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切上り長兵衛妻子と播磨新右衛門息女の死因

2019-09-21 13:59:32 | 趣味歴史推論

前報で、切上り長兵衛妻子と播磨新右衛門息女は非業の死を遂げたと推定したが、さらに推理する。(2019-10-03 幡広→播磨に訂正しました)

1. 新右衛門息女の死んだ元禄6年はどんな年であったか。

①  別子銅山公用帳や年々諸用留には元禄6年の記載はほとんど何もない。

②    銅の生産高は、元禄4年に開坑し、元禄5年358トン、元禄6年491トン、元禄7年554トン(江戸時代の最高値は元禄11年の1521トン)と順調に伸ばしている。1

③    近世別子災害年表では、元禄4,5,6年には何の記録もない。(開坑後に最初に記録されたのが元禄7年の大火災である)2

④    元禄5年に休山中だった立川銅山を新居郡金子村の真鍋彌一右衛門が請けて稼業を始めた。

新右衛門は、若い頃泉屋手代として別子銅山で働いていたであろう。その30歳頃に、10歳頃の娘が誘拐され殺されたのではないか。泉屋のやり方に不満を抱いた者らが、泉屋の手代の娘を標的にして犯行に及んだのではないか。

2. 娘が殺されて1年も経たずに、長兵衛妻子が殺されたようだ。藤田敏雄によると、長兵衛妻の霊および子の霊は、林霊能師に憑依して、自分が何者かに殺されたと語っている。林霊能師の能力は非常に高く信じられると、自分の体験した例などを挙げて記している。3

妻:「戒名を言って妻の霊を呼び出し、般若心経を唱えると、妻と名乗る霊は、霊能者に乗り移りました。そして、しくしくと泣き出しました。早速に次の質問をして話合いました。「あなたは別子の大火で焼け死んだのですか」と質問すると「私は火事なんかでは死んではない。殺されたのです。何者かに、後から谷の中に突き落とされたのです」と霊能者は泣きながら答えました。」3

石見五郎:「次に戒名を言って子供の石見五郎を呼び出しました。「あなたは別子の大火で死んだのですか」と質問すると、霊能者は泣きながら言うには、「私は火事でなんか死んだのではありません。火事のあった日に、或る人は、私の家に来い、美味しい御馳走を食べさせてやるから、と言って私を連れていきました。そして、その御馳走を食べると、体が痺れて息が詰まって、死んでしまいました」と言いました。 注 この件について 後日、もう一回調べました結果、河豚の肝を食べさせられたのです。」3

どちらの霊も殺した者の正体については、何も言っていない。

 ふたつの墓が建てられ祀られたことの経緯を記した文がしかるべきところにあると思うが、それらが公表されることはないだろう。それでも毎年の供養はなされていくであろう。

 注 参考文献など

  1. 安国良一「別子銅山の産銅高・採鉱高について(2)」(付表8 垂裕明鑑による産銅高) 住友史料館報23号p1(平成4年6月 1992)
  2. 安国良一「近世別子災害年表」住友史料館報19号p99(平成元年6月 1989)
  3. 藤田敏雄「別子銅山の発見者と言われている謎の人物[切上り長兵衛]について(二)」新居浜史談313号p1(2001.9)

 



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