涼風野外文学堂

文学・政治哲学・読書・時事ネタ・その他身の回り徒然日記系。

「正しくモテなければならない」という圧力。

2009年04月26日 | 日記・身辺雑記
 美容室に髪を切りに行きますと、最初にスタイリストさんと打ち合わせして、どんな髪型にしたいか話し合うわけですが(そして「伸びた分てきとーに切って」とか言っちゃうワタクシ)、その打ち合わせ机の上に、いつも必ず、「ヘアカタログ」なる冊子が置いてあります。いろんな髪型のモデルの写真が載ってて、この中から好きなの選べってことらしいのですが、今さら髪型ちょっといじったくらいでは市原隼人にも小池徹平にもなれないことは分かりきっていますので、あまり参考にはしていません。
 それより、涼風が気になって見ているのは、このヘアカタログ内にある、髪型と関係のない「特集記事」や「広告」の類です。色々な出版元から出ている、それぞれ別の本であるにも関わらず、これらのヘアカタログは、特集記事や広告の作りまで含めて、どれもまったく同じに見えます。特集記事として、必ず載っているのは、自分でやるスタイリングの仕方(ドライヤーの使い方やスタイリング剤のつけ方)と、フレグランス特集。広告としては、幸運のお守り系と、脱毛、身長を伸ばす系、あとは、男性自身を大きくする系、と決まっています。
 そして、これらの特集記事や広告に共通するキーワードが「モテ」です。これらの記事や広告の中には、必ずといっていいほどどこかに「モテる」の文字が躍っています。そこらの女子にモテるかどうかより、娘に嫌われないかどうかのほうに関心を取られているパパ涼風としては、もはや遠い世界の出来事にしか見えないのですが、あるいは遠い世界の出来事だからこそ、そこで乱発される「モテ」の脅迫的な感じに、違和感を覚えます。

 そういえば、と思って手元にある「ロスジェネ」辺りを見返してみたのですが、秋葉原の無差別殺傷事件の犯人と絡めて、「モテ」の問題は、案外切実なものとして語られています。
 しかしながら、この「モテ」への渇望、「モテなければならない」という強迫観念、「モテ」と「非モテ」で人間が二分され、「非モテ」は人格すべてを否定されてしまうかのような殺伐とした感覚が、涼風には、どうも理解できません。
 もちろん、誤解のないように申し上げておけば、十代の頃辺りを振り返ってみれば、涼風は、お世辞にもモテた方とは言い難い男子でした。基本、男子ばっかりでつるんでゲーセン行ったりTRPGやったりしてるか、一人で部屋に籠もって小説書いてるかTRPGのシナリオ書いてる、そんな感じの、色恋沙汰の点から評価したらかなり薄暗くて湿気っぽい感じの青春時代を過ごしてました。
 しかし、だからこそ、昨今はびこるこの「モテない」ことへの悲壮感というのが、どうも感覚的に理解できないわけです。思い返してみても、さっぱり女っ気のない中高生の頃、自分は悲惨で救いようのない暗黒の時間を過ごしていただろうかと考えると、そんなことはなくって、むしろ女の子のご機嫌をうかがうより、男ばっかりで集まって遊んでる方が楽しかった実感すらあるのです。

 このように考えると、今時の中高生は、涼風が中高生の頃よりももっと切実に、「モテ」の圧力に晒されているのだろうか?と心配せずにはおれません。
 冒頭に挙げた「ヘアカタログ」のメインターゲットは、どう考えても、中高生です。そこに「モテ」を人生の指標として掲げるような、「モテない男子は生きる価値なし」とでも言いたげな言説が入り込んでいることを、どのように評価すべきなのでしょうか。十代も前半のうちからすでに、「イケてる髪型で、汗臭くなくて、金もまあまああり、毛深すぎず、背も高くて、立派なものを股間にぶら下げている」男子であることを求められる、熾烈な競争社会に放り込まれているのでしょうか。それはある意味、受験競争社会などより、よっぽど過酷な生存競争かもしれません。
 だとすれば――「ロストジェネレーション」などと言ってますが、世代論的に言えば、本当に大変なのは実はより若い世代、これから学校を卒業し、社会に出て行かなければならない世代なのではないでしょうか。
 既にバブルのフロンティア(あるいはニッチ)は先の世代に食い尽くされ、何ら美味しい果実は残されていない世代。社会保障制度の構築を怠ってきたツケがたまって、しかもそれを少子化のせいにされている中で、担い手とならなければならない世代。大学出て就職して結婚して子供育ててマイホーム建てて、みたいな物語が神話か笑い話にしか聞こえない世代。そして――未来に希望は持てないし、家族は負担でしかないし、人間関係は希薄極まりない中で、(湯浅誠風に言えば「溜め」が決定的に不足している中で)唯一の希望、あるいはファンタジーを、「モテ」の中にしか見出すことのできない世代。

 私も含め、彼らより年上の世代は、せめて自らの命が惜しければ、これら若い世代が「暴発」する前に、何らかの手を打つ必要があるのかもしれません。

壁と卵とカナファーニー。

2009年04月19日 | 読書
 昨日、自宅から徒歩10分のショッピングモール内の本屋で、娘に絵本を買ってやるためにうろうろしておりますと、ふと、文芸書新刊のコーナーに、ガッサーン・カナファーニーの短編・中編集『ハイファに戻って/太陽の男たち』を発見してしまいました。
 確かに、岡真理らの熱心な紹介もあって、日本でもその名前を聞く機会が増えてきた昨今ですから、いずれ邦訳で読めるようになるチャンスもあるだろうとは思っていましたが、絶版になっていた筈のこんな本を、直ちに新装新版として再版した河出書房新社の対応の素早さは、さすがだと思います。あと、こんな一般に売れそうも無い本を、住宅街の端っこにある家族連れしか来ないようなSCの本屋で入荷してしまう担当者さんも凄いと思いました。もちろん、そういうものを本棚の片隅でしっかり発見して購入してくる俺様も凄いと思います。

 パレスチナ問題というのは、現代社会の喉にささり続けている棘のようなもので――もちろん、ミャンマーも、スリランカも、アフリカの多くの国々も、いわゆる「ポストコロニアル」世界の問題については、すべて同じ比喩が当てはまるのですが、その歴史的経緯から現在の複雑な感情までを考え合わせると、これはもはや当事者だけの問題ではなく、世界人類が背負った原罪のようなものの、突出した一部分なのではないか、と思えてくるところです。
 これらの問題の中で、特にパレスチナ問題を語る上で意識しなければならないのは、第2次大戦における「ホロコースト」の存在でしょう。「表象不可能」と言われたこの歴史的事件――出来事は、その後のシオニズム運動を語る上で、常にその暗い影を落とし続けています。「証言」により「出来事」を生起させることを狙った、クロード・ランズマンの『ショアー』は、もちろんこのような「表象不可能な、暴力的な出来事」を考える重大な手掛かりを与えてくれる作品なのですが、その第三部・第四部辺りから、「ユダヤ人国家」という理想を守るための暴力の正当性が、いささか安易に描かれてしまうところが、この作品の限界を表すところであり、また、ホロコーストがその後のシオニズム運動のあり方にある種の限界を与えてしまったことを、如実に表しているところだと思います。

 昨年末から年初にかけてのイスラエル軍のガザ侵攻、そしてその只中で、日本を代表する作家である村上春樹が「イェルサレム賞」を受賞したことで、日本人の目も多少はこの地域に向くようになったのでしょうか。

 受賞スピーチが報道されてすぐに、「イェルサレム・ポスト」紙の英文記事に行き当たったので、これを和訳して掲載しようと思っていたのですが、そうこうしてる間にスピーチ全文が出て、和訳も出て、すっかり時期遅れになってしまいました。
 しかし、今だからこそ、この新聞記事を再読してみようと思います。今、私の興味があるのは、イェルサレム賞の受賞スピーチで村上春樹が何を喋ったか、そのことをどう解釈すべきか、ということより、彼のスピーチを、イスラエルの人々が、どのように受け止めたか、ということなのです。
 せっかく途中まで和訳したところだったので、この際、今日、記事の全文を和訳してみました。

Murakami, in trademark obscurity, explains why he accepted Jerusalem award
(「薄明の作家」ムラカミ、イェルサレム賞受賞の理由を語る)

Israel is not the egg.
(イスラエルは、卵ではない。)

Confused? This might be the only explanation we will ever hear from Japanese bestselling author Haruki Murakami - and in true Murakami style, even it will be somewhat vague.
(混乱させてしまっただろうか?しかしこれが、日本のベストセラー作家、ハルキ・ムラカミから聞くことのできる、唯一の説明かもしれない。まさにムラカミ式の、いくらか漠然とした。)

Murakami on Sunday night defeated jetlag, political opposition and droves of photographers to accept the Jerusalem Prize for the Freedom of the Individual in Society at the opening of the 24th Jerusalem International Book Fair held at Jerusalem's International Conference Center.
(ムラカミは、日曜の晩、時差ぼけと、政治的反対と、多くのカメラマンとを振り払って、イェルサレム国際会議場で開かれる第24回イェルサレム国際書籍フェアのオープニングで、「社会における個人の自由のためのイェルサレム賞」を受けた。)

Flanked by President Shimon Peres and Jerusalem Mayor Nir Barkat, he took the prize with quiet poise. Then, alone on the podium and free of camera flashes, the author got down to business.
(Shimon Peres大統領、Nir Barkatイェルサレム市長と並んで、彼は静かに、落ち着いて、賞を受けた。それから、一人で登壇し、カメラのフラッシュからも解放されて、作家は、仕事を始めた。)

"So I have come to Jerusalem. I have a come as a novelist, that is - a spinner of lies.
(「それで、僕はイェルサレムに来ました。僕は、小説家として――嘘の紡ぎ手として、ここへ来ました。

"Novelists aren't the only ones who tell lies - politicians do (sorry, Mr. President) - and diplomats, too. But something distinguishes the novelists from the others. We aren't prosecuted for our lies: we are praised. And the bigger the lie, the more praise we get.
(「小説家ばかりが嘘をつくというわけではありません――政治家だって(すみません、大統領)、外交官だって、嘘をつきます。だけど、小説家は、他の嘘つきとは少々違うところがあります。われわれは、自らの嘘つきのかどで起訴されることはありません。むしろ賞賛されます。さらに、嘘が大きければ大きいほど、さらなる賞賛を得ます。

"The difference between our lies and their lies is that our lies help bring out the truth. It's hard to grasp the truth in its entirety - so we transfer it to the fictional realm. But first, we have to clarify where the truth lies within ourselves.
(「われわれの嘘と他の人々の嘘との間にある違いは、われわれの嘘は、真実を明らかにすることの助けとなる、ということです。真実を、完全な形でつかむということは難しい――だから、われわれは真実を、フィクションの領域に変換するのです。しかし、まず、われわれは心の中で、真実がどこにあるのかを明らかにしなければなりません。

"Today, I will tell the truth. There are only a few days a year when I do not engage in telling lies. Today is one of them."
(「今日、僕は真実を伝えようと思います。僕が嘘をつくことと係わり合いにならない日は、年に何日もないのですが。今日は、そのうちの一日です。」)

Murakami's novels are surreal and imaginative, often bordering on bizarre. Reading his books is like gazing at a Picasso: a certain detachment from normalcy is required so that the objects and events in Murakami's world can settle into their own logic.
(ムラカミの小説は、超現実的で、想像力に富み、しばしば風変わりなものに触れる。彼の本を読むことは、ピカソの絵を見ることに似ている。ムラカミの世界における物事や出来事を、それら自身のロジックの中に落ち着かせるためには、ある種の日常感覚からの乖離が必要とされるのだ。)

But at the heart of each novel, standing in stark contrast to the logical chaos around him, is a very human, self-aware, humble soul-searching individual - and one whose internal struggles are the same as our own.
(しかし、どの小説の中心にも、彼を取り巻く論理的なカオスとまったくの対照をなして、まさに人間が、―自覚的で、矮小な自分探しをし、そして、われわれと同じ内部的葛藤を持つ、人間が、いる。)

The panel that chose Murakami as its winner made its decision quickly and unanimously, citing Murakami's themes of universal humanism, love for humanity, and battles with existential questions that have no easy answers. But while the award panel debated little about who should receive this year's award, Murakami himself was torn about accepting it.
(選考委員は、普遍的なヒューマニズム、人類愛、容易な答えのない実存的な問いとの格闘といった、ムラカミのテーマを掲げながら、すぐに、そして満場一致で、ムラカミを受賞者に決定した。しかし、選考委員が、誰を今年の受賞者にするかについて大した議論もしていない間、当のムラカミ自身は、この賞を受け取るかどうかで、引き裂かれていたのだ。)

"When I was asked to accept this award," he said, "I was warned from coming here because of the fighting in Gaza. I asked myself: Is visiting Israel the proper thing to do? Will I be supporting one side?
(「この賞を受賞するかと打診があったとき、」彼は言った、「ガザでの戦闘を理由に、ここへ来ることについて警告を受けました。僕は自問しました。イスラエルを訪れるのは、適切なことなのだろうか? 一方に加担することになりはしないだろうか?)

"I gave it some thought. And I decided to come. Like most novelists, I like to do exactly the opposite of what I'm told. It's in my nature as a novelist. Novelists can't trust anything they haven't seen with their own eyes or touched with their own hands. So I chose to see. I chose to speak here rather than say nothing.
(「このことについていくらか考えを巡らせて、それから、僕はここへ来ることを決めました。大概の小説家と同様に、僕もまた、人から教えられたこととまったく逆のことをやりたくなってしまうのです。それが、小説家としての僕の性癖なのです。小説家というものは、自分の目で見て、自分の手で触れたもの以外は、信じようとしません。だから、僕も見ることを選びました。僕は、何も言わないことよりも、ここで喋ることを選んだのです。)

"So here is what I have come to say."
(「それが、僕がここに話しに来ているということなのです。」)

And here Murakami left behind the persona of his main characters and took on the role of a marginal one (the lucid wisdoms in his novels tend to come from acquaintances of the protagonist), making a clear statement that left no room for reinterpretation. No time for ambiguity, this.
(ここに至って、ムラカミは、主要な登場人物の立場から一歩引き、再解釈をする余地のない明確な主張をする、端役(彼の小説において、明快な知見はしばしば、主人公の知人によってもたらされる)を引き受けた。)

"If there is a hard, high wall and an egg that breaks against it, no matter how right the wall or how wrong the egg, I will stand on the side of the egg.
(「もし、硬くて高い壁があって、そこに卵がぶつかって砕けているとするならば、どれだけ壁が正しく、卵が誤っていようとも、僕は卵の側に立とうと思います。)

"Why? Because each of us is an egg, a unique soul enclosed in a fragile egg. Each of us is confronting a high wall. The high wall is the system" which forces us to do the things we would not ordinarily see fit to do as individuals.
(「何故かと問われれば、僕たちは皆、固有の魂を壊れやすい殻に包んだ、卵であるからです。僕たちは皆、高い壁に直面しています。その壁とは「システム」、僕たちが、個人としてはそれをすることを通常、適当と考えないようなことを、僕たちにそうするよう強いるものです。)

"I have only one purpose in writing novels," he continued, his voice as unobtrusive and penetrating as a conscience. "That is to draw out the unique divinity of the individual. To gratify uniqueness. To keep the system from tangling us. So - I write stories of life, love. Make people laugh and cry.
(「僕が小説を書くのは、ただひとつの目的のため、」彼は、控えめで、それでいて良心に貫かれた声で、続けた。「それは、個人の中にある固有な神性を、引き出すことです。固有性を満足させることです。システムによって、僕たちがぐちゃぐちゃにされないようにすることです。そのために―僕は人生を、愛を、物語ります。人々を笑わせ、あるいは泣かせます。)

"We are all human beings, individuals, fragile eggs," he urged. "We have no hope against the wall: it's too high, too dark, too cold. To fight the wall, we must join our souls together for warmth, strength. We must not let the system control us - create who we are. It is we who created the system."
(「僕たちは誰もが人間であり、個人であり、壊れやすい卵です。」彼は力説した。「壁に向かったとき、僕たちは無力です。それはとても高く、暗く、冷たい。壁と戦うために、僕たちは、暖かく、強くあるために、魂を互いに結び合わなければなりません。僕たちは、システムに僕たちがコントロールされることを、許すわけにはいきません―システムに僕たちが何者であるかを決めさせてはいけません。システムを作り出したのは、僕たちなのです。」)

Murakami, his message delivered, closed by thanking his readership - a special thing indeed from a man who does not make a habit of accepting awards in person.
(ムラカミは、彼のメッセージが届けられると、読者への謝辞で締めくくった―自ら進んで賞を受けるという習慣のない彼にあって、本当に、特別なものであった。)

"I am grateful to you, Israelis, for reading my books. I hope we are sharing something meaningful. You are the biggest reason why I am here."
(「イスラエルの皆さん、僕の本を読んでくれてありがとう。僕たちが、意義のある何かを共有することができていれば、幸いです。あなたたちの存在こそが、僕がここにいる最大の理由です。」)


 どうでしょうか。
 スピーチ全文と比較して、どの部分がかいつままれ、どの部分が報じられなかったのか、を見る必要もあるでしょうが、差し当たって、記者もどう報じたらよいものか戸惑っているような感じはします。
 その戸惑いの背景にあるのは、スピーチの時期からして「イスラエル=壁、ガザの市民=卵」という解釈が容易に成り立つものであり、記者としては、そのことに触れたくなかった、ということなのではないかな、と邪推します。

 しかし、そのような形で村上春樹のスピーチを理解し、そしてさらにそのことに目をつぶろうとしている限り、状況は好転しないのではないかな、という気がします。
 私が読む限りでは、ガザで空襲や銃撃にさらされた無辜の市民が卵であるのと同様に、ガザの市民に銃口を向け、引き金を引かなければならなかったイスラエルの兵士もまた、ひとつの卵なのです。そして、村上春樹が警戒している「壁」とは、「イスラエル国家」や「イスラム原理主義組織」といった簡単な言葉で言い表せるものではなく、パレスチナ人にロケット砲を握らせ、イスラエル軍に白リン弾を放たせる、彼らにそうすることを強いている、より大きな「何か」なのではないでしょうか。

 このことを、カナファーニーは、もう何十年も前に指摘していたのです。
 冒頭に挙げた作品集の表題作『ハイファに戻って』は、ユダヤ軍の侵攻を受けてハイファの自宅を捨て、乳飲み子を家に残したまま逃げ出さざるをえなくなった、サイードとソフィアの若い夫婦が、二十年の時を経て、ハイファの自宅に戻る物語です。彼らが残していった乳児は、同じ家に入居したユダヤ人夫妻が自分の子として育て、成人し、こともあろうにイスラエルで兵役に就いています。二十歳になった自分の息子、ユダヤ人として育てられ、祖国のためにイスラエル軍に入った息子に、自らを捨てたことを責められ、サイードは、このように返します。

 しかし、いつになったらあなた方は、他人の弱さ、他人の過ちを自分の立場を有利にするための口実に使うことをやめるのでしょうか。そのような言葉は言い古され、もうすりきれてしまいました。そのような虚偽でいっぱいの計算ずくの正当化は……。ある時は、われわれの誤りはあなた方の誤りを正当化するとあなた方は言い、ある時は、不正は他の不正では是正されないと言います。あなた方は前者の論理をここでのあなた方の存在を正当化するために使い、後者の論理をあなた方が受けねばならぬ罰を回避するために使っています。

 ユダヤ人とパレスチナ人のいずれかだけが過ちを犯したわけではなく、いずれか一方のみを否定すれば問題が解決するわけではありません。それにも関わらず、互いが互いの破滅を望み、どちらか一方が完全にこの土地の上から姿を消すことでしか物事が解決しないと信じているのであれば――それは、現実的でないばかりでなく、論理的に正しいことですらないのです。
 卵と壁の比喩を、単純な二分法で理解しようとする発想は、もうやめにした方がよいでしょう。そのような発想は、却って村上春樹が指摘する「壁=システム」の存在を、見えづらいものにしてしまいます。幾重にも重なり合った過ち、憎しみ、悲しみの中で、しかしすべての個人に、固有の神的なものが宿り、そしてそれは壊れやすい卵の殻で包まれている――それを引き出すのは小説家の仕事かもしれませんが、それを受け止めるのはわれわれ、読者の仕事です。

少年たちは王子様になれるか?

2009年04月10日 | 読書
 昨年テレビを買い換えて、デジタル対応になって以来、TOKYO MXとBS11が見られるようになったので、我が家のお茶の間のオタク度が上昇中です。現在も「エウレカセブン」をBGM代わりにだらだら流しながらパソコンいじってます。こういう世界からはもう長年遠ざかっていたのである意味新鮮です。ああ、エヴァンゲリオン後の世界ってこんな感じなのね、って。

 さて、「エウレカセブン」の前は「地獄少女 三鼎」を、これはBGM代わりではなく、ソファに腰を落ち着けてじっくり見ていたのですが、正直「地獄少女」は、涼風的にここ数年の中でもっとも「気になった」少女漫画です。何が気になるって、漫画の内容よりも、掲載誌がKissとかデザートじゃなくて「なかよし」って辺りが。今日びの小学生女子はこんなもの読んでるのか、って思うと、娘を持つ父親としては複雑な心境です(気が早すぎ)。「おはよう!スパンク」や「あおいちゃんパニック!」で育った世代としては、隔世の感です(ああ歳がバレる)。
 気になった、と言いつつ、コミックス1巻買ったきり続きを買うのを躊躇っています。だって、怖いんですもの。
 いや、一般的な意味での「怖い」雰囲気の漫画は、涼風が「なかよし」読んでたン十年前にだってありましたよ。高階良子とか、松本洋子とか、なんかおっかない漫画描いてる漫画家が、当時の「なかよし」にもいたような記憶はあります。
 しかし「地獄少女」の怖さは、一般的なミステリ漫画の怖さとは、方向性が違います。涼風がこの漫画を「怖い」と感じるのは、この漫画に通底する救いの無さや、未来への希望の無さであって、そしてそれが「なかよし」という、小学生をメインターゲットとする漫画誌で受け入れられている、という事実なのです。

 涼風の世代は、大きく捉えれば、ガン黒茶髪ルーズソックスの女子高生ブームの走りとも言うべき世代であって、同世代あるいはそれより年少の少女たちが、セクシュアルな記号として市場経済に溶け込まされ、濫費されていくのを、ずっと見てきた世代でもあります。
 そのような、ほとんど人身売買のような市場の暴力に対し、疎外されて、ただ「見てただけ」の立場にあった少年たちのやるせなさ、世界への不信といったところについては、過去に「ラブやん」を絡めて触れたことがあるのですが(2007年8月26日付け「ロス・ジェネ文学としての『ラブやん』。」)、同じ頃、こうした市場の暴力に直接にさらされ、その中に自ら溶け込み、自らを濫費させていくことでしか世界に承認されることのなかった、理不尽な圧力と救いのない孤独の下にあった、同世代の少女たちのやるせなさ、世界への不信の深さは、いかほどだったでしょうか。
 「地獄少女」が怖いのは、こうした「少女たちの抱く、世界への不信」が、ますます悪化していることの、一端を示しているからに他なりません。少女たちはいつも非力で、しかもたった一人で、彼女らを利用し、傷つけ、貶めようとする、途方もない害意と、戦わなければなりません。それは苦しい戦いで、しかもどうにか戦い抜いて生き延びたところで、その先に展望が開けているわけではありません。

 このような、少女たちの抱える闇の深さについては、別段「地獄少女」を見たり読んだりしたから考えたわけではなく、むしろ椎名林檎の楽曲あたりをきっかけに、もう何年もずっと考えていたところです。
 しかし涼風は少女ではなく、もはや少年ですらなくなっているわけで、自身がこうした少女たちに何か道を指し示すことができるとは、あまり思っていません。それよりは、少しでも可能性があるとするならば、少年たちに、人生の先達として、自ら果たせなかった希望を預けること、深い深い闇の奥で息を潜めている少女たちの、腕を引っつかんで光の当たる場所に無理やり引っ張り出してくる、そんな荊姫の童話にあるような「王子様」になるための道を指し示すことの方ではないかな、と思っているのです。

 以前BUMP OF CHICKENの音楽に乗じて、少年たちが「孤独の先の世界」を見ることの可能性に触れたこともありますが(2007年12月25日付け「痛み、孤独、その一歩先に。」)、音楽だけでなく漫画の世界でも、少年たちにそうしたメッセージを届ける可能性があるものがないだろうか、と思って、「BAKUMAN」の1巻を買ってきたのが、2、3ヶ月前のことです。正直、期待以上でした。
 まあ、「DEATH NOTE」のガモウ×小畑(ガモウって言うな)コンビですから、一筋縄ではいかないだろうと読む前から思ってはいましたが、これだけ斜に構えてるくせに、ちゃんとジャンプの伝統である「努力・友情・勝利」のスローガンに真正面から立ち向かっている辺りがスゴいです。「DEATH NOTE」のときは、「すげーおもしれー」と思いつつ「こういうものを読まざるを得ない今時の小学生は大変だナァ」とも思っていたのですが、「BAKUMAN」はもう少し素直に(あるいは気楽に)「面白いナァ」と言って読むことができます。相変わらず、世の中を見透かして軽く失望して、あくまでもクールにドライに物事を進めようとしていながら、「BAKUMAN」には「DEATH NOTE」にはない、若気の至りとでも言うべき熱気があって、ああ、こういうのも悪くないじゃん、と素直に思わせてくれます。やればできるじゃんガモウひろし(だからガモウって言うな)。

 少年たちは、少年であるがゆえに、夢を抱き、希望を(あるいは野望を)持つべきなのです。私の母校にずっと昔いた先生も「小僧ども、野心を持て」って言ってました(涼風訳では)。
 そして、われわれ「大人たち」が、少年たちのために何かできることがあるとするならば、無責任に無謀な挑戦を焚き付けることではなく、この時代において、夢や希望を持ち続けることがいかに困難であるかを承知した上で、それでもなお、夢や希望を持ち続けることの可能性を示すことではないのかな、と思うのです。
 その意味において、「地獄少女」の怖さを打ち破ることができるのは「BAKUMAN」の若すぎるくらいの情熱なのではないか、と、最近本気で思い始めています。涼風自身も、ラノベ書きたい、とか、たまにはハッピーエンドの話書きたいとか考えるようになってきましたが、そうした欲求の背景には、こうした「少年たちに伝えたいメッセージ」が感じられるようになってきたことがあるのです。

 ……しかし、とはいえ、「BAKUMAN」はギャグがいちいち古いかマニアックすぎで、やはり小学生男子には難しいような気もします。単行本1巻170ページの「伝説の編集」なんて、絶対マシリトでしょ(マシリトって言うな)。

激流の中で年度始め。

2009年04月05日 | 日記・身辺雑記
 2ヶ月以上も留守にしてしまいました。このブログの(数少ない)常連読者の皆様にあっては、「あーまた年度末だし仕事忙しいのね」と生暖かく見守っていただいていたものと思いますが、実をいうと、仕事は例年に比べればかなり暇でした。
 それなら何でブログ更新しないんじゃい、とツッコミの入りそうなところですが、これはもう、仕事が原因でないとするならば、プライベートに原因があるに決まってるわけでして、この2月から妻が仕事に復帰し、娘が保育園に通い始めたあたりに原因を見出すほかありません。つーか、走り過ぎです1歳児。文化系パパはもう体力的に追い付けません。

 さて、この2ヶ月間、ブログのネタにしたい出来事は色々ありました。村上春樹のイェルサレム賞受賞スピーチとか(あれはメタファーに過剰な意味を代入するよりも、比喩は比喩のまま聞いた方が却って分かりいいんじゃないだろうか)、闇サイトで知り合った3人がやらかした拉致殺人の地裁判決とか(更正を主目的とするこの国の刑罰の考え方は、いかにしても更正の可能性を見出せない被告人の闇の深さに直面したとき、沈黙せざるをえない)、気になる物事は多々あったのですが、もはや旬の話題ではなくなってしまっていて、今さらこれらの話題でブログにエントリすることが躊躇われる辺り、インターネットメディアの圧倒的なスピード感に呆然とさせられるところです。
 そして、このようなスピード感と文学的思索とは、やはりあまり相性が良くないナァ、と思い始めている次第です。立ち止まって深く考えたい事項がそこかしこに散らばっているのに、日常的な必然性の波にあっという間に押し流されてしまう。それはインターネットの世界だけの出来事ではなく、全世界を覆う現象であり、こんな時代にどんな文学が生起しうるのだろう、というややもすると悲観的になりがちな問いに、私はまだ答えを出せていません。

 そうは言いつつ、文学的なものも非文学的なものも含めて、やりたい事だけは山のようにあります。
 とりあえず、すっかり野ざらしになっている『涼風文学堂』を何とかしたいところです。現状、どうしても更新頻度や即応性の面からは、ブログが中心となっていくのはやむを得ません。そうであるならば、前線基地であるブログに対して、ウェブサイトはロジスティクスとなるべく、多少は腰を据えた思索に基づいた、時間を経過しても古びることのないコンテンツを格納しておく場にならなければいけないでしょう。
 それと、欲を言えば、ブログをもう一つ持ちたい気持ちがあります。現状、このブログは「文学」を標題に掲げておきながら、時折(しばしば?)お仕事の話に傾いてしまうので、できれば「お仕事ブログ」は別で持ちたい、という願望があるのです。

 ……いずれにせよ、もう少し時間を上手に使えるようになってからの話です。
 好きと嫌いとに関わらず、猛スピードで展開を続けるこの現代世界に生きる我々は、忙しさを理由にして何も生み出さずに時間を浪費するよりも、忙しさを馴化して時間に都合を付けることを考えた方がいいに決まってるのです。
 決して、このエントリ書いてる途中で、娘が目の前でうんち漏らしちゃったくらいで、挫折してはいけないんです。いけないんですったら。


【追伸】
 懸案となっていた454枚の長編は、結局大した手直しもせず、適当な文学賞に送り付けました。正直、1次予選も通過できそうもないと思ってますが、書き上げた小説ちまちま手直しするよりも、新しい小説書きたいんですもの。
 ……ところで、送付先からわざわざ「届いたよー」ってハガキ届いたのですが。今まで色々投稿してきて初めての経験なのですが、よほど丁寧なところなのか?それとも、最近みんなそうなの?