少し話はそれますが、作品を書いていて、もし知り合いに文芸の編集者がいたとするじゃない。
自分の知り合いじゃなくても、知り合いの知り合いがそうだった場合、読んでほしいと言う話になったりするころがあるそうだ。
その時にね。読んでくれるとなると、書き手は有頂天になってしまうわけですよ。
そして自分の作品を持参することは忘れなかったりする。もしかすると絶賛されて、自分が人気作家になるかもしれない夢をその段階で抱いてしまったりすると思うのね。
でも、編集者からすれば海のものとも山のもとともしれない者の原稿を、頼まれて…時に強引に読まされる。
その時に、せめて気を使え、と。
作品と一緒に菓子を持参するとか、酒を持参するとか、まあ、気を使えと思ってしまったりするわけだ。
編集者にしたって頼まれて自分の貴重な時間を使うんだから、使わせる方はそれくらいの気を使って当たり前だというのは、私も判るの。
でも読んでもらう側が、もう有頂天になってしまって、想像だけぶっ飛んで、作品だけを持って自分が人気作家になった姿を想像して会いに行く、その気持ちも判るの。
必ずしも、貢物をする必要はない。
でもね、そういう気を使えるか使えないか、そこって余裕がある、相手への配慮がある、そういうことなのね。
それができない人の作品は、独りよがりで、作品中でも読者に対して気を使っていないことが多い、と言う話を以前読んだのよ。
凄く判る気がするわ。
役者もね、人まで仕事として芝居をする限りは自分のしたい芝居をすればいいわけじゃない。なんで?と思うことがあっても、そうしろと演出家なり、プロデューサーが言えば答えなければならない。
したい芝居だけがしたいなら、アマでいればいいのよ。一旦プロになろうと思えば、相手の期待にこたえることをする。
できればそれを越える芝居を提示して見せる。
それが必要となってくる。
オーディションでそんなこと必要ないんですけどね。
とにかく言われたことを全力でやる、それだけですわ。
うちがそうだったのどうか知らないけど、よくミュージカルのオーディションの場合、最初に踊らせるそうです。
4時間くらい、練習を含めて踊らせる。そしてそのあと、台詞の審査が始まる、そんな話を聞いた。
体力がなければ、ここで、もう、アウトですわ。ぼろぼろ状態です。
これを、一旦殺す、というらしいです。
それでも乗り越えて更に生き生きとできるとかどうか、これも審査の1つに組み込まれているらしい、そう聞いたことがあります。
うちでよくあったのは、講師の方々が真剣なときはダンスの段階で怒号が飛ぶの。
中には劇団員がオディーション参加者の移動などの指示をするんだけど、それがうまくできてない。
見本を見せるべき劇団員がそれができないとは、どういうことだ?とひら手が飛んだりするわけだ。
でもこれが出る時って言うのは、オーディションの参加者に期待してる証拠でもある。
これが出ない時は、講師陣は、捨ててる状態と言える。
その判断の分かれ目はオーディション参加者に覇気があるかどうか、それだけだと思う。
むきにして真剣にさせるものがあるかないか、それだけだと思う。
講師陣も含め、いざ舞台に立つとなると、役者は役を通して人の気持ちを動かさないといけないわけだ。
だからオーディションでそれができないなら、観客の心が動かせる、それはできない。
役者の仕事ってそういうことなの。
でも残念ながら、つか作品を見たこともないという人たちがオーディションに参加してくることが年々増えてきた。
オーディション募集の雑誌を見ると判るけど、北区がバックについてるから助成金が出てたわけですね。
だから入学金、授業料がずば抜けて安いんだ。
それでとりあえず受けてみようか組が多くなったのね。
全盛期は、万の人間が受けたものだが、その頃はつか作品を理解して受けている者が多かっただろう。
しかし今は百人集まるかどうかで、作品すらもしらない。
せめて、どこのオーディションを受けるにしても、そこの作品がどういうものか、それを少しは考えて受けてほしいと思う。
そうでないと、オーディションを受ける側が、いざ審査会場にきたら、
「え、ここってそういう芝居をするの?」
って驚くことになるんだよ。
驚かれてもこちらも困るんだけどね。
これから何処を受けるにしても、それは最低条件だと思って、ぜひ作品を1本でも見てほしいと思う。
それが、受ける側にとっても、有意義なオーディションとなるか、無意味なオーディションとなるか、別れることになる。
自分の知り合いじゃなくても、知り合いの知り合いがそうだった場合、読んでほしいと言う話になったりするころがあるそうだ。
その時にね。読んでくれるとなると、書き手は有頂天になってしまうわけですよ。
そして自分の作品を持参することは忘れなかったりする。もしかすると絶賛されて、自分が人気作家になるかもしれない夢をその段階で抱いてしまったりすると思うのね。
でも、編集者からすれば海のものとも山のもとともしれない者の原稿を、頼まれて…時に強引に読まされる。
その時に、せめて気を使え、と。
作品と一緒に菓子を持参するとか、酒を持参するとか、まあ、気を使えと思ってしまったりするわけだ。
編集者にしたって頼まれて自分の貴重な時間を使うんだから、使わせる方はそれくらいの気を使って当たり前だというのは、私も判るの。
でも読んでもらう側が、もう有頂天になってしまって、想像だけぶっ飛んで、作品だけを持って自分が人気作家になった姿を想像して会いに行く、その気持ちも判るの。
必ずしも、貢物をする必要はない。
でもね、そういう気を使えるか使えないか、そこって余裕がある、相手への配慮がある、そういうことなのね。
それができない人の作品は、独りよがりで、作品中でも読者に対して気を使っていないことが多い、と言う話を以前読んだのよ。
凄く判る気がするわ。
役者もね、人まで仕事として芝居をする限りは自分のしたい芝居をすればいいわけじゃない。なんで?と思うことがあっても、そうしろと演出家なり、プロデューサーが言えば答えなければならない。
したい芝居だけがしたいなら、アマでいればいいのよ。一旦プロになろうと思えば、相手の期待にこたえることをする。
できればそれを越える芝居を提示して見せる。
それが必要となってくる。
オーディションでそんなこと必要ないんですけどね。
とにかく言われたことを全力でやる、それだけですわ。
うちがそうだったのどうか知らないけど、よくミュージカルのオーディションの場合、最初に踊らせるそうです。
4時間くらい、練習を含めて踊らせる。そしてそのあと、台詞の審査が始まる、そんな話を聞いた。
体力がなければ、ここで、もう、アウトですわ。ぼろぼろ状態です。
これを、一旦殺す、というらしいです。
それでも乗り越えて更に生き生きとできるとかどうか、これも審査の1つに組み込まれているらしい、そう聞いたことがあります。
うちでよくあったのは、講師の方々が真剣なときはダンスの段階で怒号が飛ぶの。
中には劇団員がオディーション参加者の移動などの指示をするんだけど、それがうまくできてない。
見本を見せるべき劇団員がそれができないとは、どういうことだ?とひら手が飛んだりするわけだ。
でもこれが出る時って言うのは、オーディションの参加者に期待してる証拠でもある。
これが出ない時は、講師陣は、捨ててる状態と言える。
その判断の分かれ目はオーディション参加者に覇気があるかどうか、それだけだと思う。
むきにして真剣にさせるものがあるかないか、それだけだと思う。
講師陣も含め、いざ舞台に立つとなると、役者は役を通して人の気持ちを動かさないといけないわけだ。
だからオーディションでそれができないなら、観客の心が動かせる、それはできない。
役者の仕事ってそういうことなの。
でも残念ながら、つか作品を見たこともないという人たちがオーディションに参加してくることが年々増えてきた。
オーディション募集の雑誌を見ると判るけど、北区がバックについてるから助成金が出てたわけですね。
だから入学金、授業料がずば抜けて安いんだ。
それでとりあえず受けてみようか組が多くなったのね。
全盛期は、万の人間が受けたものだが、その頃はつか作品を理解して受けている者が多かっただろう。
しかし今は百人集まるかどうかで、作品すらもしらない。
せめて、どこのオーディションを受けるにしても、そこの作品がどういうものか、それを少しは考えて受けてほしいと思う。
そうでないと、オーディションを受ける側が、いざ審査会場にきたら、
「え、ここってそういう芝居をするの?」
って驚くことになるんだよ。
驚かれてもこちらも困るんだけどね。
これから何処を受けるにしても、それは最低条件だと思って、ぜひ作品を1本でも見てほしいと思う。
それが、受ける側にとっても、有意義なオーディションとなるか、無意味なオーディションとなるか、別れることになる。