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播磨新右衛門のひ孫が、明和6年新居浜口屋の銀役 新右衛門か

2019-10-16 21:17:49 | 趣味歴史推論

 切上り長兵衛妻子の墓の隣にある播磨新右衛門息女の墓の播磨新右衛門は泉屋手代の銅蔵分 はりま与兵衛ではないかと推定した。すなわち播磨与兵衛新右衛門は、初代新右衛門となり、家主が世襲名として新右衛門を名乗ったと推定する。既に曽我幸弘らは、瑞応寺住友墓地にある墓「泉屋新右衛門」の子孫が明和6年の新居浜口屋の銀役「新右衛門」ではないかと指摘している。1 別子銅山公用帳七番の人名索引には、新右衛門(泉屋手代)として記されている。この人物について以下考察した。

明和6年(1769)泉屋半兵衛(銅山惣支配人)により書き出された「御銅山師下代人数並役附覚」には、新居浜口屋詰として役と8人の名前が記されている。2

元〆:彦兵衛  銀役:新右衛門、半七  帳面方:政助、文右衛門  荷物方:庄八、伊十郎  買物方:忠八

銀役とは 経理・会計の仕事であろうか。

 初代新右衛門との関係を明らかにすべく年令考をする。初代新右衛門(1663頃?生~1732死)の長男誕生を25才の頃とすると1688年となり、明和6年(1769)との間隔は(1769-1688=)81年となる。この数字からみると3代の間隔となろう。2代目(子)の誕生が1688年、3代目(孫)の誕生が、2代目の25才の時とすると(1688+25=)1713年となる。4代目(ひ孫)の誕生が、3代目の25才の時とすると(1713+25=)1738年、ひ孫は明和6年では(1769-1738=)31才となり妥当な範囲である。よって、この銀役は、4代目の新右衛門の可能性がある。

一方、「住友別子鉱山史(上巻)」には、公用帳、銅山帳、家隷籍貫から調べた明和6年の新居浜口屋の手代の履歴一覧表がある。3これによると、銀役新右衛門は、賃銀(半年)119.45匁、子飼いで、出身は大坂、年令28才、勤続年数12年、出勤年次宝暦8年、出勤年令17才である。

初代新右衛門の墓は新居浜にあるが、大坂周辺の播磨出身という可能性が高い。明和年代以降、新右衛門の名は、別子銅山公用帳や年々諸用留にはなく、当然ながら幕末期の嘉永2年(1849)の別家一覧にもない。4

 まとめ:墓の少女の父である播磨新右衛門の子孫の情報は少なく、少女の死因を探る糸口は全く見つからなかった。

 注 引用文献など

  1. =別子銅山=住友墓地(佛國山瑞應寺)御霊供養・墓標調査(報告書第二報)p5調査者:曽我幸弘 入江義博 小田久美子 谷口淑子(平成20年(2008)2月吉日)
  2. 別子銅山公用帳七番p102(思文閣 平成18年 2006)
  3. 「新居浜口屋の手代一覧」 住友別子鉱山史(上巻)p125 表2-17(平成3.5.9 1991)
  4. 今井典子「幕末期住友の経営危機と別家」住友修史室報 10号p42(昭和58.8 1983)

 写真1. 明和6年「御銅山師下代人数並役附覚」

 写真2. 明和6年 新居浜口屋の手代一覧



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