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濱井筒屋は加藤家の屋号であることが証明できた(2)

2019-07-09 19:18:23 | 趣味歴史推論
前報に続き、切上り長兵衛を追善供養した濱井筒屋が加藤家の屋号であることを証明したい。

1. 前報の加藤登氏が建立した加藤家墓誌には、慈眼寺の過去帳では見つからなかった四人の仏様(加藤信賢、加藤忠、加藤貞正信勝、加藤幾右衛門娘てん)があった。見落としも考えられるので、慈眼寺のご住職の厚意で再度調査した。
その結果三人はいなかったが、戒名、没年月日が墓誌と一致し、濱加藤貞正ヿと書かれた仏様が見つかった。濱井筒屋の頭字は付いておらず、外れた理由もわかった。
過去帳では、以下のようにあった。
 文化9年(1812)2月14日 井筒屋貞正妻
 文政4年(1821)9月26日 濱加藤貞正ヿ
つまり、先に亡くなった妻には井筒屋がついており、後に亡くなった夫には加藤がついていた。このことから、井筒屋は加藤家の屋号であると証明された。
ただ、夫(主人)に井筒屋がつかず、墓誌には名が貞正信勝と信勝がついている理由はわからない。

2. 戦後、西原の墓地からの移設先の一つである真光寺墓地の墓を調査した。その結果は以下のとおりである。
 昭和32年10月に加藤敏雄氏が建立した「加藤家累代之墓」の区画に、井筒屋年表の34番の仏様の墓があった。→写真参照
戒名、俗名、没年月日が一致したので間違いはない。すなわち、
 ハマ東井筒屋松藏妻リキ    明治2己巳年4月4日 ----慈眼寺過去帳
 同(加藤松造)室りき年52   明治2己4月4日 ----真光寺墓地の墓
夫の名は、過去帳では松藏であり墓では松造であり異なるが、発音はどちらも「まつぞう」なので同一人物である。
このことから、加藤敏雄家の屋号が、井筒屋であると証明された。

ただ井筒屋年表の(18、21、34)番以外の仏様の墓は見つからなかった。
それらの墓は、戦後西原墓地から土ケ谷墓地あるいは真光寺墓地に移設される時に処分されてしまったのであろうか。

写真. 真光寺墓地のお墓



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