あんまの新あそび日記

平凡ではない50代リーマンです
育児に奮闘しマネーの勉強を続け
家庭生活全般の事を書き綴っております

復旧作業

2011年03月13日 | Weblog
義妹宅から自宅に到着したのが、0時。
 PC近辺にある本棚やCDラックから文庫本やCDが散乱。
 内装壁に小さいながらも亀裂が3箇所。
 ベッドが3~5cmズレテイル。
 マグネット式の扉が全て開いている。
 可動式の部屋仕切りのタンスがズレ動いていた。

疲労の身体でゲンナリ。歩きすぎて足腰が痛い。
登山で鍛えてないので、随分と身体がナマった。
片付ける気力なし。
風呂入って、食事して泥の様に寝た。


しかし!
夜中に余震が多発したので、ゆっくり眠れず。

朝から自宅の復旧作業。大した事は出来ない。

街の人々にイロイロと情報をもらう。
 保育園のお迎えはどうしても迎えに行けない親が居たらしい。
 23時の時点で3名程の子供を預かっていたらしい。
 最終の迎えに来れた親は1:30だったとか。。。。
 
 浦安では液状化現象でガスが停止しているらしい。
 ガスが無いとお湯が出来ない。それが原因で風呂に入れないのは厳しい。
 
 車両の火災(ガソリンで)が多発したので、今後はEVやハイブリッドが加速するだろう。
  →町の自転車屋サン。
 更に電力供給が止まった時、自動車のバッテリーから電機の供給が出来る。
 
 イオンやららぽーとでは安全確保が出来ない為、緊急休業しているらしい。


 
こんな会話しているってのは本当に大惨事になっちまったんだなぁ。

 
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船橋への帰宅

2011年03月13日 | Weblog
アタクシは保育園にいる子供を迎えに行かねばならん。
安否がハッキリするまで気が気でない。

御徒町から秋葉方面に移動を開始したのが、15:00頃。
通常のOLにサラリーマン、メイド喫茶のネーチャン、指圧師のネーチャン、
本当にイロイロな人がビルの外に避難していた。
カミサンと無事の連絡を取りたかったけど、全く電話が通じない。
無人の自宅の中も心配だ。
JRが動いていない。地下鉄も全滅。。。結構な絶望感だ。

まぁ電車復旧に3時間位かなぁ。と考えていたので、会社の本社に行った。
一通り、皆が生きている事が確認出来たので早々と退散。

さーてやれる事が無くなった。
『歩いて自宅に近づこう!』という事で歩き出した。
やっとの事でカミサンと連絡が通じて無事を確認する。
カミサンは仕事中だったけど、そんなの関係無いから一緒に帰るぞ!
と促す。

二人で落ち合ったのが16時だったか。
馬喰町から、錦糸町方面にズンズン歩き始めた。
子供の迎えは困難であるので、何とか連絡をして近所に住む義妹にお願いした。
本当にありがたい。

徒歩は長丁場になる予感がしたので、食事の準備でコンビニで買出し。
オニギリは見事に売り切れ。驚いたのだけど、この後イロイロなコンビニを見たけど、
全てオニギリは売り切れていた。皆が非常食として殺到したのだろう。
それと渋滞で運送が間に合わない事と両方あったのだろう。

歩いていると、古い鉄筋の物件が結構、ヤバかった。
タイルが張ってある壁がボロボロと剥がれ落ちているのを何度も見たし
ガラスが割れているビルも見た。
水タンクが破損したのか?外階段から大量に水が流れているビルも見た。

時間は16時台だと言うのに、帰路に向かって歩行しているサラリーマンが多い。
会社も『今日は業務停止!』と言う所が多いらしい。
京葉道路の歩道は歩行者で一杯だ。
夏祭りの様な人口密度だ。

両国橋を越えると更に人民が増加したので、ワシ等は首都高方面にルートを変更した。
これが正解。人民達は極端に減少。楽に歩けた。

しかしまぁテクテクテクテクと歩いたけど、
所々で電車の駅の近所を通る。
300m位遠くから、ホームに人が居なかったり、
シャッターが閉まっていたり、電車の復旧に見込みが無い事を理解していく。
しょうが無いので、タクシーに乗る事を考える。
しかし大渋滞で沢山の歩行者に抜かれている現状を見ると、タクシーは使えない。

歩いている人民達と一緒に黙々と歩く。
殆どの人民は1人だけど、俺等は2人だ。
モチベーション的にかなり救われたと思う。ありがたい。

千代田区、江東区、江戸川区、市川市、船橋市
とドコまで行っても救急車の音が鳴り響いていた。

西船橋で出会ったオジサン。、
『新小岩から成田まで歩く同僚と今、別れたんだ』と言っていた。
成田って歩いていけるのかなぁ?

本当に命からがら義妹宅に到着したのが、22時。
キッチリ6時間歩いた。
後からネットで調査したら、36キロ位歩いた事になる。
こんな時に限って新しいスニーカーであった。足が豆だらけ。
更に、不動産関連の資料をギッシリと鞄に入っていた。
辛かった。。。。

子供も大丈夫であった。
義妹は子供2人。それと我が娘1人の3人を面倒見ていたのだ。
相当大変だったはず。
最大級の感謝。ありがたい。
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