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播磨新右衛門は「予州手代覚」の銅蔵分の「はりま与兵衛」ではないか

2019-10-09 14:09:07 | 趣味歴史推論

 前々報「切上り長兵衛妻子の墓と播磨新右衛門息女の墓」では、播磨新右衛門を泉屋手代として特定できなかったことを記した。そして元禄8年(1695)の「予州手代覚」に「新右衛門」らしき名はなかったと記した。しかし前々報に添付した住友史料館の回答の中に、「銅蔵分なる役職の箇所(213p)に[はりま与兵衛]なる人物が記されております」と書かれており気になっていたが、非常に重要な示唆であることに気が付いた。


まず、住友史料館から頂いた元禄8年の「予州手代覚」の貴重な写しを添付する。1(写真1) これには、賣場、臺所、銅蔵分、上床屋、下床屋、炭方、上座、木方、乙地、天満、日用廻しの役職名と泉屋の奉公人の個人名が書かれている。2 本来ならば、やはりこの中に、播磨新右衛門がいてしかるべきであると思った。そして示唆から気が付いた。確かに、銅蔵分の2人の内の一人として「はりま与兵衛」とある。この与兵衛が後に改名して新右衛門となったのではないかと思い至った。大火災犠牲者の手代である藤九郎が茂右衛門とも記されるようにである。また、鋪庄屋 吉郎兵衛甚右衛門の例もある(2019.10.11追加)3 このように考えると、瑞応寺に手代である泉屋新右衛門の墓が存在することと播磨新右衛門息女の墓が存在することをうまく説明できる。


まとめ:墓の少女の父である播磨新右衛門は「予州手代覚」の銅蔵分の「はりま与兵衛」ではないか。


 注 文献など



  1. 「予州手代覚」住友史料館収蔵史料(近世14-4-2 覚留帳 元禄8年8月(1695))

  2. 「住友別子鉱山史(上巻)」p34(平成3.5.9 1991) 台所は勘場のことで、入目方・銀払・明手(あかり)・山廻り・賄人などの仕事。売場や銅蔵分は勘場の管理下。床屋は出来銅の改め。炭方は炭買取り。上座は鉑の買取り。木方は焼木・板・柱の買入れや焼鉑の支配。銅・飯米・諸色は弟地を経ておばこ越を通り天満浦との間を運び、天満浦を出入口(口屋)とした。

  3. 本ブログ「切上り長兵衛が露頭の存在を告知した事は友俊の指示で記録された」(2019.8.2


写真1 与州手代覚(住友史料館収蔵史料)


 



 


 



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