若い頃、同僚からキリスト教への入信を強く勧誘されたことがあった。勧誘した方は、一家揃って熱心な信者であった。一度だけ誘われて教会に行ったことがある。今調べてみたら、その教会は「日本同盟基督教団」に属している。
何度も何度も勧誘されたが、わたしはキリスト教徒にはならなかった。わたしが今まで築いてきた認識の延長線上に神の存在はなく、もし神を信じるならば、延長線上ではなく、ある意味で深く穿たれた谷を大きく跳び越える必要があった。わたしは跳び越えることをしなかった。
キリスト教にはいろいろな派があるが、その家族は、社会とはつながることなく、自分の家族を一番大切に考えていた(それはそれで否定することではないが)。
その頃、わたしは職員住宅に住んでいた。同僚は車を持っていなかった。わたしは、こどもが病気になったからと、近くの医院ではなく、遠くの医院(同僚にとって評判がよいと思われていたところ)に連れていくことをかなり頻繁に頼まれるなど、「アシ」としてつかわれた。そのため、わたしはキリスト教徒は、「利己的」だと思った。
その後、良心的なキリスト教徒にであった。その人は、無教会派のクリスチャンであったが、人格高潔で、わたしに信徒になることを一度もすすめなかった。無教会派のクリスチャンは尊敬すべき方が多いと今でも思っている。
さて、本の内容にいこう。統一教会の幹部であった大江という人物が、みずからが属していた統一教会を「批判」するという内容だ。しかし、大江は団体から脱けたが、いまだに文鮮明を崇拝している。だから、その「批判」は、根底的な批判になってはおらず、したがって統一教会がおこなってきた犯罪的な行為に対しての反省は不十分と言わざるをえない。
さて大江は、高校時代に日本共産党系の民主青年同盟に入り、積極的な活動を行っていた。しかしあるとき、駅頭で街宣活動を行っていた統一教会員に論争を挑み、そのなかで統一教会にはいり、活動的な信者になった。高校時代にふたつの真逆な組織に入り、それぞれで熱心な活動家になったわけだが、なにゆえにそう簡単に組織の一員になれるのか、わたしには理解できない。統一教会は「キリスト教」をうたっているから、神を信じなければならない、神を信じるということにあまりに安易であったように思うし、統一教会員になるということは、文鮮明を崇拝することになるわけだから、そこに至るまでがあまりに短く、煩悶もないのが不思議である。
彼は高校卒業後、早稲田大学教育学部に入学するのだが、主体的に入学したのではない。組織の指示であった。そしていろいろな活動を行うのだが、わたしも同じ頃に早稲田のキャンパスにいて、早稲田学生新聞、早稲田大学サークル連合が統一教会系であることを知っていたし、正門前で彼らが宣伝活動を行っていたことを覚えている。 わたしは、そうした活動をしている彼らをみているが、かれらの目は、革マル派のそれとよく似ていると思った。他者を信用しない、猜疑心をもった目だと思った。革マル派は反スターリン主義を掲げてはいるが、もっともスターリン主義的な組織で、統一教会も革マル派も、己を虚しくして組織に追従する組織至上主義ではないかと思っていた。
この頃、学外でも、たとえば駅頭で、彼ら統一教会は、ウソを言って募金活動を行っていた。バングラデシュ洪水支援とかなんとか理由をつけて、募金はみずからの組織に入れるのであるが、当時の学生は統一教会が行うニセ募金だということを知っていた。またわたしは『朝日ジャーナル』を購読し、彼らの活動が「親泣かせ」であるということも知っていた。
その統一教会は「霊感商法」を行っていた。人をだまして高額な多宝塔などを売りつけていた。彼はその活動を「懺悔」するのだが、しかし明らかに詐欺的な商法であり、「霊感商法」がおこなわれていたその時に厳しく批判しているわけではない。広報部長として、それは統一教会がやっているのではないと、ウソをついていた。ここにも己を虚しくして組織を至上とする思考がみられる。
「霊感商法」が厳しく批判される中で、統一教会は信者を獲得して信者からカネを巻き上げると言う方針に転換した。彼は、それには否定的であり、すべきことではないと訴えたが無視された。「もっと徹底的に闘うべき」だったとして今「懺悔」しているが、その「懺悔」は有効ではない。
統一教会=勝共連合と自由民主党との関係が、岸信介の介在により親密であったと記している。そんなことは周知の事実である。統一教会が選挙時に自由民主党の応援を積極的に行っていたことも、である。しかし彼は今は、自由民主党に激しい批判をあびせる。近い関係にあった者が、何らかのきっかけで対立するようになると、激しい憎悪を持つようになるが、彼にとってその契機とは、安倍元首相の暗殺事件であり、その後、積極的に支援していた自由民主党とその議員が、「統一教会なんて関係ないよ」と態度を大きく変えたことに対する怒りである。自由民主党という政党に対する批判は、きわめて一面的である。
彼はまた、「憲法改正と、家庭倫理の確立」という課題を熱心に追い求めてきた。おそらく憲法改正は、共産主義勢力と戦うために必要であると考えたのであろうが、家庭倫理の確立も含め、彼個人の考えとして、なぜそれらが求められなければならないのかが記されていない。要するに、組織の考え=彼の考えであり、ここにも己を虚しくしての組織至上主義がうかがえる。
彼はいろいろ活動してきているが、統一教会という組織の歯車のその重要な部署にいたのであろうが、ふつうの庶民をどう考えているか、どう見ているかなど、ふつうの人びとを見つめる眼がない。
統一教会員として、日韓トンネル建設の中心メンバーにもなっているが、将来的にトンネルが建設されるとき、「先駆者としての栄誉を多少なりとも受けることができればと思います」と言う。ここに「栄誉を受ける」彼が想定されている。
読んでいて、まったくもって民衆(一般の人びと)が、彼の眼中にないことに驚く。彼の関心は、あまりに狭い。ロシア革命史、中国革命史、昭和軍閥の興亡などを研究したと言うが、それもすべて組織のためである。
またもうひとつ彼が見つめるのは、組織の中にある自分自身だけである。
その日本の統一教会が、韓国の統一教会本部に多額の送金をしていることも周知の事実である。彼は韓国の統一教会本部から独立すべきだという。多額の送金が、統一教会を歪めているからだと。しかしわたしからみれば、日本の統一教会は、韓国の教祖をはじめ教団の幹部たちに優雅な生活を送らせるために存在しているのだと思っている。彼がそう考えようと、独立はできないだろう。両者は一体だからだ。
静岡県袋井市に、デンマーク牧場がある。ルーテル派のキリスト教会がそこで福祉事業を行っている。デンマーク牧場は、まさに「世のため、人のため」の事業を行っている。はたして統一教会は、ひとつでも「世のため、人のため」の事業をおこなったことがあるだろうか。
統一教会のもと幹部である彼が「懺悔」をしたとしても、わたしとしては「それがいったい何?」と言うしかない。統一教会は、「霊感商法」、ニセの募金活動など無数の犯罪をおかしてきた。赤報隊事件もその一つかもしれない。彼も統一教会は、「目的のためには手段を選ばず」だったという。その目的とは、韓国に多額のカネを送金することであった。
彼がほんとうに「懺悔」するのであったなら、このあとの人生でいかに「世のため、人のため」の行動を展開するか、である。
本書が出版されると聞いて、すぐに購入した。早稲田大学時代、革マル派の暴力支配と闘った樋田さんの本ということからであるが、内容的には期待外れであった。大江という、もと統一教会幹部の真摯な批判と反省の書だと誤解したからだ。真摯さはなかった。彼には、民衆を温かくみつめる眼は微塵もなかった。
【補記】彼の娘は、3人とも大学に行かせることができたという。安倍元首相を銃撃した山上被告の家庭では、被告自身は大学進学もできず、兄は十分な治療もできなかった。多額のカネを献金したからだ。そういう人びとへの「思い」は、彼にはない。統一教会によって家庭が壊され、「家庭倫理の確立」も考えられない家庭がつくられた。「霊感商法」で苦しめられた人びとへの眼差しもない。大江という人物の、それが本質である。「懺悔」も、「批判」も、すべて自分が統一教会の教義の「あの世」にいったときのためである。
生まれて初めて、「手術」というものを体験した。
とはいえ、まったく「手術」をしてこなかったわけではなく、庭仕事をしていて指に刺さったものを、外科で摘出する手術はした。しかしそれ以上のことをしたことはなかった。
今回の「手術」とは、白内障の手術である。二日間にわたって片目ずつおこない、三日間は安静を保つようにいわれた。今日は、最後の安静日である。
手術後、視界はクリアになり、視力も上がり、今まで使用していた眼鏡はまったくあわなくなった。
以前、手術をしたU眼科医院ではないべつの医院で、白内障手術をしないとたいへんなことになると言われ驚き、セカンドオピニオンのつもりでかかったU医院の医師からは、そんなに進んでいないからまだやる必要はないですといわれ、それから半年に一回検査に通っていた。
白内障の手術をすることによってどうなったかを周りの人からきくなかで、U医院の医師に尋ねたところ、あまり年令が高くなってからよりは、早くやった方がいいですよと言われ、「手術」を決意した。
たしかに、「手術」当日来院した患者たちの中では、わたしがもっとも若かったように思う。「手術」後、三種類の目薬を一日三回さす必要があるので、認知度が低くなったらなかなかたいへんであると思う。