涼風野外文学堂

文学・政治哲学・読書・時事ネタ・その他身の回り徒然日記系。

国家と軍隊を逆に考えてみる。

2006年09月20日 | 時事・社会情勢
 近代国家の成立にかかる必須要件として、官僚機構と常備軍を掲げるのが世界史の常識です。つまり、近代国家(絶対王政以降の国家)は、権力と暴力を集中的に掌握することにより初めて誕生したのだと。
 この一般的なストーリーを、逆から見たらどうなるだろうか、ということを思いつきました。つまり、権力や暴力は有史以来、人間社会のあらゆる場所に遍在していた。ローカルな、空間的には狭小な、局所的な各部分で、それぞれ独自の態様をしてあった暴力を、飼い馴らし、コントロールするために進化したのが「近代国家」という暴力コントロール装置であったとしたら?権力と暴力が集中したことで近代国家が誕生したのではなく、権力と暴力を一つ処に押し込め、管理し、暴発を防ぐための装置として発展してきたのが「近代国家」という仕組みだったのではないか?

 単なる思い付きで、何の裏づけもないですが、ネタとしては面白いような気もします。この視点からは「ローカルな権力/暴力が、そのローカルな統治のもとでの権力/暴力のコントロールを放棄し、上部構造である国家に委ねることで、より安定的なシステムを入手した」というシナリオを描くことができます。これを発展させると「国家が、その統治のもとでの権力/暴力のコントロールを放棄し、上部構造である『世界共和国』に委ねることで、より安定的なシステムを入手する」という柄谷=カント的なシナリオも、単なる絵空事として笑い飛ばして済まされるものではなくなるのではないでしょうか。でもそれってノージックのユートピアじゃねぇ?

 要するにタイの事件が俺の中で消化しきれてないのです。仕方ないじゃないか毎日きっかり14時間ずつ頭脳労働してると徐々に思考能力落ちてくるんだヨ。
 まだ14時間で済んでるんだから文句言うなって?まったくだorz


※ このブログを書いている涼風のウェブサイト「涼風文学堂」も併せてご覧ください。
 「涼風文学堂」は小説と書評を中心としたサイトです。

貴様らの相手をしている暇はない

2006年09月14日 | 日記・身辺雑記
 最近はブログにかまけており本体サイト(涼風文学堂)の手入れをろくに行なっていなかったのです。それは反省してます。しかし、こんな残業天国のクソ忙しい時期にBBSにバイアグラの広告残して行くんじゃネェよ日本語分からない連中が。

 ……ちなみに「涼風文学堂」内BBSのCGIプログラムには、ブラウザ上から管理者権限で投稿の編集削除をするような親切な機能は付いていないので、生データをバイナリエディタで書き換えて修正してます_| ̄|○

 10月になったらBBSをもっと使い勝手のいいやつに入れ替えます。たぶん。

9月11日だそうです。

2006年09月11日 | 政治哲学・現代思想
 十年ひとむかし、という考え方に論理的な根拠はないかもしれませんが、経験則的にはそんなに大きく外れていないのではないかと思います。また、いわゆる「9・11」は、その出来事それ自体が歴史を大きく動かしたというような言説には注意深く疑問符をつけておくにしても、ひとつの象徴的な事件として記憶することには異論がないように思われますし、そのこと自体がこの5年間においてある種の言説を抑制し、またある種の言説を加速する力として機能している面もまた否定できないと思います。
 そんなわけで今日は「あれから5年」ということで、ひとつの時代の折り返し点ということを意識して涼風的小括。

 ところで「テロとの戦争」という用語には、本来的に矛盾が内包されています。一般的に戦争とは「主権国家同士の」交戦状態を指すものではなかったでしょうか。主権国家・正規軍・戦闘員と非戦闘員の区別といった、歴史的に「戦争」の語が内包していた(そして近年急速に力を失いつつある)概念は、国家の枠組みを超え・非正規の武装勢力と親和的で・無差別的な、「テロ」の概念とは概ね対極を成すものです。
 このような異様な言説が、このような異様さそのものは大した問題とならないままに流通すること。それこそが、9・11以後の言説空間を支配する、ある種の制約的な力の発露であるのかもしれません。つまり、テロというものは、決して単一的で自己統治的な主体から発生するものではない。それなのに、「テロとの戦争」という言説においては、「国家」と対峙することが可能であるような「テロ組織」という単一的な主体が堅固な一枚岩のようにして存在してあることが、前提とされている。物事を「敵」と「味方」に区分し、その中間に明確な線引きを行うことが可能であると(根拠もなく)信じる乱暴な二分法が、本来はより複雑であったはずの問題系を解きほぐすために有効な言説たちを、封じ込めている。この5年で失われてしまったのは、そうした言葉たちだったのではなかったでしょうか。

 もちろん「テロとの戦争」という二分法的思考方法によらないような、われわれが世界を読み解くために必要であった言説が、失われていくことの萌芽は、「9・11」に初めて現れたものではありません。例えばコソヴォにおけるNATO空爆をハーバーマスが、ソンタグが、(結果的に)支持したことを、言説空間の「転回」を表すひとつの象徴的なエピソードとして、想起することもできるでしょう。
 しかし「9・11」が、多くの象徴的なエピソードの中で際立った存在感を示しているものであるとするならば、9・11とその他のエピソードとを決定的に分かつものは、やはりその映像的展開、世界貿易センターのビルディングがパニック映画のワンシーンのように崩れ落ちるその姿が、一大スペクタクルとして受容されたこと。そのことにあるのではないでしょうか。
 あの映像の前でわれわれが「テロとの戦争」という言説に抗しようとするならば、その際われわれの口をついて出る言葉は「確かにテロは許されないものだ、しかし……」という出だしから始められなければならない。そのような制約を課したのが「9・11」だったのではないかと思います。崩れ落ちるビルの映像を前にして、「そんなことを言うなら、具体的にどうすればいいって言うんだい?」と尋ねられたとき、「テロとの戦争」を批判しようとする言説は、口をつぐまざるをえない圧力にさらされています。

 そうであるからこそ、これからの5年に必要な緊急の課題は、「それでも、声を上げる」ことなのではないかな、と個人的には思います。「テロとの戦争」に代わる、テロを抑止する具体的で有効な手段など思いつきもしませんが、しかしそれでも図々しく、こう言い張るのです。「テロ組織にいくら武力攻撃を加えても、テロは減りはしない」と。


※ このブログを書いている涼風のウェブサイト「涼風文学堂」も併せてご覧ください。
 「涼風文学堂」は小説と書評を中心としたサイトです。

嵐の前の静けさ。

2006年09月07日 | 日記・身辺雑記
 ポテトサラダは手間のわりに偉そうに見えないのでなかなか作る気が起きないのですが私も妻も大好物です。今日は時間があるのでひさびさにポテトサラダを作ろうと思い立ったのですが、じゃがいもを茹でる→キュウリを刻む→キュウリに塩を振る→茹で上がった芋の水を切る→熱いうちに皮をむく→あら熱をとる→洗濯物を干す→駅まで妻を迎えに行く→芋をつぶす→キュウリの水を絞る→芋と混ぜる→マヨネーズや胡椒などで味付け→ハムを刻む→混ぜる→味見する→マヨネーズや塩胡椒ワインビネガー等で味を調える→冷蔵庫へ→冷やしている間に中華スープと八宝菜を作る→お皿に盛り付ける→缶ビールの蓋を開ける、と、実にこれだけのプロセスを経てようやく完成するわけです(ぉぃ
 調理時間1時間以上。食べる時間は一瞬。

 こんな悠長な生活してられるのも今のうちだけです。
 この半年ばかり平穏な日々が続いていましたが、いよいよ残業地獄の気配がひしひしと近づいてきております。ので今月は更新滞るかもしれません。ご容赦を。
 幸いにして時間外手当の予算は潤沢にあります。残業し放題です。_| ̄|○

宝石をさがしに。

2006年09月02日 | 文学
 わたしがなにごとかを思い出すとき、叙述の上ではたしかに「私が」思い出すのであり、「私が」主体として、思い出されることがらに対して「思い出す」という能動的作用を及ぼしているように思われる。……(中略)……しかし、この「マドレーヌ体験」が示唆しているのは、「記憶」というものの別ようのあり方である。記憶が――あるいは記憶に媒介された出来事が――「私」の意思とは無関係に、わたしにやって来る。ここでは、「記憶」こそが主体である。そして、「記憶」のこの突然の到来に対して、「私」は徹底的に無力であり、受動的である。
   ――岡真理『記憶/物語』(岩波「思考のフロンティア」シリーズ第1期)


 ヨーヨー付きスプライトというやつを買った。コカ・コーラ社の飲料が、復刻版のガラス瓶に入っていて、それに20年以上前に大流行りした「ヨーヨー」がセットになっている、という、そんな按配の商品。ヨーヨーで妻と二人ひとしきり遊んだのち(もっとも、僕らが物心ついた頃には、ヨーヨーブームは既に下火だったように記憶しているが)セットになっていた緑色のガラス瓶入りスプライトについては、特に飲む機会もなく、そのまま1ヶ月ばかり冷蔵庫に寝かされていたのだった。
 今日、外から帰ってきて、少し暑かったから、何か冷たいものを二人で飲もうと、冷蔵庫を開けた。そうしたら、スプライトの緑色の瓶が目に付いたから、開けて、二人で飲んだ。それから、空瓶を捨てようとして手に取り、キッチンの横に備え付けてある資源ゴミ用のゴミ箱に放り込もうとしたその刹那――突然、誰もいない海岸の光景が、僕の眼前に広がったのだ。

 8月の終わりか、あるいは9月に入っていたかもしれない。海水浴のシーズンはとうに過ぎ去り、誰もいない、静謐な海。空はたいてい薄曇りか小雨で、気持ちよく晴れていたことなどなかった。僕は、父と姉と3人で、よくその海岸を歩いていたのだ(父は人ごみが大嫌いだったから、わざわざ泳げもしない時期外れの海に子供たちを連れて行ってたのだ、と今になって母が思い出話をする)。
 テトラポットの上を飛び跳ね、打ち上げられたワカメや古タイヤを興味深く眺め、あめふらしを棒でつついて遊ぶ。確かに、泳ぐことにこだわらなくとも、無人の海岸には幼い子供たちが遊ぶ材料は、いくらでもあった。あんな時期に海に行くことなかったじゃない、と母は今でも苦笑交じりに父を戒めるのだが、そうだろうか。僕にはそれは、大概楽しい思い出として回帰するのだから、父の選択は少なくとも僕にとっては悪いものではなかったのだ。
 その中で、幼い僕がもっとも熱中したのが、海岸での宝石集めだ。波打ち際を歩くと、青や緑や乳白色の、半透明の石がいくつも落ちているのだ。表面がうっすらと白く濁り、その内側は透明な青や緑であったり、まったく透明であったりする(割ってみると分かるのだ)。海辺でしか見ることのない、街中や公園では決して見ることのできない、石だ。それは何か不可思議な霊力を秘めた宝石のように見えて、僕と姉とは競って石拾いに熱中した。父はその石の正体について、打ち捨てられたガラス瓶が海中で砕けて、波で洗われているうちに表面が丸くなり、すりガラスのように表面が濁って、このような石の形になって海岸に打ち上げられるのだ、と、実に合理的な説明をしてくれた。それでも僕は、その1センチ角くらいのガラスの粒を宝石だと言って夢中で集め、家に帰って菓子箱か何かの中に、宝物として大切に仕舞っていたのだ。

 ――あの宝石たちはどこへ行ったのだろう?捨てた記憶はないのだけれど、あの頃からもう何十年も過ぎ、住み場所もいくつか変わっていくうちに、やはりどこかで捨ててしまったのかもしれない。
 僕の手には緑色のガラス瓶がある。波に洗われて宝石に変わる前の、原初の姿。最近は軽くて丈夫なペットボトルにすっかりその地位を譲り渡し、見かけることのすっかり少なくなった、ガラスの飲料瓶。
 今の子供たちは、海岸で僕が見たような「宝石」を見ることはないのだろうか?
 そうであれば――そうであれば、僕がこれからすべきことは、今から車に乗り込んで2時間走って誰もいない海岸へ行き、このガラスの瓶を、海へと放り投げることではないのだろうか?


 ――さて、これで本当に海に向かって車を走らせればそれで1本の小説になったのですが、現実の僕はガラス瓶をそのまま資源ゴミのゴミ箱に放り込み、居間で妻とテレビを見ながらワインを傾ける、そんな優雅な週末の中にいます。


※ このブログを書いている涼風のウェブサイト「涼風文学堂」も併せてご覧ください。
 「涼風文学堂」は小説と書評を中心としたサイトです。