋ねられた。それに返事ができなかった一男はそのことばを忘れ ず、あどけない弟の写真を見ながら毎朝合掌するという。そして「心の中では未だ戦争 は終わっていない」と思う(「あの一言が忘れられない」、『文芸浅羽』第十号所収)。

  豊住の大石幾久朗(二○歳)は沖縄で戦死した。その母は「私は神々様に、手足一本 くらい無くとも帰って来ますようにとお祈りしていました。祈った甲斐もなく、ついに 帰らぬ人となってしまいました。(中略)三十年過ぎた今でも、元気いっぱいで家を出 ていったあの子の姿は、私の目の前に浮かんで来ます」と書く。大石の遺書には「父母 様、長生きしてください」とあった。

 そのあとに、私はこう書きました。
 「遺された人々は、悲しみを背負いながら戦後の混乱期を生きていかなければならなかった。戦争により強いられた別れ、それは今も人々の胸に痛切な思い出として残っている。そのような体験から生み出された平和への希求の念は強い。しかし忘れてはならないのは、日本軍が進んでいったアジア太平洋各地でも、このような強いられた別れが無数につくりだされたことである。そしてその別れは、今も償われてはいないのである。」

 日本人は戦争で310万人が死んだと言います。しかしアジア各地では2000万人以上が命を落としたと言われます。日本人以上にたくさんの別れがあったのです。その「別れ」を、日本人はどれほど見つめてきたのでしょうか。

  最近私は中国に3回行きました。南京などで何人かの中国人から話を聞きました。そこで語られる被害体験は極めて生々しく、あたかも事件が起こったその「時」が佇(たたず)んでいるようでした。中国、韓国、シンガポールなど、どこで聞いても、アジア地域の戦争被害者の記憶は、極めて詳細で鮮明、具体的です。

※講演では、証言をビデオで再生。

  ヴァミク・ヴォルカンは『誇りと憎悪-民族紛争の心理学』(毎日新聞社、1999)でこう記しています。

 「人々は過去の出来事と現在のそれを知的には区別しても、時間の崩壊の影響のもとでは両者を感情的に一体化する」、「心的外傷後ストレス性障害(PTSD)では、内在化された心的外傷が圧倒的な物理的危険性の消滅後もずっと被害者の心の中に残りつづける。被害者は白昼夢や夜の夢の中で心的外傷を再体験し、記憶喪失にかかり、あるいは危険の観念に極端に過敏になるかまったく無関心になることがある。」

  私たち日本人は、PTSDに苦しんでいるこのようなアジアの人たちに思いを馳せてきたのでしょうか。日本人の「戦争の記憶」だけではなく、無視されてきた、アジア各地の人々の「戦争の記憶」に耳を傾ける必要がある、と思わざるを得ません。

3.「戦争死」を考える

 さてここで日本兵の戦争死について考えてみたいと思います。私たちは、戦争を記す際にはいつ、どこで死んだのかの統計をとります。その統計の作成は、むつかしくはありません。しかしどのように死んだのかは、ほとんどわかりません。

 以前、澤地久枝の『滄海(うみ)よ眠れ』(毎日新聞社、文春文庫)を読んだことがあります。1942年6月のミッドウエイ海戦における日米の死者を訪ね歩き、その生と死を書き綴ったものです。大変感動的なものですが、そのなかに、アメリカの遺族はどのように死んだのかを調べるため、今なお戦闘の生存者を訪ね歩いているとありました。日本の場合はどうなのでしょう。国家から戦死の知らせが来た後、遺族は兵士がどのように生き、そして死んだのかを尋ねることをしたのでしょうか。おそらくしていないのではないかと思うのです。

 そのような指摘を読んだ後、私は、日本兵がどのように死んだのか、戦死の諸相をいろいろ調べてみました。結論的に言えば、日本兵は無駄死にがすごく多かったということがわかりました。まず、アジア太平洋戦争で死んだ兵士の7割は栄養失調などの餓死でした。そしてそのほとんどが下級兵士でした。ガダルカナル戦、ニューギニア戦、インパール作戦など。その背景には、日本軍の兵站軽視があります。食糧がなくても「大和魂」がある、というのです。また作戦自体もきわめてずさんなものでした。日本軍兵士は、日本軍に殺されたと言ってもいいくらいです。

 戦死のなかには、勿論銃弾に当たって死んだ兵士もいます。また激しい砲爆撃の中で死んだ者もいます。日本陸軍の仮想敵国はソ連でしたから、陸軍は大陸において行われるであろう対ソ戦の研究・訓練は行っていましたが、太平洋地域での対英米戦については全くしていなかったのです。何と太平洋地域での対米戦の教育が考え始められたのは、1943年後半のことでした。このことからも、いかに無謀な戦いであったかがわかります。

  また戦死の中には、海没が多いのです。日本軍は海上護衛を軽視しました。米軍は、日本軍が兵員など海上輸送に依存せざるをえないことを予想し、各所に潜水艦を配置していました。台湾・フィリピン間のバシー海峡では、多くの兵士が海中に沈んでいきました。静岡県の兵士も海没が多いのです。例えば県西部の歩兵も召集された豊橋18聯隊は、マリアナへ派遣される途中で雷撃を受け2000人以上が死にました。その後静岡118聯隊が急遽マリアナへ送られましたが、この部隊も雷撃により2000名以上が海没、生き延びた兵士がサイパンへ上陸するとすぐに米軍の攻撃が始まり、そこで「玉砕」しました。フィリピンへ送られた独立歩兵13聯隊も、バシー海峡で海没しています。        

 「玉砕」というのも、勝利の見込みが全くない中で、ただ死ぬためのみに「敵」の弾幕に突入していく、というわけですから、無駄死にではなかったのか、と思います。日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」(「戦陣訓」)というように、降伏を許しませんでした。白旗を掲げるくらいなら死ね、というわけです。     

  こうして見てくると、日本兵は死ななくても良いところで死を強制され、無駄な死を強いられたのです。だから私は、日本軍兵士の死を悼むのです。こんな無謀な戦争で死ななくてもよかったのに、と。私は、今、日本軍兵士の死を凝視することも必要なのだと思います。

4.戦争体験の継承を

  浅羽町では、浅羽町郷友会『あけぼの』という戦争体験記を作成しています。以前私が村史編纂に関わった磐田郡豊岡村でも、戦後50年を記念して『うつせみのこえ』を編集しました。いずれも、体験者が記していることは、戦争の悲惨さ、悲しみ、そしてこのような体験を子どもや孫にさせたくない、というものです。

  今の子どもたちは、戦争体験世代からはるかに隔たっています。戦争体験を聞かないままに成長してきています。平和のためには戦争体験の継承に積極的に取り組むべきだと思います。子どもたちに正確な「戦争の記憶」を残してあげるべきだと思います。

 戦争体験世代は、すでに70歳を越えているでしょう。今がその最後の機会だと思います。この中川根はそのような戦争体験集がありません。是非作成していただきたいと思います。

5.おわりに -「死者は語らない」か-

 戦争で死んでいった人々は、何も語ろうとしません。しかし、私たちは死者の声を聞かなければなりません。死者は何を語ろうとしているのか、を。

  それは、「無意味な死」を繰り返さないこと、だと思います。私は戦争で死んでいった、例えば特攻隊の溝口さんの遺書に、痛切な「生きたかった!!」という声を聞きます。また先ほど紹介した遺族が書いた文に、「生きていてほしかった!!」という声を聞きます。

 戦争を繰り返させないことが「死者の声」だと、私は思います。

  最後に 有名な詩人、萩原朔太郎が記した「戦争における政府と民衆」(『虚妄の正義』1929、『萩原朔太郎全集』第4巻、筑摩書房 p.275~6)を紹介します。

     復讐や、正義やの純な感情が、民衆を戦争に駆り立てる。丁度我々の個人間で、侮辱への決闘を意志する如く、そのやうに民衆は、彼等の敵国を人格視し、戦争を倫理化しているのである。
 一方で、戦争の主動者たる者どもー官僚や、政府や、軍閥や、資本家やーの観念は、ずっとちがったものに属している。彼等にとって、戦争は全く打算的に決行される。たとへば領土の野心から、金融上の関係から、人口移植の必要から、もしく内乱や危険思想の転換から、政府当局の都合と虚栄心から、その他のさまざまな事情による利益と損失の合算が、彼等の「戦争への意志」を決定する。そして戦争は、かく功利的打算による投機の外、彼等にまで、何の倫理的意義を有していない。正義とか?復讐とか?もとよりこの種の感傷的な言語は、ただ素朴な民衆にだけ、民衆を扇動する目的にだけ、太鼓によってやかましく宣伝される。(中略)されば戦争の終った後までも、民衆の間には、尚久しくあの愚劣な興奮ー敵愾心を指すのであるーの残火が燃え  ているのに、一方では、それの扇動者等が、丸でけろりとしてしまっている。丁度、ゲームを終った同士のやうに、彼等は互に笑顔をつくり、次の新しき打算のために、いそいそとして敵に近づき、心底からの親睦を始めるのである。それによって民衆が、いつでも馬鹿面をし、呆気にとられてしまふ。

 私たちは、この指摘を噛みしめてみる必要があるのではないでしょうか。死者が何を語りたかったのか、それがここに記されていると言えるのではないでしょうか。