一部で「史上もっとも注目されない総裁選」などと揶揄された自民党総裁選ですが、実はこっそり注目してました。正直、やる前から結果の見えてた衆議院議員選挙などより、よっぽど注目してました。それだけに、結果を見て「うん、まぁ、そんなもんか」と軽い失望を覚えたのも、まあ自業自得といったところでしょう。
どこに注目していたかというと、河野太郎が、議員票をどれくらい取れるか、というところです。蓋を開けてみると3候補中最下位の35票という結果で、ああ、野党になったからってそんな簡単に変わるもんじゃないんだなぁ、と慨嘆するに十分でした。
衆院選での惨敗を受けて、自民党の国会議員の年齢構成がいびつになってしまったことは、多くのメディアが指摘しているところです。派閥の領袖クラスを含むベテラン議員が、小選挙区でことごとく敗れた結果、比例区でこれらのベテラン議員ばかりが復活当選し、名簿下位の若手議員まで椅子が回ってこなかった、というお話です。
しかし、であるからこそ、ここは国民にアピールするチャンスであったと思うのです。
小選挙区制が導入され、世論のちょっとした動向が思いもよらぬ議席数の変動に影響する、そんな状況だからこそ、小泉純一郎はあえて、特定郵便局長という自民党最大の集票マシーンを「ぶっ壊す」ことによって自民党を延命させることに成功したのだし、その後を継いだ3人はまったく「風を読む」ことができず、旧来の自民党的なものの考え方に掴まって、ただ党勢が衰退していくのを指をくわえて見守ることしかできませんでした。
今回自民党は衆院選で大敗し、野党になりました。前回(一時的に)野に下った時とは異なり、過半数を失っただけでなく、最大政党でもなくなったことで、政権に返り咲く展望は、短期的なスパンでは描くことができなくなっています。
つまり、今誰が自民党総裁の座に就いたとしても、それは(河野洋平が総裁になった時と比べてもさらに絶望的なまでに)総理になる可能性の乏しい総裁です。
もっと言ってしまえば、ここで総裁になった者が多少何かをやらかしたからといって、今の自民党に失うものなどありません。野党である自民党は、積極的にリスクを取りに行くことのできる立場です。このタイミングで、いちばん無難な候補を選んでどうするのか、と問いたい。
河野太郎は、今の自民党の中では数少ない、「とんがった」政治家であると思います(良くも悪くも)。一国の首相としてはそれではいけないのかもしれませんが、野党第一党の党首なら、それでもいけると思うのです。
もしかしたら、前原誠司が民主党の代表を務めたときの偽メール問題のように、派手なやらかしをしてしまうかもしれない。しかし、その時にこそ、谷垣禎一のような「無難な人材」への取替えが可能なのであって、先に無難な人材を使ってしまったら、その後反転攻勢に出ようとしたところで、そう簡単には、とんがった人材への取替えはできないと思うのです。
私が「自民党はもう駄目かもしれない」と思ったのは、衆院選よりもう少し前、世襲制限が与野党間で話題になっていた頃のことです。この問題に対する対応は、民主・自民どちらも的外れであったと思いますが、自民党の某ベテラン議員が、世襲制限に対して、「憲法が保障する職業選択の自由に反する」と真顔で言っていたことです。
それ言うなら職業選択の自由じゃなくて参政権だろ。
国会議員はいつから「職業」になったのでしょう。アーレント風に言えば、彼らは政治の場で活動actionをするのではなく、仕事workをするのだと明言しているのです。それはもはや公的領域の行為ではなく、当該議員自身の必然性に裏打ちされた、私的領域の出来事です。
まさにこの議員は「政治家」ではなく「政治屋」であることを自ら告白したのであって、職業的に、自らの食い扶持のために議員であろうとしているだけであり、国家の舵取りを担う覚悟など、微塵もないことを明らかにしているのです。
出自が世襲かどうか、など問題ではありません。世襲、即、無能、と決まったわけではない。ただわれわれは、「政治屋」ではない「政治家」にこそ、国政を託したいのです。われわれは世襲を批判しているのではなく、世襲議員が政治の世界を私物化していることを批判しているのです。
もう少し補足すれば、世襲問題とは「世襲議員が多すぎるから、世襲の候補者が立候補できなくすべきだ」という「間口を狭める」問題ではなく、「世襲議員が多すぎるから、世襲ではない候補者がもっと選挙で戦える下地を整えるべきだ」という「間口を広げる」問題として捉えなければならなかったと思うのです。
この問題を突き詰めると「サラリーマンが立候補できる仕組みづくり」を考えなければいけない、という話になるのですが、既に話がだいぶ逸れてきて、今回のエントリの趣旨から少し外れてきたので割愛します。
とりあえず、野党になってもまだ、国会議員を当選回数でランク付けしたり、派閥の論理で物事が動くと思っているうちは、自民党は過去の栄光を懐かしむ敬老クラブとしての機能しか果たさない、と、あえて苦言を呈しておきましょう。今までの自民党政治の中で当たり前だった物事をいったん取り払い、自民党の骨組みを根幹から考える。野党となった自民党に求められているのは、そのような「自民党を見直す」作業であり、ここでは谷垣禎一という食事療法より、河野太郎という劇薬を投じるべきではなかったのかな、と思うのです。少なくとも、旧体制の破壊、という効能については、この劇薬はきっと効いたんじゃないかな(その後の骨格形成に効くかどうかは未知数ですが)、と思うと、つくづく、今回の総裁選の結果は残念でなりません。
どこに注目していたかというと、河野太郎が、議員票をどれくらい取れるか、というところです。蓋を開けてみると3候補中最下位の35票という結果で、ああ、野党になったからってそんな簡単に変わるもんじゃないんだなぁ、と慨嘆するに十分でした。
衆院選での惨敗を受けて、自民党の国会議員の年齢構成がいびつになってしまったことは、多くのメディアが指摘しているところです。派閥の領袖クラスを含むベテラン議員が、小選挙区でことごとく敗れた結果、比例区でこれらのベテラン議員ばかりが復活当選し、名簿下位の若手議員まで椅子が回ってこなかった、というお話です。
しかし、であるからこそ、ここは国民にアピールするチャンスであったと思うのです。
小選挙区制が導入され、世論のちょっとした動向が思いもよらぬ議席数の変動に影響する、そんな状況だからこそ、小泉純一郎はあえて、特定郵便局長という自民党最大の集票マシーンを「ぶっ壊す」ことによって自民党を延命させることに成功したのだし、その後を継いだ3人はまったく「風を読む」ことができず、旧来の自民党的なものの考え方に掴まって、ただ党勢が衰退していくのを指をくわえて見守ることしかできませんでした。
今回自民党は衆院選で大敗し、野党になりました。前回(一時的に)野に下った時とは異なり、過半数を失っただけでなく、最大政党でもなくなったことで、政権に返り咲く展望は、短期的なスパンでは描くことができなくなっています。
つまり、今誰が自民党総裁の座に就いたとしても、それは(河野洋平が総裁になった時と比べてもさらに絶望的なまでに)総理になる可能性の乏しい総裁です。
もっと言ってしまえば、ここで総裁になった者が多少何かをやらかしたからといって、今の自民党に失うものなどありません。野党である自民党は、積極的にリスクを取りに行くことのできる立場です。このタイミングで、いちばん無難な候補を選んでどうするのか、と問いたい。
河野太郎は、今の自民党の中では数少ない、「とんがった」政治家であると思います(良くも悪くも)。一国の首相としてはそれではいけないのかもしれませんが、野党第一党の党首なら、それでもいけると思うのです。
もしかしたら、前原誠司が民主党の代表を務めたときの偽メール問題のように、派手なやらかしをしてしまうかもしれない。しかし、その時にこそ、谷垣禎一のような「無難な人材」への取替えが可能なのであって、先に無難な人材を使ってしまったら、その後反転攻勢に出ようとしたところで、そう簡単には、とんがった人材への取替えはできないと思うのです。
私が「自民党はもう駄目かもしれない」と思ったのは、衆院選よりもう少し前、世襲制限が与野党間で話題になっていた頃のことです。この問題に対する対応は、民主・自民どちらも的外れであったと思いますが、自民党の某ベテラン議員が、世襲制限に対して、「憲法が保障する職業選択の自由に反する」と真顔で言っていたことです。
それ言うなら職業選択の自由じゃなくて参政権だろ。
国会議員はいつから「職業」になったのでしょう。アーレント風に言えば、彼らは政治の場で活動actionをするのではなく、仕事workをするのだと明言しているのです。それはもはや公的領域の行為ではなく、当該議員自身の必然性に裏打ちされた、私的領域の出来事です。
まさにこの議員は「政治家」ではなく「政治屋」であることを自ら告白したのであって、職業的に、自らの食い扶持のために議員であろうとしているだけであり、国家の舵取りを担う覚悟など、微塵もないことを明らかにしているのです。
出自が世襲かどうか、など問題ではありません。世襲、即、無能、と決まったわけではない。ただわれわれは、「政治屋」ではない「政治家」にこそ、国政を託したいのです。われわれは世襲を批判しているのではなく、世襲議員が政治の世界を私物化していることを批判しているのです。
もう少し補足すれば、世襲問題とは「世襲議員が多すぎるから、世襲の候補者が立候補できなくすべきだ」という「間口を狭める」問題ではなく、「世襲議員が多すぎるから、世襲ではない候補者がもっと選挙で戦える下地を整えるべきだ」という「間口を広げる」問題として捉えなければならなかったと思うのです。
この問題を突き詰めると「サラリーマンが立候補できる仕組みづくり」を考えなければいけない、という話になるのですが、既に話がだいぶ逸れてきて、今回のエントリの趣旨から少し外れてきたので割愛します。
とりあえず、野党になってもまだ、国会議員を当選回数でランク付けしたり、派閥の論理で物事が動くと思っているうちは、自民党は過去の栄光を懐かしむ敬老クラブとしての機能しか果たさない、と、あえて苦言を呈しておきましょう。今までの自民党政治の中で当たり前だった物事をいったん取り払い、自民党の骨組みを根幹から考える。野党となった自民党に求められているのは、そのような「自民党を見直す」作業であり、ここでは谷垣禎一という食事療法より、河野太郎という劇薬を投じるべきではなかったのかな、と思うのです。少なくとも、旧体制の破壊、という効能については、この劇薬はきっと効いたんじゃないかな(その後の骨格形成に効くかどうかは未知数ですが)、と思うと、つくづく、今回の総裁選の結果は残念でなりません。