涼風野外文学堂

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トキヤスたん激萌え(ムシロ燃え)。

2007年02月28日 | 時事・社会情勢
 さて、ここで言うトキヤスたんというのはもちろん最高裁判事(第三小法廷所属)の藤田宙靖氏をおいて他にないのですが(何がどうもちろんで他にないのかはあえてツッコまないでいただきたい)、行政法を学んだことのある方なら、判例百選の評釈とかで少なからず彼の名を見たことがあるはずです。したがって私などから見れば、裁判官というより学者のイメージがまだまだ強いトキヤスたんですが、平成14年に裁判官に転じて以来、数多くの注目すべき判決に関わっています(いや、最高裁の判決は多かれ少なかれいずれも注目すべきなんですけども)。
 しかしこの2月だけで2件、新聞報道的にも行政法学界においても、特に注目すべき判決が立て続けに出され、そのいずれにもトキヤスたんがディープに関わっていることは特筆すべきでしょう。そのうち1件は「在ブラジル被爆者健康管理手当等請求事件」(平成19年2月6日第三小法廷判決、平成18(行ヒ)136)です。この裁判にトキヤスたんは裁判長として携わっています。
 事件のあらましをかいつまんで説明しますと、広島で被爆後ブラジルに移住した原告らが、被爆者援護法に基づく給付を打ち切られたことについて、広島県知事に対し訴えを提起したものです。海外移住を原因に給付を打ち切ったのは、当時の厚生省の通達に沿った事務だったのですが、この通達は違法なものでした。しかし、地方自治法によると当該請求権は5年で確定的に消滅時効にかかるため、広島県知事は5年を超えてさかのぼった分の支給を拒否しました。この「5年で消滅時効」という県側の主張が認められるかどうかが、主な争点となりました。
 さてさて、裁判官の書く判決文というのは(特に最高裁判決においては)往々にして厳格にすぎ、堅苦しくてとっつきにくい文体(それはそれで味があるのですが)で書かれているものなのですが、この判決は一味違う。どう違うかといえば、一部をここに引用してみますと、

 前記事実関係等によれば,被上告人らは,その申請により本件健康管理手当の受給権を具体的な権利として取得したところ,上告人は,被上告人らがブラジルに出国したとの一事により,同受給権につき402号通達に基づく失権の取扱いをしたものであり,しかも,このような通達や取扱いには何ら法令上の根拠はなかったというのである。通達は,行政上の取扱いの統一性を確保するために,上級行政機関が下級行政機関に対して発する法解釈の基準であって,国民に対し直接の法的効力を有するものではないとはいえ,通達に定められた事項は法令上相応の根拠を有するものであるとの推測を国民に与えるものであるから,前記のような402号通達の明確な定めに基づき健康管理手当の受給権について失権の取扱いをされた者に,なおその行使を期待することは極めて困難であったといわざるを得ない。他方,国が具体的な権利として発生したこのような重要な権利について失権の取扱いをする通達を発出する以上,相当程度慎重な検討ないし配慮がされてしかるべきものである。しかも,402号通達の上記失権取扱いに関する定めは,我が国を出国した被爆者に対し,その出国時点から適用されるものであり,失権取扱い後の権利行使が通常困難となる者を対象とするものであったということができる。
 以上のような事情の下においては,上告人が消滅時効を主張して未支給の本件健康管理手当の支給義務を免れようとすることは,違法な通達を定めて受給権者の権利行使を困難にしていた国から事務の委任を受け,又は事務を受託し,自らも上記通達に従い違法な事務処理をしていた普通地方公共団体ないしその機関自身が,受給権者によるその権利の不行使を理由として支払義務を免れようとするに等しいものといわざるを得ない。


 ……熱いよ!熱すぎるよトキヤス!
 学者さん出身というのも影響しているかもしれませんが、多くの判決文に見られるような「淡々とした」口調とは一線を画し、「しかも」とか「いわざるを得ない」とかの使い方といい、「何ら」だの「極めて」だのの強調の仕方といい、やたらとコブシの効いた、力の入りっぷりが窺える文体になっています。
 この判決を見ただけでも、涼風はもう半ばトキヤスファンになってしまっていたのですが(この種の判決を単純に喜んでいられる立場ではないのですが、まあそれはそれ)、そんなにわかトキヤスファンを小躍りさせるような判決が、昨日出ました。既に新聞紙面などを騒がせている、君が代ピアノ伴奏拒否事件の最高裁判決(「戒告処分取消請求事件」平成19年2月27日第三小法廷判決、平成16(行ツ)328)です。この事件で、合議体を形成した裁判官5名のうち、我らがトキヤスたんは、ただ一人だけ多数意見に賛同せず、反対意見を付しています。この反対意見がもう、これでもかって言わんばかりに、熱い。

 ところで,学校行政の究極的目的が「子供の教育を受ける利益の達成」でなければならないことは,自明の事柄であって,それ自体は極めて重要な公共の利益であるが,そのことから直接に,音楽教師に対し入学式において「君が代」のピアノ伴奏をすることを強制しなければならないという結論が導き出せるわけではない

 本件の場合,上告人は,当日になって突如ピアノ伴奏を拒否したわけではなく,また実力をもって式進行を阻止しようとしていたものでもなく,ただ,以前から繰り返し述べていた希望のとおりの不作為を行おうとしていたものにすぎなかった。従って,校長は,このような不作為を充分に予測できたのであり,現にそのような事態に備えて用意しておいたテープによる伴奏が行われることによって,基本的には問題無く式は進行している。ただ,確かに,それ以外の曲については伴奏をする上告人が,「君が代」に限って伴奏しないということが,参列者に一種の違和感を与えるかもしれないことは,想定できないではないが,問題は,仮に,上記1において見たように,本件のピアノ伴奏拒否が,上告人の思想・良心の直接的な表現であるとして位置付けられるとしたとき,このような「違和感」が,これを制約するのに充分な公共の福祉ないし公共の利益であるといえるか否かにある(なお,仮にテープを用いた伴奏が吹奏楽等によるものであった場合,生のピアノ伴奏と比して,どちらがより厳粛・荘厳な印象を与えるものであるかには,にわかには判断できないものがあるように思われる。)。

 仮にこういった目的のために校長が発した職務命令が,公務員の基本的人権を制限するような内容のものであるとき,人権の重みよりもなおこの意味での校長の指揮権行使の方が重要なのか,が問われなければならないことになる。【中略】また,原審及び多数意見は,本件職務命令は,教育公務員それも音楽専科の教諭である上告人に対し,学校行事におけるピアノ伴奏を命じるものであることを重視するものと思われるが,入学式におけるピアノ伴奏が,音楽担当の教諭の職務にとって少なくとも付随的な業務であることは否定できないにしても,他者をもって代えることのできない職務の中枢を成すものであるといえるか否かには,なお疑問が残るところであり(付随的な業務であるからこそ,本件の場合テープによる代替が可能であったのではないか,ともいえよう。ちなみに,上告人は,本来的な職務である音楽の授業においては,「君が代」を適切に教えていたことを主張している。),多数意見等の上記の思考は,余りにも観念的・抽象的に過ぎるもののように思われる。

 ……熱いよ!マジ熱いよ!ヤバいって!マジ半端ねぇっすよトキヤス!

 と、まあ、少々興奮気味に紹介してみた次第ですが、暇と気力がおありでしたら、是非前掲の判例2件の判決文全文に目を通してみることをお勧めします。最近の判例は、私が大学で学んでいた頃に比べても、格段に、読んでて楽しくなってきている気がします。
 その中でもトキヤスたんは私のイチオシです。みんなで応援しましょう。あ、でも、国民審査のときに「わーいトキヤスたんだー」とか言って投票用紙にチェック入れちゃったりすると、彼を辞めさせようとする票としてカウントされてしまいますのでご注意を。


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※ 判決文の引用中、強調部分は引用者によるものです。

柳沢厚労相を擁護してみるテスト。

2007年02月06日 | 時事・社会情勢
 世間では少子化問題に係る厚生労働大臣の舌禍事件が相変わらず賑やかな模様ですが世間と隔絶された修羅場の真っ只中にいる俺様はそんなこと知ったこっちゃないのですが何か?(軽くキレ気味)
 しかしこんな時世だからこそ、感情に任せてマスコミの煽動に乗っかってキレてるばっかりじゃなく、少し冷静になって、物事を反対側から観察してみることも大事なのではないかと思います。果たして世間様の言うように、厚労相ただ一人の資質の問題なのか。問題の根は実はもっと深いところにあるのではないか。
 例の「産む機械」発言にせよ、直近の「健全」発言にせよ、口にしている本人に悪気はないのだし(だからなお悪い、という批判ももっともですが、まあそれは置いておいて)、世間一般のオッサンとして非常にありふれた意見(それでは務まらないのが大臣だ、という批判も(以下略))であるとも思うのです。
 実際のところ「少子化対策」というタームそれ自体が、根本的な問題として、今般の大臣発言に象徴されるような矛盾を内包しているのではないか、と思います。もっと言ってしまえば、問題を「少子化対策」という感覚で捉えてしまったその時点で、必然的に、今般の「産む機械」的発想に早晩行き着かざるをえないのではないでしょうか。
 そもそも「少子化」を問題と捉えてこれに「対策」を行おうという発想は、現在の出生率が理想より低いということ、これを上昇させることが必要だということが暗黙の前提になっています。現在の出生率と比較対象になるものは、当然過去の出生率しかありません。過去の出生率と比較して現在の出生率は低下傾向が止まらず、このまま進めば社会を構成する年齢構造がどんどん高齢にシフトし、少ない生産人口で、多数の生産力のない高齢者を支えなければならなくなる、という論理です。
 しかしこれは、そもそも、根本的に逆なのではないでしょうか。「少子化が進む」→「高齢化社会になる」→「少ない生産人口で多数の高齢者を支える」→「破綻する」のではなく、「人口増を前提に社会制度設計をした」→「目論見が外れた」→「破綻する」→「少子化対策が必要」というのが実情なのではないでしょうか。端的に言えば、社会制度設計が根本的に間違っていたのに、そのツケを少子化対策に回しているのです。
 さらに突っ込んで言ってしまえば、そもそも、過去の高い出生率というものは、女性の人権を犠牲にした上に成り立ってきた部分を否定できないと思います。子を産み、育てるというのは、女性の身体に負担をかけることをどうしても避けて通れないわけで、これは例えば、一般の事務職員として働き、成果を積み重ね、出世しようという価値を追及しようとしたときには、キャリアを途中で一旦休止せざるをえない点で、どうしても妨げになります。女性の社会進出に必要な契機が充分に与えられていなかったことが、結果的に女性に、選択の余地なく「子を産み育て母となる」ことを強いており、それが一定の出生率の底上げを担っていた、という見方をしても、あながち大外れではないように思えます。
 程度の差こそあれ、少子化の流れというのは、多くの先進国に共通のものです。それはある意味、社会の熟成とともに避けては通れない道なのではないでしょうか。ほんとうに出生率の数字だけを上げようと思うならある意味簡単で、女性の就職差別を露骨に行い、まともな性教育を実施せず、ついでに避妊具の利用も規制すればよろしい。しかしそれが先進国家のあるべき姿でしょうか?
 そして、過去の社会に比べて現代が少しでも人権が尊重されるものとなっているのであるならば、少子化はもはや(その進展のスピードを緩めることは不可能でないにせよ)不可避のものとなっており、年齢別人口構成がさほど変化しないことを前提にしていた各種の社会保障制度(主に年金制度)は、当初の制度設計そのものが間違っていたこと、前提条件を見誤っていたことを認めざるをえないのです。今般、早急に進められるべきは、少子高齢化を前提とした上でのセーフティーネットの張り直しなのであり、前提条件そのものに変更を加えることではないのです。

 さて、それでも「少子化対策」という厄介な問題を突きつけられ、それについて何ごとかを語ることを求められた厚労相が、過日のような発言をしたことを、果たして厚労相個人の資質の問題として切って捨てるべきなのでしょうか?それとも、今回の騒動をいい契機と捉えて、少子化問題が抱えるねじれの根の深さに思いをいたすべきなのでしょうか?と意地悪な問いを投げかけて今日は終わることにします。いえ、決して現在国民年金法がらみの仕事で四苦八苦していることの腹いせでは(ry


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