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切上り長兵衛妻子の墓と杉本助七の墓

2019-09-09 09:40:54 | 趣味歴史推論
切上り長兵衛が実在したことの根拠のひとつは、妻子の墓が存在することである。瑞応寺西墓地に泉屋(杉本)助七らの元禄大火災の犠牲者の墓に並んで建っている。これらの墓について調べ、誰がいつ祀ったのかを推理する。墓は7基あり、右から以下のとおりである。刻字のとおりに記す。
  戒名     俗名      歿年月日        梵字   蓮の台 
① 嶺月道晶   善兵衛    元禄7申戌年4月25日   キリーク  あり
香月道輝   宇右衛門
心月窓入   藤九良
教甫信士   次良太夫
道慧信士   弥五兵衛
② 釋道仙信士  河墅亦兵衛    同上         キリーク  あり
③ 有縁無縁ホ三界万㚑                   キリーク  あり
玉誉一的居士 泉屋助七     同上         キリーク  あり
⑤ 當山火滅精霊          同上         キリーク  あり
相誉妙有信女 切上長兵衛妻   同上         キリーク  なし
一誉浄圓信士 石見五良(子)

⑦ 知清童女  广新右衛門息女 元禄6酉年7月13日   キリーク  なし
(ここで良→郎、墅→野、ホ→等、㚑→霊、圓→円、广→幡広(?)の表示である)

以下のことがわかった。
1. 梵字はキリーク(阿弥陀如来)なので、浄土宗(天台宗の場合もあるうるが)である。
2. 戒名から見ると、長兵衛妻子と泉屋助七は 誉号なので、浄土宗である。
3. 戒名から見ると、河野亦兵衛は、釋号なので浄土真宗である。但し、浄土真宗では信士を付けないのが普通だが、付ける派もあるとのこと。キリークは浄土真宗では付けないが。
4. 火災で亡くなった人の墓には 蓮の台(はすのうてな)の刻がある。長兵衛妻子と幡広新右衛門息女には、蓮の台が刻まれていない。長兵衛妻子の歿年月日が火災の日と同じでも火災で亡くなったのではないのであろう。犠牲者名簿にはない。
5. 俗名 石見五郎は、長兵衛が石見国で働いていた時に出来た子か、石見出身の妻の連れ子を暗示している。1)

誉号の付いた3人の戒名を贈った寺として次の3寺が考えられる。
① 大火直後に住友から派遣された寶善寺(京都伏見とすると浄土真宗、大阪高槻とすると真言宗)2)
② 別子山村にある銅山の旦那寺(頼み寺)の円通寺(真言宗)
③ 住友の菩提寺である大阪実相寺(浄土宗)
浄土宗であり、助七が別子銅山の元締であることから泉屋本店の依頼で戒名を贈ったと推定すると実相寺の可能性が高い。泉屋は、長兵衛の貢献を考慮して、助七の墓を建てる時に長兵衛妻子の墓を一緒に建てたのではないかと筆者は推測している。
  
大阪実相寺にある助七の供養碑には、白柳秀湖によると次のように刻字されている。3)
  本立院玉誉一的居士(ほんりゅういんぎょくよいってきこじ)
瑞応寺の墓は、院号が付いていないから先に建てられたもので、実相寺の碑はその後助七の功績をさらに讃えるため、院号を贈ったと考えられる。このことからも戒名および院号は、実相寺で贈られたと推定する。実相寺が助七の菩提寺であり、過去帳に記されているのではなかろうか。

実相寺にある助七の供養碑の院号、建立年を確認したい。

注 引用文献など
1. 本ブログ「切上り長兵衛は、開坑時の別子銅山で働いていた」
「享保10年(1725)巳4月、手代の平左衛門と重助が記した山所見分の覚書に、・ 石見国邑智郡出羽(いずは)村組見分所 上記4か所は全て、石見銀山領の久喜山との境目にあり、山峰の表裏と近いまでにある。以前別子銅山にいたという庄屋長兵衛が、昔稼いでいたそうである。」と長兵衛が石見で働いていたことがわかる。
2. 平塚正俊編「別子開坑二百五十年史話」p115(住友本社 昭和16年 1941)
3. 白柳秀湖「住友物語」p115(千倉書房 昭和6年 1931))
4. 助七について、2のp119には以下のように記されている。
・「助七の碑前の花立には、杉本助七の出身に就いて次の如く刻まれている。[江州甲賀郡東海道土山驛杉本平兵衛次男也慶安年中雇役純友氏]以下略」
・当時助七遭難の悲報が(三代当主)友信君をしていかに深く哀傷せしめたかは、君が田向重右衛門へ送った書翰の一節に、「此方子の様に存候助七をさへ死なせ候へば」云々とあるによって推せられる。
写真
 墓左から 切上り長兵衛妻子、當山火滅精霊、泉屋助七



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