涼風野外文学堂

文学・政治哲学・読書・時事ネタ・その他身の回り徒然日記系。

みつばちと猫とキャプテン翼。

2006年08月30日 | 政治哲学・現代思想
 その中に、僕が昔好きだった漫画を発見する。何日か前に、テレビを見ながら真由香と話をした、当時大人気だったサッカーアニメ。そのアニメの、原作となった漫画だ。僕はその漫画を手に取り、適当に真ん中あたりを開く。主人公の少年が、チームメイトの一人とのコンビプレーだけで、ディフェンダーを五人くらい抜き去っていく姿が描かれている。ページをさらにめくる。腰の高さくらいに浮いたボールを、主人公の右足とチームメイトの左足とが同時に捉えて蹴り出し、ボールが不規則に揺れ動きながらゴールネットに突き刺さるシーンだ。思わず笑いがこみ上げてくる。まるで大道芸だ。どうして僕はこの漫画にあれほど夢中だったのだろう?僕だけじゃない、皆この漫画を読みながら、ボールに縦回転をかけて蹴ったり、踵でボールを蹴り上げてディフェンダーをかわしたりする、そんな曲芸みたいなサッカーの技術を本気で習得できると信じて、毎日練習していたのだ。
 あの頃はJリーグなんてものは存在しなかったし、日本代表の試合だってほとんどニュースにならなかった。僕らは生身の人間が行うサッカーを見ずに、漫画のサッカーを模範としてサッカーボールを追っていた。ジーコもペレもベッケンバウアーも、この漫画を通じて知ったのであって、実際に彼らのプレーを映像で見たのは、もっと後のことだ。当時の僕らにとっては、漫画の中のサッカーこそが本物のサッカーだったのだ。
 今はそうではない。テレビを点ければ、スポーツニュースか何かで、ほとんど毎日のように「本物の」サッカーを見ることができる。そこに映し出されるのは、超人的な身体能力と創造性を持ったプレイヤーが単独で状況を切り開いていく漫画の中のサッカーとは、まったく別の何かだ。ディフェンダーは的確なラインコントロールで攻撃のスペースを潰し、フォワードはそんなディフェンスラインの一瞬の隙をついて裏のスペースを狙う。チームは、相手に点を与えず、自分が点を取る、ということを命題としたひとつの有機体のように機能する。個々の選手はまるで細胞のひとつひとつのように見える。
 テレビの中のサッカー選手たちの鍛え上げられた肉体が、飛び交う汗が、僕に訴えかけるのだ。これこそがサッカーなのだと。お前が漫画の中に見出し、それこそがサッカーだと信じていたものは、サッカーの要素のいくつかを抜き出して、それらで構築した「まったく別の何か」に過ぎないのだ、と。
 しかしそれでは、僕がサッカーだと信じていたそれは、いったい「何」だったのだろうか?いつか漫画の主人公のようなシュートが打てると信じて、日が暮れるまでボールを追いかけていたあの濃密な時間は、単なる児戯に過ぎないとして、切り捨てられて然るべきものなのか?
   ――『みつばちと猫とからす』(未発表作品)


 自分の書いた小説から引用してくるというのは反則だと思いますが、それが未完かつ未発表の作品となればもう二重に反則です。しかし、わりと今話題にしたいと思っていることを素直に書けた文章だと思ったので、そのまま当ブログに転載してみました。
 上記は私が書きかけの小説『みつばちと猫とからす』の中で、主人公がコンビニで某なつかしのサッカー漫画復刻版を立ち読みする場面です。この場面を描写しながら、私は明らかに《あの時間》のことを強く意識しているのです。

 《あの時間》とは、馬頭親王様のブログ「公的自閉の場」とこのブログ「涼風野外文学堂」との間で最近ホットな話題となっているものですが、馬頭様が簡潔かつ的確にまとめてくださったのでそのまま引用すると、「主に幼少年期に親近性のある、非合理的かつ充溢した時間」という風に理解していただければ、と思います。
 8月24日付けの記事の中で私が書いた「《あの時間》に接近する最も安易な方法はセックスである」という実に俗流バタイユ主義的なテーゼについて、馬頭様が単なるネタで終わらないよう詳細な考察を加えてくれました(「公的自閉の場」8月25日付け記事『裸体と死』)。
 上記記事の中で馬頭様は、「《あの時間》に接近する最も安易な方法はセックスである」というテーゼについて、安易であるがゆえに容易に否定しがたいということを論証しているように、私には読めました。私が取り上げた《あの時間》と「《あの時間》が過ぎ去った直後に訪れる寂寥感」との関係性というのは、バタイユ風に言うところの「エロティシズムの体験」と「それに続く《小さな死》」との関係性に対応している、というのも、馬頭様の見抜いているとおりです。

 それでは、われわれが《あの時間》にコミットするその運動を、エロティシズムの運動と類縁性を持つものと捉えて考えを進めた場合に、《あの時間》が「主に幼少年期に親近性のある」こととの関連をどう捉えたらよいのでしょうか。
 バタイユが好んで用いる《小さな死》というのは、非常に男性的な概念であるように思います。そこには絶頂→発射のメカニズムが含まれていて(うーむ、段々エロ話になってきたぞ)、極論すれば《小さな死》とは、射精の直後に起こる微小な痙攣のことだ、と言ってしまってもこの際誤りではないように思います。
 その際、幼少年期における《あの時間》と、成年における《あの時間へのコミットとしてのセックス》を決定的に分かつものがあるとすれば、この《小さな死》との親近性であるように思うのです。きわめて生理的な現象に律則される部分にのみ限って言えば、射精する身体機能を有しない幼少年期においては、《あの時間》は《小さな死》から分離した状態で、それそのものとしての《あの時間》を体験することが可能である。しかし射精する身体的機能を所与のものとして受容した後の成年期にあっては、《あの時間》の消尽は必ず直後の《小さな死》を伴う。そのような環境変化こそが、われわれに《あの時間》へのコミットを困難にさせているのではないか、という仮説が考えられます。

 そしてこの点について、馬頭様の次のような指摘に注目しなければなりません。

そして大人は、《あの時間》から疎外されている。代わりに手にしたものは……そう、先日までお話していた「情報的な密度」、これが畏ろしい陥落なのではないかと目下のところ馬頭は考えています。
   ――「公的自閉の場」8月22日付け記事
      『「まるで死んでいるように」振舞うべし』コメント欄より


 逆に言えば、われわれが幼少年期において《あの時間》を、濃密さをもって享受することができていたのは、「情報的な密度」から疎外されてあったことと無縁ではなかったのではないだろうか……というところで、冒頭の書きかけの小説からの引用に戻るわけです。
 つまりわれわれは非常に高密度の情報の海の中を泳ぐようにして生きているわけですが、この情報的な密度というやつは、とりもなおさず、「死を勘定に入れる」ことと親和的なのではなかったろうか、と。だから、幼少期の、死の可能性に起因する呪いから比較的自由であった時期においては、情報的な密度から疎外された時期でもあって、そのことが《あの時間》を享受するために必要な条件だったのではないか、と。

 それでは、これだけ「情報の流通量が増大した」社会において、果たして現代を生きる子供たちが、私などが彼らの年齢であったころと同じように、世界を見ることができるのだろうか、という疑問があるのですが、これは疑問の提起のみにとどめます。
 しかし例えば、同じ週間少年ジャンプであっても『キャプテン翼』と『デスノート』を読み比べれば、「ああ、今の子供たちは生きにくい世の中を生きているなぁ」と心配してしまいます。この心配は、決して的外れな心配ではないように思うのです。


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ディズニー漬け。

2006年08月26日 | 日記・身辺雑記
 ディズニーランドの商業展開の仕方っていうのは、私のサイト「涼風文学堂」に掲載している小説『吸血鬼マリア』の中でもさんざん小馬鹿にしているとおり、どちらかといえば批判的に捉えております。それは何もディズニーランドを個別に批判しようというものではなくて、どちらかといえば、我々が生きる高度資本主義社会というやつがどういう仕組みになっていて、何が問題なのかを炙り出すための、典型的なサンプルとして参照させてもらっているというようなところで、あ、花火?花火見る見るー!やっぱシンデレラ城の前で見るのが正統派でしょ地べた座っちゃうよレジャーシートとか持ってないけど気にしないから!花火まであと30分?別に早すぎやしないでしょ場所取りこれでも遅いくらいだよああデジカメはフラッシュ切った方が綺麗に取れるんだけど手ブレするんだよねーあ、始まる始まるー!わー。ちょっと、今の見た見た?星型でしょ星型の花火あー今度はハート型

 (中略)

 ……あ、すいません。えーと、どこまで話したっけか。要するに、どう言ったらいいのかな、ディズニーリゾートと呼ばれるJR舞浜駅から海側一帯の、あの外界からの切断のされっぷりがどう捉えたらいいのかちょっと待ってー俺も骨付きソーセージ食うー!あとうきわまんもー!ビールビールー!いやぁやっぱりディズニーシーは何がいいってアルコール出してくれるのが素晴らしいよねぇ昼間っから青空の下で飲む生ビールの旨さといったら他に代えようがえ?なに?SSコロンビア号の前でミュージカル始まるって?あーちょっと待って今すぐビール飲み干すからこれ終わったらレイジングスピリットのファストパス取りに行こうあ、ちょっと待った今の時間ってポルト・パラディーゾでチップとデールが水撒きしてんじゃない?あー困ったなーどっちも見たい

 (中略)

 ……ん?いやいや、私が言いたいのはつまりですね、このように囲い込まれた消費者としてあるのはむしろここ100年続いた比較的古典的なシステムのひとつの完成形でいやだからお茶はあとにして先にレイジングスピリット乗っちゃおうよファストパスの時間来てんだからさーループコースター好き好きーやっぱディズニーリゾートは絶叫系のアトラクションがちょっと弱いよねーえ?なに?ボールゲームで勝つとベイビードナルドのぬいぐるみ貰えるの?よーしじゃあレイジングスピリット終わったらアラビアンコースト通ってそのボールゲーム一回やってからゴンドラの方に戻

 (以下略)




 ――金曜の夜からアフター6パスポートでディズニーランド行ってそのままサンルートプラザ東京に宿泊し今日は朝から一日ディズニーシーで遊んでました。ああそうさ俺様ディズニーリゾート大好きさ何か文句ある?(開き直り)
 そんなわけで現在最高にアタマ弱くなってますので難しい話はまた明日以降に。

絶対の孤独、あるいは、死と共にあろうとすること。

2006年08月24日 | 文学
※ 今日の記事は、馬頭親王様のブログ『公的自閉の場』より8月22日付け記事《「まるで死んでいるように」振舞うべし》にインスパイアされています。

 ……生き延びることは、他から派生することのない概念です。痕跡があるやいなや生存がある、言葉を換えて言えば、生き延びることは、死だとか生きることと置き換えられるものではなくて、別のものなのです。……(中略)……私は、死の思考あるいは死への関心を、さらには死の待機あるいは不安を、生の表明と別のものだとは、一度も考えることができませんでした。それは、私にとっては切り離すことのできない二つの運動です。つまり、必ずしも悲しいものでも、否定的なものでも、また致命的なものでもなくて、反対に、私にとっては生そのものであり、最大強度の生である、死の切迫への絶えざる関心=期待なのです。
   ――ジャック・デリダ『言葉にのって』


 死なない人間などいない。死について考えない人間は、もしかしたらいるかもしれないが、この際今回は考えの埒外に置こう。僕らは死から逃れることはできない。死は必然であり、ありとあらゆる瞬間に可能性として僕らにつきまとう。それは、言うなれば、僕らが生まれ落ちたその時から常に背負わされている、時限爆弾のようなものなのだ。
 僕は死を恐れる。一回限りで、決して反復することのできない固有の出来事として。決定的に孤独で、この世の他の誰とも共有、あるいは分有することのできない、真に個人的な唯一の出来事として。だからそれはいかなる理解の支配下にも置くことができないし、いかなる論理をも支配する無限の暴力なのだ。

 死を馴化しようと考えてはならない。たとえば死を忘れようとしたり、乗り越えようとしたり、理解しようとしたりすれば、そのとき死は僕らにその獰猛な牙を剥くだろう。死を計算に入れてはいけないのだ。死から計算を始め、自分の人生を逆算し始めた瞬間から、僕らは死に支配され、己の生命を「或る死と或る死の中間」としてしか規定できなくなるのだ。
 僕らに可能なのはただ、死と共にあろうとすること、それだけだ。殊更に望まなくとも死は常に僕らと隣り合わせにある。死の傍らでステップを踏み、ほんの刹那ごとに死を垣間見、死と同じコインの裏表としての生に自らを投げ出すよりほかにないのではないか。

 私は何よりもまず、エロティシズムが人を孤独のなかに放置するという原理から話を進めます。……(中略)……私たちの体験全体のなかで、エロティックな体験は、感動の通常の伝達から本質的に切り離されたままになっています。エロティックな体験は禁じられた話題なのです。……(中略)……しかしともかくも、この会場が推論的言語の世界に属していることからしても、エロティシズムは私たちにとってあいかわらず外部の何かしらであり続けるだろうと思うのです。私はエロティシズムについてお話ししますが、しかしそれは、私たちが現に生きているものの彼方についてのようになるでしょう。この彼方は、次のような条件ではじめて私たちにも到達できるものになるのです。すなわち、私たちが目下いる世界から抜け出して、孤独のなかに引きこもるというのがその条件です。
   ――ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』より
        「第6論文 神聖さ、エロティシズム、孤独」


 だから僕は、まさに死への関心からこそ、《あの孤独》を書こうと思う。
 想像してほしい。夕陽が落ちかかる公園で、缶けりをやめて皆が次々に帰途につく中、一人取り残されたときの感覚を。お誕生日パーティーが終わったあとの後片付け。夏休みの最後の一日。まばゆいほどの消尽、無限にも感じられる生の充溢のその直後にこそ、死はその鋭い牙のほんの先端を、僕らに見せつけるのだ。
 だから、その一瞬を、戦場カメラマンのような執念でもって捉え、その風景を切り取るのだ。それこそ、僕が未だ飽きもせず小説を書き続けていることの、主要なモチベーションなのだ。

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追伸:
 これで適宜バタイユなど都合よく引きながら「《あの時間》に接近する最も安易な方法はセックスである」などとうそぶいてみるのもネタ的には面白そうな気がしますが所詮ネタで終わりそうな気もします。

メディア・リテラシーと「自由な言説」の罠。

2006年08月22日 | 政治哲学・現代思想
 仕事柄判例について調べることも多いのですが、裁判所ホームページや判例雑誌に掲載がない場合は、その他のニュースソースから調べられる限り調べるほかありません。で、試みにGoogleで検索してみるのですが、多くの場合、徒労に終わります。何しろブログのヒット件数が多すぎるのです。そして無数のブログの中から役に立つ情報を探す苦労といったら、もう……。
 そんな感じでブログ論その3……というよりは番外編。あるいは仕事の愚痴。

 具体例を挙げます。東京都の東大和市という市で、喉頭軟化症のため気管切開手術及びカニューレの挿入を受けた児童につき、保育園への入園が「たんの除去等が医行為にあたり、現行の保育園のスタッフ・体制では対応不能」などの理由から拒否されたことを受けて、当該児童の保護者が保育園への入園などを求めて訴えを提起した事例で、東京地裁は今年の初頭に、行政事件訴訟法に基づく「仮の義務付け」の決定を行いました。
 当該地裁決定は裁判所ホームページの判例検索には登載されていないようです(本案訴訟が係属中、ということもあるのでしょう)。そこで、Googleで検索してみましょう。例えば「東大和市 保育園 訴訟」と入力してみると……はい。当初10件のうち8件ブログ(←左記は涼風が8月22日午後10時40分時点で検索した結果であり、同条件で検索しても同じ結果が得られない可能性があることを予め申し添えます)。「保育園」を「保育所」に変えてみる(法令上の用語としてはこちらが正しい)と若干ブログ比率は下がりますが、いずれにせよ、肝心の地裁決定の内容をうかがい知る記事に到達するまでには、多大な労力を要します(ウェブ上で公開されている最も詳細なソースが、新聞記事の転載しかないのだから仕方がないのですが。ちなみに紙ベースでは「判例時報」で当該決定の必要全文が見られます)。
 驚くべきことは、これだけ事実関係について伝えるニュースソース=判断材料が少ないにも関わらず、当該案件について何事か「自分の思ったことを述べている」ブログが案外多いことです。先の「東大和市 保育園 訴訟」での検索結果ヒット数は「約1650件」と表示されましたが、仮にその半数がブログだったとしても、800人くらいは、このきわめて限られた地域における事件について、自分自身の権益等とは何らの関係もないのに、何事かをわざわざ外部に向かって語ろうとしているのです。考えようによっては、なかなか不思議なことです。
 肝心の決定文はウェブ上ではほぼ入手不可能であるにもかかわらず、おそらくブログ上で意見をものしている人々の大多数が地裁決定の中身を見ることができないにもかかわらず、「東大和市は入園を正式に許可して和解すべきだ」「当該児童だけに特別の対応をすべきなのか、不当な決定だ」等々、賛成/反対の立場をかなり明確にした記事が、相当数見受けられます。……お前ら、何でそんな断言形で言えんの?引用されているソースは基本的に新聞記事、2、3紙並べて掲載してあればかなり立派な方で、特定の1紙の記事のみにより事実関係を確認して物事を論じている輩も少なくありません。

 このような言説空間からは「メディア・リテラシー」という観点が明らかに抜け落ちています。事件の当事者かそれに近い位置にいる人ならともかく(もっとも、そのような人々が「中立的な立場」から当該事件について語ることは原初的に不可能なのだし、その場合は各人の立場に基づいて語るべきところを語ればよいと思うけれど。閑話休題)、そうでなければ新聞報道その他の伝聞形で事実関係に接近するほかないわけです。この場合、新聞報道の例で言えば、必ずしも専門知識を有さないゼネラリストであるところの記者が、限られた紙幅の中で掲載する情報を取捨選択しているわけですから、そこにはどうしても情報の偏り、抜け落ちてしまった情報が存在するはずなのです。であれば、少なくとも複数のメディア・ソースを入手して比較検討する(同一事件につき数紙の記事を読み比べてみる)、オリジナルソースに当たってみる(本件については地裁決定の全文を読むのが最善であり、判例雑誌に当たることが理想。ちゃんとした図書館なら判例雑誌を定期購読しているところも多い)等により、抜け落ちた情報を極力補うための努力をした上でないと、恐ろしくて何も語れないように思うのですが、どうなんでしょうか。
 恐ろしくて調べてないですけど、靖国問題とか、きっともっと酷いことになってるんだろうなぁ。

 ……とか言いつつ、私のこのブログにも事実誤認とか調べ不足とか多々ありそうな予感はしてますので、もって他山の石としたい、と言って逃げることにします(汗


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追記:
 「他人の話を聞かない傾向」「事実関係をよく調査せず語る傾向」は何もブログに限った話ではないのかもしれません(それでもブログは象徴的な現象だと感じますが)。そのうち、最近の「現代思想」誌が「他人の話を聞かなくなった」ことについて、批判的に書くことがあるかもしれないしないかもしれません。

スキマ産業としてのプール。

2006年08月18日 | 時事・社会情勢
 流水プールですっかり有名となったふじみ野市なんですが、昨年の10月1日に合併して出来たばかりの市なんですね。事故のあった問題のプールは、名称から察するに旧大井町の施設だったのでしょうか。だとすると、管理委託先も過去のしがらみとかなんか色々あるんだろうと勝手に邪推いたしますが、いずれにせよ、管理委託丸投げは地方自治法第244条の2に違反します。事実行為の業務委託であれば詳細な仕様書により発注して市が指揮監督すべきですし、現地で管理の実務を行う事業者に全面的に管理上の判断を委ねるのであれば、指定管理者として指定する形で条例を改正すべきです。どうでもいいね。

 そんな話ではなくて。

 昨日に引き続き法律の話で重箱の隅をつつこうと思いますが、プールというのは、所管する法律もなければもちろん国の省庁としても所轄庁が決まっていないという、「法のスキマ」に当たる施設なのです。
 例えば温泉には温泉法(環境省)、銭湯には公衆浴場法(厚生労働省)がありますが、プールについては、プールであることによって適用される法律というものはありません。せいぜい、都道府県等でやる気のあるところが、独自に「プール条例」を作って、保健所が立ち入りして水質検査をやっている、というのが実態です。
 そんな状況ですから、今回の事故に際しても、例えば都市公園内のプールについては国土交通省から、学校内のプールについては文部科学省から、それ以外のプールについては厚生労働省から通知が発せられて、都道府県では内容が同じ通知を3通受け取って「管内市町村に通知せよ」とか言われて発狂しそうになってる、とかそんな状態。
 今回の事故についても、排水口カバーの鉄柵が針金固定になっていたとかで批難されてますが、法に基づく施設基準がないのだから致し方ないところではあると思います(法的拘束力を持たない「通知」として発せられたものならあるかもしれませんが、そんなもの役に立ちません)。
 もちろん今回の事故については、(刑事上の責任は調査中でしょうが)少なくとも民事責任の部分に関しては、国家賠償法第2条により、市は全面的な損害賠償責任を免れ得ないと思います。しかしそれにしても、これを契機に、「プール法」が検討されて然るべきなのではないでしょうか。同じ施設に同内容で別の省庁から発せられた通知が合計3通届くような馬鹿げた事態を、国は少し恥じるべきです。縦割り組織の隙間に様々な問題が転がっていることを多少なりとも自覚し、省庁横断的なプロジェクトに対応できる姿勢へとシフトしていくことが、求められているのではないでしょうか。
 別にプールに限った話ではないですが。

 ……今日の記事読み返してみると、なんか単なる仕事の愚痴になってますね。


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法律の価格破壊やー!(彦●呂風に)

2006年08月17日 | 日記・身辺雑記
 涼風は一応法律関係のお仕事をしています。法律関係といっても弁護士とか裁判官とか難関試験を突破した方々とは全然違いまして、会社組織内の法規担当セクションに現在配属されている、というだけのことで、要するに、素人といえば素人です。そんな素人なりに最近ひしひしと感じる「法律って安くなったなぁ」という話を。

 行政法の世界で有名な「砂防法」という法律があります。どうして有名なのかというと、別に実効性が高いとか独創的な構成だとか、そんな理由ではぜんぜんなくって、「執行罰」と呼ばれる形式の規制方法を定めている唯一の法律だから、という理由です。
 この執行罰というのは、簡単に言うと、法律違反について、一定期間内に是正しないと罰金(正確に言うと過料)払わせるよ、というものです。戦後の行政代執行制度見直しの際に、この「執行罰」制度の含まれる法令はすべて改正され、執行罰にかかる規定は削除等されたのですが、唯一、砂防法だけが、このとき改正されずに残ったのです。
「砂防法には何か執行罰を残す特別の理由が!?」……何のことはありません。砂防法に執行罰の規定が残されているのは、単なる「改正漏れ」であるとされるのが通説です。内閣法制局だってたまには見逃しくらいするさ。ということ。
 ひるがえって、現代において同様の改正を行わなければならないとなったら、どうでしょうか。同様の改正漏れが起こる可能性はほぼ皆無か、あったとしても極少でしょう。理由は簡単、手作業でなく、データベースの用語検索で改正対象規定をピックアップできるからです。先の執行罰の例なら「過料に処することを予告」とかそんなキーワードで検索(他に考えられる何通りかのキーワードで再検索)すれば、ほぼ見逃しはないものと思われます。

 当たり前といえば当たり前なのですが、法律というのは、私が大学にいたくらいの頃はまだ、紙媒体でしか手に入らない情報でした。したがって法学部の学生は、必ず「六法」を買います。「六法全書」とはいいますが、上下2巻のこの本に、現在日本で有効な法律・政省令のすべてが収録されている……などと思うのは思い違いです。現在日本で有効な法令8000件弱のうち、いわゆる六法に収録されているのは、せいぜい数百件がいいところでしょう。
 ちなみに「現在日本で有効な法令を全件収録した書籍」というものも存在します。株式会社ぎょうせいが発行する「現行日本法規」という加除式書籍ですが、全部で100巻を超え、この本のためだけに本棚が一棹必要になります。本体価格は20万円ほどですが、随時加除追録により更新しないと意味がないので、その追録代が年間20万円くらいかかります。
 法学部の学生が購入する「模範六法」「小六法」などの、学習に必要な程度の主要な法令と関係判例の概要を収録した六法が、1冊4000~6000円くらい。ちなみに、数年でものの役に立たなくなる(法改正がある)ので、新しいものに買い換えます。
 市販されている六法に掲載されていない法令を見る必要があったら……まさか自分で「現行日本法規」を買うことのできる学生はなかなかいないでしょうから、図書館に行くほかありません。法令のデータを手元に置いておきたければ、地道に1ページずつ開いてコピーを取るほかないでしょう。

 上記は既に過去の話です。今や法令は「見るだけなら無料」となりました。

法令データ提供システム

 総務省主導のもとに法令データベースが構成され、e-Gov(電子政府ポータル)から法令検索が可能になりました。しかも、市販されている民間の法令検索データベース(CD-ROMやライセンス販売によるもの)より下手すると更新早いです。
 これをもってようやく、法令情報を手に入れるために必要な金銭的・時間的コストが、限りなくゼロに近づいたと言えそうです。このことをどう考えるべきでしょうか?これまで「専門家の独占物」であった法令が、われわれ一般人(と言っていいのかどうか微妙な立場の涼風ですが)が簡単に手に入れられるようになった。逆に言えばこれまでは、日本国内にいる限り等しく皆を拘束するものであった法令が、その適用対象ともなるところの日本国内にいるわれわれにとっても、容易にその内容をうかがい知ることができなかった。無形のバリアがあったということなのではないでしょうか。

 法令情報のバリアフリーは、「われわれ一般人」にも法律について考えるチャンスを与えてくれます。例えば、法令相互の比較検討や、特定の文言を含む法令のピックアップを容易にしてくれます。そうしたアクセス権からは例えば「●●省所管の法令は他省に比べ強権的だ」だの「▲▲省所管の法令は明らかに××省所管の法令と矛盾している」だのといった思考方法が可能になります。こんなところに案外、次の時代を切り開く種が埋まっているのではないかな、と、少しばかり期待しているのです。

 ところで判例情報についても、今までは「判例時報」だの「判例タイムズ」だのの専門誌を購入する以外にアクセス方法はないに等しかった(年間購読料は4万円くらいかな)のですが、最近になってようやく、裁判所のウェブサイトから入れる判例検索システムが、使い物になるレベルになってきました(今までは各裁判所でデータが分かれていて、統合が上手くいってなかった。今年あたりようやく改善された)。
 こうした環境整備が案外、国民全体について「リーガル・リテラシー」とでも呼ぶべき法律理解能力の底上げに寄与するのではないか、ひいてはそれが、テクノクラシーに対する抑止力になるのではないか、という期待もあります。


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戦争とか平和とか。

2006年08月15日 | 時事・社会情勢
 過去の「清算」ってのは本質的に不可能なんじゃないか

 とか

 であれば、「戦争責任」というのは高橋哲哉が言うように「戦後責任」としてしか存在しえないのではないか

 とか

 交戦権放棄ってのは理想主義でも平和主義でも何でもなくて高度に外交的な戦略だったんじゃないだろうか

 とか

 実態として(日本国憲法制定当初とその後の「反共」の動きとでアメリカの置かれた状況が違ったということはあるが)「交戦権を放棄したことを外交的武器として他国との交渉に臨む」ということがもはや望むべくもない現状では、憲法9条はもはや意味をなさないんじゃないか

 とか

 とはいえ「実態に合わないから憲法を変える」ってんじゃもはや憲法Constitutionとは言い難いよナァ

 とか

 そんなことを考えていた今日は8月15日でした。



 不戦を口にするのはいいが現代のクライシスは往々にして戦争という形では訪れない(内戦やテロは「戦争」とは言えまい)などと言ってみるテスト。

新世紀のマルクス、シャーマンとしての柄谷行人。

2006年08月14日 | 読書
 有明から無事生還いたしました。今日はコミケで買ったエロ本の話……ではなく、行き帰りの車中で読んだ柄谷行人「世界共和国へ――資本=ネーション=国家を超えて」の感想らしきものをちょっとだけ。

 文学界8月号掲載のインタビューで柄谷本人が語っているとおり、この本からは、(新書というスタイルとも相まって)柄谷が「ビジネスマンへの啓蒙」という役割を進んで引き受けようとしているのだ、というある種の覚悟を感じます。
 タイトルに現れている「世界共和国へ」というのは、カントを道標にしながら、国家主権を放棄した先としての国際連合への指向なのですが、実をいうと、その「世界共和国」へ至るための道筋の困難さ、乗り越えるべき壁については、まるきり忘れ去られたような書かれ方になっている。これは、柄谷がおめでたい性格だから……などというわけでは決してなく、この本のメインはその困難さを語るところにはないのだ、という覚悟によるものなのではないかな、と推測します。
 この本が主眼としているのは、今やわれわれが所与のものとして省みもしない「資本主義」と「ネーション=ステート」のコラボレーションについて、もう一度歴史的、思想史的に捉えなおそう、というところにあります。世界資本主義をすべての前提とする考え方から離れ、われわれが生きている今、この世界というのが、世界史的にどのような時代であるのかを、なるべく客観的に見渡そうとする。そのような視点を与えようということこそが、本書の主目的であるように感じられました。
 そのことは決してソ連圏の崩壊と無縁ではないのでしょう。「資本主義vs社会主義」のような、(多分に政治的な)硬直的な言説が広まったことの当然の帰結として、ソ連圏の崩壊は資本主義に対立するオルターナティブの崩壊をもたらしました。
 見田宗介風に言えば「それでも最も魅力的な社会」であるところの消費社会=資本主義システムは、もはやそれに代わる社会像をイメージするのが困難であるほど、われわれの身に「基本条件」として染み付いている。その立場を相対化し、自らが今立つ地点をより高い場所から俯瞰しようという際に、柄谷が拠り所とするのがマルクスであるというのが、また面白いところです。
 結局のところ、マルクスというのは、「資本主義とは何であるか」を分析した、最初で最後の研究家なのかもしれません。「マルクス主義」の世界的敗北は、いわゆる現代思想の世界に現在に至るまでトラウマを残していますが、そのトラウマに圧殺される形で、マルクスの残した視座、資本主義とはいったい何であるのかを見下ろし眺める視点というものまで、消し去ってはいけないのでしょう。
 であるから(例えばジジェクが「いまだ妖怪は徘徊している」と不吉なメッセージを発したのとまったく同様に)われわれは未だ人類が体験したことのないまったく新しい世界に投げ出されているのだ、という自覚とまったく同時に、それは有史以来現在に至るまで続けられてきた、常に1回限りで不可逆的な世界の諸相=連綿と続く世界史の延長線上に置かれているのであり、その限りで繰り返す歴史のある1回の局面に過ぎないのだ、という相反する自覚を持つ。古い「マルクス主義」の死を(例えばフランシス・フクヤマのように)叫ぶと同時に、その背後に「マルクスの亡霊」が立っていることを知る。そのようなものの考え方を可能とするために、考え方の枠組みを今一度整理整頓するために、本書は書かれたのだと思います。

 そうであるならば、柄谷は本書において「シャーマン」の役割を引き受けたのだ、とも言えないでしょうか。既に死に絶えた(と多くの人が思い込んでいる)マルクスの亡霊を、今一度呼び戻し、自らを憑坐(よりまし)として、その口を通じてマルクスに語らせようとしているのだ、と。そうであるならば、大変な覚悟であり、これは尊敬に値する仕事である、と思います。

 交換様式を軸に歴史を読み返し、資本=ネーション=国家の位置取りを確認し、それらが現在どのように絡み合っているのかを丁寧に読み解いていく、柄谷の現状分析には感嘆します。他方で、そこから何故「世界共和国」へ向かうのか、という、未来へ向かう思考の部分には若干の違和感を感じたので、その点を考えながらもう一度読み返してみようか、と思っていますが……そこを考えるなら「トランスクリティーク――カントとマルクス」を読め、ということでしょうかね。あんな分厚いの今読む気しねぇ。


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inter-net。

2006年08月10日 | 政治哲学・現代思想
 涼風的ブログ論その2です。その1は8月1日の記事ですので、そちらも合わせて読んでいただければ幸いです。加えて、馬頭親王様のブログと行ったり来たりしながら読んでいただければなおいっそう面白いのではないかと。

 そもそも「インターネット」なる用語の語義はinter-net、ネットワークの「間」を指すものであったわけです。2台のコンピュータを直接接続するのがネットワークの最も原初的な形態であるとすれば、そこからクライアント=サーバシステムへ、さらにサーバ間のネットワークとしてのインターネットという「発展形」は、個別のコンピュータというハードウェアの発展とは関係なく、ネットワークというある種の空間性を持った「間」の発展であったわけです。
 したがって、インターネットには「インターネット自身」というような実体的な中心はないし、それを構成する要素のどれかを欠いたら決定的にインターネットが損なわれる、というような重大なパーツも存在しない。にもかかわらずこうしたシステムが「インターネット」という名を与えられて、あたかも単一の実体的なシステムであるかのように捉えられている。
 前回の記事で、東浩紀の用語法を借りて「データベース」と称したものについては、実は上記のような「名付けの効果」が含まれていることを、今一度確認した方がよいように思います。データベースという語には、巨大なサーバか何かがあってそこにデータが蓄積されていくようなイメージがあるけれども、実際はそうではない。インターネットに代表されるような現代の「データベース」は、決して実体的な中核を有するものではなく、分散し、あらゆる場所に遍在しながら、全体としてひとつのゆるやかなネットワークを構成している。
 したがってわれわれは、こうしたネットワークに接続したその時点で既に、データベースから情報を引き出す主体としてアクセスするだけでなく、データベースそのものを構成するひとつの要素となって、他のなにものかから情報を引き出される側の立場に置かれることになるわけです。私がグーグルにキーワードを打ち込むたび、あるいはアマゾン・コムで買い物をするたび、それは「データベース」に情報として取り込まれ、他の誰かに利用されるところとなる。

 このような状況下で、自らのブログを持つということを、どのように評価したらいいのでしょうか?ブログの語義を考えればweb-log、本来、ウェブ空間への通信記録を意味するものであって、必ずしも日記である必要はない。しかし多くの人が、きわめて個人的な経験や主張について記す、「日記的」な利用のしかたをしているのです。
 そして、それこそが最も自然な姿であるということに、今やなってきたのではないでしょうか?前回私は「ハムスターの飼育日記は、それだけではウェブ上で大衆の耳目を集めるコンテンツとはなりえません」と書きました。しかしそれは、ブログ以前の、皆がそれぞれhtmlファイルを作成し、個別に契約したプロバイダのウェブサーバにftp接続してファイルをアップロードする、という作業によってしかウェブ上での「発信者」となることができなかった時代の話だったのかもしれません。もはや、コンテンツそれ自体がキラーコンテンツである必要はない。極論すれば、ブログ上に掲載される記事は、もはや何であってもいいのです。夕陽を眺めて感動したこと。畳縁の模様を眺めて感動したこと。おばあちゃんの肩を叩いたこと。それらはデータベースにアクセスして情報を引き出そうとする第三者からすれば、直接に「価値ある情報」である確率は低いかもしれない。しかし、誰にとってどの情報が価値があるのか、ブログを持つわれわれ自身には実は判断し得ないのであって、そして、データベースはいかなる情報でも差別せず飲み込んでいくのです。
 われわれは、何か気の利いたことを、何か工夫を凝らしたことを、ブログに載せようとして、日々四苦八苦している。けれどそれは、本人にとっては重要なことであっても、実は、データベースの側から見たときには、大した問題ではない。そういうことなのではないでしょうか?むしろ情報として価値があるのは、旅行に「行ったこと」、トリュフを「食べたこと」それ自体なのであって、われわれが日々必死になって、旅行に「行ったこと」に感想や意見を付加し膨張させているその所作は、データベースの性質からすれば、せいぜい「旅行に行ったこと」というメインの情報に対して、本のオビのように巻きつく宣伝文句でしかない。
 ブログは個人の日記であってよいのです。旅行に「行ったこと」、トリュフを「食べたこと」、特定の本を「読んだこと」や特定の音楽を「聴いたこと」、消費の主体として活動したその活動の記録それ自体が、価値ある情報として新たな市場=データベースで流通する。そのような時代になってきたのだ、と言えるのではないでしょうか?

 第3回に続く。かもしれない。


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