その中に、僕が昔好きだった漫画を発見する。何日か前に、テレビを見ながら真由香と話をした、当時大人気だったサッカーアニメ。そのアニメの、原作となった漫画だ。僕はその漫画を手に取り、適当に真ん中あたりを開く。主人公の少年が、チームメイトの一人とのコンビプレーだけで、ディフェンダーを五人くらい抜き去っていく姿が描かれている。ページをさらにめくる。腰の高さくらいに浮いたボールを、主人公の右足とチームメイトの左足とが同時に捉えて蹴り出し、ボールが不規則に揺れ動きながらゴールネットに突き刺さるシーンだ。思わず笑いがこみ上げてくる。まるで大道芸だ。どうして僕はこの漫画にあれほど夢中だったのだろう?僕だけじゃない、皆この漫画を読みながら、ボールに縦回転をかけて蹴ったり、踵でボールを蹴り上げてディフェンダーをかわしたりする、そんな曲芸みたいなサッカーの技術を本気で習得できると信じて、毎日練習していたのだ。
あの頃はJリーグなんてものは存在しなかったし、日本代表の試合だってほとんどニュースにならなかった。僕らは生身の人間が行うサッカーを見ずに、漫画のサッカーを模範としてサッカーボールを追っていた。ジーコもペレもベッケンバウアーも、この漫画を通じて知ったのであって、実際に彼らのプレーを映像で見たのは、もっと後のことだ。当時の僕らにとっては、漫画の中のサッカーこそが本物のサッカーだったのだ。
今はそうではない。テレビを点ければ、スポーツニュースか何かで、ほとんど毎日のように「本物の」サッカーを見ることができる。そこに映し出されるのは、超人的な身体能力と創造性を持ったプレイヤーが単独で状況を切り開いていく漫画の中のサッカーとは、まったく別の何かだ。ディフェンダーは的確なラインコントロールで攻撃のスペースを潰し、フォワードはそんなディフェンスラインの一瞬の隙をついて裏のスペースを狙う。チームは、相手に点を与えず、自分が点を取る、ということを命題としたひとつの有機体のように機能する。個々の選手はまるで細胞のひとつひとつのように見える。
テレビの中のサッカー選手たちの鍛え上げられた肉体が、飛び交う汗が、僕に訴えかけるのだ。これこそがサッカーなのだと。お前が漫画の中に見出し、それこそがサッカーだと信じていたものは、サッカーの要素のいくつかを抜き出して、それらで構築した「まったく別の何か」に過ぎないのだ、と。
しかしそれでは、僕がサッカーだと信じていたそれは、いったい「何」だったのだろうか?いつか漫画の主人公のようなシュートが打てると信じて、日が暮れるまでボールを追いかけていたあの濃密な時間は、単なる児戯に過ぎないとして、切り捨てられて然るべきものなのか?
――『みつばちと猫とからす』(未発表作品)
自分の書いた小説から引用してくるというのは反則だと思いますが、それが未完かつ未発表の作品となればもう二重に反則です。しかし、わりと今話題にしたいと思っていることを素直に書けた文章だと思ったので、そのまま当ブログに転載してみました。
上記は私が書きかけの小説『みつばちと猫とからす』の中で、主人公がコンビニで某なつかしのサッカー漫画復刻版を立ち読みする場面です。この場面を描写しながら、私は明らかに《あの時間》のことを強く意識しているのです。
《あの時間》とは、馬頭親王様のブログ「公的自閉の場」とこのブログ「涼風野外文学堂」との間で最近ホットな話題となっているものですが、馬頭様が簡潔かつ的確にまとめてくださったのでそのまま引用すると、「主に幼少年期に親近性のある、非合理的かつ充溢した時間」という風に理解していただければ、と思います。
8月24日付けの記事の中で私が書いた「《あの時間》に接近する最も安易な方法はセックスである」という実に俗流バタイユ主義的なテーゼについて、馬頭様が単なるネタで終わらないよう詳細な考察を加えてくれました(「公的自閉の場」8月25日付け記事『裸体と死』)。
上記記事の中で馬頭様は、「《あの時間》に接近する最も安易な方法はセックスである」というテーゼについて、安易であるがゆえに容易に否定しがたいということを論証しているように、私には読めました。私が取り上げた《あの時間》と「《あの時間》が過ぎ去った直後に訪れる寂寥感」との関係性というのは、バタイユ風に言うところの「エロティシズムの体験」と「それに続く《小さな死》」との関係性に対応している、というのも、馬頭様の見抜いているとおりです。
それでは、われわれが《あの時間》にコミットするその運動を、エロティシズムの運動と類縁性を持つものと捉えて考えを進めた場合に、《あの時間》が「主に幼少年期に親近性のある」こととの関連をどう捉えたらよいのでしょうか。
バタイユが好んで用いる《小さな死》というのは、非常に男性的な概念であるように思います。そこには絶頂→発射のメカニズムが含まれていて(うーむ、段々エロ話になってきたぞ)、極論すれば《小さな死》とは、射精の直後に起こる微小な痙攣のことだ、と言ってしまってもこの際誤りではないように思います。
その際、幼少年期における《あの時間》と、成年における《あの時間へのコミットとしてのセックス》を決定的に分かつものがあるとすれば、この《小さな死》との親近性であるように思うのです。きわめて生理的な現象に律則される部分にのみ限って言えば、射精する身体機能を有しない幼少年期においては、《あの時間》は《小さな死》から分離した状態で、それそのものとしての《あの時間》を体験することが可能である。しかし射精する身体的機能を所与のものとして受容した後の成年期にあっては、《あの時間》の消尽は必ず直後の《小さな死》を伴う。そのような環境変化こそが、われわれに《あの時間》へのコミットを困難にさせているのではないか、という仮説が考えられます。
そしてこの点について、馬頭様の次のような指摘に注目しなければなりません。
そして大人は、《あの時間》から疎外されている。代わりに手にしたものは……そう、先日までお話していた「情報的な密度」、これが畏ろしい陥落なのではないかと目下のところ馬頭は考えています。
――「公的自閉の場」8月22日付け記事
『「まるで死んでいるように」振舞うべし』コメント欄より
逆に言えば、われわれが幼少年期において《あの時間》を、濃密さをもって享受することができていたのは、「情報的な密度」から疎外されてあったことと無縁ではなかったのではないだろうか……というところで、冒頭の書きかけの小説からの引用に戻るわけです。
つまりわれわれは非常に高密度の情報の海の中を泳ぐようにして生きているわけですが、この情報的な密度というやつは、とりもなおさず、「死を勘定に入れる」ことと親和的なのではなかったろうか、と。だから、幼少期の、死の可能性に起因する呪いから比較的自由であった時期においては、情報的な密度から疎外された時期でもあって、そのことが《あの時間》を享受するために必要な条件だったのではないか、と。
それでは、これだけ「情報の流通量が増大した」社会において、果たして現代を生きる子供たちが、私などが彼らの年齢であったころと同じように、世界を見ることができるのだろうか、という疑問があるのですが、これは疑問の提起のみにとどめます。
しかし例えば、同じ週間少年ジャンプであっても『キャプテン翼』と『デスノート』を読み比べれば、「ああ、今の子供たちは生きにくい世の中を生きているなぁ」と心配してしまいます。この心配は、決して的外れな心配ではないように思うのです。
※ このブログを書いている涼風のウェブサイト「涼風文学堂」も併せてご覧ください。
「涼風文学堂」は小説と書評を中心としたサイトです。
あの頃はJリーグなんてものは存在しなかったし、日本代表の試合だってほとんどニュースにならなかった。僕らは生身の人間が行うサッカーを見ずに、漫画のサッカーを模範としてサッカーボールを追っていた。ジーコもペレもベッケンバウアーも、この漫画を通じて知ったのであって、実際に彼らのプレーを映像で見たのは、もっと後のことだ。当時の僕らにとっては、漫画の中のサッカーこそが本物のサッカーだったのだ。
今はそうではない。テレビを点ければ、スポーツニュースか何かで、ほとんど毎日のように「本物の」サッカーを見ることができる。そこに映し出されるのは、超人的な身体能力と創造性を持ったプレイヤーが単独で状況を切り開いていく漫画の中のサッカーとは、まったく別の何かだ。ディフェンダーは的確なラインコントロールで攻撃のスペースを潰し、フォワードはそんなディフェンスラインの一瞬の隙をついて裏のスペースを狙う。チームは、相手に点を与えず、自分が点を取る、ということを命題としたひとつの有機体のように機能する。個々の選手はまるで細胞のひとつひとつのように見える。
テレビの中のサッカー選手たちの鍛え上げられた肉体が、飛び交う汗が、僕に訴えかけるのだ。これこそがサッカーなのだと。お前が漫画の中に見出し、それこそがサッカーだと信じていたものは、サッカーの要素のいくつかを抜き出して、それらで構築した「まったく別の何か」に過ぎないのだ、と。
しかしそれでは、僕がサッカーだと信じていたそれは、いったい「何」だったのだろうか?いつか漫画の主人公のようなシュートが打てると信じて、日が暮れるまでボールを追いかけていたあの濃密な時間は、単なる児戯に過ぎないとして、切り捨てられて然るべきものなのか?
――『みつばちと猫とからす』(未発表作品)
自分の書いた小説から引用してくるというのは反則だと思いますが、それが未完かつ未発表の作品となればもう二重に反則です。しかし、わりと今話題にしたいと思っていることを素直に書けた文章だと思ったので、そのまま当ブログに転載してみました。
上記は私が書きかけの小説『みつばちと猫とからす』の中で、主人公がコンビニで某なつかしのサッカー漫画復刻版を立ち読みする場面です。この場面を描写しながら、私は明らかに《あの時間》のことを強く意識しているのです。
《あの時間》とは、馬頭親王様のブログ「公的自閉の場」とこのブログ「涼風野外文学堂」との間で最近ホットな話題となっているものですが、馬頭様が簡潔かつ的確にまとめてくださったのでそのまま引用すると、「主に幼少年期に親近性のある、非合理的かつ充溢した時間」という風に理解していただければ、と思います。
8月24日付けの記事の中で私が書いた「《あの時間》に接近する最も安易な方法はセックスである」という実に俗流バタイユ主義的なテーゼについて、馬頭様が単なるネタで終わらないよう詳細な考察を加えてくれました(「公的自閉の場」8月25日付け記事『裸体と死』)。
上記記事の中で馬頭様は、「《あの時間》に接近する最も安易な方法はセックスである」というテーゼについて、安易であるがゆえに容易に否定しがたいということを論証しているように、私には読めました。私が取り上げた《あの時間》と「《あの時間》が過ぎ去った直後に訪れる寂寥感」との関係性というのは、バタイユ風に言うところの「エロティシズムの体験」と「それに続く《小さな死》」との関係性に対応している、というのも、馬頭様の見抜いているとおりです。
それでは、われわれが《あの時間》にコミットするその運動を、エロティシズムの運動と類縁性を持つものと捉えて考えを進めた場合に、《あの時間》が「主に幼少年期に親近性のある」こととの関連をどう捉えたらよいのでしょうか。
バタイユが好んで用いる《小さな死》というのは、非常に男性的な概念であるように思います。そこには絶頂→発射のメカニズムが含まれていて(うーむ、段々エロ話になってきたぞ)、極論すれば《小さな死》とは、射精の直後に起こる微小な痙攣のことだ、と言ってしまってもこの際誤りではないように思います。
その際、幼少年期における《あの時間》と、成年における《あの時間へのコミットとしてのセックス》を決定的に分かつものがあるとすれば、この《小さな死》との親近性であるように思うのです。きわめて生理的な現象に律則される部分にのみ限って言えば、射精する身体機能を有しない幼少年期においては、《あの時間》は《小さな死》から分離した状態で、それそのものとしての《あの時間》を体験することが可能である。しかし射精する身体的機能を所与のものとして受容した後の成年期にあっては、《あの時間》の消尽は必ず直後の《小さな死》を伴う。そのような環境変化こそが、われわれに《あの時間》へのコミットを困難にさせているのではないか、という仮説が考えられます。
そしてこの点について、馬頭様の次のような指摘に注目しなければなりません。
そして大人は、《あの時間》から疎外されている。代わりに手にしたものは……そう、先日までお話していた「情報的な密度」、これが畏ろしい陥落なのではないかと目下のところ馬頭は考えています。
――「公的自閉の場」8月22日付け記事
『「まるで死んでいるように」振舞うべし』コメント欄より
逆に言えば、われわれが幼少年期において《あの時間》を、濃密さをもって享受することができていたのは、「情報的な密度」から疎外されてあったことと無縁ではなかったのではないだろうか……というところで、冒頭の書きかけの小説からの引用に戻るわけです。
つまりわれわれは非常に高密度の情報の海の中を泳ぐようにして生きているわけですが、この情報的な密度というやつは、とりもなおさず、「死を勘定に入れる」ことと親和的なのではなかったろうか、と。だから、幼少期の、死の可能性に起因する呪いから比較的自由であった時期においては、情報的な密度から疎外された時期でもあって、そのことが《あの時間》を享受するために必要な条件だったのではないか、と。
それでは、これだけ「情報の流通量が増大した」社会において、果たして現代を生きる子供たちが、私などが彼らの年齢であったころと同じように、世界を見ることができるのだろうか、という疑問があるのですが、これは疑問の提起のみにとどめます。
しかし例えば、同じ週間少年ジャンプであっても『キャプテン翼』と『デスノート』を読み比べれば、「ああ、今の子供たちは生きにくい世の中を生きているなぁ」と心配してしまいます。この心配は、決して的外れな心配ではないように思うのです。
※ このブログを書いている涼風のウェブサイト「涼風文学堂」も併せてご覧ください。
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