元厚生事務次官宅が相次いで襲撃される、というショッキングなニュースに若干注意喚起されたこともあって、『ロスジェネ別冊2008秋葉原無差別テロ事件「敵」は誰だったのか?』なんぞ買ってきました。若干、寄附による運動支援みたいな気持ちもあったことも事実です。
さて、以前『SIGHT』を読んだ際のエントリで、東浩紀の停滞について触れましたが、この『ロスジェネ』内での彼の迷走ぶりは、シンポジウムの発言記録、という形式の影響はあるでしょうが、以前よりは、共感が持てる種類の迷い方だな、と思えました。一部引用しますと、
僕はもともと哲学とか現代思想をやっていました。20世紀には希望を語る言葉はけっこうあった。ナショナリズムやマルクシズムだけではなく、例えば経済成長の神話もそうです。モダニズム全体がそうです。そして20世紀は希望を語る言葉が、その裏返しで人を傷つけてきた歴史だというのが僕の考えです。僕は、そういうのを学生のころからずっと学んでいたということもあって、希望を語る言葉に対しては躊躇せざるをえない。
というような問題意識は、おそらく大筋で間違っていないと思えるのです。
ところが、
僕は最近、いまの世の中について考えると、結局これは宗教の問題に行くんじゃないかという気がし始めています。
とかうっかり思考停止の発言をしてしまって、
正確に言うと、宗教をつくるというより、世界宗教が開いた他者性や外部性を再検討してみるということですが。
と他のパネリスト(大澤信亮)からフォローされて、
そうですね。そういうのは一個一個変えていくべきだよね。どうもいま、僕はちょっと危ないところへ行っていた。もっと細かくやることがある。危ないところだった(笑)。
と慌てて訂正する一幕があったりします。
おそらく東浩紀は、現代思想、特にニューアカ的手法の行き詰まりに十分自覚的で、そこから距離を置くことで新たに批評的な言語表現を獲得しようとしている。ところが、彼はまさに哲学・現代思想のフィールドで言語を獲得してきた出自を持つのであるから、そこから離れることは、たいてい、腰の座らない一過性の思い付きに終わる。だから『SIGHT』の時はリバタリアニズムに近寄ってみたり(アメリカ政治思想の前提知識を欠いているがゆえの失敗)、今回は神学論争(論理的思考の放棄に近い)に足を踏み入れそうになったり、迷走を続けているわけです。あなたの探している言葉は、きっと現代思想の文脈の中にしかないよ、とアドバイスを送ってやりたくもなりますが、迷う姿そのものは実に人間味があって、共感できます。
さて、長い前書きは終わりまして、ここからが本題。
この本全体を通して見ると、例えば雨宮処凜や赤木智弘といった「素人代表」というべき面々においては、「ネオリベが悪い」とか「正社員は敵だ」といった、簡単に敵を措定する論理に、親和的なところがあります。他方で、東浩紀や萱野稔人といった、比較的アカデミックな方面のパネリストからは、このような単純な論理に対する相応の警戒感が見て取れます。
そして本全体を通して見れば、結局のところ「確かな敵などいないのではないか?」「にも関わらず、この圧倒的な敵意は何だ?」という疑問が浮き彫りになる、と言えると思います。われわれ(という危険な用語を、さして吟味もせず用いるという蛮勇を奮いたいと思います)は、常に「姿の見えない敵と戦っている」ような、困難に晒されているのではないか。この本のサブタイトルからして、本の制作者たちがこうした困難に十分自覚的であることの証左でしょう。
それは、ある意味で世代間闘争であり、またある意味で階級闘争でもある。あるいは、この『ロスジェネ』の中で十分触れられてはいませんが、地域間格差の問題も、避けては通れない(例えば、ワーキングプアの若者が食べる格安の牛丼やコンビニ弁当が、世界のどの場所で、どのような低賃金労働によって生み出された食材を用いているのかを考えてみる。あるいは、地方出身者の就職活動と都心在住者のそれを比較してみる)。
そこでは敵と味方、同質と差異、こちら側とあちら側が簡単に入れ代わる。決定的な同質も差異もない。――言い換えれば、自分以外はすべて敵、ということにもなる。
おそらく、この本に出てくるパネリストのほとんどは、それぞれの人なりの認識の仕方でもって、このような「アトミズム的世界」の姿を、確かに視界に捉えているのだと思います。
万人の万人に対する闘争、というのは一種のファンタジーだったはずなのに、気が付けば現実がそれに近づいている。われわれは圧倒的な孤独に晒されていて、それは早晩「世界全体を敵とみなす」ことに結び付かざるをえない。イコール、秋葉原の無差別テロ事件に寄り添ってしまう。これを否定するために、例えば敵を特定しようとしたり、連帯を導入しようとしたり、共通の希望を探したりしている、というのが、私なりに各パネリストの発言を分析したところです。
――そしてそれは、明らかに行き詰まりつつあるムーブメントです。敵は特定できるはずがないし、これほど分断化された世界ではもはや連帯こそがファンタジーだし、一言で言い表せる希望が簡単に見つかるようなら苦労はない。これらの運動は、いずれも壁に突き当たっています。
おそらく、皆が気付いているのです。
多くのパネリストが、ことはグローバル資本主義の問題であることに言及し、しかしながら、そこから深く掘り下げることはできずに終わっています。杉田俊介が
でも、広い意味での日本の左派のなかに、それをやれる人は正直いない。マルクスが19世紀の産業資本主義を(当時の古典派経済学を踏まえつつ)分析したように、現在の21世紀のグローバル資本主義を(新古典派・近代経済学を踏まえつつ)科学的に分析できる人が。
と指摘しているのは当を得ていると思いますが、それで終わりにしてしまってよいものでしょうか。
各パネリストが、これ以上深くに踏み込めない理由を、邪推してみます。グローバル資本主義の問題だと気付いていながら、これを語る言葉を持ちえない、というより、語ろうという挑戦さえしない。それは、この問題の向こう側に、より本質的な問題が透けて見えるからではないか。
あえて挑戦的に言ってしまいましょう。ことはグローバル資本主義の問題でさえないのではないか、と。「グローバル」を外した、単なる「資本主義」の問題なのではないか、と。
これは絶望的と言うべき指摘になるでしょう。「万人が万人から切り離されてたった一人で世界と敵対する」という状態が、資本主義の失敗の結果として生じるのではなく、資本主義が深化した当然の帰結として生じるのだとしたら。
さらに言えば、近代的な人権概念と私的自治の当然の帰結であるこの資本主義システムこそが、その完成型として、決定的に分断され孤独に追いやられたアトミズム的世界の実現へと収束するものであるとしたら。
……さて、このエントリを携帯で書き始めてから、既に1週間くらい経過してしまったので、ここらで1回アップロードしておきます。この間に、厚生事務次官宅襲撃事件の犯人も名乗り出てきてしまいましたし。
そして、ブログで扱うにはちとボリュームの大きすぎる話題になってきたかもしれないので、もう少しじっくり考えてみることにします。
※ このブログを書いている涼風のウェブサイト「涼風文学堂」も併せてご覧ください。
「涼風文学堂」は小説と書評を中心としたサイトです。
さて、以前『SIGHT』を読んだ際のエントリで、東浩紀の停滞について触れましたが、この『ロスジェネ』内での彼の迷走ぶりは、シンポジウムの発言記録、という形式の影響はあるでしょうが、以前よりは、共感が持てる種類の迷い方だな、と思えました。一部引用しますと、
僕はもともと哲学とか現代思想をやっていました。20世紀には希望を語る言葉はけっこうあった。ナショナリズムやマルクシズムだけではなく、例えば経済成長の神話もそうです。モダニズム全体がそうです。そして20世紀は希望を語る言葉が、その裏返しで人を傷つけてきた歴史だというのが僕の考えです。僕は、そういうのを学生のころからずっと学んでいたということもあって、希望を語る言葉に対しては躊躇せざるをえない。
というような問題意識は、おそらく大筋で間違っていないと思えるのです。
ところが、
僕は最近、いまの世の中について考えると、結局これは宗教の問題に行くんじゃないかという気がし始めています。
とかうっかり思考停止の発言をしてしまって、
正確に言うと、宗教をつくるというより、世界宗教が開いた他者性や外部性を再検討してみるということですが。
と他のパネリスト(大澤信亮)からフォローされて、
そうですね。そういうのは一個一個変えていくべきだよね。どうもいま、僕はちょっと危ないところへ行っていた。もっと細かくやることがある。危ないところだった(笑)。
と慌てて訂正する一幕があったりします。
おそらく東浩紀は、現代思想、特にニューアカ的手法の行き詰まりに十分自覚的で、そこから距離を置くことで新たに批評的な言語表現を獲得しようとしている。ところが、彼はまさに哲学・現代思想のフィールドで言語を獲得してきた出自を持つのであるから、そこから離れることは、たいてい、腰の座らない一過性の思い付きに終わる。だから『SIGHT』の時はリバタリアニズムに近寄ってみたり(アメリカ政治思想の前提知識を欠いているがゆえの失敗)、今回は神学論争(論理的思考の放棄に近い)に足を踏み入れそうになったり、迷走を続けているわけです。あなたの探している言葉は、きっと現代思想の文脈の中にしかないよ、とアドバイスを送ってやりたくもなりますが、迷う姿そのものは実に人間味があって、共感できます。
さて、長い前書きは終わりまして、ここからが本題。
この本全体を通して見ると、例えば雨宮処凜や赤木智弘といった「素人代表」というべき面々においては、「ネオリベが悪い」とか「正社員は敵だ」といった、簡単に敵を措定する論理に、親和的なところがあります。他方で、東浩紀や萱野稔人といった、比較的アカデミックな方面のパネリストからは、このような単純な論理に対する相応の警戒感が見て取れます。
そして本全体を通して見れば、結局のところ「確かな敵などいないのではないか?」「にも関わらず、この圧倒的な敵意は何だ?」という疑問が浮き彫りになる、と言えると思います。われわれ(という危険な用語を、さして吟味もせず用いるという蛮勇を奮いたいと思います)は、常に「姿の見えない敵と戦っている」ような、困難に晒されているのではないか。この本のサブタイトルからして、本の制作者たちがこうした困難に十分自覚的であることの証左でしょう。
それは、ある意味で世代間闘争であり、またある意味で階級闘争でもある。あるいは、この『ロスジェネ』の中で十分触れられてはいませんが、地域間格差の問題も、避けては通れない(例えば、ワーキングプアの若者が食べる格安の牛丼やコンビニ弁当が、世界のどの場所で、どのような低賃金労働によって生み出された食材を用いているのかを考えてみる。あるいは、地方出身者の就職活動と都心在住者のそれを比較してみる)。
そこでは敵と味方、同質と差異、こちら側とあちら側が簡単に入れ代わる。決定的な同質も差異もない。――言い換えれば、自分以外はすべて敵、ということにもなる。
おそらく、この本に出てくるパネリストのほとんどは、それぞれの人なりの認識の仕方でもって、このような「アトミズム的世界」の姿を、確かに視界に捉えているのだと思います。
万人の万人に対する闘争、というのは一種のファンタジーだったはずなのに、気が付けば現実がそれに近づいている。われわれは圧倒的な孤独に晒されていて、それは早晩「世界全体を敵とみなす」ことに結び付かざるをえない。イコール、秋葉原の無差別テロ事件に寄り添ってしまう。これを否定するために、例えば敵を特定しようとしたり、連帯を導入しようとしたり、共通の希望を探したりしている、というのが、私なりに各パネリストの発言を分析したところです。
――そしてそれは、明らかに行き詰まりつつあるムーブメントです。敵は特定できるはずがないし、これほど分断化された世界ではもはや連帯こそがファンタジーだし、一言で言い表せる希望が簡単に見つかるようなら苦労はない。これらの運動は、いずれも壁に突き当たっています。
おそらく、皆が気付いているのです。
多くのパネリストが、ことはグローバル資本主義の問題であることに言及し、しかしながら、そこから深く掘り下げることはできずに終わっています。杉田俊介が
でも、広い意味での日本の左派のなかに、それをやれる人は正直いない。マルクスが19世紀の産業資本主義を(当時の古典派経済学を踏まえつつ)分析したように、現在の21世紀のグローバル資本主義を(新古典派・近代経済学を踏まえつつ)科学的に分析できる人が。
と指摘しているのは当を得ていると思いますが、それで終わりにしてしまってよいものでしょうか。
各パネリストが、これ以上深くに踏み込めない理由を、邪推してみます。グローバル資本主義の問題だと気付いていながら、これを語る言葉を持ちえない、というより、語ろうという挑戦さえしない。それは、この問題の向こう側に、より本質的な問題が透けて見えるからではないか。
あえて挑戦的に言ってしまいましょう。ことはグローバル資本主義の問題でさえないのではないか、と。「グローバル」を外した、単なる「資本主義」の問題なのではないか、と。
これは絶望的と言うべき指摘になるでしょう。「万人が万人から切り離されてたった一人で世界と敵対する」という状態が、資本主義の失敗の結果として生じるのではなく、資本主義が深化した当然の帰結として生じるのだとしたら。
さらに言えば、近代的な人権概念と私的自治の当然の帰結であるこの資本主義システムこそが、その完成型として、決定的に分断され孤独に追いやられたアトミズム的世界の実現へと収束するものであるとしたら。
……さて、このエントリを携帯で書き始めてから、既に1週間くらい経過してしまったので、ここらで1回アップロードしておきます。この間に、厚生事務次官宅襲撃事件の犯人も名乗り出てきてしまいましたし。
そして、ブログで扱うにはちとボリュームの大きすぎる話題になってきたかもしれないので、もう少しじっくり考えてみることにします。
※ このブログを書いている涼風のウェブサイト「涼風文学堂」も併せてご覧ください。
「涼風文学堂」は小説と書評を中心としたサイトです。