『週刊金曜日』の連載、田中優子さんの「これからどうする?」、8月2日号は「選挙結果の読み方」であった。これはArc Times で古谷経衡が語ったことをもとに書いているのだが、まずその古谷の内容を記す。
多くの人が本や新聞を読まないのではなく、読み続けることができなくなっている、石丸候補の選挙戦術は、都民の多くは政策を読んでもわからないので政策については話さない、長い演説には耐えられないので15分できりあげる、理解して投票することができないので体験談で共感者を増やす、具体的な議論ができないので攻撃的な言い方をする、など。
田中さんは、これに危機感をもっている。
だが、とわたしは思う。こういう現象は、ずっと前からではないか。なぜ関西では、無内容でろくでもない人間たちが「維新」という政党から出馬して当選しているのか。選挙民は、政策なんかをもとにして投票しているのではないのだ、あるいは立候補した人物を評価したから投票したのではないのだ、表層の「流れ」に乗るだけで、それで投票行動をしている。
なぜ東京は、小池百合子が3選なのか。きちんと政策を考えていたら小池百合子なんかに投票しないだろう、しかし都民は投票して知事にしている。それも3度も!
わたしは、人びとが、それぞれの政党や候補者の政策をきちんと把握して投票行動を行っているとはとても思えない。
高齢者は新聞は読んでいる、しかしはたして政治欄を読んでいるのだろうか?テレビも見ている。わたしの周辺にいる人びと、ほとんど高齢者であるが、本を読むことなんかない。以前にも書いたが、医者に行って、長い待ち時間をどうすごしているかをみればよい、老人はテレビを見ているか、ボーとして何もしていない。若い人はスマホをみている。本は読まない。待合室に本や雑誌があっても、読む気配はない。
人びとが本を読まなくなって久しい。
都知事選を見ると、蓮舫さんは演説できちんと政策を訴えていた。正攻法の闘い方であった。小池百合子はほとんど政策を訴えずに、「公務」だという「視察」を報道機関に報じさせて、ときたま演説をする。政策についての討論会を避けつづけた。当選後に視察などの「公務」はほとんどなく、それは選挙戦術で、報道機関をうまく利用したのだ。テレビは、今や国政でも地方の政治でも、権力者を支える重要な機関として存在している。
田中さんは、「本は生きるために読む」という。その通りだ。しかし、ただ生きるためには、今や本は必要不可欠のものではないのである。
石丸であろうとなかろうと、テレビやユーチューブなどにでている「有名人」、その「有名人」がわけが分からなくても、目立っている、ただそれだけで「支持者」は湧いてくるのだ。テレビやユーチューブは、そうした「有名人」を生み出す。その「有名人」の中身なんかどうでもよい、問わない。
人びとが中身を問うことができていれば、こんなデタラメの社会なんかできるはずがない。もっともっと前から、現在のような社会ができていたのである。