涼風野外文学堂

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革命不足。

2008年09月04日 | 文学
【試論1】
 日本において、近代的人権概念の中核をなす自由(私的自治の原則)は、自ら革命を経て創設したものではなく、西欧における革命の「結果」の部分だけを輸入したものにすぎない。
 そのためわれわれには「革命の経験」が決定的に不足しており、このことが、「自由」を与えられたものとして享受するにとどまり、「自由の獲得」という思考法になかなか達しない現状を生んでいる。

【試論2】
 こんにち、資本主義は決定的に発展深化し、われわれの日常生活の奥深くまで潜り込んでいる。このことは、われわれの日常のありとあらゆる事柄が、貨幣経済に翻訳されて流通する可能性を持つということである。
 その帰結として、われわれは、身近な他人の物語に価格をつけて売買しているとともに、またわれわれの一人一人が、それぞれ自分自身の物語に価格をつけられて売買され、アイデンティティをばらばらにされて切り売りされることの恐怖に怯えながら暮らしている。

【試論3】
 こんにちわれわれは不自由な世界を生きており、この息苦しさを脱するために、革命という用語の持つカタルシスに魅力される。
 ところが、こんにちのわれわれの革命は、始まる前から、失敗を宿命づけられている。それは、われわれがもはや他人の物語に価格をつけて売買することでしか、他者とコミットできないということ、つまりすべてが必然性=貧窮のくびきの下にある「社会問題」に回収されてしまうほどに、資本主義が深化してしまったことによる。


 ……最近ちょっと様々な場面で「あーこの国の人々は近代的『人権』概念の有難みを分かってネェ」と思うことがあって、そこから思考を進めるうちに「やっぱ自分らで市民革命やってない連中に人権の有難みなんざ分かんネェよな」と自分を棚に上げて考え始めたところ、「革命」という用語に絡めて、今日における自由と革命について自分がどう考えているのかを整理しようと思った次第です。

 ちなみに上に掲げた試論1~3で言ってるようなことは、もう6年も前に書いた小説『スイヒラリナカニラミの伝説』の中で概ね網羅されていて、ああ俺6年もかけて何にも進歩してねぇじゃん、とか思った次第でもありますorz

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