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切上り長兵衛が別子の露頭を見つけ泉屋に知らせたのは50歳前後であろう

2018-12-17 15:03:18 | 趣味歴史推論
切上り長兵衛の歿年月日は宝永5年(1708)3月29日であるが、生年月日は不明である。過去帳や位牌には享年が書かれていない。切上り長兵衛の行動で時がわかっているのは、元禄3年(1690)で、別子の露頭の存在を田向重右衛門に知らせた時である。よって、元禄3年を基準として長兵衛の年令を推算することにする。
田向重右衛門は元禄3年には、36歳であった。(生年は承応3年~歿年は享保9年(1654~1724)) 1)
では、切上り長兵衛は、その時何歳であったのか。そして生年はいつか。

推算方法:渡り鉱夫として過ごした鉱山とそこで過ごした年数から推算する。
元禄3年までに働いた鉱山は、前報「切上り長兵衛が働いた鉱山一覧」に記した12鉱山の内の以下の11鉱山である。
①津具金山 ②畑佐銅山 ③面谷鉛山 ④桜銅山 ⑤尾平蒸籠銅山 ⑥大平銅山 ⑦橋波銅山 ⑧岩屋鉛山 ⑨白石銅山 ⑩吉岡銅山 ⑪立川銅山

切上り長兵衛は、年令、技倆に応じて横番(堀子)、廻切子、山留と変わっていったであろう。若い時は、年季は短く、壮年では長くなったと思われるが、ある鉱山から次の鉱山に移る期間の平均値を見積ることにする。

江戸時代の渡り鉱夫の一つの鉱山での稼ぎ年数の情報を記した文献は探したが見つからなかった。
江戸時代には、渡り鉱夫が幕藩から容認されていた。その根拠には、徳川家康が下命したとされる鉱山法「山例五十三箇条」がある。2)3)4) しかし、これには、稼ぎの年季をきめている条文はなかった。
そこで 鉱山稼行の請負の年数で代用することにした。鉱夫がいつもその年数をフルに居たとは思えないが、次の所に移るまでの手ぶらの期間もあることであろうから、請負年数でよいとした。では鉱山の平均請負年数は何年であろうか。
中川清がまとめた吉岡銅山の寛永20年(1643)から延宝6年(1678)の請負年季は、5,5,3,8,3,3,3年であった。5)
また、伊藤玉男は以下のように記している。6)
「江戸時代における鉱山の稼行は一般には3年とか5年とかの期限をつけて幕府より許可された年季稼行であった(住友が別子銅山で永代稼行を実現したのは日本ではじめてである)。従って、鉱業を天職とする稼人たちは勢い 渡り者 となって全国を転々とした。--彼等は 渡り者 とはいえ立派な鉱山技術者だった--」

少ない根拠であるが、平均請負年数を3年とした。すなわち、切上り長兵衛が1鉱山に居た年数を3年と見積もる。
よって働いた年数=3年/1鉱山×11鉱山=33年間
渡り始めの年令を見積もる。
江戸初期に「友子(ともこ)」組織の原型ができていたと武田久義は推測している。7)8)そこで友子と似たようなことが行われていたと考え、渡り始めの年令を見積もる。
成人(15歳)になった頃に友子に取り立てられ、3年間の坑夫として修業を終了し、取立免状をもつて渡りができるようになる。
すなわち15+3=18歳から渡り鉱夫となった。
よって、元禄3年の長兵衛の年令は 18+33=51歳となる。
生年は1690-51=1639 寛永16年となる。
享年は1708-1639=69歳となる。鉱夫としては、かなり長生きである。
江戸時代の鉱夫は、職業病のヨロケ(珪肺)で亡くなる人が多く、40歳まで生きる人がまれなほど労働条件が悪かった。13,4歳で堀子として入坑すると、20代前半に発病、その殆どが30代で死亡したとある。9)
これに比べて、切上り長兵衛は、かなり長生きした。強靭な肉体、技術面、衛生面の先人の経験の学習と幸運が作用したのであろう。要領よく機転の利く技術者だったと想像する。

まとめ
切上り長兵衛の年令を大胆に見積もった。
その結果、別子の露頭の存在を知らせた時の長兵衛は50歳前後と見積もられ、田向重右衛門は36歳であった。田向重右衛門がこの知らせに対して行動を起こしたのは、長兵衛の知識技倆の高さ、各地を渡り歩いた経験の豊富さと共に、長兵衛が一まわりも年上であって説得力があったことも影響していたのではないかと筆者は思う。

注 文献など
1)曽我孝広ホームページ>別子銅山>人物伝>田向重右衛門
2)国史大辞典第六巻p627(吉川弘文館 昭和60.9 1985)
「山例五十三箇条」 徳川家康が天正16年(1588)閏5月駿州日蔭沢に於いて下命したという鉱山仕法の令条。天正元年(1573)、また慶長16年(1611)となすものもある。しかしその成立の時期はおそらく江戸時代中期以前にはさかのぼりえないと思われると小葉田淳が記している。
3)鉱山懇話会編 日本鉱業発達史 上巻<1> p28(原書房1993.7)復刻原本 昭和7年刊
4)五十三箇条の全条と研究者らの見解は、以下のホームページで見られる。
桃山学院大学学術機関リポジトリ KJ00005057337.pdf
武田久義「友子の一考察(2)」桃山学院大学経済経営論集 35(2)p41-44(1993.10)
5)中川清 鉱山札の研究「吉岡銅山札」
mineralhunters.web.fc2.com/yoshiokadozanhuda.html
6)伊藤玉男「明治の別子」p30(発行所 銅山峰ヒュッテ 昭和48.10 1973)
7)村串仁三郎「日本の鉱夫」-友子制度の歴史- p12(世界書院 1998.10)
村串仁三郎は、「友子」は、江戸時代に形成され、ギルド的な性格をもったおもに熟練採鉱夫の同職組合であるとしている。
8)4)の論文 p51-54
武田久義は、江戸時代の初期には 「友子」の原型は形成されており、原初的な共同活動が行われていたのではないかと推測している。
3年前後の坑夫見習期間を修業した手子(てこ、 てご)と呼ばれる年少の坑内運搬夫が、友子のメンバーになるための取立式という厳格な儀式を経て採鉱夫に昇格し、更にその後3年3カ月10日間、坑夫として修業し、無事終了したら、取立免状が授けられた。この免状を受けた坑夫は全国交際を許された友子となることができた。すなわち渡り鉱夫となれた。
9)tocka2 のブログ「T&T room」 鉱山について(5)-渡り歩く鉱夫と友子(2015.5.4)(6)-ヨロケ (2015.5.11)
珪肺は鉱石粉塵の常時吸入によって肺機能の低下が進行する病である。呼吸は困難となり、歩くたびに軀はヨロヨロとヨロケ、ためにヨロケと呼ばれる。鉱山の病と言えばこのヨロケ=珪肺に代表されるほど罹病率は高く、また死亡率も高かった。金掘りの多くは30歳前後で死亡し、その妻は2~3度となく再婚したという。近代になっても「坑内鉱夫を亭主に持てば、女一代に男が三人」とも言われた。(『鉱山と市民 聞き語り日立鉱山の歴史』608頁)