マリーアントワネット、断頭台露と消えるどころじゃない、フランスの死刑制度廃止まで

2018-06-05 05:00:00 | 歴史

 Pinterest(出典)

 前にも少し書いたことがありますが、フランスで死刑制度が廃止されたのは1939年のことです。

 それまでに、八つ裂きの刑や車裂きの刑や絞首刑などがあったそうですが、最終的にはギロチンのみになるですね。

 それ以外の刑は残酷すぎるという理由でした。

 ギロチン、残酷じゃないと思うんだけど…。

 ただ実際に刑に処せられる罪人が、1番苦しまない方法が、これだというのです。

 確かにギロチンだと一瞬の恐怖で終わると思いますが、それまでは恐怖に打ち震えていたでしょうね。

 フランスでは死刑執行人はパリではムッシュ・ド・パリと呼ばれていた。

 妙に格好いいように聞こえる。

 けれど最終的に1人しかいなくなってしまい、この人物の氏名なども発表されることからなかなか過酷な仕事だったようです。

 日本ではいつから知りませんが、絞首刑にする場合でも実際に手を下すことになる人物があとあと罪悪感を抱かぬようにと3人が同時にボタンを押して、どのボタンで死刑囚が立っている下の板が落ちたのか判らないようにするそうです。

 ケアが違い過ぎる。
 

 ただ1番恐ろしいなと思ったのは、マリーアントワネットはギロチンに掛けられたわけですが、彼女の場合は国民の憎悪を一身に集めての処刑だったために更に酷なことが行われた。

 普通はギロチンの首を入れる部分に顔を下向きにしていれるのですが、彼女の場合は顔をギロチンが見えるように顔を仰向けにしてセットされて、ギロチンが落ちてくるのが死の間際までまで見るようにしたというのです。

 それでもフランスの最後の女王は、凛として、それに耐えて、断頭台の露と消えていきました。

 日本も死刑制度については言われますが、正直、なくすことがいいのか、どうなのか、私は何も言えません。

 死刑をなくすということは、受刑者を税金で扱うということにもなるし、無期懲役なら40年くらい経ったら出られる機会もあるということだし…。

 何が正しいのか、簡単に言えることではありません。




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ヒトラーの妻はユダヤ系?じゃホロコーストってなんだったの?

2014-05-05 10:00:00 | 歴史
 離すと長い話になるので、かなり省略させていただく。

 ヒトラーはナチズムの基、優秀なドイツ民族が血統として優れているため、その血統を汚すとユダヤ人等を弾圧、抹殺した。

 彼は東洋では日本に対して脅威を抱いていたらしい。

 将来的に日本が大きくなると思っていたようだ。(ま、実際そうだが)

 しかし死の間際、彼は専属カメラマンのホフマンのモデル兼助手をしていた



 lifezero2ch.blog.fc2.com(出典)

 エヴァ・ブラウンと結婚する。
 
 自殺で終わった2人は40時間夫婦としての人生を生きた。


 エヴァはヒトラーにいい印象を持っていなかった。

 しかしヒトラーはエヴァの目の色が自分の母に似ているという理由から最初から好意を持っていた。


 長い間、エヴァはヒトラーを拒否していたが、いつの間にか付き合うようになる。

 しかしこの辺もエヴァとの家族とヒトラーとの間に色々な経緯があったため、家族はエヴァが交際することに大反対だったようだ。

 

 そして今年になってこのエヴァは実はユダヤ系だったという話が英国のテレビ番組でDNA鑑定されたという話がある。

 ヒトラーはこれを知っていたのか?

 知っていたとしてもおかしくないのかもしれない。

 自分の家族を診ていた医師もユダヤ人だったが、他国へ逃がしている。自分にとって恩義のあった人はユダヤ人でも優遇しているという事実があるらしい。


 しかし皮肉な話ではある。最期までついてきてくれた女が抹殺したい民族の血をついでいる。そして男はその血を滅ぼそうとしていた。

 人生って皮肉なのよね。

米国初の大統領暗殺の犠牲者、リンカーンの最期

2013-11-03 00:55:54 | 歴史
 米国はどんなテロにも屈しない。それが9.11からの方針だ。
 だが、これの困った所は、例えばゲリラやテロが出る国に行く米国人にも通じる。だから誘拐されてもFBI、家族も一切の犯人との接触を禁じられている。
 唯一交渉人が交渉にあたれると言うことになる。

 そんな大国になった米国には過去に大統領の暗殺という悲劇がある。

 有名な所ではJFKだが、噂によると今出回っている暗殺時の様子もカットが入っており、事実が報道されていないという話もある。

 そのJFKより先、暗殺されたエイブラハム・リンカーンがいる。米国で初めて暗殺された大統領でもあある。

 「奴隷解放の父」と呼ばれている彼だが、最初から奴隷に対して特別の思想を持っていたわけではなかった。
 彼の成長過程で育まれて行ったもののようだ。

 それほど、白人と黒人と言うのは米国では違う人種として固定観念が定着していたのだろう。



 この時代はもちろん1861年代だから、テレビもない。映像がない。やっと写真を撮るカメラが普及し始めたばかりの時代だ。と言っても今のように簡単に撮れたわけではなく長い時間がかかった。

 たいがいのリンカーンの写真が気難し顔をしているのは、撮影に時間がかかり過ぎたせいだと言われている。本来の彼はもっと陽気な人間だったらしい。

 リンカーンの両親は学のない買いたく農民だった。リンカーン7歳のとき、貧困と奴隷制度のせいで奴隷制度のない自由州のインディアナ州スペンサー郡へと移った。
 とにかく土地がなく獲得が困難だったとらしい。
 
 と言っても、一時はケンタッキー州に身を置き、そこで父は陪審員になり、土地を有していた時代もある。この頃は裕福な部類だったらしいが、のちに土地の権利証が偽造だったため、全ての土地を訴訟で失うことになった。

 元々父からして、厳格な道徳観を持ち、飲酒もダンスも、奴隷制度にも反対する人物だったようだ。

 リンカーンは、この頃、白人と黒人の関係性に目覚めることになる。

 

 最初から黒人も白人も一緒に過ごそうという考えはなかったらしい。

 ある時の演説では、両者は別れて暮らすべきだと言っているものもある。

 そのリンカーンが黒人解放運動に積極的に参加するようになったのは、実体験がものを言ったようだ。

 ある時親友の家に招かれ、数日滞在するが、その家では黒人を奴隷として平気で使っていた。それを体験し、徐々にこれはおかしなことだと気付き始めたらしい。

 そして奴隷解放を売って得て奴隷解放の父呼ばれ、南北戦争が起き国家分裂の危機を迎える。

 
 この戦争により、大統領任期中、多くの人に憎まれ少なくとも5回は暗殺の危機にさらされている。中には同じ党の党員が狙ったこともあったそうだ。

 のちに大統領暗殺犯になるブースが愛する南部のために立ちあがったとき、南北戦争は4年間の飢餓のため終結に向かっていた。

 最初に立てたのは誘拐計画だった。

 
 リンカーン大統領の身が危ないと思われ出した頃だ。
 リンカーンは1人で馬に乗ってホワイトハウスに通っていたが、ある日の帰り道一発の銃声が彼を狙った。帽子に穴が開いただけでこのときは済んだが、4人のボディーガードが着くようになった。 

 暗殺に成功したブースははシェークスピア俳優で正式な名前はジョン・ウィルクス・ブースだった。

 誘拐計画の段階では多くの人間が参加を予定していたが、がそれがのちに暗殺計画に変わるにつれ、パウエル、アッツアーロット、ルイス・メアリー、サラット等だけになっている。

 彼は南部を守るため、リンカーンの暗殺と国家転覆を狙った。

 しかし実際暗殺したブースも1度病院を慰問する予定の大統領を狙い、予定が急きょ変更されたため、一旦は中止している。
 そしてグローバル劇場に「アラジンと魔法のランプ」を観劇に行くと聞き、そこを暗殺の場とした。

 しかし突然予定が代わり、フォード劇場で妻、メアリー・ドッド・リンカーンや友人と「われらのアメリカのいとこ」の観劇中にボックス席に乱入したブースによって銃で撃たれた。
 このとき、護衛は4人ついていた。

 リンカーンを撃ったブースはすぐに劇場の舞台に駆け上がると
 「暴君はかくのごとし」
 というような内容を叫んだが、ほとんど聞きとることはできなかったそうだ。

 リンカーンはすぐに近くの宿屋へ運ばれるが、すでに危篤状態だった。

 リンカーンはの背が高く普通のベッドからはみ出すから斜めに寝かされた。
 彼はマルファン症候群だったため、背が高く、手足が長いと言われている。 

 劇場では1500人以上が目撃していたはずなのに、犯人については全く証言が一致しない。それほど急なことで観客が動転していたのだろう。

 ブースはそのまま逃げるか、途中落馬したのか、馬から飛び降りたのか骨折した。

 そしてリンカーンはそのまま息を引き取った。

 そして後はブースを逮捕することに全力が注がれた。
 彼は松林に隠れて、仲間が食事などを差し入れたが、彼が欲しがったのは新聞だけだったという。
 リンカーンがその後どうなったか知りたかったのだろう。

 そのあと、小屋に逃れるが、ブースの首には賞金がかかっていたため、密告により追い詰められた。
 小屋の中でコ―ベット軍曹が首を撃ったが、そのときはまだ死んでいなかった。
 ブースは「祖国のために死んだと母に伝えてくれ」と言い残し、そのあと小屋は燃えあがった。

 そして彼は農場まで逃れてそこで亡くなった。

 この時代、暗殺は重大事件だった。そして初めての犠牲者だ。その為、この記録を残すべきだとして、まだ残っていた仲間は捕らえられ、死刑宣告が告げられた。

 そして初めて死刑の様子が記録に残される。

 犯人が首をつって行く様を全てを写真でとらえた。

 このとき、初めて女性死刑囚が出た。


 大統領暗殺の史上最悪の男として名を残したブースだが、何故か、リンカーンが演説をする様子を1度だけ収めた写真にブースも一緒に写っている。

 暗殺する者とされる者が写真に残るというのもずい分奇妙な話だ。特に偵察に言ったというわけでもないようだ。


 のちにJFKが暗殺されるが、こちらもテレビカメラの前でパレードをしている最中に殺害されている。

 リンカーンもまた、当時は人が集まる劇場で俳優によって殺害されるという、いかにも派手な暗殺をされた。

 米国はやるなら…こういういかにも、という派手なやり方が好きなのだろうか?

 リンカーンの受けた傷は現代であれば十分治療可能なものだったらしい。あの時代としては手の施しようがなく、生命を落とした。

 そして永遠に神格化されことになった。


 全く関係ないが海外ドラマ「BONES」に出てくるFBIのブースはこのブースの子孫という設定を持っている。




心の中で続く闇、戦争時中の赤紙の来る人来ない人の差

2013-08-15 21:00:00 | 歴史
 そう言えば、終戦記念日でした。

 遠い遠い昔の出来事ようになっていますが、慰安婦問題、靖国神社神社参拝など、戦争にまつわるあとのごたごたはまだ片付いていない。
 あの時代を生きた人にはまだ戦争は終わっていない。

 
 戦争を知らない世代からすると、テレビで赤紙が来たと言い、名誉と言われ、万歳三唱で送りだされるドラマのシーンでしか知らない。

 でも誰も喜んでいない。死ぬかもしれない所に本人の希望なしに、赤紙の召集令状が来たというだけでいかねばならないのだ。

 ただ無事を、家族は願うしかなかった。

 基本的には20歳になると徴兵検査を受けさせられる。そして40歳までならいつでも来てもおかしくなかった。

 ここにはどうしてその人にくるのか、ずっと疑問に思っていた謎があった。

 やっぱり基準ってあるんですね。

 ある村の8年に渡る出征の記録を放送してました。

 村で病院にかかるとどういう病気をその年に患ったなど、細かい記録が取られ、甲、乙、丙(こう、おつ、へい、妙に懐かしい日本の呼び方だわ)に分けられていた。

 健康で頑丈であれば、来てしまうわけだ。

 そして、この時代特技となる物がある人も優先的に来た。

 まだ運転免許などほとんどの人が持っていなかったので、持っていると、優先される。

 ひずめ、それ以外の特技があれば、どの程度の技能があるのか、そっと調査に行って調べられた。そして優秀だと優先して送られた。

 
 なんの基準なのかその当時は判らなかったが常にそうして、調べて回っていた人がいたらしい。

 そして戦局に合わせ、出征していくのが外へ出るとまずい時期は万歳三唱もなく普段着で出陣していたそうだ。

 それは実に味気ないものだったらしい。

 だって、もう帰ってこれないかもしれないんだもの。

 ちょっと仕事行ってきますという格好で、誰にも送られず出たら、そりゃ、あとあと悲しいですね。

 そして戦局が危なくなっていくとこの徴兵の年齢も19歳~45歳に引き上げられ、学徒出陣へと移っていく。

 最後は15歳以上であれば志願兵として、親の承認のハンコがあれば、出陣できたそうだ。

 男としては名誉なことだ。行かないより行った方がいい。

 村の村長もうちは何人志願兵が出たと自慢になっていた。

 1歩間違えば死んでしまう所へ送りだすのに…。

 けれど、同時にこの頃になると、経験もない、特技もない者をただ送ってどうするという話も出てくる。ただの人の寄せ集めになってしまう。そして持たせる銃もない。


 けれどそれぞれの村に兵士係がいて、何人送りだせと言われれば、その人数を送りださなければならならなかった。

 やがて赤紙を持ってきた配達人も戦死の知らせを持ってくることが多くなることになる。そろそろ戦争の終わりの頃だ。

 本土空襲がはげしくなるとついに40歳の兵士が出征していく。

 それだけ戦局が厳しいということだ。


 そして、3,4度と赤紙をもらう人もいる。

 無事で帰っても戦争が終わらない限り安心できないのだ。何度でもやってくる。

 畑仕事をしていたらそこへ赤紙が来るんだから来る方は溜まったもんじゃないだろう。

 そしてどんどん見送る人間もいなくなり、寂しく出征していくのが当たり前になった。


 ドラマで、赤紙が来ると名誉だと大騒ぎし、女親は泣きという図式があったが、裏にはこうした綿密な調査があったわけだ。


 そして最後は17歳になれば、徴兵検査を受けず、いつでも誰でも出征のときを迎えるように陸軍は規則を変えた。


 それだけ、もう負けがこんでいたが、そうじゃないそうじゃないと新聞が煽っていたわけだ。


 帰られても亡くした戦友のことや戦地のことで長らく心を病む人もいる。

 帰れなかった人もいる。遺骨さえ、未だに戻らない人もいる。

 本人にとっても親にとっても辛いことだろう。

 あの故郷に帰りたいと思っても帰れない。
 お母さんと呼んで敵に突っ込んでいった若者たち…。


 2度と繰り返すべきじゃない。


 1部では、戦後も赤紙が来ていた。

 赤紙というと、行かねばならないと思ってもう戦争は終わったのにと泣く泣く出陣して言ったらしいが、このときは着ても、もう嫌なら嫌と言えたらしい。都会はそういうニュースがまだ知られていたが、都会を離れると知られていなくて無理やり行ったりした。

 このときの赤紙は、戦地から引き揚げてくる人を迎えに行く仕事が主だったらしい。

 生命の危険は戦時中よりずっと低かったわけだ。


 そういうことがあって、今の世の中がある。

 そう1年に1度考えることはやはり必要なのかもしれませんね。

 特に今の時代であれば…。心の中にストレスという戦争を抱えていればこそ…。

「サムの息子」という気弱でありながらアメリカを震撼させた殺人鬼

2013-05-07 19:00:00 | 歴史
 今でこそ、DNA鑑定で、犯人を割り出すことができる。これも何らかの形で(警察職員=犯人のものと混同されないため、類似する職業の人間もデータ―ベースに残っている)

 しかし、70代、まだDNAが常識でも無かった時代は、犯人の判らない事件が多くある。

 今、DNA鑑定をしてみると、実は服役している犯人が、犯していたことが判るという例もある。

 実は復数人殺したていたという殺人鬼が出てきているわけだ。

 その中で「サムの息子」という殺人鬼がいると名を聞き、それは…なんだ?と引っかかって検索してみる。

 本名はデヴィッド・リチャード・バーコウィッツという 1953年6月1日産まれで、まだ生存してる犯人だった。米国の連続殺人鬼としてはかなりの有名人らしい。

 1976年~1977年にかけて、市民を恐怖に陥れた。

 母が夫と別居中に不倫でもうけた子のようで、産まれてすぐに養子に出されている。

 問題児として扱われ、学習意欲もなく、窃盗、放火癖があり、その放火は2000件に上ると言われている。

 母の病死で養父が再婚したことから、どんどん里親とも疎遠となり、1971年にアメリカ陸軍に入隊したが、この時期はベトナム戦争に派遣されることが多かった。
 彼は、これを拒否したようで、アメリカ国内の基地、韓国米軍基地にて勤務をした。
 1974年に名誉除隊をした後も、郵便局員として勤務をしていたようだ。

 しかし、その名誉除隊のあと、彼の犯行は繰り返し行われていた。

 当初、44経口の拳銃やショットガンを使っていたことから、マスコミからは「44キラー」と呼ばれていたが、特徴のある大きな字で、マスコミ、警察に手紙を出すようになってからは、署名にあった「サムの息子」と呼ばれるようになった。

 彼の犯罪は、先に述べた、放火、銃を使っての6人の殺害、8人に重軽傷を負わせたものだ。

 しかし金品を奪うことなく、レイプすることもない。

 社会に何か不満があって行ったのだろうが、何故、それを犯したのかよく判らない。

 サムの息子というのも、憎んでいたと言われる養父から取ったわけでもない。

 近所に住んでいたラブラドール犬の鳴き声がうるさいと飼い主に無記名で警告の手紙を何通も出していたが、その飼い主の名前が、サム・カーという名前だったことから、自ら「サムの息子」と名乗っていたようだ。

 マスコミ、警察に出していた手紙もかなり支離滅裂で、精神異常者を思わせる内容だったし、それを「サムの息子」も狙っていたようだ。

 逮捕されたときも、まるでちょっとした盗みを見つかった子どものようで、それだけの罪を犯した男には見えなかったという。

 弁護側は、彼の出した支離滅裂な手紙から、精神異常による無罪を求めたが、それは芝居といという結論になり…ちゃんと仕事をこなしてますからね…懲役365年を言い渡された。

 これはNY州に死刑制度がないためである。生まれ変わっても3回は死ねるということになりそうです。
 現在も服役中です。しかも模範囚です。

 どうも気弱な人間らしく、他にも自分に意地悪をすると思っていた人にはこの手の手紙を送っていたようだ。変な人として、何度も警察には届けがでていたらしいが、無記名であること、特に手紙だけで害がないことから、ここから捜査が行われることはなかったらしい。
 
 本人が素顔で直接人々に反論をできない、そのうっ屈が、彼を犯罪へと駆り立てたのだろうか?

 ずい分極端な話だし、極端な犯人である。


 ※これを書いた当時の私にはまだシリアル・キラー(連続殺人鬼)への理解が薄く、何故、彼がこの罪を犯したのか、私には理解できるものではありませんでした。

 現時点では、生まれ持った性質、育った環境に左右され、シリアル・キラーができ上ると少し学んだくらいです。

 彼の場合も生まれた時の周囲の状態、その育ち方、それに全てが現れているようです。

 人から愛されることなく育つ、それが人との関わり方をおかしくする。彼の場合も典型的なその例のようで、直接ではなく、手紙などの間接的な手段を使っている。

 そして、何故か、人を殺害するという方向へ興味が移る。

 人との温かい交流を知らないで育ったことが原因であるのか…ここは想像の域をでない。


 現在は米国において様々な研究が進み、同じシリアル・キラーであっても分類分けがされている。


 彼がどこに入っているのかは、私は認識していませんー2015年6月26日追記

ストーカー殺人か、純愛心中か、ラストエンペラーの姪、慧生(えいせい)の最期

2013-05-02 19:00:00 | 歴史
 「私が中国と日本のかけ橋になりたい」
 まだ、日中に正式な国交がなかった頃、そう言った少女がいた。
 
 愛新覚羅慧生(あいしんかくら えいせい)という少女だった。「智慧(ちえ)深き人間に育つように」と名付けられた名だったという。
 

 彼女にまつわる話は、4,5年前、1度書いたことがある。
 しかし、今、彼女の死にまつわる話は、当時までに、見聞きしていたものと違うものになっている。
 今一度、日中関係に問題が起きている今、彼女のことに触れてみる。

 愛新覚羅(あいしんかくら、満州国読み:アイシンギョロ)は中国最後の皇帝、溥儀(ふぎ)の名字から来ている。
 そう、彼女は、溥儀の弟、溥傑(ふけつ)と日本の侯爵家嵯峨家の長女、浩(ひろ)との間に第1子としてこの世に生を受けた。
 
 すでに、新王朝は滅亡し、溥儀は日本の傀儡国家である満州国の皇帝になっていく。
 しかし、弟・溥傑は関東軍主導により、決まった政略結婚である。
 溥傑は日本の陸軍士官学校を卒業し、千葉県に住んでいた。

 当初、兄の溥儀は日本の皇女との結婚を望んでいたと言われるが、日本の皇室典範からいけば、満州国と言えど、日本の皇女との婚姻は制度上認められず、年齢的にも立場的にも弟・溥傑と釣り合う侯爵家、嵯峨家の長女、浩が候補にあがった。

 見合いの席上、溥傑は浩に一目惚れし、浩も彼に悪い感情を抱かず、話はとんとん拍子に進んだと言われるが、この時代、選ばれてしまえば、いやだという意志表示は許されるわけはなく、選ばれた者同士、仲良くやっていくしかない時代でもあった。
 せめて、本当に2人がお互いに気持ちを通わせていた存在であったと信じたい。

 溥傑と浩の結婚は千葉県稲毛で新婚生活を始め1938年(昭和13年)に慧生を身ごもった。
その同年に9月に父が、10月には母が満州国の首都新京に渡航し、慧生が誕生した。
 ここから、慧生の悲劇の人生の幕が上がる。
 1940年(昭和15年)には妹、嫮生(こせい)が誕生する。
 姉妹は皮肉にもその人生が大きく別れることになる。

 姉妹は、日本と中国のハーフだということを、気にしていたという。普段口に出すことはなかったようだが、心の中では、やはり重荷として存在していたようだ。

 誕生は満州国だった慧生だが、5歳から日本の嵯峨家で19歳の最期まで育つことになる。
 母と妹は満州国が混乱に陥ってから、帰国の道につくことになる。

 1年半の時間をかけ、帰国し母と姉妹は嵯峨家の浩の父が運営していた学校で書道教師として生計を立てた。

 伯父である溥儀と父の溥傑はソ連軍に拘束され、慧生はそのあと2度と会うことができなかった。

 慧生は中国語を勉強していて当時の中国の首相・周恩来に、兄と共に父の溥傑が撫順の労働改造所に収容されて全く連絡が取れなかったことから「父に会いたい」という趣旨の手紙を中国語で出し、感動した周恩来の許可を得、妻と姉妹と父との文通が許されることになった。
 周恩来は慧生の勇気に感嘆したとのちに述べている。

 この頃のことだろう。慧生が中国と日本の懸け橋になりたいというという話が出たのは。

 しかし事実は違う所へあったようだ。

 以前はそれが当たり前のように語られていたが、今はその話はない。

 慧生は幼時期から通っていた学習院ではなく、高等科2年の時期で大学は東大に進みたいと言っていたようだ。ここで中国哲学を勉強したいと思っていたが、親戚から、哲学を勉強すると赤になる(思想活動家)になること、その年の女子の入学は彼女1人だった頃から、反対したようだ。
 慧生はそのまま習院大学文学部国文科へ進むことになるが、ここで彼女を悲劇に導いた大久保武道と出会うことになる。
 慧生は美人であること、家柄の良さで、男子学生のあこがれの的だった。
 武道もそうして、慧生に惹かれていったのだろう。
 しかし、嵯峨家では、武骨で、青森県から出てきた青年を、まるで集金人のようだと相手にしていなかった。
 慧生と同学科にいた大久保武道の父は、軍人で、その後、鉄道会社の重役を務めていた。
 この父が、女性関係が激しく、浮気を繰り返し、外に子どもを産ませていたようだ。
 武道にすると、この父の血を引いていることから将来自分もそうなるのではないかという恐れを感じ、厭世的な人生観を持っていた。いつも死にたい、その気持ちが彼の心を支配していたらしい。

 慧生と武道は本当に交際をしていたのか?

 当初、慧生は全くその気もなく、交際を迫る武道の住む寮長に間に入って、そのつもりはないと言ってほしいといっていたという。しかし、その年の半年後、2人は、静岡県の天城山でピストルを使った心中という最期を迎えている。
 この半年の間に、慧生の心にどんな変動が起きたのだろうか。

 女性には大きくわけて2タイプいる。
 交際してほしいと求められると断れず、交際に踏み切るタイプ、自ら求め交際を求めるタイプ。慧生が前者であったなら、武道の情熱にほだされたという考え方もできる。

 武道は意外に嫉妬深く慧生が他の男子学生と話しているだけでも、なにを話していたと詰問したり、相手に決闘を売る所が合ったらしい。

 慧生は学内でも武道との交際はないと長く否定していたようだ。
 それは当時は越えることのできなかった家柄から来るものであったのか、ある時点まで本心であったのか、今は推測することしかできない。

 恋とは、いつから始まったと言えるものでもないし、彼女自身、いつからということは言えないのかもしれない。
 しかし、2人の文通は続いており、その手紙も残っている。慧生と武道の間に何らかの心の繋がりが生まれたことは確かなのだろう。
 
 父の問題で悩んでいた武道。同じく、父に会えず悲しんでいた慧生、それが重なれば、2人の間に何らかの心の絆が生まれたとしてもおかしくはない。
 
 2人は1957(昭和32年)12月4日頃に天城山に入り、武道が持っていたピストルで、心中を図った。10日に発見されたようだが、当時の新聞は「天国で結ぶ恋」とセンセーショナルな見出しで、ラストエンペラーとなった愛新覚羅の姪、慧生と日本人男子学生の死を伝えた。
 慧生は武道に腕枕をされ、こめかみを撃ち抜いて雑木林の中のサルスベリの木の下に横たわっていたと伝えられた。

 しかし真実はどうだったのか?

 『流転の王妃ま流転の王妃』(文藝春秋新社、1959年) 1992年に文庫化『流転の王妃の昭和史』(新潮文庫)のちに出された物の中に天城山心中と呼ばれるようになった部分が触れらている。しかし両書とも、家柄から来るものか真実が書かていない部分が多く、信ぴょう性に欠けるという意見もある。
 嵯峨家としての見解は武道による無理心中、今風に言えば、ストーカーだったという説を曲げていない。

 のちに大学の同級生が1961年に出した『われ御身を愛す―愛親覚羅慧生・大久保武道遺簡集』
大久保 武道 (著), 愛親覚羅 慧生 (編集) を出している。
 
 同級生としては、武道が無理心中をしたということにまとめて欲しくなかったから、その反論本として出したようだ。
 

 さて、真実はどこにあるのか。
 のちに判ってくる事実をまとめる。

 ドラマになったり、歴史を取り上げるバラエティ等で取り上げられているためか、その後、いろいろな人物が調べている。

 ここから当時は出てこなかった話が出てきている。

 12月4日頃、2人は天城山にタクシーで入ったが、車が行き気する場ではなかったため、2人を乗せた運転手が、待っていようかというのを断っている。しかし乗っている最中、女性が、しきりに男性にここまできたんだからもういいでしょうと説得していた。

 実際に遺体を見つけた人物は、慧生はサルスベリの木にもたれかかり、武道とは離れて倒れていた。とてもぱっと見た目は心中とは思えるように2人が近づいていなかったという。

 そして12月1日にも自由が丘で慧生が武道にピストルを突きつけられ、死んでほしいと言われたが、そのときは説得し、喫茶店で話をして、思いとどまらせた。隙を見て、武道の寮に電話を入れたが、その様子に気付いた武道に電話を切られた。友人にも、2,3日前に…と武道のことを話しかけて止めたという友人もいる。
 1日の慧生は熱があり、予定を変更して伏せっていた。そこへ誰からか電話があり、家に来るというを止めて家を出たという記述もある。

 かなり後になってから、身内からあれは銃の暴発だったという話も出ている。
 恐らく武道が持っていたのは軍人をしていた父のものだろう。だったら、戦時中に使われていたものだ。ろくな手入れもされず、ただ持っていたのなら、暴発をしてもかしくない。
 
 しかし、暴発して上手くこめかみに当たるだろうか?
 これも単に頭を撃ったという表記になっている所もある。
 しかし、どちらにしても普通銃の手入れをしていて暴発する場合、弾が飛びこむのは胴体になるだろう。
 短銃という話もあるが、これについてははあまり判らないが、例えばリボルバ―式(ルパン三世の次元が持っているような、弾が入っている所が回って判るものならのか、今の警察が持っている形のものなら、弾が入っていても銃の持ち手の部分になるので、入っているかどうかは判らない。
 これなら、弾は入っていないということもできる。
 弾は入っていないと言って、真似だけさせてくれということはできたかもしれない。


 この時代の短銃が、特に武道が持っていたものがどちらを差しているのかは判らない。

 それでも暴発という言葉を信じるなら、確実に小さい頭を狙うのは相手の何らかの意志をとらないと難しいような気がする。

 手紙の中に、武道の考えはおかしいと思うが、話を1,2日聞いている内に、武道さんの言うことが正しいように思うようになったと綴っている部分がある。

 しかし、それだけの時間がかかれば、女性は混乱する。悪いいい方をすれば、信じるように仕向けさせられる可能性は高い。
 どちらにしろ、天城山に向かっている最中も慧生は武道を止め、帰りのバスを気にしてたいという証言は残る。

 仮に2人が帰りのバスを逃し、夜を山で過ごすうちに慧生が再び説得され、死を選ぶ道を選んだとしても、当時はできないが、今なら科学的に引き金をどちらが引いたか判るだろう。武道が先に撃ったらなら武道の指紋が下にあることが判るだろう。そして慧生の指紋は残らない。先に撃たれた慧生の指紋が残るわけはない。
 普通の覚悟を決めた心中なら、それぞれがそれぞれを撃ちあって死ぬ。

 そうすれば、2人の指紋が順番に残るはずだ。

 最期の力があれば、2人は寄り添うこともできるだろう。
 しかし、すぐに絶命すればの話であって、見つかるまで6日間近くかかっている。その中で負った傷から出血多量で亡くなるなら苦しみ抜いて2人の身体はばらばらな位置になるだろう。

 それが発見されたときの姿として、ストーカー、無理心中を伝えられているのなら、哀れな話になってしまう。

 もだえ苦しんだ挙げ句、本当のことが伝わらなかったことになる。素人が撃ったなら、1発で綺麗に亡くなる可能性は低い。
 
 どちらにしろ、2人の選んだ死は苦しんだ挙げ句、純愛という言葉が吹き飛ぶ苦しみの中で亡くなった可能性は高い。

 だったらせめて、事実を打ち明けられる相手がいたなら…。それが2人の取る道が変わらなくても本当の気持ちはどこかにきちんと届いていただろ。



 昔、同じ学習院の教授が、学校に伝わる話としてだろうが…時期的に同時期に学習院にいた可能性もある…慧生は孤独だったんじゃないかということを言っている。

 5歳から慧生は嵯峨家で暮らしている。
 母と妹は1年半をかけて満州から帰国している。

 その後、一緒に住むようになっても、苦労を共にした母と妹の間に入りこめない絆を感じ、疎外感を感じていたとしても無理からぬ話だ。
 女3人というのは、その気がなくても付き合いが難しい。

 そこに強引な武道が入ってくれば、彼に頼る気持ちも生まれたのかもしれない。

 そして、母が慧生は中国に帰ってくれるものと思い、中国語を習わせていたが、彼女にはそのつもりはなかった。産まれたのはあちらでも、日本で育っていれば、アイディンディはこちら側にあったのかもしれない。(実際他国で産まれても、日本で過ごす時間が長いとアイディンディティは日本人だという人もいる)ただ母に事実を言って悲しませたくなかったから、言わすにいたということかもしれない。

 友人に、日本に居たいというのは、打ち明けていたが、武道のこととは関係のない慧生の意志だったようだ。
 
 その本心を家族にも語ることができず、その心の隙間に武道が入って来たなら、それが、恋となったのか、恋と似たものとなったのか。

 私は、あくまで心中する2人は純粋な関係のまま結ばれないことを悲観してするものかと思っていたが、昔から、肌を合わせても、結ばれることがないと諦めて選ぶものだという説もあるそうだ。
 この2人が結ばれていたという可能性はない。

 遺体の指にはにエンゲージリングらしい、指輪が合ったという。

 しかし、死を選ぶことではないだろう。
 時代性を反映しているとどうしようもない選択になってしまったのかもしれないが…。


 いつでも真実はのちになって、言えなかったことも言えるようになる。
 また10年も経てば驚くような事実が発表されるかもしれない。

 それまで、事実は今言われているものとなるのだろう。
 

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