福永の「遠方のパトス」と「心の中を流れる河」の二作品を読んだ。
後者の作品は、中途半端のままに終わっているという気がしたのだが・・・。
牧師とその妻子、妻の妹・梢と別居する夫、医学生・鳥海太郎、その父、そして薬局の娘・百代が登場人物である。北海道の辺地が舞台である。牧師と太郎、そして梢が主要人物となる。いったいこの小説のテーマは何だろう。牧師は教会でペテロの弱さを語る、それを聴いた梢はその解釈を批判する。人間の弱さ?梢は、牧師自身の臆病さを指摘し、安全地帯でびくびくして生きている人間が、「人の魂をゆすぶることなんか出来」ない、と指弾するのだ。
「人の魂をゆすぶる」・・・久しぶりにこのことばを見た。「人の魂をゆすぶる」ように、話したり書いたりしていないなあ、と思う。
私はキリスト者ではないが、キリスト者との付き合いはある。キリスト者たちは聖書に書かれていることを理解しようと様々な解釈を試みる。私にとっては、聖書に書かれていることは物語なのだが、キリスト者にとってみれば信仰の中身そのものなのである。ここではイエスとペテロの関係を解釈しているが、梢の解釈の方が妥当性があるように思えた。
前者の登場人物は四人であるが、二人は間接的にしかでてこない。沢一馬、そして安井。実在の人間はもう一人郵便配達人がいる。一人は戦争に行って人を殺すのは嫌だと、山中湖で自殺する。しかしその自殺には女性・弥生の存在が関わる。
これも短編なので、テーマはあやふやである。しかし、この小説にパトスは感じられない。「遠方のパトス」という題だから、パトスはここにはないのだ。
愛からは一杯の水も生まれて来ない。愛することは浪費だ。自分のものを与えることだ。僕たちにはもう与えるものなんかありはしない。
戦時下を体験した世代には、パトスが生じることはないのだ。戦争が、パトスを奪い去った。そういうことなのだろう。
沢は、みずからのパトスを、通常のパトスとは異なるものを定置する。「何も求めないで、しずかに愛する」と。戦争で傷ついた者は、もうこれ以上傷つきたくないのだ。
しかし、パトスがなければ「人の魂をゆさぶる」ことはできない。