涼風野外文学堂

文学・政治哲学・読書・時事ネタ・その他身の回り徒然日記系。

最近ショックだったことベスト3。

2007年04月25日 | 日記・身辺雑記
【第3位】
 「味楽る!ミミカ ナンバーワン」と「めざせモスクワ」が似ていることに気づいた。


 ……まさかほんとに元ネタじゃないだろうな。

【第2位】
 愛染恭子が姪を虐待して逮捕。


 彼女が千葉県民だったことにもびっくりしてますヨ。

【第1位】
 きこうでんみさがAVデビュー。


 ついにと言うかやっぱりと言うかようやくと言うか。ぱっきゅんわ。


 ……我ながら平和な人生送ってると思います。

トリアージ「という」選択。

2007年04月23日 | 時事・社会情勢
 どうもご無沙汰しております。先週(4/21)放送の「出没!アド街ック天国」で紹介された某ラーメン屋で週に一度はつけ麺食ってる涼風でございます。牛すじ辛味つけ麺も美味だが肉つけ麺(辛味噌)もお勧めです。ってどの辺が生活圏かこれでバレバレっすね。

 さておき、今日放送のNHKスペシャルは「トリアージ 救命の優先順位」と題して、一昨年のJR福知山線事故現場におけるトリアージの模様を紹介し、また検証を行っていました。
 トリアージというのは、多数の傷病者が同時発生する場面(多くは災害やマストランジットの事故)において、傷病者の症状や程度により、搬送・治療の優先順位を定め、より緊急度の高い患者を優先的に治療することで、なるべく多くの人命を救助しようという手法です。
 福知山線事故の現場において実際に負傷者の判定作業を行った医師や看護師、実際にその場で判定を受けた負傷者、「助かる見込みがない」と判定され亡くなった方の遺族等、多くの関係者の証言を集めた番組で、その意味では非常に見ごたえがあり、また考えさせられる番組でした。
 しかし、番組を見ている間、私は何か妙な違和感を感じていました。NHKの番組編成が、何か重大な問題を見落としているような、トリアージという選択が内包する根本的な問題に気づいていないような、そんな気がしていました。そんな予感が確信に変わったのはこの番組の最後、事故の遺族がトリアージを行った医師に面会し、事故当時の話を聞く、という場面が放映されたときです。

 災害や大事故時の救急救命活動にトリアージを導入するということは、それ自体が、苦渋に満ちた選択です。目の前には、一刻も早く治療を開始しないとどんどん死に近づいていく多数の傷病者。現地で判定をする医師の数も、救急車の台数や搬送経路も、受け入れ先の医療機関も足りない。すべての人命がかけがえのない、いずれも分け隔てなく尊いものであるとどれだけ理解していても、そのすべてに満足な治療を施すだけのリソース(医師の数、救急車の台数等々)はない。そのような前提のもとで、あくまで冷徹にこれらのリソースの「効率的な割り当て」を判断するという、これはまさに「戦時下の決断」を求められる場面なのです。
 したがって、災害や事故の現場で一次的な救命活動に当たるスタッフにトリアージを行うよう強いることそれ自体が、(倫理的に)妥当であるのかどうかという点も、実は主要な論点たりえるのです。例えば現場に駆けつけた医師はこのような発言をするかもしれません。「私は、すべての人命に優劣はなく、貴賤もないものと考える。いかなる緊急事態においても、誰を助け、誰を助けないかを選択することは、人命を差別することであり、人間の尊厳を破壊する決定的な行為である。ゆえに私はトリアージを行わず、今、この目の前の患者の救命に全力を尽くす」
 このような発言を完全に否定することができるでしょうか?「人を効率的に殺すために人間がその感情を押し殺して機械的な判断を下す」所作が、いかに人間の尊厳に打撃を与えてきたかを思い起こすとき(このような記述をしながら私は、もちろんアウシュヴィッツを想起している)その対偶ともいうべき、この「人を効率的に生かすために人間がその感情を押し殺して機械的な判断を下す」トリアージという所作は、必ずしも容易に肯定されることではないのです。
 しかし、その部分の価値判断の是非にはあえて深入りしないこととして、差し当たり、この国は国家的な戦略として、災害や大事故の現場でトリアージを行うことを選んだのです。そうであるならば、トリアージを行った医師と、遺族を絶対に会わせてはならない。これはトリアージを行うという選択を行ったことの価値判断と決定的に矛盾し、その根幹を揺るがす出来事なのです。

 福知山線の事故現場で行われたトリアージでは、救命の見込みのない致命的な重傷者には「黒タッグ」が付けられ、その時点で医療機関への搬送も、心配蘇生法等の救急救命も行わないこととされます。
 今回のNHKスペシャルの番組の終盤では、この「黒タッグ」を付けられ、何ら治療を受けずに亡くなった方のご遺族が、その当時現場でトリアージを行っていた医師に面会し、事故当時の状況について話を聞こうとします。それから番組は、この「黒タッグ」に何ら当時を窺い知る情報が記述されていなかったことに触れ、遺族のケアのためにも、黒タッグに何を記述すべきか検討する必要がある、という方向に誘導されます。
 番組の作成スタッフは、この誘導がいかに危険なものであるか、承知していなかったのではないでしょうか?確かに、大規模な災害や事故における遺族の心のケアは重大な問題であり、トリアージを行ったことがこのケアをなおいっそう難しくしていることは、看過できない問題です。しかし、トリアージというのはそもそも、そのように「人の命は誰しも等しく尊い」という中であえて、効率的に人を生かすという決断なのです。黒タッグに簡単なサインを記入するのに1枚につき2秒で済んだとしても、15人の判定をすると単純計算で30秒余計にかかります。30秒あれば、もう1人の判定を行うことができます。このタイムロスを無視することは、トリアージという緊急事態の危機管理の性質上、絶対に許されないのです。
 より明確にいえば、われわれは、「トリアージを行う」という選択を行った時点で、「助からない命」に関わる人権を、切り捨てていかざるをえない。遺族のメンタルケアを行うことができるのは、すべての「助かりうる命」への可能な限りの治療を尽くした後でしかない。助かりうる命をすべて助けた上で、助からない命に関わるケアを行うことができるのは、それだけ医療のリソースが潤沢な場合に限られる(つまりは、現実的にありえない)。トリアージというのは、そのような過酷な覚悟のもとでしか成立しえないのではないでしょうか。

 番組が終わったところで、番組全体を通じて感じていた違和感は、現場でトリアージの判定作業に当たった医師や看護師に対するメンタルケアにほとんど言及がされていない、ということだと気づきました。トリアージを成功させようとするなら、それこそ、遺族のメンタルケア以上に、医師や看護師のメンタルケアを重視しなければならないのです。現場での判断の結果誰かが生き、誰かが死んだことについて、その判断をした医師や看護師が個人的に責めを負うようなことは、絶対にあってはならない。そのことは、遺族のケアよりも重要視されなければならないのです。
 もしそのような判断が許されないというのであれば――われわれは、トリアージなどやってはいけないのではないでしょうか。


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「特急田中3号」を見ながら

2007年04月13日 | 日記・身辺雑記
 やっぱり実写版ヤッターマンのドロンジョ様はアンジェリーナ・ジョリーなどより栗山千明様に演じていただきたいと思う涼風@タイムボカンシリーズ大好きなのであります。栗山千明に「やーっておしまいーっ!」て言われちゃったら俺様テレビの前で直立敬礼で「あらほらさっさー」しちゃうぞ。

 ちなみに件の「特急田中3号」なのですが、濃い目のネタに爆笑している俺様の横で妻ドン引き_| ̄|○

いきものがかりに見る変身願望。

2007年04月04日 | 日記・身辺雑記
 ファイアストンの超特価品にも関わらずタイヤ履き替えたらすっげぇ運転快適で今までどんだけ痛んだタイヤで走ってたんだよと凹んでおるorz最近の涼風でございます。

 さて、涼風の相棒フィット号の車内では、最近いきものがかりの『桜咲く街物語』がエンドレスでかかりっぱなしなのですが、この郷愁を駆り立てられる妙な懐かしさは何だろうと思いを巡らせた結果、私がいきものがかりに懐かしさを感じる理由のひとつは、自分が小中学生の頃によく聴いていた(ああ歳がバレる)レベッカやリンドバーグに雰囲気が似ているせいではなかろうか、というところに思い至りました。
 女性ボーカルに男性のバッキング、というバンドの体裁について、当時から現在に至るまで思いつくままに例を並べてみますと、先のレベッカ、リンドバーグ、ドリカムにジュディマリにELTにブリリアントグリーン(ヒスブルは諸般の事情でなかったことにされている)……うん、わりと際限なく挙げられます。そして、こうやって並べ立てて共通項を探していくと、「女性ボーカル1人+男性楽器1~数人」のユニットで成功するためには、中核をなす女性ボーカルに「ひとクセある」ことがポイントなのかな、という気もしてきます。
 ここでいう「ひとクセある」というのは、ある意味「女性的でない」ということにも繋がるのかな、という気もしてきました。女性ボーカルを中心に据えているのに女性的でない、とは逆説的かもしれませんが、先に挙げてきたグループのボーカリストたちについて言えば、フリル付きのワンピースやふわふわのフレアスカートより、カットソーとジーンズの方が似合いそうな傾向があるように思います。
 考えてみれば当たり前の部分もあり、サウンドプロデュースの中心となるのはバックで楽器を扱っている男性メンバーの側なのですから、彼が小室やつんくのような「プロデューサー」としてボーカリストの影に隠れようとするのならともかく、自ら「アーティスト」として、バンドの中心メンバーとしてステージに上ろうとするのであるなら、自らのサウンドを体現するボーカリストは、むしろ「男性的」でなければならないのではないでしょうか。
 そんな見方(聴き方?)に立っていきものがかりを聴いていると、この男性ギタリスト二人は、本当は自分が歌いたい歌を、女性ボーカルに歌わせているのかな、という気がしてきます。男性の音域で歌うには少しばかり高音の曲を作って(大体、ちょっと高めの音って気持ちいいですよね。ギターだって440hzより442hzでチューニングした方が聞こえがいい)、それで自分で歌えればいいのだけれどちと無理なので、その音で無理なく歌うことのできるボーカリストに歌わせている。そんな捉え方をすれば、これら「女性ボーカルユニット」は、実は男性の男性による男性のための音楽を提供しているのではないか、と思えてきました。そう考えれば「いきものがかり結構イイよ」と私が話を向けても「そう?すぐ消えそうじゃん」と妻の食いつきが悪いことにも、合点がいきます_| ̄|○


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銃と巨乳。

2007年04月01日 | 政治哲学・現代思想
 実に1ヶ月ぶりのご無沙汰でございます。この時期仕事が超多忙なのは例年のことなので織り込み済みだったのですが、実を言うと仕事以外の部分でまあ色々ありまして。プライベートなので詳細は控えさせてもらっていいですかそうですか(謎
 ともかく、3月はまったく投稿しなくて申し訳ありませんでした。この反省を活かし、4月は1日1トピックスの投稿を心がけたいと思います、とか言ってみる今日は4月1日なので信用しちゃ駄目ですよ。例によって、無理しない程度に時々更新して参りますので、生温かく見守ってやってください。

 さて、復活一発目のネタのタイトルとして↑これはどうだと思わないでもないのですが。

 背景を説明しますと……
 昨年まで、防衛庁の共済部門を受託する外郭団体である「財団法人防衛弘済会」というところが発行していた雑誌で「セキュリタリアン」というものがありました。これが防衛庁編集協力ということで、防衛庁のPR活動に一役買っていたのですが、昨年の夏をもって休刊となり、代わりに扶桑社から「MAMOR(マモル)」という同趣旨の雑誌が発行されるようになったのでした。
 で、私のような素人の目から見て、同一コンセプトの雑誌である「セキュリタリアン」と「MAMOR」の大きな違いは、何と言っても「巻頭に女性グラビアがあるかないか」ということなのです。「MAMOR」は創刊以来各号の巻頭で「Monthly Venus 防人たちの女神」と称して、グラビアアイドルが迷彩服着て戦闘機のコックピットで微笑みながら敬礼している、というような感じの写真グラビアを数ページずつ掲載しています。ちなみに最新号(5月号)の巻頭グラビアは佐藤江梨子。
 で、これを毎号見るたびに思い返すのが、映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」で、抜群のプロポーションの女性が露出度の高い迷彩柄の服を着て肩から銃を提げている、軍のPR用の映像が、批判的に引用されていたことなのです。同映画の中では、銃や軍隊に対する親近感を持たせ、市民社会に浸透させようとするプロパガンダの一例である、という程度のメッセージしか与えられていなかったように思いましたが、最近の「MAMOR」を見るたび、どうやらこの問題を掘り下げて考える必要があるのではないかな、と思えてきたのです。すなわち「銃と巨乳は親和的である」というテーゼについて検討する必要があるのではないかな、と。
 「MAMOR」の創刊号のグラビアは夏川純だったし第3号はサトエリだし、第2号も私がよく知らないグラビアアイドルだったんで名前は忘れましたが、ともかく3人とも、いわゆるグラビアアイドル、水着で写真の被写体となることを活動の主なフィールドとしている(いた)ような、特定ジャンルの芸能人であったと記憶しています。防衛庁/防衛省及び自衛隊の活動について、国民の理解と支持を深めようとするのがこの雑誌の目的であるならば、国民人口の約半数は女性であるのだし、女性グラビアを載せる必然性はないでしょう(例えば、巻頭カラーでKAT-TUNが基地案内してくれる号があったっていいじゃないか?)。
 そんなことを考えているうちに、「ボウリング・フォー・コロンバイン」で引用されていた軍のPR映像も、「MAMOR」の各号の巻頭を飾る女性グラビアも、単なるPRという意図を超えて、より深いところで、軍隊=国家が独占する暴力の本質を象徴しているのではないか、と思い始めた次第です。われわれは単に「戦闘美少女萌え~」などと安易な感想を抱くのでなく(苦笑)、軍隊という組織が先天的に内包するファロセントリックな暴力の欲求について、警戒するとともに、その仕組みについて深く知ろうとしなければならないように思うのです。

 さて、どっちかっていうと左寄りの涼風が何だって「MAMOR」を毎号読んでるのかっていうと、それもまた秘密ってことで(汗


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