涼風野外文学堂

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障害者自立支援法(5)~障碍者差別禁止「条例」の困難~

2006年10月31日 | 政治哲学・現代思想
 職場旅行に出かけていたため(そして旅行の幹事として準備と後始末にてんてこまいだったため)しばらく間が空いてしまいました。障害者自立支援法シリーズ第5弾にして最終回です。ちなみに第1回はこちら第2回はこちら第3回はこちら第4回はこちら
 今回は「障害者自立支援法」とタイトルに打っておきながら少し脇道に逸れて千葉県が最近制定した条例の話を。




 前回までの論で、「平等」や「自立」、そしてそれによって導かれる「自己決定」「自己責任」が、福祉切り捨ての口実に使われていること、そして障害者「自立支援」法は、その「自立支援」を隠れ蓑にして、財政的事情に引きずられる制度設計を行った「哲学なき制度」であることを確認してきた。
 この「魂なき新制度」の始まりに合わせるようにして、千葉県が障碍者差別を禁止する条例を制定した(関連ページ)のは、単なる偶然なのだろうか?
 この千葉県が制定した条例の正式名称は『障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例』である。この長い条例名に、既にこの条例が産み落とされるまでの困難が現れているのではないだろうか。いくらなんでも長すぎるので、本稿では以下「千葉県条例」と略す。
 千葉県の堂本暁子知事はもともと、人権問題への関心の強い人物である。国会議員時代に「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」や「男女共同参画社会基本法」の制定に尽力したことでも有名だ。その手腕・業績・思想には賛否両論あろうが、少なくとも、こうした問題に「関心を持つこと」自体は重要であるし、評価されて然るべきではないかと思う。
 しかしこれらの人権問題は、多くがデリケートな問題であって、様々な妥協や「ねじれ」を含みながら進められてきたこともまた、見落とせない。「男女共同参画」を例に取れば、この法律名に「平等」の語が入らなかった辺りが、既にひとつの限界を示している。そして、全国の自治体で多く制定されている「男女共同参画条例」が、当の千葉県では未制定(議会の多数派を占める自民党の反対に遭い未決)であることにも注目せねばなるまい。つまりこれらの取り組みは「女性登用○割、のような数値目標は機会の均等に反する」というような「ポジティブ・アクション潰し」の批判に、常にさらされていて、しかもそれに対する有効な反論を持たない。そのため「男女共同参画とは、もちろん男女の身体機能的な差異については尊重するものだし、行き過ぎたジェンダーフリーでは決してない」というような言い訳をいちいち繰り返さなければならない。
 障碍者の差別撤廃というのもまた、同様の困難に突き当たっている。千葉県条例の名称が「障害者差別禁止条例」のような簡単な名称にならなかったところにも、それは既に現れている。「障害のある人もない人も共に暮らしやすい……」というフレーズには、暗に「決して障害者だけを不当に優遇するものではありません」という言い訳が、既に含まれている。そのようにしなければ、議会を通らない=コンセンサスを得られないのである。

 千葉県条例の中身も見てみよう。前述のようなほとんど言い訳に近い前文から始まり、定型的な目的規定の第1条、そして、「差別」の定義に異例と言えるほどの紙幅を割いている定義規定の第2条。あとは、同じような「理念」の繰り返しと、具体的な施策としてはせいぜい「相談」が挙げられているだけで、終わりである。
 ちなみに、この程度の内容であれば、「条例」という自治立法の形式によることの法的な意義はまったくないと言ってよい。地方自治法第14条第2項が示すとおり「義務を課し、又は権利を制限する」際には条例の定めを要するが、単なる給付行政に条例の定めは原則として必要ない、というのが通説である。したがって、この千葉県条例には「自治体における最高の意思決定方式である、条例の定めによった」というパフォーマティブな意味合い以上のものはない。
 逆に言えば、パフォーマティブな意味合いこそがこの条例の核心なのである。首長の個人的な思い入れではなく、県としての団体意思として、この条例に定めたような価値に重きを置くのだ、という宣言的意味合いとして、千葉県条例を捉えなければならない。
 このような観点から、パフォーマンスの具体的中身を見る。理念の部分には「差別はいけません」という以上のことはない。瞠目すべきは、長大な「第2条第2項」である。先に案内した千葉県のホームページから条文を見ることができるが、この部分については、あえて引用してみよう。

2 この条例において「差別」とは、次の各号に掲げる行為(以下「不利益取扱い」という。)をすること及び障害のある人が障害のない人と実質的に同等の日常生活又は社会生活を営むために必要な合理的な配慮に基づく措置(以下「合理的な配慮に基づく措置」という。)を行わないことをいう。
一 福祉サービスを提供し、又は利用させる場合において、障害のある人に対して行う次に掲げる行為
イ 障害を理由として、福祉サービスの利用に関する適切な相談及び支援が行われることなく、本人の意に反して、入所施設における生活を強いること。
ロ 本人の生命又は身体の保護のためやむを得ない必要がある場合その他の合理的な理由なく、障害を理由として、福祉サービスの提供を拒否し、若しくは制限し、又はこれに条件を課し、その他不利益な取扱いをすること。
二 医療を提供し、又は受けさせる場合において、障害のある人に対して行う次に掲げる行為
イ 本人の生命又は身体の保護のためやむを得ない必要がある場合その他の合理的な理由なく、障害を理由として、医療の提供を拒否し、若しくは制限し、又はこれに条件を課し、その他不利益な取扱いをすること。
ロ 法令に特別の定めがある場合を除き、障害を理由として、本人が希望しない長期間の入院その他の医療を受けることを強い、又は隔離すること。
三 商品又はサービスを提供する場合において、障害のある人に対して、サービスの本質を著しく損なうこととなる場合その他の合理的な理由なく、障害を理由として、商品又はサービスの提供を拒否し、若しくは制限し、又はこれに条件を課し、その他不利益な取扱いをすること。
四 労働者を雇用する場合において、障害のある人に対して行う次に掲げる行為
イ 労働者の募集又は採用に当たって、本人が業務の本質的部分を遂行することが不可能である場合その他の合理的な理由なく、障害を理由として、応募若しくは採用を拒否し、又は条件を課し、その他不利益な取扱いをすること。
ロ 賃金、労働時間その他の労働条件又は配置、昇進若しくは教育訓練若しくは福利厚生について、本人が業務の本質的部分を遂行することが不可能である場合その他の合理的な理由なく、障害を理由として、不利益な取扱いをすること。
ハ 本人が業務の本質的部分を遂行することが不可能である場合その他の合理的な理由なく、障害を理由として、解雇し、又は退職を強いること。
五 教育を行い、又は受けさせる場合において、障害のある人に対して行う次に掲げる行為
イ 本人に必要と認められる適切な指導及び支援を受ける機会を与えないこと。
ロ 本人若しくはその保護者(学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)第二十二条第一項に規定する保護者をいう。以下同じ。)の意見を聴かないで、又は必要な説明を行わないで、入学する学校(同法第一条に規定する学校をいう。)を決定すること。
六 障害のある人が建物その他の施設又は公共交通機関を利用する場合において、障害のある人に対して行う次に掲げる行為
イ 建物の本質的な構造上やむを得ない場合その他の合理的な理由なく、障害を理由として、不特定かつ多数の者の利用に供されている建物その他の施設の利用を拒否し、若しくは制限し、又はこれに条件を課し、その他不利益な取扱いをすること。
ロ 本人の生命又は身体の保護のためやむを得ない必要がある場合その他の合理的な理由なく、障害を理由として、公共交通機関の利用を拒否し、若しくは制限し、又はこれに条件を課し、その他不利益な取扱いをすること。
七 不動産の取引を行う場合において、障害のある人又は障害のある人と同居する者に対して、障害を理由として、不動産の売却、賃貸、転貸又は賃借権の譲渡を拒否し、若しくは制限し、又はこれに条件を課し、その他不利益な取扱いをすること。
八 情報を提供し、又は情報の提供を受ける場合において、障害のある人に対して行う次に掲げる行為
イ 障害を理由として、障害のある人に対して情報の提供をするときに、これを拒否し、若しくは制限し、又はこれに条件を課し、その他不利益な取扱いをすること。
ロ 障害を理由として、障害のある人が情報の提供をするときに、これを拒否し、若しくは制限し、又はこれに条件を課し、その他不利益な取扱いをすること。


 つまり千葉県条例の意義は、「法人たる地方公共団体である『千葉県』が、何が障害者差別に当たるかについて、団体意思としての判断を示した」ことにあるのである。
 その具体的中身は、「福祉サービスの提供」「医療」「商品売買等」「雇用」「教育」「公共施設利用」「不動産取引」「情報提供」の8つの場面で、合理的な理由なく、障害を理由とした不利益取扱いを受けること、とまとめることができるだろう。合理的な理由がなく不利益取扱いを受けることが差別に当たるのは、何も障碍者に限った話ではないのだから、この部分に目新しさはない。つまり、千葉県条例が具体的に物事を示している部分というのは、障碍者差別が顕著に見られる場面の「8類型」を示した、ということ以外の何ものでもないのである。

 その辺りが千葉県条例の到達点であり、限界でもある。千葉県条例は、そこに障碍者への差別があることを指摘する。指摘はするが、その解決のため、相談窓口を設けることの他に何ら有効な具体的手立てを示すことができない。
 これは千葉県条例のみに固有の限界ではなく、障碍者問題の根本的なアポリアなのではないだろうか。先に、障碍者問題はマイノリティ問題である、ということも示した。したがって、近代的な人権概念の成果である「平等」や「自己決定権」によって問題を一般化することは、問題解決に役立たないどころか、デリケートな問題を却って見えづらくして、さらに深い陥穽に陥る危険がある。このような問題に対してはただ「耳を澄ます」ということ、そこに微かな救いの糸を見いだし、手繰っていくことより他にないのだ。千葉県条例は改めてそのことを我々に確認させてくれるのである。




 まとまりませんが、ひとまずこれでおしまい。
 障害者自立支援法と、それにまつわる障碍者行政の実態について少し深く掘り下げてみたくなったのは、最近の『現代思想』誌に見られるような、「マイノリティ問題と自己決定権の尊重が矛盾しないと考える」ある種の「無邪気な」思想への批判的な気持ちもありました。もちろん、この障害者自立支援法というやつが、知れば知るほど腹の立つ、近年稀に見る悪法だから、というのもありますが(この出来の悪い法律のせいで9月は残業天国だったから、という個人的恨みもありますが)。
 ともかく10月中にこのテーマは終了しました。11月から通常モードに復帰します。


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障害者自立支援法(4)~平等の次のステージへ~

2006年10月25日 | 政治哲学・現代思想
 懲りずに第4弾です。いい加減他の話題も書きたいのでってじゃあこんなん書くなよ俺。と自らツッコミつつ「同じ話題で何回か続ける」というスタイルも一度やってみたかったので続けてみます。ちなみに第1回はこちら第2回はこちら第3回はこちら




 ポジティブ・アクションへの攻撃の口実に「公平」や「平等」が使われるのは今に始まった話ではない。ポジティブ・アクションというのは、例えば何かの委員を選出するときに「女性を何割登用する」とあらかじめ決めておくことや、大学の入学試験や奨学金で人種別の枠を設けるなどの活動であるが、こうした活動に対し「機会の均等に反する」との批判は根強いものがある。
 ここでは、近代的な人権概念の成果を象徴するかのような「自由」や「平等」が、現実に弱い立場に置かれている人々の発言を封殺する作用を成している、という逆転現象が生じている。一貫しているのは、個人を独立した主体として観念し、その自己決定権が侵害されることのない自由に置かれることこそが真に平等である、という、素朴な新自由主義的発想である(こうした発想には、「自律的な主体」という前提条件事態がフィクションに過ぎない、という批判を加えることができるが、本稿の趣旨からは割愛する)。
 これに対し、弱い立場に置かれた者の権利を擁護する側の言説からは、効果的なものが現れ出てきていないのではないか、という危惧を感じる。例えば、マイノリティ問題やフェミニズム、ホームレス支援や犯罪被害者支援といった言説の中でも、平気で「自己決定権」という用語が顔を出す。これは新自由主義的批判の格好の餌食である。
 このような事態に直面し、今なお頼ることができる(しかし非常に頼りない)拠り所は、「語ることのできないサバルタン」のか細い「声なき声」に「耳を澄ます」こと、言い換えれば、全き他者へのインタレストしか有り得ないのではないか、というのが、私の持論である。

 話を障害者自立支援法に戻そう。この法律の問題点をもう一つ挙げると、「保険でもないのに、保険の装いをしている」ことである。
 前回も触れたような「財政上の事情」があって、障害者自立支援法はとにかく「総額を抑制すること」「持続可能な制度とすること」を最優先に組み立てられた。その最終的に目指すところは、「介護保険制度との統合」であるのは、有名な話である。
 ここで、「介護保険はメジャーな問題だが、障碍者はマイノリティ問題である」と言ってしまえば語弊があるだろうか?なるほど、例えば千葉県の統計を見れば、介護保険法に基づく要介護認定を受けた者と、障害者手帳等受給者との数を比較した場合、それほど違いがあるわけではない。どちらかが多数でどちらかが少数と言うほどではないかもしれない。
 しかし、介護保険は基本的に「国民皆保険制度」である。65歳以上になれば無条件に被保険者となるし、多くのサラリーマンは40歳以上になれば被保険者である。日本国民である以上、法に基づき自動的に被保険者となり、保険料を納入する義務を負うことと引き換えに、自らが要介護状態となった場合に、その保険料を財源とした、法に基づくサービスを受給することができる。
 最も身近な「国民皆保険制度」の例である、医療保険と比較して考えてみよう。医療保険も保険料が国民から徴収され、代わりに病気等の際にその加療に保険が適用されるために、自らの負担は少なくてすむという制度である。同じ保険料を払っていても、年に何度も病気をして医者にかかる人と、年間通じて健康体で一度も医者にかからなかった人とでは、この保険制度から実際に恩恵を受けた度合いはまったく異なるのである。これは不平等だろうか?そんなことを言い出す者はいまい。なぜなら、保険とは本来が「転ばぬ先の杖」であるからである。昨年はたまたま医者にかからなかっただけで、今年はこの人が、思わぬ大病を患い加療に多大な費用を要するかもしれない。可能性はすべての人に開かれている。だから、そのリスクを国民全体でシェアしようというコンセンサスが生まれるのである。
 介護保険制度はどうだろうか。介護保険によってシェアされようとするリスクは、加齢による運動能力その他の体機能の低下が著しくなり、日常生活に支障をきたす事態である。このようなリスクが国民共通のリスクとして観念されるようになったのは、医療技術の向上、さらには少子高齢化(なお、少子化それ自体は特段悪いことではない、というのが私の持論であるが、ここでは詳細な議論は避ける)により、国民の中の相当数にとって、「要介護状態となる」というリスクが現実味を帯びたことによるのである。
 このようなコンセンサスがないところでは、国民皆保険制度は成立しない。

 それでは、障碍者となることのリスクは、国民共通のリスクとして観念され得るのか?もちろんすべての人にとって、何らかの事故や疾病により、明日にも障碍者となることの可能性は、常に開かれている。しかしそれは、加齢というファクターがもたらすリスクである介護保険制度とは異なり、多くの人にとって現実味を帯びないものである。加えて、そのような「国民全体のリスク」として障碍者問題を観念することそれ自体が「先天的な障碍者への差別」と親和的である。
 現状では、障碍者福祉を国民全体のリスクとして皆保険制度により全体でシェアする、というコンセンサスを形成するのは困難ではなかろうか。その意味合いにおいて、障碍者問題とは、現状、一種のマイノリティ問題なのである。

 そのような理由によるのか否かは判然としないが、ともかく、今回の障害者自立支援法制定の段階では、介護保険制度との統合はひとまず見送られた。
 問題は、介護保険制度との統合が見送られたにも関わらず、将来の統合を見越して、介護保険制度と「中途半端に似せた」制度となっているところである。
 介護保険は国民皆保険制度であるから、被保険者が一定の保険料を負担し、いざ要介護状態となった場合には保険適用により自己負担を緩和する、というのが基本の組み立てである。であるからこそ、自己負担が「定率1割」であることにも制度設計上の(一応の)合理性を認めることができる。
 ところが障害者自立支援法は、保険料収入を念頭に置いた特別会計ではなく、あくまで国・県・市町村の負担により、つまりは一般の税収を財源としている。それにもかかわらず、自己負担を定率1割とする部分だけは介護保険と共通である。そこには何ら一貫した考え方のない、言うなれば「哲学なき制度」である。
 これは非常に気味の悪い「ねじれ」である。そもそも、行政上のカテゴリーとしての《障害者》とは、憲法において保障される生存権の実現のため、公的支援を必要とする者を分別するための括りであったはずだ。それなのに、そのカテゴリー分けだけが一人歩きして、皆保険制度の枠組みに取り込まれる。これでは、わざわざ《障害者》というカテゴリーを作ってそこに放り込んだ上で「お前が障害者なのは、お前の自己責任だ」と言っているようなものではないか。

 再度、前々回の問いを繰り返さねばなるまい。障碍者とは誰か?
 今回の障害者自立支援法は、障碍者の実態に即さない制度である。そのことを指摘するのはいい。あらゆる障碍者は、個人として尊重されなければならない。それもいい。しかしそのような主張を声高にしていくことが、却って「平等」や「自己責任」の新たな陥穽に自ら突き進む結果となりはしないか。そのことを意識し、真に「声無き者の声」に耳を澄ますため、新たな戦略を検討すべき段階に来ているのはないか。そのような観点から今一度批判を構築しなおさなければ、障害者自立支援法という醜悪なキマイラが内包する根深いねじれに、対応することができないように思うのである。




 ……ふう、やっとここまで来たぞ。
 あと、国が面倒見切れないものを見捨てる手段として「地域」を持ち出すのもいい加減やめてくれないか、という話もあるのですが(これは介護保険法にも共通した問題。介護保険法では「地域支援事業」、障害者自立支援法では「地域生活支援事業」という、名前も中身もよく似た制度があります。制度、というほどちゃんとした制度ではありませんが)、そのへんを深く話すと次回で終わらなくなるので割愛。
 次回こそは千葉県のいわゆる障碍者差別禁止条例について語ります。次回で完結します。つーか、完結させます。必ず。終わらなくても終わりにします。


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障害者自立支援法(3)~障害者自立支援法が狙うもの~

2006年10月22日 | 政治哲学・現代思想
 単なる仕事の愚痴ともいえる障害者自立支援法シリーズ第3弾です。さすがに4回くらいで終わりにしようと思いますので今しばらく「こんな世界もあるんだー」って程度でお付き合いをお願いします。ちなみに第1回はこちら第2回はこちら




 前回までの論考の中で、《障害者》というカテゴリーが行政上の必要から認めざるをえないものであること、したがって、そのカテゴリーの中には本来異質のものを内包しているのだということを確認した。
 その上で今回は「障害者自立支援法」という法律の基本的な考え方がどうなっているのか、そのことの何が問題なのかについて、触れたいと思う。
 行政関連の各法を見る場合、必ずと言っていいほど第1条に置かれている、目的規定を読むことが重要である。

 この法律は、障害者基本法(昭和四十五年法律第八十四号)の基本的理念にのっとり、身体障害者福祉法(昭和二十四年法律第二百八十三号)、知的障害者福祉法(昭和三十五年法律第三十七号)、精神保健及び精神障害者福祉に関する法律(昭和二十五年法律第百二十三号)、児童福祉法(昭和二十二年法律第百六十四号)その他障害者及び障害児の福祉に関する法律と相まって、障害者及び障害児がその有する能力及び適性に応じ、自立した日常生活又は社会生活を営むことができるよう、必要な障害福祉サービスに係る給付その他の支援を行い、もって障害者及び障害児の福祉の増進を図るとともに、障害の有無にかかわらず国民が相互に人格と個性を尊重し安心して暮らすことのできる地域社会の実現に寄与することを目的とする。(障害者自立支援法第1条)

 大体、タイトルがやたら長い法令は疑ってかかった方がいいのと同様に、目的規定がやたら長い法令も眉に唾をつけながら読んだ方がよい。この目的規定は、いきなり読んだのでは理解できない。予備知識が少し必要なので、補いながら読み解いてみる。

この法律は、障害者基本法(昭和四十五年法律第八十四号)の基本的理念にのっとり、

 まず、この法律は、障害者基本法の基本的理念を受けて実体的規定について定めるものであり、障害者基本法を上位法に置く、下位法に当たることが明らかにされる。これは比較的分かりやすい。では、次はどうか。

身体障害者福祉法(昭和二十四年法律第二百八十三号)、知的障害者福祉法(昭和三十五年法律第三十七号)、精神保健及び精神障害者福祉に関する法律(昭和二十五年法律第百二十三号)、児童福祉法(昭和二十二年法律第百六十四号)その他障害者及び障害児の福祉に関する法律と相まって、

 おそらくこの部分が最も分かりづらく、予備知識を要する部分なのではなかろうか。
 そもそも、障害者自立支援法なる法律が産み落とされるに至った経緯(それは必ずしも一つではない)を追わなければならないが、障害者自立支援法の成立以前は、基本的理念を定める障害者基本法を上位法として、個別具体的な規定を定める下位法としては、身体障害者福祉法、知的障害者福祉法、精神保健及び精神障害者福祉に関する法律、児童福祉法の、4つの法律がそれぞれ個別に、対象となる障碍者(児)のカテゴリー及び当該カテゴリーの障碍者に対する福祉サービスの内容を規定していたのである。これを一本化しようというのが、障害者自立支援法の主要なねらいの一つである。
 お分かりだろうか。これまで「障害者」という単一のタームが示すところが、実際には多種多様な特性を持つ者の集合であることを、繰り返し強調してきた。それまで大雑把に4通りに区分されていたものを、今度は1つに括り直そうというのだから、単純に図式化すれば、これは実態とまったく逆行する動きなのである。

障害者及び障害児がその有する能力及び適性に応じ、自立した日常生活又は社会生活を営むことができるよう、必要な障害福祉サービスに係る給付その他の支援を行い、

 ここでポイントとなるのは、法律のタイトルにも採用された「自立」というタームの指し示すところである。再度障害者自立支援法の誕生の経緯を追う必要があるだろう。
 障害者自立支援法の施行前は「支援費」という制度が、先に見た4つの法律の中に、それぞれ置かれていた。この支援費という制度自体が、平成15年くらいから導入された新しい制度である。
 支援費制度の主眼は「措置から契約へ」というところにある。従来の障碍者に対する福祉の方法(それは障碍者に限らず、福祉行政全般に未だ顕著な構造ではあるのだが)は「措置」であった。つまり、行政庁が一方的に「処分」としての福祉を行うのである。これではあまりに個人としての障碍者の尊厳を損なっている、ということで、障碍者も自らサービスを選択して受給する権利があるのだ、という発想から導入されたのが「契約」の概念である。そして国及び地方公共団体は、障碍者がサービスを提供する事業者との契約に要した費用の大半を負担する、という形で、サービスの受給を支える。これが「支援費」である。
 その支援費制度が、ほんの2、3年で何故新しい制度に取って代わられたのか?これはもう単純に財政上の理由である。いざ支援費制度を始めてみたところ、これに係る国の負担額が厚生労働省の想像をはるかに上回り、到底制度を持続させることが不可能になったのである。

 支援費から障害者自立支援法への変更を、簡単なキーワードで言い表すと、一つは先に挙げた「3障碍(身体・知的・精神)の制度統一」であり、もう一つは「応能負担から定率負担へ」である。
 応能負担、定率負担というのは福祉の業界に特有の用語であるので、聞き慣れない方も多いことと思われる。応能負担というのは、負担者(障碍者を含む世帯)の負担能力(収入額)に応じて、自己負担額を決定するというものである。低所得者からは安く、高所得者からはそれなりに金を取るというものだ。これに対し定率負担というのは実に単純だ。「かかった費用の1割」である。
 つまり、これまでは曲がりなりにも各負担者の状況を勘案して負担額を定めていたのが、定率負担となった障害者自立支援法の下では、負担者個別の状況は問題ではなく(厳密に言えば、月額負担上限を定めるところで一定の低所得者への配慮を行っているが、法律の基本的な考え方の部分ではないので、ここでは説明を割愛する)、実際にサービスを受けるために要した費用がいくらであるかが問題となる。うがった言い方をすれば、今までは「金持ちほど高い金を払う」仕組みだったのが、これからは「障碍の重い人ほど高い金を払う」という仕組みになった、と言っても過言ではあるまい。

 支援費制度が財政的な面から破綻したため、厚生労働省は早急に次の制度である障害者自立支援法を導入しなければならなかった。それこそ、拙速と言われても仕方ないほどのスピードで。
 財政上の必要から導入された制度であるから、総額は抑制に働く。福祉がある程度切り捨てられるのは必然である。しかし、ここでは「福祉切り捨て」それ自体を問題にするものではない。私が声高に指摘しておきたいのは、福祉切り捨ての口実に「3障碍の平等」と「障碍者の自立」が使われている、という点である。




 ……すいません、長くなりすぎたのでいったん切ります。
 冒頭の「4回くらいで終わり」は「5回くらいで終わり」に変更ってことで(ぉぃ

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障害者自立支援法(2)~障碍者とは誰のことか~

2006年10月18日 | 政治哲学・現代思想
 10月16日付け記事『障害者自立支援法(1)~発端~』の続きです。よろしければ前回記事から続けてお読みいただければ幸いです。




 ところで、障碍者とは誰のことだろうか。これは少しばかり卑怯な問いかけであるが、それだけにラディカルな問いであるともいえる。というのも、ある種の差別や不平等について語ろうとするとき、必ずつきまとう問いであり、しかも、これに正面から回答することは、常に少なからず「何かを切り捨てる」ことを要求している。
 例えば先の問いを少しアレンジして「女性とは誰のことか」と問いかければ多くのフェミニストに困難な問いを突きつける結果となるし、「ニートとは誰のことか」「ホームレスとは誰のことか」「もてない男とは誰のことか」云々。いずれにせよ、包括的な議論を行うにはある程度の抽象化を免れ得ない事象であるところに具体化を求められるから無理が生じるのだが、逆に言えば、現実の問題に対応しようとしたときに、具体的に当てはめることが常に困難であるというアポリアを、これらの「現代的な人権問題」は包含しているのだ。
 再度考える。障碍者とは誰のことか。
「ノーマライゼーション」や「ユニバーサルデザイン」のような思想の究極目標(それは究極的には到達不可能な目標かもしれないが、常にその目標の方向に向かって運動を続けることに意義があるだろう)は、障碍者というカテゴリーそのものを無化することである。現在「障碍」と呼ばれているものを「個性」と呼ばれるレベルで扱うことができる、そのための下地を整えるのが、例えばユニバーサルデザインという発想であろう。
 他方で、現実に目を向ければ、他者の介助がなければ日常生活に支障をきたすような「障碍」を有する人は現に存在する。そのような人が、ユニバーサルデザインの発想だけで、生存権の保障された生活を送れるようになるだろうか?現在のところそれは、夢物語であると言わざるをえまい。
 したがって、現実的な、あるいは行政実務的な妥協点としては、「憲法上の生存権を保障するため、現状として、公的な支援を必要とする者」を選別し、定義し、これを対象として公的な支援を行うこととなる。かくして、行政上の理由から《障害者》は定義される。

 この法律において「障害者」とは、身体障害、知的障害又は精神障害(以下「障害」と総称する。)があるため、継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける者をいう。(障害者基本法第2条)

 《障害者》とは、行政上の必要から生じたカテゴリーであることを確認した。したがって、このカテゴリーに包含される者の性質は、本来、単一でない。先に掲げた《障害者》の定義の中にも、真っ先に《身体》《知的》《精神》のサブカテゴリーが顔を出す。そればかりではない。(私のような)素人にもイメージしやすい《身体障害》を例に取れば、視覚障害と聴覚障害と上肢障害がまったく別物であることは分かるだろう。
 このように、細分化に限りはなく、結局のところ、ひとりひとりの障碍者がそれぞれに「世界にただ一人の」「何者とも同一でない」「それぞれ完全にユニークな」存在であることに帰結する(それは人間である以上当たり前のことなのだが)。それらを、行政上の必要からやむなく一括りにしているのが《障害者》というネーミングなのだ。

 障害者の福祉に関する施策は、障害者の年齢及び障害の状態に応じて、かつ、有機的連携の下に総合的に、策定され、及び実施されなければならない。 (障害者基本法第8条第1項・強調は引用者による)




 それでは、このような「それぞれ完全にユニークな障碍者」における相互の「ちがい」を、障害者自立支援法がどのように扱っているのか……という辺りで「次回につづく」ことにします。

追記:
 本文中「障害」と「障碍」の使い分けは、一般的には「障碍」を、特に法令上の概念として扱う場合には「障害」を用いるよう意識していますが、不適当な部分がもしあればご指摘願います。


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障害者自立支援法(1)~発端~

2006年10月16日 | 政治哲学・現代思想
 今年の夏、鼻炎が悪化したので耳鼻科へ行った。もともと鼻炎とは物心ついた頃から四半世紀以上のお付き合いをしてきているのだが、今年は例年になく重症だったので、耳鼻科でレントゲン撮ったり聴力検査やったりしてもらって「副鼻腔炎」との診断を受け、現在に至るまで薬で散らす毎日である。
 で、聴力検査をやった際に言われたのが「普通の人の7割くらいの音しか聞こえてないですねー」という検査結果。
 正直、ちょっとショックだった。
 というのは、それほど「耳が聞こえづらい」という自覚症状がなかったからなのだ。確かに、耳の奥に「飛行機に乗ったときのような」気圧差というか違和感は感じていたので、多少は聞こえも悪くなっているかな、と予想していたが、それにしても、通常の7割ってことはないだろう、と。

 その時、初めて気づいたのだ。
「俺って、実は、普段からちゃんと音聞こえてなかったんじゃないか?」

 そう考えるといろいろつじつまが合う部分も出てくるのだ。
 もともと私は、人の話を一から十まで全部聞く、ということがなかなかできない性分である。良く言えば「一を聞いて十を知る」ようなところがあるが、悪く言えば「早合点」である。断片的に人の話を聞いて、そこから人の話の全体像を勝手に補足して勝手に理解してしまう。
 それは生来のせっかちな性癖なのだろう、と勝手に理解していた。だが、そうではなかったとしたら?私は「性格的に」他人の話をちゃんと聞くことができないのではなく、そもそも「人の話がちゃんと聞こえていなかった」のではないか?
 人の話を100%音声として耳で拾うことができないから、聞こえない部分を脳内で補完しながら会話をする。だから、個別の単語ではなく文脈に依存した話法になる。「話し方がまわりくどい」と言われるのは、途中の単語が一つ二つ抜けても文脈が崩壊しないような、そんな語法に基づいて思考しているからだ。
 講義や会議などで長時間人の話を聞き続けるのが苦手だ。途中でどうしても集中力を切らしてしまう。単にこらえ性のない人間だと切り捨てられればそれまでだが、要するに、そもそも人の話を聞き漏らし無く聞く、ということが物理的に困難なのだから、集中力が持続するはずがないのだ。その証拠に、ところどころ聞き飛ばしているわりには、録音もしていない会議などで会議録を起こすのは得意だ。ごく断片的な聞き取りだけでもメモ書きで残しておけば、そこから全体を復元できるからだ。
 仕事上の打ち合わせを行う際、相手の説明をひとしきり聞いた後「それは●●ということですか?」と必ず聞きなおす。慎重な性格だから、というわけではない。そうしないと決定的な単語を聞き逃したおかげで、まったく別の意味で相手の話を捉えている危険性があるからだ。そのような致命的な聞き違いをこれまでに何度も経験しているから、どうしても慎重に相手の話の主旨を確認する習慣が身についているのだ。

 上記はあくまでも仮説にすぎない。他人の耳に音がどのように聞こえているか、なんて、私には分からないわけだから、私は自分の耳に聞こえるとおりの音を信じる以外にない。しかし、私がふだんとほとんど変わらないかほんの少し聞こえづらい程度、と自覚した聴力は、耳鼻科で検査を行った限りでは「通常人の7割程度」ということだった。
 ということは、見方を変えれば、私は「通常人に比べ聴力に3割程度のハンディキャップを負っている」のであって、しかもそれは、先天的と言ってもいいくらい、幼少期からのものだ。そして私は後天的な訓練による技術(思考法)の習得によって、このハンディキャップを概ね問題とすることなく、日常生活を過ごすことができている。……とまで言えば、さすがに言いすぎだろうか?

 さて、実際のところ、「聞こえが通常人の7割」と宣告されたところで、7割は聞こえているのだから、日常生活にはさほど支障ない(聞こえない3割の部分は、そもそも日常生活にさして必要のない部分なのかもしれないし)。私に関しては、その程度なのだから、問題化する必要もない。
 しかし、世の中には耳の聞こえが「通常人の5割」の人もいるだろうし、「通常人の1割」の人も、「通常人の1%」の人もいるだろう。仮にこれらの人々が支援を必要とするならば、それぞれ、必要とする支援の種類も質も違うはずだ。単に「ゆっくり喋ってもらえれば充分」なのか。「補聴器が必要だが、補聴器さえつけていれば生活には困らない」のか。「視認又は触覚で確認できるサインが随所に必要(例えば、市販の目覚まし時計では起きることができない)」なのか。
 もちろん「自分で何とかするから、面倒を見てもらう必要はない」という人もいるだろう。聴力に関して私の立場は概ねそのようなものだ。「他人の7割しか音が聞こえていない」からといって、もし誰かが親切にも、私に話しかけるときは常に3割増しの拡声器を使用して喋ってくれたとするなら、正直、有難いどころか騒々しいばかりで、ありがた迷惑もはなはだしいところである。そんなことをしてもらわなくとも、私は物心ついた頃から見につけてきた話法によって、自分の聴力の不足部分をカバーするばかりでなく、それを自分のひとつの特性として活かしてさえいるのだから。

 このように考えてくると、「障碍者」というカテゴライズの仕方が、いかに乱暴でデリカシーのないものかが分かるはずである。そのような名付け方それ自体の中に、大雑把に一括りにされてしまった彼ら「障碍者」が、それぞれ個々に有している個性や感情や欲求を、包み隠してしまう暴力の契機が、既に含まれているのだ。
 したがって、論の出発点はまず、「障碍者=かわいそうな人=助けなきゃ」というような、手前勝手で実態を外れたラベリングを、否定するところから始める。




 上記のようなイントロダクションから、今後何日かに分けて「障害者自立支援法」という法律が、(その名称からして既に)抱えている根本的な問題点について、指摘してみようと思います。合わせて、千葉県で最近制定された、いわゆる障碍者差別禁止条例についても触れることができたらいいなぁと思いつつ予定は未定。


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 「涼風文学堂」は小説と書評を中心としたサイトです。

燃えよドラゴン(ズ)。

2006年10月15日 | 日記・身辺雑記
 どうも。最近またも更新が滞っております涼風でございます。いえ仕事のヤマは越えまして現在閑散期に入っております。それならなんで更新しないんだと言われますといやその、季節の変わり目にありがちなことですが、持病の鼻炎がまたもや悪化しておりまして、耳の聞こえも悪いし咳も出るし肋間神経痛も再発と、もう全身これボロボロの状態でございまして、決して最近の更新遅滞がDS版FF3とかGB版FF5だとかPS2版ポップン13だとかのせいではないと声を大にして言いたい。あ、でも、僕とDSのモグネットで遊んでくれる人随時募集中です(爆)。

 さて、涼風の住んでる場所の近所に某大手スーパーがありまして、これが本店が愛知県にあるとかいうことで「ドラゴンズ優勝おめでとうセール」を始めました。当初は優勝後3日間限定とか言ってたくせに、今日行ってみたら「好評につき期間延長!」とかのぼり立てられてまだやってました。
 それはいいのですが、スーパー内のありとあらゆる場所から、山本正之御大の名曲「燃えよドラゴンズ」が、しかも各スピーカー間の同期がまったく取れておらず輪唱状態で流れていて、もうそれだけでも頭が変になりそうなのですが、加えて、2006年版の燃えよドラゴンズは若いおねーちゃんのグループが歌ってるので、破壊力倍増です。繰り返し聴かされてるとどんどん頭弱くなります。
 で、例によって「♪1番荒木が塁に出て~、2番井端がヒット・エンド・ラン~」とか今年のスタメンオーダーを褒めちぎって歌う一節があるのですが、打者一巡のとどめの場面で、女の子4人くらいのユニゾンで「♪8番谷繁超強気~」ってのはいかがなものかと。他に褒めるとこなかったのかよ、と妻と二人でスーパーの中であることを忘れて大爆笑する、そんな平穏な日曜日でございました。

 最近は少し時間が取れそうなので、少し腰を据えて小説を書くかもしれません。なので、ブログの更新が若干滞っていても、ああ、小説書いてるんだな、と思って温かく見守ってください。え?FF5?何のことやら。あ、でも、そろそろクルルがパーティーに入るよ(汗)。

責めるのは簡単だけれど。

2006年10月10日 | 時事・社会情勢
 9日から群馬県・妙義山(1104メートル)に登った同県安中市の市立中学3年の男子生徒4人が10日になっても帰らず、群馬県警などは同日朝から機動隊やヘリコプターで捜索を始めた。正午すぎ、中学の教頭らが登山口近くに自力で下りてきた4人を発見。2人が頭やひざに軽いけが。
 富岡署によると、4人は9日午前9時ごろ、家族に「妙義山に行く」などと告げて外出。帰宅しないため10日午前1時半ごろ、家族が届けた。
 4人は同県富岡市妙義町の駐車場まで自転車で行き、9日午前11時半ごろ入山。下山中に暗くなり2人が足を滑らせてけがをしたため、これ以上動くと危険と思い山中で一夜を明かし、夜が明けてから下りてきたという。
 本格的な登山経験はなく、軽装で携帯電話や弁当は持っていなかった。前橋地方気象台によると、9日から10日朝にかけて、妙義山周辺の天候は晴れで風も強くなかった。
(産経新聞)


 個人的には、夜間の無理な下山を行わず、夜明けを待った少年たちの判断力を褒めてやりたいと思う。
 もし僕が彼らの父親だったら、そう言って褒めてやって抱きしめてやった後に「でもこんなことは二度とするな」ってきつく叱り付けるけどね。

「僕らの世代」代表としての平野啓一郎。

2006年10月05日 | 読書
 少し時間ができたので、本棚を席捲している積ん読の中から、平野啓一郎『滴り落ちる時計たちの波紋』を引っ張り出して読みました。読む前に想像していたより面白かった、というのが、僭越ながら感想。
 例え方がちょっとアレですが、言うなれば、老舗の料亭の若き三代目がデパ地下に出店して2000円のお弁当売ってる、とかそんな感じ?一品一品は小ぶりで手軽な印象ですが、それぞれに丁寧な仕事がしてあって、ちょっぴりお特感のある短編集でした。

 こういうものを読むと、やはり平野啓一郎は達者だな、という印象を受けます。少しばかり若さの表れているところもありますが(「白昼」や「閉じ込められた少年」のような、少しばかり言葉遊びに遊ばれすぎた感のある作品とか)、それもまたひとつの魅力かもしれません。
 他方で、確かな技術で丁寧な仕事をしてしまうあたりが、やはり平野啓一郎の現時点でのひとつの限界というか、望むと望まざるとに関わらず、彼が立たされてしまう立ち位置というものを表しているようにも思えます。例えば彼には、中原昌也や清涼院流水のような「天然系」の作品はどうやっても書けません。平野啓一郎が老舗料亭の三代目なら、中原や清涼院は「漁師が道楽で居酒屋始めました」のノリ。鮮度のいい材料を適当に丸焼きにしてごちゃ混ぜに盛り付けて出すだけです。それが案外旨いというのも真実でしょうが、老舗料亭の確かな包丁捌きを持つ平野にとって、それは料理ではない。あるいは、そんな恥ずかしいものを人様に出すわけにはいかないのです。

 引きこもりネットワーカーの独白調でカフカを語る「最後の変身」や、似非論文のテイストでボルヘス「バベルの図書館」をネットワーク時代のイメージに即して捉えなおす「『バベルのコンピューター』」からも見て取れるとおり、平野啓一郎は、現在の日本語文学が向き合っている問題の中でもひときわ大きなもの、「インフォメーション・テクノロジーの進化とそれに伴うコミュニケーション様式の変化が、日本語に劇的な変化をもたらしている」ということに充分に自覚的で、古い文学作法に拘泥していては文学は今の時代に産み落とされる文学としての強度を有し得ない、ということにも充分に自覚的です。
 したがって、先に「若さが表れている」とした「白昼」や「閉じ込められた少年」、あるいはもう少し筆を抑えた「瀕死の午後と波打つ磯の幼い兄弟」にしても、そこに現れている言葉遊びは単なる若さゆえの児戯ではなく、そのようにして日本語に圧力を加え、内側から破裂させるような作業が、文学にとって必要なのだと、そしてそのような役割を自ら引き受けることを買って出たのではないかと、私は勝手に邪推しているのです(そしてそれゆえに、平野啓一郎のこの短編集には多大なシンパシーを感じます)。
 そして同時に、中原昌也に代表されるような「天然系」に膝を屈するわけにはいかない、ということも、勢いとフィーリングではなくて、研ぎ澄まされた正確な技術によって高みに達しようということも、引き受けているのではないでしょうか。大仰な言い方をすれば、彼は、あるひとつの窮地に即している「文学」を、自ら救う役割を引き受けたのではないか。「俺が文学を救う」ということを自覚した上で作品を呈示しているのではないか。そんな印象を受けるのです。それは勇敢で頼もしく、しかし、孤独で悲壮な戦いに見えます。

 世代論に回収するのは卑怯と思いつつも、私が平野啓一郎に共感を覚えるのは、やはり彼が「われわれの世代の代弁者」の役割もまた、同時に引き受けているからではないのかな、と思います。
 巻末の作者紹介によれば、平野啓一郎は1975年生まれ。涼風とほぼ同世代です。いわゆる「団塊ジュニア」のひとつ下の世代に位置し、ジュリアナ東京のお立ち台とルーズソックスの女子高生の中間に位置し、どちらにもご縁のなかった世代(なんつぅ言い方だ)。中高生の頃にバブルが弾け、ベルリンの壁もソ連も崩壊し、大学に入る前後辺りに高学歴で知られるオウム真理教がサリンを撒いて、求人倍率が最低の頃に就職活動を余儀なくされた、最近の新聞なんかで言うところの「失われた世代」です。
 思春期から青年期に向かうありとあらゆる場面で、拠って立つべき価値観を次々に叩き壊され続け、諦めることも開き直ることもできない立ち位置に置かれた困難な世代。それでも苦しみもがきながら、何とか生きていかなければならないのだ、ということくらいは知っている世代。私は、自分を含むこの世代を、そのような困難な立場に生かされている世代であるのだと自覚しているのです。
 そういうことなのではないでしょうか?新しい時代を迎え、今までのやり方が通じなくなっていく中で、それでも「僕らの世代」は結局、幼い頃から「昔ながらのやり方」で来ていて、それが身に染み付いている。もう少し早く生まれていれば、変革する時代を他人事のように冷めた目で見られたかもしれませんし、もう少し遅く生まれていれば、すべてを所与のものとして当たり前に受容していけたのかもしれません。しかし「僕らの世代」は、「昔ながらのやり方」をほとんど唯一の武器として、「新しい時代」に切り込んでいかなければならない、という困難を、自らの問題として、各々引き受けなければならないのです。そのことを文学の世界で体現しているのが、平野啓一郎なのではないでしょうか。
 そのことがこの短編集『滴り落ちる時計たちの波紋』に、名門料亭三代目デパ地下進出、のノリで表れているのだ、と思います。

 同時代の体現者としてはもう一人、中田英寿の名を挙げたいようにも感じられますが、まあそのへんの話はそれ、また機会があれば。(こうして宿題が増えていく)


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リーガル・リテラシーということを真剣に考えてみる。

2006年10月02日 | 時事・社会情勢
 法テラス(司法支援センター)が全国でオープンしました。今日の新聞・テレビ等でもわりと頻繁に報道されたので、何だかよく分からなくとも「法テラス」という名前は聞いた、という方は少なくないのではないでしょうか。
 突然降ってわいた話のように報じられていますが、この法テラス設立に当たっては、法務省・裁判所・日弁連等の関係機関が周到な準備と議論を重ねた上で、満を持して今日のスタートを迎えたというものです。おそらく、関係者の皆さんの心境としては、やっとここまで来た、というところなのではないかと勝手ながら想像します。
 法テラスの設立の根拠である「総合法律支援法」という法律があります。この法律が公布されたのは、平成16年6月2日です。……思い返してみれば、この法律の制定それ自体は、あまりニュースにならなかったような気がするのですが、どうでしょうか。実際、一応「法律関係のお仕事をしている」涼風も、この法律の存在を知ったのは今から1年前くらいのことです(地裁から法テラスのPRポスター貼ってくれと依頼が来た)。どちらかといえば、マイナーな法律だと思います。
 で、この法律の中身ですが、涼風もあまり詳しくないので大雑把な解説にとどめますが、要するに、都市部でも地方でも、金持ちでも貧乏人でも、必要な法的サービス/ケアを皆が受けられるようにしよう、ということだと理解しています。(このような法律が存在することが、もっと広く巷間に知られて然るべきだと思うのですが。そこんとこどうなんでしょうマスコミ各社さん)

 このような流れを単発のニュースとして捉えるのではなく、一連の「司法制度改革」の動きとして理解し、日本が、世の中が、どのような方向に向かって舵を切ったのか、ということを知るべきだと思います。
 司法制度改革の一つの柱が、司法試験制度の改正です。法科大学院で実践的な法教育を施し、司法制度の合格者数を増やして、司法に携わるプロフェッショナルの人数を、まず確保します。他方で、訴訟手続の改正(行政事件訴訟法の大改正も、この大きな流れの一部であると理解しています)や、法に関わる情報提供の機会の向上(e-Govの法令データ提供システム裁判所の判例検索システムが好例だと思います)により、法のアマチュアであるところの市民が法を知るためのアクセシビリティは、格段に向上しました。
 これは、われわれが法に無関心のまま生きていくことが、どうしても不可能になった、ということを示しているのではないでしょうか。その背景としては、グローバリゼーションという名のアメリカニゼーションの経済体制への移行ということもあるでしょうし、村落共同体の崩壊・家族共同体の崩壊とも無縁ではないのでしょう。
 ともかくわれわれは、今どき「パソコンを使えない」では済まされないのと同程度には、もう「法を知らない」では済まされない時代を眼前に迎えている。そうであるからこそ、「町医者」と同じように「町弁」が当たり前におり、「家庭の医学」と同程度に「家庭の法学」の知識があることが望ましい、そのような社会を指向して、今司法制度改革がこれほどの急ピッチで進められているのだと思います。

 このような世界そのものが望ましいかどうか、という大上段の議論も、それはそれで思想としては必要なのですが、差し当たり、矮小な一市民である涼風としては、ここで「リーガル・リテラシー」ということを少し真剣に考えてみようかな、と思っています。8月17日の日記でも少し書きましたが、今後の社会においてテクノクラシーを抑止する力があるとすれば、それは各市民がリーガル・リテラシーを身に付け、法的な視点から社会を読み解くことで世論を形成することではないか、と、最近とみに思うのです。

 大学の法学部に入ると必ず「リーガル・マインド」という語を聞かされます。法的なものの考え方、それは単なる法律の知識を頭に詰め込むことではなく、法律の仕組みに沿って物事を考える、そうした思考法そのものを身に付けることが必要だというのです。
 私が提唱しようとする「リーガル・リテラシー」とは、この「リーガル・マインド」の簡易版のようなものだと理解していただければよいと思います。再びパソコンに例えますが(つくづく法律とパソコンは似ていると感じる)、「リーガル・マインド」とは、コンピュータの情報処理の基本的な考え方や仕組みを知ることであり、それに必要な知識を加えることで自らプログラムを構築できること(この例えから言えば、民法学や刑法学などの個別の知識は、コンピュータで言うところのCOBOLだのC言語だのに相当するのでしょう)に当たります。他方「リーガル・リテラシー」は、コンピュータの詳しい仕組みや理屈は理解できなくても、とにかく、パソコンを起動して、インターネットに接続し、サーチエンジン等を駆使して自分が欲する情報を手に入れる能力に相当するものです。

 語り出すときりがないので、続きはいずれ別の機会に検討したいと思いますが、この「リーガル・リテラシー」は私にしてはなかなかいい着眼点だと自負しておりますので、これからもう少し深く掘り下げて考えてみるつもりです。


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余談:
 司法制度改革に対しては概ね好意的な涼風ですが、裁判員制度だけはどうもいただけないと思います。