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江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(7)

2020-04-05 08:33:22 | 趣味歴史推論

 摂津多田銀銅山の素吹では、珪石の添加操作がなされていたかを調べた。
多田銀銅山を直轄地として本格的な採掘を行った豊臣秀吉は、当山より多くの銀・銅を得たと伝えられている。江戸期の多田銀銅山は、大坂や京都などの大都市に近接する鉱山として最先端の技術が用いられていたことでも知られ、寛永年間(1624~44)頃には銀を分離する工程として南蛮吹きが取り入れられていたこと、生野銀山に製錬技術を伝えたこと、大坂へは粗銅ではなく抜銀された鍰銅を出荷していることが分かっている。寛文元年(1661)に銀を含んだ良質な鉱脈が発見されたことから、直山(幕府直轄鉱山)となった。寛文期の記録によると、当時産出された銅鉱石中に銀は3%にも達するとされている。寛文4年(1664)には、出銅高最高(453トン)を記録した。1)2)
なお、西尾銈次郎によれば、江戸期以降の「真吹き法」の基になった「山下吹き法」は、文亀永正(1501~1520)の頃、摂津国多田庄山下村において、銅屋新右衛門(あかがねやしんえもん)が開発したとの事である。3)

鉱石4)
「銀山地区の鉱石を構成する鉱物は、斑銅鉱(Cu5FeS4)、黄銅鉱(CuFeS2)、方鉛鉱(PbS)、閃亜鉛鉱((Zn,Fe)S)で、微量の錫鉱物(錫石(SnO2)、褐錫鉱(Cu8(Fe,Zn)3Sn2S12)、モースン鉱(Cu6Fe2SnS8))が銅鉱物と密接して産する。主要な銀鉱物は、自然銀(Ag)と輝銀銅鉱(CuAgS)である。このうち、自然銀は斑銅鉱に密接して産し、輝銀銅鉱は、斑銅鉱や黄銅鉱などの銅鉱物、あるいは方鉛鉱に伴う。脈石は石英(SiO2)、方解石(CaCO3)、蛍石(CaF2)である。地表付近の酸化帯では、銅鉱物は孔雀石(Cu2(CO3)(OH)2)となっている。」

 井澤英二、青木美香は、「吹屋之図」5)が多田銀銅山の技術書であることを明らかにした。6)描かれた年は、17世紀初頭の可能性があるとしている。7)この図を基にして、銀山役人の秋山良之助が安政4年(1857)以降に製錬工程を編纂したのが「摂州多田銀銅山鉑石吹立次第荒増(はくせきふきたてしだいあらまし)」8)である。
この二つの絵図から素吹、真吹の内容を調べた。銅製錬は、焙焼→素吹→真吹で行われた。

焙焼(鉑焼 焼鉱 焼竈)
・「吹屋之図」では、「一度竈に鉑石三駄(108貫)ずつ、松木並びに炭にて焼き申し候」
・「鉑石吹立次第荒増」では、「1竈に鉑石三駄(108貫)ずつ、但し1駄(36貫)につき36貫松木並びに炭にて焼方いたし候」

素吹
・「吹屋之図」では、「銀石は焼鉑目方18貫、銅焼鉑又はからみ目方36貫ばかり相交ぜ、銅鉑は焼鉑1駄半(54貫)ずつ1日に吹きたて申し候、吹き分け候品を鈹尻銅と唱え申し候」→図1
・「鉑石吹立次第荒増」では「銀鉑石は火に強き候につき、焼鉑目方18貫に銅鉑の焼鉑、又はからみと唱え候吹きかす目方36貫ばかり相交ぜ、銅鉑は焼鉑にて1駄半(54貫)ずつ、右吹床にて、1日に吹き立ていたし候。但し右鉑石を4つ5つに分け、一吹ずつ吹き立て候えば湯となり、屑は鍰に相なり、吹床の上の方へ浮き出し、銀鉑は下へ沈み申し候。右からみを取り除き、しばらく冷まし候えば、上より段々へぎ取り申し候。右へぎ取り候品を鈹と唱え、未だ全銅には相なり申さず。その底に尻銅と唱え候銅出申し候もこれあり。または出ずも御座候。下鉑は一度吹に鈹へぎ相なり難しく、2吹、3吹も重ね、鈹へぎ候むきもこれあり候」→図2

真吹
・「吹屋之図」では、「右鈹を吹き立て候えば、どぶと唱え候からむ石を取り除き真吹銅に相なり申し候」→図3
・「鉑石吹立次第荒増」では「右鈹をなおまた吹き立て候えば、どぶと唱え候石を取り除き候えば、これを真吹銅と唱え候」→図4

まとめ
1. 素吹では、珪石の添加操作はなかった。
2. 銅鉑(主に黄銅鉱)の場合は、銅焼鉑だけで素吹した。
3. 但し、自然銀や輝銀銅鉱を含んだ斑銅鉱(Cu5FeS4)の焼鉑は、熱に強く鎔化しにくいとのことで、2倍量の銅焼鉑または鍰と混ぜ合わせて素吹した。鍰を融剤として利用していた。鍰は一度熔けて生成した副産物なので、鎔化は確かにしやすくなるであろうが、銅分の少ない鍰を大量にリサイクルすると素吹床の効率は低下すると思うのであるが、銅焼鉑がない場合には致し方なかったのであろう。脈石に方解石(CaCO3)、蛍石(CaF2)があっても融剤としては、足らなかったのであろう。

注 引用文献
1.  史跡多田銀銅山遺跡保存計画第3章-1 史跡の概要のPDF p30(猪名川町多田銀銅山遺跡保存活用委員会編 兵庫県猪名川町ホームぺージ)
2.  「多田銀銅山」(猪名川町教育委員会)
 infokkkna.com>ironroad>iron12>1609tadagindouzan
3.  ホームぺージ「冶金の曙」>サイトマップ>スクラップBOX(2)>山下吹き法
  原典:西尾銈次郎「日本鉱業史要」(十一組出版部 1943)
 ホームぺージ homepage1.camvas.ne.jp>yakin>shiryou>nisio0-1
  「日本鉱業史要」西尾銈次郎(三)豊臣徳川時代
 「古来銅の製錬は酸化製錬法にのみよりしものにして、鉱石の品位高き場合においては、
鞴風を掛け木炭を添加しつつ一炉一回に適量の粗銅を仕上げることを得べしかりも、中国、四国、九州の諸銅山にありては、採掘年代古く含銅品位高き部分はすでに掘り尽くし、残れるものは品位著しく低下せしものとなり、したがって旧来の製錬法にては鈹湯の量少なく、そのままにて真吹を続行するにはしだいに不便を感ずるに至れり。ここにおいて、文亀永正(西暦一五〇一~二〇年)の頃、銅屋新右衛門摂津国多田庄山下村において製錬所を設けて、この法を改良せり。この方法たる酸化製錬法にて鍰を除きつつ素吹に達し、ここにて一旦銅鈹を剥離し、作業を中止し、この方法を反復して銅鈹を集め、適量に達したる時、これをさらに炉に装入し、木炭の火力にてこれを熔融して硫黄分を駆逐し、鉄分は銅鍰(ドブ)となりて除去せられ、ついに粗銅を作るに至る。この時代において、吹大工一人指子一人にて一炉につき鈹六七十貫を処理したり。この方法を称して「山下吹き法」と言えり。これより貧鉱再び有利に稼行せらるゝこととなれり。」
4. 井澤英二「多田銀銅山地区で採取されてスラグの分析調査」 猪名川町文化財調査報告書5 「多田銀銅山遺跡(銀山地区)詳細調査報告書 第3節 p190(猪名川町教育委員会 2014.3)
5. 九州大学学術情報リポジトリ>工学部所蔵鉱山・製錬関係史料)>吹屋之図 →図1,3
6. 井澤英二 青木美香「多田銀銅山の最高・選鉱・製錬技術-『摂州多田銀銅山鉑石吹立次第荒増』と『吹屋之図』の考察を中心として-」 4.の報告書 第1節p171(2014.3) 
7. 井澤英二 青木美香 資源・素材学会平成27(2015)年度春季大会 [3504]
8. 「多田銀銅山鉑石吹立次第荒増」日本鉱業史料集 第9期近世編・下 p1(昭和63.1 1988)→図2,4
図1. 「吹屋之図」の「素吹の図」


図2. 「鉑石吹立次第荒増」の「素吹の図」


図3. 「吹屋之図」の「真吹の図」


図4. 「鉑石吹立次第荒増」の「真吹の図」



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