涼風野外文学堂

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障害者自立支援法(5)~障碍者差別禁止「条例」の困難~

2006年10月31日 | 政治哲学・現代思想
 職場旅行に出かけていたため(そして旅行の幹事として準備と後始末にてんてこまいだったため)しばらく間が空いてしまいました。障害者自立支援法シリーズ第5弾にして最終回です。ちなみに第1回はこちら第2回はこちら第3回はこちら第4回はこちら
 今回は「障害者自立支援法」とタイトルに打っておきながら少し脇道に逸れて千葉県が最近制定した条例の話を。




 前回までの論で、「平等」や「自立」、そしてそれによって導かれる「自己決定」「自己責任」が、福祉切り捨ての口実に使われていること、そして障害者「自立支援」法は、その「自立支援」を隠れ蓑にして、財政的事情に引きずられる制度設計を行った「哲学なき制度」であることを確認してきた。
 この「魂なき新制度」の始まりに合わせるようにして、千葉県が障碍者差別を禁止する条例を制定した(関連ページ)のは、単なる偶然なのだろうか?
 この千葉県が制定した条例の正式名称は『障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例』である。この長い条例名に、既にこの条例が産み落とされるまでの困難が現れているのではないだろうか。いくらなんでも長すぎるので、本稿では以下「千葉県条例」と略す。
 千葉県の堂本暁子知事はもともと、人権問題への関心の強い人物である。国会議員時代に「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」や「男女共同参画社会基本法」の制定に尽力したことでも有名だ。その手腕・業績・思想には賛否両論あろうが、少なくとも、こうした問題に「関心を持つこと」自体は重要であるし、評価されて然るべきではないかと思う。
 しかしこれらの人権問題は、多くがデリケートな問題であって、様々な妥協や「ねじれ」を含みながら進められてきたこともまた、見落とせない。「男女共同参画」を例に取れば、この法律名に「平等」の語が入らなかった辺りが、既にひとつの限界を示している。そして、全国の自治体で多く制定されている「男女共同参画条例」が、当の千葉県では未制定(議会の多数派を占める自民党の反対に遭い未決)であることにも注目せねばなるまい。つまりこれらの取り組みは「女性登用○割、のような数値目標は機会の均等に反する」というような「ポジティブ・アクション潰し」の批判に、常にさらされていて、しかもそれに対する有効な反論を持たない。そのため「男女共同参画とは、もちろん男女の身体機能的な差異については尊重するものだし、行き過ぎたジェンダーフリーでは決してない」というような言い訳をいちいち繰り返さなければならない。
 障碍者の差別撤廃というのもまた、同様の困難に突き当たっている。千葉県条例の名称が「障害者差別禁止条例」のような簡単な名称にならなかったところにも、それは既に現れている。「障害のある人もない人も共に暮らしやすい……」というフレーズには、暗に「決して障害者だけを不当に優遇するものではありません」という言い訳が、既に含まれている。そのようにしなければ、議会を通らない=コンセンサスを得られないのである。

 千葉県条例の中身も見てみよう。前述のようなほとんど言い訳に近い前文から始まり、定型的な目的規定の第1条、そして、「差別」の定義に異例と言えるほどの紙幅を割いている定義規定の第2条。あとは、同じような「理念」の繰り返しと、具体的な施策としてはせいぜい「相談」が挙げられているだけで、終わりである。
 ちなみに、この程度の内容であれば、「条例」という自治立法の形式によることの法的な意義はまったくないと言ってよい。地方自治法第14条第2項が示すとおり「義務を課し、又は権利を制限する」際には条例の定めを要するが、単なる給付行政に条例の定めは原則として必要ない、というのが通説である。したがって、この千葉県条例には「自治体における最高の意思決定方式である、条例の定めによった」というパフォーマティブな意味合い以上のものはない。
 逆に言えば、パフォーマティブな意味合いこそがこの条例の核心なのである。首長の個人的な思い入れではなく、県としての団体意思として、この条例に定めたような価値に重きを置くのだ、という宣言的意味合いとして、千葉県条例を捉えなければならない。
 このような観点から、パフォーマンスの具体的中身を見る。理念の部分には「差別はいけません」という以上のことはない。瞠目すべきは、長大な「第2条第2項」である。先に案内した千葉県のホームページから条文を見ることができるが、この部分については、あえて引用してみよう。

2 この条例において「差別」とは、次の各号に掲げる行為(以下「不利益取扱い」という。)をすること及び障害のある人が障害のない人と実質的に同等の日常生活又は社会生活を営むために必要な合理的な配慮に基づく措置(以下「合理的な配慮に基づく措置」という。)を行わないことをいう。
一 福祉サービスを提供し、又は利用させる場合において、障害のある人に対して行う次に掲げる行為
イ 障害を理由として、福祉サービスの利用に関する適切な相談及び支援が行われることなく、本人の意に反して、入所施設における生活を強いること。
ロ 本人の生命又は身体の保護のためやむを得ない必要がある場合その他の合理的な理由なく、障害を理由として、福祉サービスの提供を拒否し、若しくは制限し、又はこれに条件を課し、その他不利益な取扱いをすること。
二 医療を提供し、又は受けさせる場合において、障害のある人に対して行う次に掲げる行為
イ 本人の生命又は身体の保護のためやむを得ない必要がある場合その他の合理的な理由なく、障害を理由として、医療の提供を拒否し、若しくは制限し、又はこれに条件を課し、その他不利益な取扱いをすること。
ロ 法令に特別の定めがある場合を除き、障害を理由として、本人が希望しない長期間の入院その他の医療を受けることを強い、又は隔離すること。
三 商品又はサービスを提供する場合において、障害のある人に対して、サービスの本質を著しく損なうこととなる場合その他の合理的な理由なく、障害を理由として、商品又はサービスの提供を拒否し、若しくは制限し、又はこれに条件を課し、その他不利益な取扱いをすること。
四 労働者を雇用する場合において、障害のある人に対して行う次に掲げる行為
イ 労働者の募集又は採用に当たって、本人が業務の本質的部分を遂行することが不可能である場合その他の合理的な理由なく、障害を理由として、応募若しくは採用を拒否し、又は条件を課し、その他不利益な取扱いをすること。
ロ 賃金、労働時間その他の労働条件又は配置、昇進若しくは教育訓練若しくは福利厚生について、本人が業務の本質的部分を遂行することが不可能である場合その他の合理的な理由なく、障害を理由として、不利益な取扱いをすること。
ハ 本人が業務の本質的部分を遂行することが不可能である場合その他の合理的な理由なく、障害を理由として、解雇し、又は退職を強いること。
五 教育を行い、又は受けさせる場合において、障害のある人に対して行う次に掲げる行為
イ 本人に必要と認められる適切な指導及び支援を受ける機会を与えないこと。
ロ 本人若しくはその保護者(学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)第二十二条第一項に規定する保護者をいう。以下同じ。)の意見を聴かないで、又は必要な説明を行わないで、入学する学校(同法第一条に規定する学校をいう。)を決定すること。
六 障害のある人が建物その他の施設又は公共交通機関を利用する場合において、障害のある人に対して行う次に掲げる行為
イ 建物の本質的な構造上やむを得ない場合その他の合理的な理由なく、障害を理由として、不特定かつ多数の者の利用に供されている建物その他の施設の利用を拒否し、若しくは制限し、又はこれに条件を課し、その他不利益な取扱いをすること。
ロ 本人の生命又は身体の保護のためやむを得ない必要がある場合その他の合理的な理由なく、障害を理由として、公共交通機関の利用を拒否し、若しくは制限し、又はこれに条件を課し、その他不利益な取扱いをすること。
七 不動産の取引を行う場合において、障害のある人又は障害のある人と同居する者に対して、障害を理由として、不動産の売却、賃貸、転貸又は賃借権の譲渡を拒否し、若しくは制限し、又はこれに条件を課し、その他不利益な取扱いをすること。
八 情報を提供し、又は情報の提供を受ける場合において、障害のある人に対して行う次に掲げる行為
イ 障害を理由として、障害のある人に対して情報の提供をするときに、これを拒否し、若しくは制限し、又はこれに条件を課し、その他不利益な取扱いをすること。
ロ 障害を理由として、障害のある人が情報の提供をするときに、これを拒否し、若しくは制限し、又はこれに条件を課し、その他不利益な取扱いをすること。


 つまり千葉県条例の意義は、「法人たる地方公共団体である『千葉県』が、何が障害者差別に当たるかについて、団体意思としての判断を示した」ことにあるのである。
 その具体的中身は、「福祉サービスの提供」「医療」「商品売買等」「雇用」「教育」「公共施設利用」「不動産取引」「情報提供」の8つの場面で、合理的な理由なく、障害を理由とした不利益取扱いを受けること、とまとめることができるだろう。合理的な理由がなく不利益取扱いを受けることが差別に当たるのは、何も障碍者に限った話ではないのだから、この部分に目新しさはない。つまり、千葉県条例が具体的に物事を示している部分というのは、障碍者差別が顕著に見られる場面の「8類型」を示した、ということ以外の何ものでもないのである。

 その辺りが千葉県条例の到達点であり、限界でもある。千葉県条例は、そこに障碍者への差別があることを指摘する。指摘はするが、その解決のため、相談窓口を設けることの他に何ら有効な具体的手立てを示すことができない。
 これは千葉県条例のみに固有の限界ではなく、障碍者問題の根本的なアポリアなのではないだろうか。先に、障碍者問題はマイノリティ問題である、ということも示した。したがって、近代的な人権概念の成果である「平等」や「自己決定権」によって問題を一般化することは、問題解決に役立たないどころか、デリケートな問題を却って見えづらくして、さらに深い陥穽に陥る危険がある。このような問題に対してはただ「耳を澄ます」ということ、そこに微かな救いの糸を見いだし、手繰っていくことより他にないのだ。千葉県条例は改めてそのことを我々に確認させてくれるのである。




 まとまりませんが、ひとまずこれでおしまい。
 障害者自立支援法と、それにまつわる障碍者行政の実態について少し深く掘り下げてみたくなったのは、最近の『現代思想』誌に見られるような、「マイノリティ問題と自己決定権の尊重が矛盾しないと考える」ある種の「無邪気な」思想への批判的な気持ちもありました。もちろん、この障害者自立支援法というやつが、知れば知るほど腹の立つ、近年稀に見る悪法だから、というのもありますが(この出来の悪い法律のせいで9月は残業天国だったから、という個人的恨みもありますが)。
 ともかく10月中にこのテーマは終了しました。11月から通常モードに復帰します。


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