

○ 多喜浜塩田は深尾権太輔の16年間の苦闘にもかかわらず完成を見ずに終わった。
その後、天野6代が160年間で240町歩の塩田を作りあげた。
・多喜浜塩田の資金は、天野喜四郎ら6名が自ら資金を集めて建設した。
(銀117貫は5382万円に相当)
・東分は西条藩の飢饉救済事業として取組み、享保の飢饉を救った。
(銀226貫は1億396円に相当)
・西分は17ケ村56名で銀268貫。(1億2328万円に相当)
・北浜は西条藩の直営工事として5千両の1200貫。(1億2960万円)
・三喜浜は8000人による前神寺の積善講で2万両(5億5000万円)集めた。
○ 瀬戸内でも有数の塩田になった多喜浜塩田(古浜・西分・東分)では、
文政11年~天保8年の10年間の年平均の製塩量は7万6977俵であった。
それらは全国に運ばれた。 (広報抜粋)


この地に北海道から運ばれた砂を振りまきアツケシソウが芽を出した地
(”跡地”)


アツケシソウ と共に蘇鉄も塩業の反映を見届けたものです。
ひっそりと当時の面影を残しているのでしょう。
こんもりした森には小鳥や蝉がしきりに鳴いてかって繁栄した
当時のまま保存されています。
港が開発され工業団地になり移り行く時代を知っているのは
アツケシソウと蘇鉄なのでしょう。
歴史散歩しました。暑かったけど貴重なものを見ることが出来ました
http://www2.dokidoki.ne.jp/tomura/kuguyama.htm
お暇なときにご覧になってください。詳しく掲載されております。