涼風野外文学堂

文学・政治哲学・読書・時事ネタ・その他身の回り徒然日記系。

一億総ピーターパン時代の政治家の資質。

2007年06月27日 | 時事・社会情勢
 最近ろくにブログ更新してないくせにたまに更新しようとするとどうも政治ネタか法律ネタに走ってしまい、このブログの本旨であるところの「文学」にまるで触れようとしないのは、ここのところ涼風が仕事以外に特に何もしていないせいでしょう。本読んでないし。
 ……あ、書きかけの小説は400字詰め原稿用紙換算で280枚を超えました。まだ完結する気配がありませんorz

 さて、ここのところの政権運営の迷走ぶりが、ここに至って参院選の期日を1週間動かすに至り、個人的にはいろいろ予定が狂ったことの恨み言を呟いておる(諸般の事情で7/28の予定をキャンセルする羽目になった)ところですが、個人的な恨みはさて置いて、はてさて、どうしてこんなことになっちゃったのかなー、と首をひねっているところです。
 参院選前の人気取りというのであれば、国民の関心が年金問題に集中している昨今、社保庁解体法案や天下り改正法案を無理強いして通したとしても、そんなものが票に結びつかないことは明白です(国民の関心事の第一は、自分が年金をちゃんともらえるかであって、社保庁という組織をどうするかではない)。むしろ、官邸主導の強引ともいえる進め方で国会の会期を延長し、同じ与党議員であるはずの参院議長などに「参院軽視だ」とお叱りを受けている様は、現政権にとってマイナスイメージに映ることでしょう。
 かように、素人目にも百害あって一利なしの会期延長・法案裁決を、与党内の反対を押し切ってまで、どうして現政権が進めたのか。安倍晋三に政治センスが欠落しているのだ、という仮説も成り立たないではありませんが、今回ふと私が思い出したのは、前・総理と共通しないこともない、ある種の「頑なさ」なのです。

 小泉純一郎という男は、実に「劇場型政治」の天才としてその名を人々の記憶にとどめていくことでしょう。「郵政民営化選挙」となった一昨年の衆院選で、自民党に圧勝をもたらしたパフォーマンスは今思い返しても鮮烈なものですが、その小泉が、例えば靖国参拝については頑なとも言える姿勢を取り続け、あるいは「人生いろいろ、会社もいろいろだ」等に代表されるいささか乱暴な発言によってマスコミに噛み付き、それでいて最後まで「民衆の心」(そんなものがあるとすればですが)を掴んで離すことがなかった。これまでの日本の総理大臣にはありえないキャラクターでした。
 同じことが、石原慎太郎にも言えるのではないかと思います。歌舞伎町の浄化作戦やオリンピック誘致等で強固なリーダーシップを見せ、そのリーダーシップは例えば「林試の森」訴訟の実質和解による解決のような、これまでの行政庁におよそなしえなかった決断をなし(そう言えば小泉にもハンセン病訴訟の和解という歴史的決断がありました。そんなところも似ています)、他方で、三宅島公道レースプランに見られるように、ほとんど無益というべき頑迷さでもって、自らのアイデアに固執するところもあります。そして石原もまた、「三国人」「ババア」「フランス語は劣った言語」等の問題発言を繰り返し、それでいて悪びれることがありません。そんな石原もこの春の知事選で圧倒的大差の勝利を収め、再選されました。

 この二人の言動には、ある種の「幼稚さ」を共通して見てとることができます。そしてそれが幼稚さであるからこそ、「まあ、あの人も言うこと過激だからなぁ」などと大らかに受け入れられ、受け流されてしまう傾向を持っているように思います。
 こうした「幼稚さ」に対し寛容な土壌というのは、つまりはわれわれ有権者もひとしく幼稚であるがゆえなのだ、と言えば、穿ちすぎでしょうか?しかし私は、特段の根拠もなく、こう確信しているのです。今やこの国(この国に限らず、先進諸国に共通した話かもしれませんが)において、われわれは「大人になる」という機会を与えられておらず、真に成熟することのない、ある種の幼稚さを常に抱いたままで、歳を重ね、老いていかざるを得ない。そのような「一億総ピーターパン化」の時代にあって、政治家が国民の信を得るためには、自らの幼稚な部分を隠すことなくさらけ出すことにより、国民のシンパシーに訴えるのが、一番の早道なのではないでしょうか。

 ……もちろん、上記のようなことを考えるからには、涼風的には「有権者の僕らももっとオトナになろうよ」というような気分でいるわけです。しかし他方で、小泉・石原的なものは単に批判し排除される存在でもない、と思うわけで、今後の「あるべき政治(家)の姿」というのがどのようなものか、というのは、未だ量りかねているわけですが。
 それにしても、似たようなことをやってもまるで国民の支持を得られない安倍晋三は、要するに「そういうキャラじゃない」のでしょう。彼が早く自分に相応しいキャラクターの見せ方に気づくことを願います。


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食育基本法をデリダが見たら何を想うだろう?

2007年06月12日 | 政治哲学・現代思想
 問題はただ単に、主体の概念が、少なくともその支配的な図式において、男根ロゴス中心的な構造であることを喚起することではないだろう。ぼくはいつか、この図式が肉食的男性性を含んでいることを証明したいと思っている。(…中略…)主体は、ただ単に、自然の主人にして能動的な所有者たらんとするのではない。われわれの諸文化では、主体は供犠を受け入れ、肉を食べる。(…中略…)われわれの諸国で、自ら菜食主義者であることを公的に、したがって範例的に宣言しつつ、国家元首になるチャンスを、そのようにして「先頭」に到達するチャンスを待っている人がいるだろうか?指導者は肉を食べる者でなければならない。
〔…中略…〕
 これらの問いに応答することで得られるのは、単に支配者〔dominant〕の、今日なお、政治的なものや国家において、法律や道徳において支配するものの共通分母の図式ではなく、主体性そのものの支配的図式〔scheme dominant〕なのだ。それは同じ図式だ。さて今、生物と非生物の間の境界も、「人間」と「動物」の間のそれと同様、少なくとも対立的境界としてはきわめて怪しいものになり、「食べ=話し=内化する」(象徴的ないし現実的)経験において、倫理的な境界線はもはや、(人間を、汝の隣人を)「殺すなかれ」と「生物一般を死なせてはならない」の間に厳格に走っているのではなく、他者の概念〔=懐胎conception〕=自己固有化=同化の、いくつもの、無限に異なった様態の間に走っているのだとすれば、その場合には、あらゆる道徳の「善」〔Bien〕に関する問いは、自己を他者に、また他者を自己に関係づける最良の仕方、もっとも感謝にあふれた、そしてまた、もっとも多く贈与する仕方を規定することに帰着するだろう。体孔の(口唇ばかりでなく耳や眼の――そしてすべての「感覚」一般の)縁辺で生起するあらゆることについて、「正しく食べること」の換喩がつねに通例となるだろう。問題はもはや、他者を「食べる」のが、またどんな他者を「食べる」のが、「よい」〔=美味しいbon〕かどうか、あるいは「正しい」〔bien〕かどうかではない。いずれにせよわれわれは他者を食べるのだし、他者によって食べられるがままになるのだから。(…中略…)したがって、道徳的な問いは、食べなければならないのは、あるいは食べてはならないのはこれであってあれではない、生物か非生物か、人間か動物かということではない。かつて一度たりとそうであったことはない。そうではなく、いずれにせよとにかく食べねばならない〔il faut bien manger〕以上、そしてそれが〈正しい=快適な〉以上、問題は、いかに正しく(善く=適切に=快適に=美味しく)食べるべきか〔comment faut-li bien manger〕ということになる。そして、このことには、どんな内容が含まれているだろう?

『主体の後に誰が来るのか?』(ジャン=リュック・ナンシー編、現代企画室)より
『「正しく食べなくてはならない」あるいは主体の計算』(ジャック・デリダ)



 食育基本法、というキテレツな法律があります。食い物のことで人に指図されるのが大嫌いな涼風にとって、これほど腹の立つ法律も他にないのですが、議員立法の多数の例に漏れず、条文そのものの作りも甘いところが、涼風の腹立ちに拍車をかけます。大体「食育基本法」というタイトルのわりに、前文から本則附則全部読んでも結局「食育とは何か」が分からないって辺りが素晴らしすぎる。
 で、この法律がいかに出来が悪いかということを妻に愚痴っておりましたところ、ふと、前掲のデリダの「正しく食べなくてはならない」というフレーズが脳裏をよぎり、何やらぴんとひらめいたので、この本をマクドナルドに持ち込み、フライドポテトとアイスコーヒーをついばみながら該当箇所を読みふけっておりますと、不思議なことに、学生時代とはまるで違って、乾いた砂に水をたらしたように、すいすいと頭に入っていく(ような気がする)のでした。
 そもそも国家というものに、国民を飼育しようとする性格があることは否定のしようもありませんが、普段はその性格を隠していて、表に出さないこともまた、国家の生き残りの戦略であると思うのです(だからこそ柳沢厚労相の「産む機械」発言が政治的問題となる。柳沢発言の分析はこのへんこのへん参照)。それにもかかわらず、これほど露骨に、国家が国民に対し、法という形式を用いて、「正しい食べ方」を教示しようという、今のこの国を覆う「鈍感さ」をどのように理解したらよいのでしょうか。
 逆説的にわれわれは、マックで巨大なハンバーガーとラージサイズのコーラをかっ喰らい、ハニーシロップ味のポップコーンの大袋に手を突っ込みながら映画を見、テレビゲームのコントローラーを握る合間にホームサイズのアイスクリームのカップに直接大きなスプーンを突っ込んで食べなければいけないのかもしれません。スローライフだのロハスだのが「正しい食べ方」に絡め取られる危険性が高まっている昨今、むしろメガマックこそが、主体のテクストを攪乱するラディカルなムーブメントと言えるのではないか、とさえ思えてくるのですが、どうでしょうか?

 ……そんなことを思いついてからこのブログの記事にするまでに1ヶ月近くかかってますorz何だか忙しいというより気が急いてます。精神的余裕が不足しています。
 で、何で今日唐突に思い出して先月の話を記事にしようと思ったのかというと、昼食にメガてりやきを食べたからなのですが。

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※ 件の「食育基本法」はこちらからご参照ください。