涼風野外文学堂

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英語が「読めない」日本人?

2009年10月26日 | 政治哲学・現代思想
 前回のエントリで、とある行政法の先生の書き物について触れました(誤解のないように申し上げておきますが、実務家出身の研究者として、机上の空論ではなく実務の用に耐えうる研究成果を多数発表しておられ、その業績は高く評価されてしかるべき先生です。しかし、だからこそ、重箱の隅をつつかれることもあろうかと)。その後同じ文章を読み返していて気づいたのですが、引用・参考文献が、ほとんど日本人の著者によるものに占められ、海外の論文は翻訳ものを含めてもごく少数、日本語以外の言語による文献は皆無でした。もしかしてこの先生英語読むの苦手かしらん、と思うと、若干の同情を余儀なくされます。
 政治学、政治哲学は、基本的に英語圏の学問なので、一次文献として英語で書かれたものに当たらないと、事の正否を論ずることさえできません。リバタリアニズムについて語るのに、ハイエクもノージックも読んでない。コミュニタリアニズムについて語るのに、サンデルもマッキンタイアも読んでない。公共哲学について語るのに、アーレントもハーバーマス(おっと、これはドイツ語圏だ)も読んでない。これでは、一般人や学生向けに語るには耐えられても、研究者仲間からは相手にされないと思います。

 涼風は大学の法学部なんてところを出ておりますので、第2外国語と言えば、ドイツ語かフランス語と相場が決まっていました。時勢を汲んで中国語を学ぶ人も最近では多数に上りますが、伝統的な学問の風潮からは、ドイツ語かフランス語、最低でもどちらかを学んでおかないと、馬鹿にされます。
 それは結局、この国の法律の成り立ちからして、基本的な文献に当たり、あるいは、比較法学的な立場から日本の法制度を概観する際に、どうしてもドイツ語かフランス語の論文を読まざるをえなくなることを意味しています。いわゆる「法曹」として現場に出て、ナマの法律事件を扱うなら、中国語や韓国語、タイ語、ポルトガル語なんかが扱えた方が便利でしょうが、研究者の道に進むのであれば、ドイツ語かフランス語です。
 ちなみに、政治学を学ぼうとするのであれば、とにかく英語です。隣接学問としての哲学を学ぼうとするならやはりドイツ語かフランス語が(より深く学ぼうとするなら、さらにラテン語が)必要になるでしょうが、政治学の重要文献の出典は、そのほとんどがアメリカに集中しています。

 このように考えていくと、やはり外国語を「読む力」というのは、学問を究めんとする人々にとっては必要不可欠なのだな、と思えてきます。そのような観点から、昨今の英語教育を巡る議論などを見ていると、「使える英語」に拘泥し、リスニングに重きを置きすぎるあまりに、リーディングの教育が疎かになってしまうのではないか、との懸念が浮かびます。(いずれにしても、小中学校の9年間のうちごく限られた時間を英語教育に充てたくらいで、外国語が使い物になるレベルに達するとは思えないのですが)

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