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土成の長兵衛は「切上り長兵衛」ではない

2019-02-10 17:26:46 | 趣味歴史推論
荒尾弘章の調査研究報告書によれば、徳島県土成の神宮寺の過去帳(元禄~享保~寛保年間)に以下の人の記載があった。1)
① 「吉田村 義全信士 寛保三年八月十六日没 重助父 長兵衛 七十九歳」
② その妻、父、母
③ 切上り長兵衛の親友とされる「源四郎の母」及び「久右衛門の父」
④ 元禄7年の大火災の犠牲者名簿の内の阿波の人、銅丸仁右衛門、六兵衛母(大坂?)、源右衛門、権助(権介?)、与兵衛の本人または親族
⑤ 別子山で死亡した土成の人の戒名と長兵衛の戒名に同じ「義」という字がつけられている
以上のことから、別子銅山と土成出身者と深い関係があったとし、この土成の長兵衛が、切上り長兵衛であると結論した。

しかし筆者は、この結論を容認できない。土成の長兵衛は「切上り長兵衛」ではないとする筆者の根拠は以下のとおりである。
1. この長兵衛には、銅山、別子、鉱山、切上り、山留、渡り鉱夫など、職業や履歴で表される記載が何もない。
2. この長兵衛は 寛保3年8月16日歿(1743) 享年79歳である。生年は(1743-78=1665) 寛文5年となる。よって田向重右衛門に露頭の存在を知らせた元禄3年(1690)の年令は、(1690-1665=25)25歳である。全国の鉱山を渡り鉱夫として過ごしたにしては、若すぎる。
3. この長兵衛の家系はしっかりしており、調査当時にご子孫がおられ、氏名、住所が判明している。しかしご子孫から先祖の「切上り長兵衛」に関する言い伝えなどの記載が本報告書には書かれていない。ご先祖様であれば当然何等かの言い伝えなどがあるはずである。
4. この妻は寛保3年(1743)没である。これは瑞応寺にある切上り長兵衛の妻子の墓に書かれた妻の没年元禄7年(1694)と違う。戒名も違う。
5. この子は、俗名重助である。これは瑞応寺にある切上り長兵衛の妻子の墓に書かれた子の俗名石見五郎と違う。
6. 切上り長兵衛の親友の源四郎や久右衛門はよくある名前である。江戸時代の名前で、□数郎 ○右衛門 の□や○に 源や久はよく使われた。2) 銅丸仁右衛門でさえ、同じ時期、隣村同士で、二人いたことが この報告書に記されている。名前のみでその人と同定するのは難しい。

1,2はすでに正岡慶信や藤田敏雄らが指摘している。4,5に関しては、この妻、この子が、瑞応寺の墓の妻子が亡くなった後、(あるいはいつの期間でも)切上り長兵衛が、縁を持った結果の家族である可能性は非常に低いと筆者は思う。
以上のことより、土成の長兵衛とその家族は、切上り長兵衛とは全く別の一家と認めるのが妥当である。
ただ 親友や火災犠牲者などが土成の人であった可能性は、残っている。

注 文献など
1. 荒尾弘章 調査研究報告書「別子銅山の発見者「切り上がり長兵衛は土成町の出身である」」平成13.1(2001.1) (荒尾弘章:神宮寺名誉住職権大僧正)
2. 油井宏子 古文書はじめの一歩 第5章(柏書房 2008.5)