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別子荒銅1丸の荷姿は?

2020-01-16 21:59:54 | 趣味歴史推論

宝暦6年(1756)井筒屋忠七船が別子銅山の荒銅を大坂に運んでいる時、兵庫沖で大風雨に遭い難船し、打荷した事故があった。その記録の中に、「荒銅220丸のうち、140丸ほどに浮綱を付けて荷打ちした」という記述があった。筆者は、「丸」という単位と「1丸の荷姿」を知るべく調べたので、覚のために記しておく。

1. 丸(まる)

・別子銅山の1丸:享保期はすべて1丸=109斤375(65.6kg)であるが、文化期以降は普通1丸=105斤(63kg)1

・三光銅山の1丸:100斤(60kg)2

・日向銅山の1丸:80斤(48kg)3

泉屋の取引でも、銅山が違えば、1丸の重量は違うということになる。

その他の商品も調べた結果を筆者の理解でまとめると、以下のようになる。

「単位の「丸(まる)」は、取引で商品を馬や船で輸送する場合に荷造りすべきひとかたまりを表している。ひとかたまり(1丸)の重量は、商品や取引で異なる。基本的には、人が担げる100斤余り(16貫~17貫、60~65kg)が上限で、荒銅は100斤前後、かさ高い紅花や和紙は50斤程度(30kg)であった。」45

単位の「駄」は、馬一頭に背負わす荷物の重量からできた単位で36貫(135kg)であった。荒銅の1駄は2丸、紅花の1駄は4丸であった。」

多くの商品輸送の荷ひとかたまりが、100斤(60kg、16貫)であることを改めて認識した。米1俵が代表的。御用棹銅は、100斤入(60kg、約200本)の木箱で、出島から船積みされた。6

 2. 荷姿

積荷は、御用銅220丸(内訳 屑銅2丸 床銅8丸 平銅210丸)であり、95%が平銅(真吹銅)であった。海底から回収された銅は、元のままの荷姿のものと、ばらになった銅があり、それと共に、「銅を包んでいた菰 3丸分」と「銅の上包の縄 計3丸分」があった。7

このことから、別子銅1丸の荷姿は、合計105斤(63kg)になるように平銅等の6~7枚を重ね、縄で十文字に縛り、それを菰で包み込んで、周りを縄で縛ったものと推定する。

この縄に浮綱を付けて打荷し、浮綱をたどって海底から引き揚げたと推定する。

また、銅1枚の重量は、ばらになった銅の記録から、大は19kgから小小1.6kgといろいろあることが分かった。

どうやって1丸の105斤(63kg)にちょうど合わせるのか、どの程度の範囲ならよいのか(例えば、 105.0~105.5斤)、あるいは1荷自身は比較的緩やかで(例えば103~107斤)で、合計の重量で取引されるので、合計重量=n荷×105=105n斤になっていればよいのかなど分からない点がある。

そこで、別子銅山の平銅(真吹銅)の形状、厚さ、重さ、性状などの記録を文献で探したが、残念ながら見つけられなかった。見つかったのは、絵図と簡単な記録であり、それに基づいて推測する。

(1) 別子での荒銅改め

別子銅山図八曲一双屏風には、山役人立会のもと荒銅の量目を計っている様子が描かれている。8表面が皺になった直径約40cm(筆者の推定)の円盤状銅板を3枚重ねて縄で十文字状に縛ったものを天秤で秤量している。中持(女)がそのまま背負える単位(約30kg)にしているのであろうか。

フランス人技師コワニエの明治6年(1873)の観察記録によれば、平銅の厚みはせいぜい1cmとある。9よって銅盤1枚の重量は、8.96×0.785×(40)2×1.0=11.25kg。3枚なら約34kgとなる。

(2) 中持の様子

別子銅山図巻の第9図「中持図」は、銅を背負い下る中持(女)二人が描かれている。101112

中宿から口屋までは、馬で運ばれた。中宿での秤量はなかったであろうから、適当に組み合わせ1駄荷としたのであろう。

(3) 平銅の性状と重量あわせ

コワニエによれば「平銅(黒銅、真吹銅)は、10cm平方の塊に破砕される」9とあるので、比較的容易に小さく割ることができたようである。

新居浜口屋で1丸にまとめて包装する時に再度秤量して、小さく割った塊を加えることにより、規定の範囲の重量にしていたか、あるいは、合計重量=n荷×105斤となればよく、1荷自体の重量はあまりきびしく規定していなかったのか。

 

まとめ:別子荒銅1丸の荷姿を推則してみた。最後は、菰で包んでいたようである。

ただ分かったことは、平銅の形状や性状、重量などについての記録が見つからなかったことである。素吹(鉑吹)での床銅(床尻銅)、真吹での平銅を製造する工程とその性状について調べてみたい。

なお、忠七船の「船中相残有之諸道具」の中に、・帆九反 と記されていたことから、忠七船は9反帆であったので、100石船に相当するであろう。

 注 引用文献

1. 安岡良一「別子銅山の産銅高・採鉱高について(二)」住友史料館報 23号p12(平成4.6 1992.6)

「銅の個数を数える丸という単位は、享保期はすべて1丸=109斤375=17貫500目であるが、文化期以降は普通1丸=105斤=16貫800目とするほか、1丸=106斤25、107斤5 とするものもあり、その重量は一定していない。だが船の積載量は、享保期の場合普通240丸=2万6250斤、文化期以降も250丸=2万6250斤であり、銅の個数こそ違えその重量には変化がなかったと思われる。」

 2. 小葉田淳「若狭三光銅の大坂廻送と銅座売上(二)」住友修史室報9号p3、p10(昭和58.3 1983)

小浜藩の御手山三光銅山に泉屋半兵衛・同茂兵衛が見分した報告書によれば、荒銅を山元より大坂まで輸送する道筋と運賃を記している。---銅1丸または1箇は100斤、1駄は2丸である。

三光銅の廻着高 万延元年(1860)

平銅 廻着箇数  210  斤高 20,705.8斤 →98.60斤/丸

床銅 廻着箇数 1,250  斤高 123,841.1斤 →99.07斤/丸

 3. 小葉田淳「近世、日向延岡領の銅山について」住友史料館報22号p8、p23、p32(平成3.7 1991.7)

正徳3年の日向銅の廻着量は、合計935丸で、日向銅は1丸を80斤とするから、74800斤と計算される。

槙峰銅山稼行算考書に 銅津出代の項目に、950丸(銅12貫目入り箱)→出銅11200貫目とある。 故に1丸は荒銅12貫すなわち45kg=75斤になる。

猿渡銅山 享保6年度割合御用銅猿渡銅の代銀支払いに

3月16日 9573斤375(115丸)→83.25斤/丸

4月5日 5400斤(67箇、箇は丸と同じ)→80.60斤/丸

4月21日 5026斤875(60箇)→83.78斤/丸

4. ホームページ 近世日本の地域づくり200のテーマ> 衣食住文化の成熟. [99] 紅花 (べにばな)

「最上地方は「最上千駄」といわれるように、江戸時代を通じて全国の紅花生産高の約半分を占めていた。干花(紅餅)は普通紙袋に500匁(約1.875kg)入れる。売買の単位は16袋が1丸(約30kg)で、4丸(120kg、32貫)が一駄である。最上紅花は最も多い時で1400駄も出荷されたという記録がある。」

5. ホームぺージ 紙への道>紙の数え方

半紙の場合は、1帖=20枚 1束=10帖 1締=10束 1丸=6締(12000枚)

束を集めて締(しめ)ごとに包装し、1丸(まる)単位に荷造りする。

半紙1枚は約2.5g 1丸は約30kgとなる。

6. 「蘭館図」倉前図 川原慶賀 19世紀(長崎歴史文化博物館蔵)監修末岡照啓「世界とつながる別子銅山」p5(平成19.7.1 2007)→図1

輸出用の棹銅は、出島蘭館の銅蔵前で、日本とオランダ双方の立ち会いの下で計量が行われ、100斤(60kg、約200本)を木箱(800目、約3kg)に収納して船積みされた。

図には、この木箱を担いでいる3人が描かれている。

7. 住友史料叢書 「年々諸用留七番」p53~71(思文閣 平成13.12.20 2001)

井筒屋忠七船は、宝暦6年(1756)9月16日に打荷し、9月20~28日の間、兵庫津浦では掛ヶ船数十艘が探し、海底から銅や米を引き上げ回収した。→図2

船積荷は、御用銅220丸(内訳 屑銅2丸 床銅8丸 平銅210丸)、米10俵。

打荷せずに本船に残っていた銅 87丸

打荷した銅         133丸

海から回収したもの  

・もとの荷姿のまま回収された銅 112丸

・ばらになって回収された銅 ・大 6枚 30.7貫(115.13kg)→平均19.2kg/枚

              ・中 4枚 8.1貫(30.38kg)→平均7.6kg/枚

              ・中小 2枚 2.44貫(9.15kg)→平均4.6kg/枚

              ・小小 2枚 0.86貫(3.23kg)→平均1.6kg/枚

              ・銅が少し入った菰1丸分 1.36貫(5.1kg)

       合計 43.46貫(162.98kg)=2.58丸に相当(1丸=105斤 63kg)

   回収された銅 合計 112+2.58=114.5丸

・銅を包んでいた菰 3丸分

・銅の上包の縄 計3丸分

・米 8俵  

海中に埋もれて回収できなかった銅は18.5丸(=133-114.5)であった。

8. 別子銅山図八曲一双屏風 桂谷文暮(墨癡)筆 天保11年(1840)住友史料館蔵→図3

9. ブログ 冶金の曙>スクラップBOX(2)>コワニエの覚書から

フランス人技師コワニエの明治6年(1873)別子銅山の視察記録「日本鉱物資源に関する覚書」石川凖吉編著 羽田書店(1944)→国会図書館デジタルコレクション コマ67~71 p114~122

「製錬(真吹のこと)---最後に冷水をかけて湯(熔けた銅のこと)を冷却し、せいぜい1cm位の厚さの板状の黒銅(粗銅)を引き出す。---」

「製錬(間吹のこと)原料の黒銅(粗銅)の板は10cm平方位の塊に破砕される。---」

10. 住友の風土p83 (住友商事(株)広報室 昭和60.11 1985)

「別子銅山図巻の原本奥付に明治26年(1893)5月広瀬宰平氏の跋文があることから同年に書かれたものであろうと思われる」とある。→図4

11. 安岡良一「鼓銅図録の研究」p46(2015.6 住友史料館)によれば、「別子銅山図巻」の絵師は、明治・大正期の日本画家松浦巌睴である。

12. ブログ 伊予歴史探訪>松浦巌暉(がんき)

「(天保9年?~大正元年 1838?~1912)明治・大正期の日本画家。和気郡三津浜(現松山市三津)の生まれ」

図1 「蘭館図」倉前図

 

図2 「年々諸用留七番」

 

図3 別子銅山図八曲一双屏風の荒銅改め部分

 

図4 別子銅山図巻の中持図



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