美容室に髪を切りに行きますと、最初にスタイリストさんと打ち合わせして、どんな髪型にしたいか話し合うわけですが(そして「伸びた分てきとーに切って」とか言っちゃうワタクシ)、その打ち合わせ机の上に、いつも必ず、「ヘアカタログ」なる冊子が置いてあります。いろんな髪型のモデルの写真が載ってて、この中から好きなの選べってことらしいのですが、今さら髪型ちょっといじったくらいでは市原隼人にも小池徹平にもなれないことは分かりきっていますので、あまり参考にはしていません。
それより、涼風が気になって見ているのは、このヘアカタログ内にある、髪型と関係のない「特集記事」や「広告」の類です。色々な出版元から出ている、それぞれ別の本であるにも関わらず、これらのヘアカタログは、特集記事や広告の作りまで含めて、どれもまったく同じに見えます。特集記事として、必ず載っているのは、自分でやるスタイリングの仕方(ドライヤーの使い方やスタイリング剤のつけ方)と、フレグランス特集。広告としては、幸運のお守り系と、脱毛、身長を伸ばす系、あとは、男性自身を大きくする系、と決まっています。
そして、これらの特集記事や広告に共通するキーワードが「モテ」です。これらの記事や広告の中には、必ずといっていいほどどこかに「モテる」の文字が躍っています。そこらの女子にモテるかどうかより、娘に嫌われないかどうかのほうに関心を取られているパパ涼風としては、もはや遠い世界の出来事にしか見えないのですが、あるいは遠い世界の出来事だからこそ、そこで乱発される「モテ」の脅迫的な感じに、違和感を覚えます。
そういえば、と思って手元にある「ロスジェネ」辺りを見返してみたのですが、秋葉原の無差別殺傷事件の犯人と絡めて、「モテ」の問題は、案外切実なものとして語られています。
しかしながら、この「モテ」への渇望、「モテなければならない」という強迫観念、「モテ」と「非モテ」で人間が二分され、「非モテ」は人格すべてを否定されてしまうかのような殺伐とした感覚が、涼風には、どうも理解できません。
もちろん、誤解のないように申し上げておけば、十代の頃辺りを振り返ってみれば、涼風は、お世辞にもモテた方とは言い難い男子でした。基本、男子ばっかりでつるんでゲーセン行ったりTRPGやったりしてるか、一人で部屋に籠もって小説書いてるかTRPGのシナリオ書いてる、そんな感じの、色恋沙汰の点から評価したらかなり薄暗くて湿気っぽい感じの青春時代を過ごしてました。
しかし、だからこそ、昨今はびこるこの「モテない」ことへの悲壮感というのが、どうも感覚的に理解できないわけです。思い返してみても、さっぱり女っ気のない中高生の頃、自分は悲惨で救いようのない暗黒の時間を過ごしていただろうかと考えると、そんなことはなくって、むしろ女の子のご機嫌をうかがうより、男ばっかりで集まって遊んでる方が楽しかった実感すらあるのです。
このように考えると、今時の中高生は、涼風が中高生の頃よりももっと切実に、「モテ」の圧力に晒されているのだろうか?と心配せずにはおれません。
冒頭に挙げた「ヘアカタログ」のメインターゲットは、どう考えても、中高生です。そこに「モテ」を人生の指標として掲げるような、「モテない男子は生きる価値なし」とでも言いたげな言説が入り込んでいることを、どのように評価すべきなのでしょうか。十代も前半のうちからすでに、「イケてる髪型で、汗臭くなくて、金もまあまああり、毛深すぎず、背も高くて、立派なものを股間にぶら下げている」男子であることを求められる、熾烈な競争社会に放り込まれているのでしょうか。それはある意味、受験競争社会などより、よっぽど過酷な生存競争かもしれません。
だとすれば――「ロストジェネレーション」などと言ってますが、世代論的に言えば、本当に大変なのは実はより若い世代、これから学校を卒業し、社会に出て行かなければならない世代なのではないでしょうか。
既にバブルのフロンティア(あるいはニッチ)は先の世代に食い尽くされ、何ら美味しい果実は残されていない世代。社会保障制度の構築を怠ってきたツケがたまって、しかもそれを少子化のせいにされている中で、担い手とならなければならない世代。大学出て就職して結婚して子供育ててマイホーム建てて、みたいな物語が神話か笑い話にしか聞こえない世代。そして――未来に希望は持てないし、家族は負担でしかないし、人間関係は希薄極まりない中で、(湯浅誠風に言えば「溜め」が決定的に不足している中で)唯一の希望、あるいはファンタジーを、「モテ」の中にしか見出すことのできない世代。
私も含め、彼らより年上の世代は、せめて自らの命が惜しければ、これら若い世代が「暴発」する前に、何らかの手を打つ必要があるのかもしれません。
それより、涼風が気になって見ているのは、このヘアカタログ内にある、髪型と関係のない「特集記事」や「広告」の類です。色々な出版元から出ている、それぞれ別の本であるにも関わらず、これらのヘアカタログは、特集記事や広告の作りまで含めて、どれもまったく同じに見えます。特集記事として、必ず載っているのは、自分でやるスタイリングの仕方(ドライヤーの使い方やスタイリング剤のつけ方)と、フレグランス特集。広告としては、幸運のお守り系と、脱毛、身長を伸ばす系、あとは、男性自身を大きくする系、と決まっています。
そして、これらの特集記事や広告に共通するキーワードが「モテ」です。これらの記事や広告の中には、必ずといっていいほどどこかに「モテる」の文字が躍っています。そこらの女子にモテるかどうかより、娘に嫌われないかどうかのほうに関心を取られているパパ涼風としては、もはや遠い世界の出来事にしか見えないのですが、あるいは遠い世界の出来事だからこそ、そこで乱発される「モテ」の脅迫的な感じに、違和感を覚えます。
そういえば、と思って手元にある「ロスジェネ」辺りを見返してみたのですが、秋葉原の無差別殺傷事件の犯人と絡めて、「モテ」の問題は、案外切実なものとして語られています。
しかしながら、この「モテ」への渇望、「モテなければならない」という強迫観念、「モテ」と「非モテ」で人間が二分され、「非モテ」は人格すべてを否定されてしまうかのような殺伐とした感覚が、涼風には、どうも理解できません。
もちろん、誤解のないように申し上げておけば、十代の頃辺りを振り返ってみれば、涼風は、お世辞にもモテた方とは言い難い男子でした。基本、男子ばっかりでつるんでゲーセン行ったりTRPGやったりしてるか、一人で部屋に籠もって小説書いてるかTRPGのシナリオ書いてる、そんな感じの、色恋沙汰の点から評価したらかなり薄暗くて湿気っぽい感じの青春時代を過ごしてました。
しかし、だからこそ、昨今はびこるこの「モテない」ことへの悲壮感というのが、どうも感覚的に理解できないわけです。思い返してみても、さっぱり女っ気のない中高生の頃、自分は悲惨で救いようのない暗黒の時間を過ごしていただろうかと考えると、そんなことはなくって、むしろ女の子のご機嫌をうかがうより、男ばっかりで集まって遊んでる方が楽しかった実感すらあるのです。
このように考えると、今時の中高生は、涼風が中高生の頃よりももっと切実に、「モテ」の圧力に晒されているのだろうか?と心配せずにはおれません。
冒頭に挙げた「ヘアカタログ」のメインターゲットは、どう考えても、中高生です。そこに「モテ」を人生の指標として掲げるような、「モテない男子は生きる価値なし」とでも言いたげな言説が入り込んでいることを、どのように評価すべきなのでしょうか。十代も前半のうちからすでに、「イケてる髪型で、汗臭くなくて、金もまあまああり、毛深すぎず、背も高くて、立派なものを股間にぶら下げている」男子であることを求められる、熾烈な競争社会に放り込まれているのでしょうか。それはある意味、受験競争社会などより、よっぽど過酷な生存競争かもしれません。
だとすれば――「ロストジェネレーション」などと言ってますが、世代論的に言えば、本当に大変なのは実はより若い世代、これから学校を卒業し、社会に出て行かなければならない世代なのではないでしょうか。
既にバブルのフロンティア(あるいはニッチ)は先の世代に食い尽くされ、何ら美味しい果実は残されていない世代。社会保障制度の構築を怠ってきたツケがたまって、しかもそれを少子化のせいにされている中で、担い手とならなければならない世代。大学出て就職して結婚して子供育ててマイホーム建てて、みたいな物語が神話か笑い話にしか聞こえない世代。そして――未来に希望は持てないし、家族は負担でしかないし、人間関係は希薄極まりない中で、(湯浅誠風に言えば「溜め」が決定的に不足している中で)唯一の希望、あるいはファンタジーを、「モテ」の中にしか見出すことのできない世代。
私も含め、彼らより年上の世代は、せめて自らの命が惜しければ、これら若い世代が「暴発」する前に、何らかの手を打つ必要があるのかもしれません。