最近ろくにブログ更新してないくせにたまに更新しようとするとどうも政治ネタか法律ネタに走ってしまい、このブログの本旨であるところの「文学」にまるで触れようとしないのは、ここのところ涼風が仕事以外に特に何もしていないせいでしょう。本読んでないし。
……あ、書きかけの小説は400字詰め原稿用紙換算で280枚を超えました。まだ完結する気配がありませんorz
さて、ここのところの政権運営の迷走ぶりが、ここに至って参院選の期日を1週間動かすに至り、個人的にはいろいろ予定が狂ったことの恨み言を呟いておる(諸般の事情で7/28の予定をキャンセルする羽目になった)ところですが、個人的な恨みはさて置いて、はてさて、どうしてこんなことになっちゃったのかなー、と首をひねっているところです。
参院選前の人気取りというのであれば、国民の関心が年金問題に集中している昨今、社保庁解体法案や天下り改正法案を無理強いして通したとしても、そんなものが票に結びつかないことは明白です(国民の関心事の第一は、自分が年金をちゃんともらえるかであって、社保庁という組織をどうするかではない)。むしろ、官邸主導の強引ともいえる進め方で国会の会期を延長し、同じ与党議員であるはずの参院議長などに「参院軽視だ」とお叱りを受けている様は、現政権にとってマイナスイメージに映ることでしょう。
かように、素人目にも百害あって一利なしの会期延長・法案裁決を、与党内の反対を押し切ってまで、どうして現政権が進めたのか。安倍晋三に政治センスが欠落しているのだ、という仮説も成り立たないではありませんが、今回ふと私が思い出したのは、前・総理と共通しないこともない、ある種の「頑なさ」なのです。
小泉純一郎という男は、実に「劇場型政治」の天才としてその名を人々の記憶にとどめていくことでしょう。「郵政民営化選挙」となった一昨年の衆院選で、自民党に圧勝をもたらしたパフォーマンスは今思い返しても鮮烈なものですが、その小泉が、例えば靖国参拝については頑なとも言える姿勢を取り続け、あるいは「人生いろいろ、会社もいろいろだ」等に代表されるいささか乱暴な発言によってマスコミに噛み付き、それでいて最後まで「民衆の心」(そんなものがあるとすればですが)を掴んで離すことがなかった。これまでの日本の総理大臣にはありえないキャラクターでした。
同じことが、石原慎太郎にも言えるのではないかと思います。歌舞伎町の浄化作戦やオリンピック誘致等で強固なリーダーシップを見せ、そのリーダーシップは例えば「林試の森」訴訟の実質和解による解決のような、これまでの行政庁におよそなしえなかった決断をなし(そう言えば小泉にもハンセン病訴訟の和解という歴史的決断がありました。そんなところも似ています)、他方で、三宅島公道レースプランに見られるように、ほとんど無益というべき頑迷さでもって、自らのアイデアに固執するところもあります。そして石原もまた、「三国人」「ババア」「フランス語は劣った言語」等の問題発言を繰り返し、それでいて悪びれることがありません。そんな石原もこの春の知事選で圧倒的大差の勝利を収め、再選されました。
この二人の言動には、ある種の「幼稚さ」を共通して見てとることができます。そしてそれが幼稚さであるからこそ、「まあ、あの人も言うこと過激だからなぁ」などと大らかに受け入れられ、受け流されてしまう傾向を持っているように思います。
こうした「幼稚さ」に対し寛容な土壌というのは、つまりはわれわれ有権者もひとしく幼稚であるがゆえなのだ、と言えば、穿ちすぎでしょうか?しかし私は、特段の根拠もなく、こう確信しているのです。今やこの国(この国に限らず、先進諸国に共通した話かもしれませんが)において、われわれは「大人になる」という機会を与えられておらず、真に成熟することのない、ある種の幼稚さを常に抱いたままで、歳を重ね、老いていかざるを得ない。そのような「一億総ピーターパン化」の時代にあって、政治家が国民の信を得るためには、自らの幼稚な部分を隠すことなくさらけ出すことにより、国民のシンパシーに訴えるのが、一番の早道なのではないでしょうか。
……もちろん、上記のようなことを考えるからには、涼風的には「有権者の僕らももっとオトナになろうよ」というような気分でいるわけです。しかし他方で、小泉・石原的なものは単に批判し排除される存在でもない、と思うわけで、今後の「あるべき政治(家)の姿」というのがどのようなものか、というのは、未だ量りかねているわけですが。
それにしても、似たようなことをやってもまるで国民の支持を得られない安倍晋三は、要するに「そういうキャラじゃない」のでしょう。彼が早く自分に相応しいキャラクターの見せ方に気づくことを願います。
※ このブログを書いている涼風のウェブサイト「涼風文学堂」も併せてご覧ください。
「涼風文学堂」は小説と書評を中心としたサイトです。
……あ、書きかけの小説は400字詰め原稿用紙換算で280枚を超えました。まだ完結する気配がありませんorz
さて、ここのところの政権運営の迷走ぶりが、ここに至って参院選の期日を1週間動かすに至り、個人的にはいろいろ予定が狂ったことの恨み言を呟いておる(諸般の事情で7/28の予定をキャンセルする羽目になった)ところですが、個人的な恨みはさて置いて、はてさて、どうしてこんなことになっちゃったのかなー、と首をひねっているところです。
参院選前の人気取りというのであれば、国民の関心が年金問題に集中している昨今、社保庁解体法案や天下り改正法案を無理強いして通したとしても、そんなものが票に結びつかないことは明白です(国民の関心事の第一は、自分が年金をちゃんともらえるかであって、社保庁という組織をどうするかではない)。むしろ、官邸主導の強引ともいえる進め方で国会の会期を延長し、同じ与党議員であるはずの参院議長などに「参院軽視だ」とお叱りを受けている様は、現政権にとってマイナスイメージに映ることでしょう。
かように、素人目にも百害あって一利なしの会期延長・法案裁決を、与党内の反対を押し切ってまで、どうして現政権が進めたのか。安倍晋三に政治センスが欠落しているのだ、という仮説も成り立たないではありませんが、今回ふと私が思い出したのは、前・総理と共通しないこともない、ある種の「頑なさ」なのです。
小泉純一郎という男は、実に「劇場型政治」の天才としてその名を人々の記憶にとどめていくことでしょう。「郵政民営化選挙」となった一昨年の衆院選で、自民党に圧勝をもたらしたパフォーマンスは今思い返しても鮮烈なものですが、その小泉が、例えば靖国参拝については頑なとも言える姿勢を取り続け、あるいは「人生いろいろ、会社もいろいろだ」等に代表されるいささか乱暴な発言によってマスコミに噛み付き、それでいて最後まで「民衆の心」(そんなものがあるとすればですが)を掴んで離すことがなかった。これまでの日本の総理大臣にはありえないキャラクターでした。
同じことが、石原慎太郎にも言えるのではないかと思います。歌舞伎町の浄化作戦やオリンピック誘致等で強固なリーダーシップを見せ、そのリーダーシップは例えば「林試の森」訴訟の実質和解による解決のような、これまでの行政庁におよそなしえなかった決断をなし(そう言えば小泉にもハンセン病訴訟の和解という歴史的決断がありました。そんなところも似ています)、他方で、三宅島公道レースプランに見られるように、ほとんど無益というべき頑迷さでもって、自らのアイデアに固執するところもあります。そして石原もまた、「三国人」「ババア」「フランス語は劣った言語」等の問題発言を繰り返し、それでいて悪びれることがありません。そんな石原もこの春の知事選で圧倒的大差の勝利を収め、再選されました。
この二人の言動には、ある種の「幼稚さ」を共通して見てとることができます。そしてそれが幼稚さであるからこそ、「まあ、あの人も言うこと過激だからなぁ」などと大らかに受け入れられ、受け流されてしまう傾向を持っているように思います。
こうした「幼稚さ」に対し寛容な土壌というのは、つまりはわれわれ有権者もひとしく幼稚であるがゆえなのだ、と言えば、穿ちすぎでしょうか?しかし私は、特段の根拠もなく、こう確信しているのです。今やこの国(この国に限らず、先進諸国に共通した話かもしれませんが)において、われわれは「大人になる」という機会を与えられておらず、真に成熟することのない、ある種の幼稚さを常に抱いたままで、歳を重ね、老いていかざるを得ない。そのような「一億総ピーターパン化」の時代にあって、政治家が国民の信を得るためには、自らの幼稚な部分を隠すことなくさらけ出すことにより、国民のシンパシーに訴えるのが、一番の早道なのではないでしょうか。
……もちろん、上記のようなことを考えるからには、涼風的には「有権者の僕らももっとオトナになろうよ」というような気分でいるわけです。しかし他方で、小泉・石原的なものは単に批判し排除される存在でもない、と思うわけで、今後の「あるべき政治(家)の姿」というのがどのようなものか、というのは、未だ量りかねているわけですが。
それにしても、似たようなことをやってもまるで国民の支持を得られない安倍晋三は、要するに「そういうキャラじゃない」のでしょう。彼が早く自分に相応しいキャラクターの見せ方に気づくことを願います。
※ このブログを書いている涼風のウェブサイト「涼風文学堂」も併せてご覧ください。
「涼風文学堂」は小説と書評を中心としたサイトです。