涼風野外文学堂

文学・政治哲学・読書・時事ネタ・その他身の回り徒然日記系。

Google日本語入力は文学を変革するか?

2009年12月10日 | 文学
 Google日本語入力をインストールしてみました。予測変換が鬼過ぎると方々で噂になっていますが、早速試してみます。有名どころでは

ぱんつじ → パンツじゃないから恥ずかしくないもん
ひとがご → 人がゴミのようだ

 なんてのが世のヲタどもの感涙を誘っていますが、

むだむ → 無駄無駄無駄無駄無駄無駄
くりり → クリリンのことか
のびたの → のび太のくせに
おやじに → 親父にもぶたれたことないのに

 のようなクラシックなところにも対応していますし、

よーし → よーしパパ特盛頼んじゃうぞー

 とか、

あなたと → あなたとは違うんです
それなん → ソレナンテ・エ・ロゲ

 辺りはさすがに吹きそうになりました。

 さて、このままでは単なる2ちゃん支援ツールになってしまうので、仕事で使えるものかどうか、一例として法律用語の予測変換度合いをうかがってみますが、

ごうけんげ → 合憲限定解釈
きょうどうふ → 共同不法行為
ひさいべ → 非債弁済
だいしゅ → 代襲相続
こうせいよ → 構成要件
みひつ → 未必の故意
きょうどうせい → 共同正犯
じじょうは → 事情判決
げんこくて → 原告適格

 さすがにヲタ語に比べるとそんなに凄くはない。
 とはいえ、

そんぞくさ → 尊属殺法定刑違憲事件
やくじほう → 薬事法薬局距離制限規定違憲事件

 辺りは大変なことになっています。

 現代思想のテクニカルタームを試してみますと、

じつぞ → 実存主義
こうぞうし → 構造主義
ぽすとこ → ポストコロニアル
ぽすとこ → ポスト構造主義
ぽすとも → ポストモダン
ふらんくふ → フランクフルト学派

 とか、

じょうぶこ → 上部構造
せかいな → 世界内存在
るさん → ルサンチマン
あんがー → アンガージュマン
だつこ → 脱構築

 とかいった感じで、まあまあじゃないでしょうか。

 さて、これで「感動した。おわり」として今日の記事を終了してもいいのかもしれませんが、今回Google日本語入力を試してみた最大の目的は、この操作感覚が自分の文章にどのような影響を及ぼすものか、確認してみたかったことにあります。
 というのも、インターフェースの進化は世間で流通するテクストの文体に、確実に影響を及ぼします。このように、予測変換が常に文書作成をサポートしてくれるようになると、予測結果をまったく見ずに文章を書くわけにはいかなくなるでしょう。インターネットという巨大なデータベースから引き出されたボキャブラリーと、その人独自の傾向とが混在しながら、その人に「最適な」文書作成環境が整備されていきます。それは果たしてその人が「自分で書いた」文章といえるのでしょうか。ここにも、ウェブ時代のアイデンティティの拡散が見て取れます。
 音楽の世界では、既に小室哲哉がこのような経験をしてきています。機械のサポートを受けながら定型パターンの組み合わせ方をただ延々と組み替えていくことによって作成される音楽。私は、文学も今後そのようになっていかざるをえないのではないか、という気がしていて、Google日本語入力の登場は、もしかしたらそのような「文学の新時代」を暗示させる、象徴的な出来事なのかもしれない、と思い始めているのです。
 長らく、近代文学とは個人の内面を描くものである、というような幻想が支配的であったのですが、しかしこの幻想は実はもうとっくに崩壊を始めているのであって、われわれはそれに気付いていないだけなのではないか。Google日本語入力は、そのような「近代文学の崩壊」を目に見えるものとして進める、その第一歩なのではないか。そんな気がしてならないのです。

 ……とか偉そうなこと言いつつ、まだ大森兄弟の文藝賞受賞作も読んでいないワタクシですが。

次回作予告?

2008年12月09日 | 文学
 さて、原稿用紙454枚の長編小説を書き上がったことのご報告は前回のエントリでさせていただいたところですが、涼風的には早くも、次に何を書こうか、ということに考えが向かっています。既に書き上がった作品への愛情が早くも薄れています。

 というのも、この長編小説を書いている途中からもう、「次は絶対に毛色の違う作品を書く!」と思っていて、正直、もうこのグダグダな長編小説を仕上げるのが嫌になってきていて、でも書きかけの小説放ったらかしにして別の小説を書き始めるのは自分で自分が許せなくなるような気がして、最後の方は「これさえ書き上がれば別の小説が書ける!」ということを励みに書き進めていたような状況があったからなのです。それでいいのか俺。

 特に、ここ1年くらいずーっと「ラノベ書きてぇ!」とか思う気持ちが強くあって(1年前のエントリ参照)、実際、既に書き始めているものが1本あります。これは、先の長編小説が完成する前から書き始めたもので、携帯を買い換えたのを機に、携帯で小説書いてみたらどうなるかな、という実験を兼ねて書いているものです。
 もともと学生時代に友人と協力して同人ギャルゲー作ろうとしていたときのシナリオの焼き直しです。高校生男子の主人公と三姉妹(おっとり天然ボケ眼鏡娘の長女、貧乳ツンデレ料理上手の次女、無邪気ロリ元気娘の三女)のラブコメ的展開かと思わせておいて物語中盤から狐だの鬼だの陰陽師だの絡んできて一気に平安末期のテイスト強まるそれってどこのAir?って感じの話です。
 ギャルゲー的文体(短いセンテンスと台詞中心の展開、情景描写少な目)と、1画面内の文字数制限が厳しい携帯というデバイスは、きっと相性がいいはずだ、という根拠のない信念のもとに書き始めましたが、ここまでは概ね思惑通りです。

 それはそれとして、携帯ではなくパソコンのキーボードを入力デバイスとした小説も、平行して1本くらい書き進めたいな、と思っています。
 候補はいくつかあって、ラノベということでいえば、

【候補1】
 舞台は中世ヨーロッパ風、主人公は小国の第2王子。女の子と見まがうほどの華奢な男の子で、腕っぷしはからきし弱いが、隣国間の争いに巻き込まれ、父である王と兄である第1王子が囚われの身となる中、国と民を救うべく、下町でスリをしていた少女や、寡黙なボディガード等、多くの人々の協力を得ながら、持ち前の「知恵と勇気」で難局を切り抜けていく、という、超前向き系ファンタジー。
 エロシーンもなく死人もほとんど出ない、涼風らしからぬ健全なストーリーを目指す。

【候補2】
 市民革命前夜のヨーロッパのイメージに、魔法を持ち込んだ、言うなれば「ガンズ&ソーサリー」。主人公は、「爵位を金で買った」裕福な商家の息子で、著名な魔術師。その相棒は、貧民街の生まれながら、ふとした偶然で国王の目に留まり取り立てられた、軍人の男。一方は、自らは富も名声も手中に収めていながら、世界のあり方に漠然とした違和感を覚え、王権政治への不信を強めていく。他方は、社会の底辺で生活する者の実態を知り、支配階級への強い嫌悪感を持ちつつ、自らを取り立てた王への絶対的な忠義を捨てられない。
 この2人を中心に、1つの国が市民革命へと向かう過程を描く。

 いつもながらのグダグダの純文学でいけば、

【候補3】
 「最後のキスは、大切な人としたい」
 そんなことを言い放つ30代後半女と、中学校の同級生だった引きこもり系主人公男との、心の触れ合わなさっぷりをだらだらと描く倦怠感たっぷり小説。
 過去には希望に満ち溢れていたであろう二人の、現在における希望の無さを、これでもかと徹底的に書き連ねる。

 若干エンタメ性の強いものとしては、

【候補4】
 涼風流犯罪小説。ある死刑判決に関して、被害者と加害者の物語を並列的に綴る。強姦致死事件の被害者が、どのように家族から愛され、幸せな人生を歩いている途上だったか。加害者が、どのような生い立ちを経て、どれほど追い詰められ自暴自棄になっていたか。物語はそのうち両者の両親、あるいは祖父母の代にまで広がって、このような犯罪が誰の身にも起こりうること、誰しもふとしたきっかけで凶悪事件の犯人になりうること、などを考えながら、死刑について再度考え直すことの契機となるような作品を目指す。

 ……と、まあ、これくらいの候補作が脳内シミュレーションを重ねながら出番待ちをしている状態であるわけです。

 ここまで説明できる形に煮詰まっていない、着想を得ただけのものも含めれば、涼風の脳内にはもう3つ4つの「小説候補」がありますし、ある程度煮詰まっていていつでも書き始められる状態にあるものの、いざ書き始めると原稿用紙数千枚になりそうな超・長編で、躊躇してしまいまだ書き始めていない、というものも1本あります。

 ……さて、この中でいくつ形になって、いくつ墓場に持っていくことになるのかな。
 何年か前(『スイヒラリナカニラミの伝説』脱稿直後)には「アイデアが枯渇した」って思ってまったく小説書ける状態になかったことを考えれば、ずいぶん贅沢な悩みです。


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脱稿!

2008年12月02日 | 文学
終わった――――!!

 ……ふぅ。

 かれこれ4年がかりで書いてきた小説が、ようやく書き上がりました。
 これから誤変換のチェックとか全体を通しての字句の統一とか、あるいはちょっと書き足りない部分の加筆だとか、色々手直しをするので、最終的な完成と言えるまでにはもうしばらくかかりますが、とりあえず、エンドマークを書き込むところまできました。最初から最後まで通して読める状態まで持ってきました。

 400字詰め原稿用紙換算で454枚。

 ……投稿先ないなぁ。どうしてくれよう。

 もともとは「群像」か「新潮」か、いわゆる四大文芸誌の新人賞の中でも、比較的「本格派」のところを目指して書いていたのですが、いざ書き上がってみると、あまり「純文学」とも言えないような気がしてきました。
 だからといって大衆文学かというと、エンターテインメント性は皆無なので、それもますます違う感じです。
 じゃあその小説は何なんだ、って聞かれると、んー、「つい最近塾講師の職を見つけてニート脱出したばかりの34歳独身男が酒呑んでエロいことしてまた酒呑んで中学の同級生とかその娘とかとエロいことして最後孤独だナァって呟くそんな小説」……なんかどうしようもない気がしてきました。
 ある意味、世代論的なところは強く出ていて、われわれの世代(20代終盤~30代前半を想定)にある程度共通する諦念とか、無常感とか、小学生の頃思い描いていた未来と現在とのギャップとか、そういうものを積極的に盛り込んでいる部分はあります。
 ……ロスジェネ小説、とか言ってみるべきなのか?


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革命不足。

2008年09月04日 | 文学
【試論1】
 日本において、近代的人権概念の中核をなす自由(私的自治の原則)は、自ら革命を経て創設したものではなく、西欧における革命の「結果」の部分だけを輸入したものにすぎない。
 そのためわれわれには「革命の経験」が決定的に不足しており、このことが、「自由」を与えられたものとして享受するにとどまり、「自由の獲得」という思考法になかなか達しない現状を生んでいる。

【試論2】
 こんにち、資本主義は決定的に発展深化し、われわれの日常生活の奥深くまで潜り込んでいる。このことは、われわれの日常のありとあらゆる事柄が、貨幣経済に翻訳されて流通する可能性を持つということである。
 その帰結として、われわれは、身近な他人の物語に価格をつけて売買しているとともに、またわれわれの一人一人が、それぞれ自分自身の物語に価格をつけられて売買され、アイデンティティをばらばらにされて切り売りされることの恐怖に怯えながら暮らしている。

【試論3】
 こんにちわれわれは不自由な世界を生きており、この息苦しさを脱するために、革命という用語の持つカタルシスに魅力される。
 ところが、こんにちのわれわれの革命は、始まる前から、失敗を宿命づけられている。それは、われわれがもはや他人の物語に価格をつけて売買することでしか、他者とコミットできないということ、つまりすべてが必然性=貧窮のくびきの下にある「社会問題」に回収されてしまうほどに、資本主義が深化してしまったことによる。


 ……最近ちょっと様々な場面で「あーこの国の人々は近代的『人権』概念の有難みを分かってネェ」と思うことがあって、そこから思考を進めるうちに「やっぱ自分らで市民革命やってない連中に人権の有難みなんざ分かんネェよな」と自分を棚に上げて考え始めたところ、「革命」という用語に絡めて、今日における自由と革命について自分がどう考えているのかを整理しようと思った次第です。

 ちなみに上に掲げた試論1~3で言ってるようなことは、もう6年も前に書いた小説『スイヒラリナカニラミの伝説』の中で概ね網羅されていて、ああ俺6年もかけて何にも進歩してねぇじゃん、とか思った次第でもありますorz

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※ 上記の小説『スイヒラリナカニラミの伝説』も「涼風文学堂」にてお読みいただけます。

純文学と大衆文学の間で。(進捗状況報告)

2008年07月08日 | 文学
 400字詰め原稿用紙で400枚を超えました。

 ……いやその。
 例年にない仕事のはちゃめちゃぶりも、引越し関連のごたごたもようやく一段落し、子育てこそノンストップで進行しているものの、それ以外はそれなりに時間の工面もできるようになって、それなのにろくにブログも更新せず、何をしていたのかというと、かれこれ4年近くかかって書いているのにまだ完結しない小説をいい加減仕上げようと、執筆にふけっていたのですよ。

 で、重大な問題なのですが。

 涼風はこれまで、小説を書き上げると、その出来映えが気に入ろうが気に食わなかろうが、とりあえず、いわゆる純文学系の公募新人賞に投稿していたのです。今回も、書き上がったらいわゆる「4大文芸誌」辺りのどこかに(一応時々買って読んでるしね)投稿してみようかと思ったのですが。
 大概の新人賞には原稿枚数の制限(絶対的なものではなくて、多少オーバーしても許してもらえるみたいですけど。経験則的に)があります。純文学系の名の知れた新人賞の中で、もっとも制限がゆるい「文藝賞」ですら、400枚が上限です。ところが、今涼風が書いている小説は既に400枚を超え、おそらく、最終的に450枚くらいに膨れ上がります。

 ……投稿先ないじゃん。

 で、「特定の新人賞に応募するために小説を書く」のではなく、「小説を書きあがってから、投稿させてくれそうな新人賞を探す」という、すっかりダメ文学青年の作業を開始してみたわけですが、いわゆる大衆文学系の公募新人賞なら、600枚だの800枚だの、制限のゆるい賞がたくさんあります。となると、純文学系の賞はあきらめて、大衆文学系の賞に応募してみるべきなのでしょうか。
 しかしそれも邪道な考えだよなぁ、と思う反面、ふと、疑問が浮かびました。

「……そもそも、俺の小説って、純文学なのか?」

 元来「純文学と大衆文学のジャンル分けこそ不毛だ」との指摘は、多く聞かれるところです。それでも、一応の傾向というか、芥川賞と直木賞とか、文学界とオール読物とか、多少の色分けはあるところだと思ったのですが。
 しかし町田康や中原昌也や舞城王太郎が純文学の代表選手みたいな扱いを受けるのも何かが間違っている気がしますし、下手な純文学よりも宮部みゆきとか読んだ方がよっぽど文学的示唆に富んでいるような気もします。
 他方で私自身は、もちろん私なりの「文学的使命」みたいなものを勝手に思い描いて駆り立てられて書いているのですが、しかしそれは「純文学」のフィールドに拘泥しなければ実現できないものとは限りませんし、逆に、世間一般の目から見て、「純文学的なもの」として受け入れられるようなことをやっているのかどうか、疑問が残ります。

 うん、そういうことで。
 たった今、俺の書きかけのこの小説は、大衆文学に決定。(爆

 ……ノンジャンル系でどっか投稿先探します。


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物語の力を信じるということと「アンダーグラウンド」。

2008年06月16日 | 文学
 アキバの無差別殺傷事件から1週間が過ぎて、テレビのニュース(「News23」ですが)が特集を組んでいるのを眺めながら、ふと去来した違和感とともに、村上春樹が「アンダーグラウンド」を記した理由について、漠然と考えていました。
 我々はどうしても、このような事件があると、犯人の側の「心の闇の深さ」に目を奪われ、「彼は何故このような犯罪を犯したのか?」に思いを馳せます。
 ところが、実はそれこそが、もっとも根本的で本質的な問題であるように思えてきました。

 今日の「News23」がそうであったように、今回の事件の犯人が、犯行直前まで掲示板サイトに書き込みをしていたことは広く報道され、注目されています。
 そしてこれらの書き込みの内容から、犯人の男が日々感じていた疎外感や孤独を指摘するのは素人にも容易ですし、不安定な雇用の問題と絡めて語るのもまた、解りやすく、もっともらしい説明となることから、随所で聞かれる議論です。
 私が懸念するのは、こうした「第三者が、犯人に寄り添う思考法」が、致命的な欠落を孕んでいるのではないかということなのです。具体的には、このような「犯人寄りの思考」が、本質的に被害者の存在に思いを至らせ得ない点にこそ、注意を払わなければならないように思えるのです。

 この点は、既に地下鉄サリン事件を受けて、村上春樹が「アンダーグラウンド」で指摘していたところです。
 地下鉄サリン事件においては、加害者であるオウム真理教の特異性ばかりが強調され、巷間を席巻したために、個々の被害者にそれぞれ固有の生活があり、固有の物語があり、どれ一つとしてかけがえのない生命であるという、ある意味当たり前の事実が、思考の外に置かれています。このことを、見過ごしてはならないように思うのです。
 というのは、今回の事件の加害者において指摘されるような「疎外感」だの「孤独」だのというものは、まさに「他者への眼差しを欠く」これらの思考法と、親和的であるように思えてならないからなのです。誤解を恐れずに言えば、犯人の心の闇がどのようなものであるかについて考え、他方で、被害者がどのような物語を抱いていたかに思いを致さないのであれば、そのような考え方こそが、疎外感と孤独を惹起し、犯人を追い詰めている「真の犯人」なのではないでしょうか。

 このような「地下鉄サリン以後の世界」を支配する、普遍的な疎外感と孤独に抗するためには、他者への眼差しに満ちたテクスト、誰しもが圧倒的な物語を有しており、唯一絶対の物語の力に慄然とさせられるテクストを、発信していかなければならないのかな、と思います。今日文学者が手掛けるべき最大の仕事は、こうした「小さな物語に慄然とさせられる」テクストなのではないでしょうか。

 ……という、今回のエントリは、試みにケータイで書いてみました。これもまた文学的実験のひとつなのです。決して、部屋中を這い回る娘の被害を避けるため片付けてしまったパソコンを、立ち上げるのが面倒だからではないんです。ないんですってば。

おとなの童謡。

2008年02月16日 | 文学
 昼間はよい子で大人しくしている娘が、夜も12時を回った辺りから大泣きを始めるので参っています。昼夜逆転生活。夜型人間なのか。まあ父親が俺では仕方ないか。

 娘の機嫌が悪いときに、抱っこしながら歌を歌ってやったりすると少しぐずり泣きが収まるので、この何ヶ月か、やたらに歌を歌いまくっています。二十年以上も前に歌っていたような童謡だの唱歌だのをよく覚えているものだなぁと自ら感心することしきりなのですが、同時に、子どもの頃は深く考えずに歌っていた歌の歌詞を、今にして噛み締めてみると、色々思うところがあったりします。そんな、童謡の歌詞に関して最近気づいたことやマメ知識など、以下五月雨式に。

1:
「おもちゃのチャチャチャ」の作詞は野坂昭如。焼跡派で知られる野坂御大の作詞と考えると「鉛の兵隊トテチテタ/ラッパ鳴らしてこんばんは/フランス人形素敵でしょう/花のドレスでチャチャチャ」なんて歌詞にも、ついぞ本当に欲しいときに手にすることが出来なかった物質的豊かさへの、限りない憧憬を感じませんか。俺だけですか。
 ところでこの話を妻にした際「野坂昭如って誰?」と聞かれて「ほら、あのテレビに時々出てる酔っ払い」としか答えられなかった俺の知識の浅さを何とかしてください。慌ててフォローするように「ジブリの映画になった『火垂るの墓』の原作者」と初心者向けの解説をして却って誤解を与えたような気がするorz

2:
「雨ふり」(あめあめふれふれ~)の作詞は北原白秋。そう言われてみると、傘を持たず柳の木の下でずぶ濡れで泣いている子に「君、君、この傘差し給え」などと上から目線でものを言う辺りに明治のテイストを感じます。
 ちなみに同じ白秋の作詞による「この道」に出てくる、アカシヤの花が咲いてる道は、札幌にあります。しかしここでもお母様かよ

3:
「手のひらを太陽に」の作詞はやなせたかし。言わずと知れたアンパンマンの生みの親。なお「ミミズだって/オケラだって/アメンボだって」の部分の「アメンボ」は当初「イモムシ」で行こうとしたが周囲に止められたというトリビア。
 ところで、テレビアニメ「それいけ!アンパンマン」の主題歌「アンパンマンのマーチ」の作詞も同氏が行っていますが、テレビで流れているのは2番の部分。テレビで流さない部分の歌詞は、正直お子様向けとは言い難いところがあるので、そのへんにもテレビ局の配慮というか大人の事情を感じます。「たとえ胸の傷が痛んでも」だの「時ははやく過ぎる/光る星は消える/だから君は行くんだ/ほほえんで」だの、有限の命の儚さを身につまされながら今を精一杯に生きようとする氏の哲学が読み取れます。
 そのようなやなせたかしの哲学を意識しながら歌えば「僕らはみんな生きている」という有名なフレーズは「いつか死ぬ」ということを常に意識することと同義であるわけですね。

4:
 文部省唱歌の中には今なお歌い継がれているものが少なくないですが、歌詞を読み返してみると当時の世相が浮かぶものがありますね。「行ってみたいなよその国」で終わる「海」だの「角出せ槍出せ」と囃し立てる「かたつむり」だのは、帝国主義的展開を暗示しているように思えてなりません。
 「蛍の光」とか「仰げば尊し」を童謡のカテゴリに含めるのは適切ではないかもしれませんが、「修身の授業かよ」と突っ込みたくなるような、当時の理想とされる人物像が浮かぶものも数多くあります。「故郷」あたりはその典型例です。父母や友人の安否を気遣いながら、立身出世を果たして故郷に錦を飾ることこそ本懐とされたのでしょう。ニュータウン育ちで帰るべき故郷を持たない涼風には永遠に理解できない世界です。

5:
 まど・みちお+團伊玖磨といえば、北原白秋+山田耕筰とかサトウハチロー+中田喜直あたりと並んで「童謡界の夢のツートップ」とでも言うべき取り合わせですが、このコンビによる名曲中の名曲「ぞうさん」。その出だし「ぞうさん/ぞうさん/おはなが ながいのね」というのは、象の身体的特徴をからかっている様子を示しているのだとか。これに対し「そうよ/かあさんも/ながいのよ」と返す辺りが、身体的差異をむしろ肯定的に捉えようというメッセージだと解釈できるということですが、あのぅ、それってつまり「みんなちがって、みんないい。」ってやつでしょうか?


 上に挙げた以外にも、童謡の作詞には阪田寛夫だの野口雨情だの魅力的な研究対象がごろごろしてますが、それらを語るには涼風の知識が若干不足しておりますので、今日はとりあえずこのへんで。
 あと、童謡の作曲についても、先に挙げた團伊玖磨や山田耕筰はもちろんのこと、芥川也寸志だの服部公一だの、濃い目の面々がところどころに姿を現し、これはこれで興味を引かれるところですので誰か俺の代わりに語ってくれませんか駄目ですか。


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痛み、孤独、その一歩先に。

2007年12月25日 | 文学
 春先からの心配ごとであった子供が無事生まれ、これで後顧の憂いなくブログの更新にいそしむ……などということができるはずもなく、日々だっこと沐浴とおむつ替えに奔走しているパパ涼風でございます。妻の妊娠・出産を経たのと、現在進行形の子育ての中で、また色々と思うところはあるのですが、それはまた、ネタに詰まったときの切り札にとっておきます。

 さて、最近涼風の車内では、BUMP OF CHICKEN の新作アルバム「orbital period」がかかりっぱなしなのですが……俺的に今年の最高傑作、いや、涼風的にはここ数年で最大のヒットかもしれません。
 もともとテレビ等のメディアで「アルエ」だの「涙のふるさと」だの「カルマ」だのの曲の一部を断片的に聴いて、わりと丁寧な仕事をしているな、という印象は持っていたのですが、いざアルバムを聴いてみると、わりと、どころか、相当に丁寧な作り込みをしていることに、感心しました。これだけ「アルバムらしいアルバム」を聴いたのは久しぶりです。
 もともと涼風は「アーティストへの礼儀として、CDはお金を出して買うべきだ(レンタルやダウンロードで済ませるべきではない)」「シングルよりもアルバムを通して聴いて評価する」という趣味の持ち主なのですが、ここ数年、どのアーティストのアルバムを買っても「ベスト盤か?」と思わせるようなまとまりの無さを感じていたところでした。
 他方でこの「orbital period」は、シングル曲を6曲も含んでいるにもかかわらず、ジャケットや同梱ブックレットも含めて、アルバムとしての一体性を失わず、全体として同じ方向を指向しているように見えます。これは、作詞作曲を手がける藤原基央の持っているイメージを、他のメンバー・デザイナー・プロデューサー等が、しっかり共有しているということなのでしょう。

 というわけで「orbital period」所収の楽曲については、完成までにバンドメンバーを始め多くの人の手がかかっているとしても、すべて単一の人物の手による楽曲であるかのように扱ってしまって支障ないものと信じているのですが(いや実際、詞とメロディーは藤原が一人で書いてるんだろうし)、コトバの問題を扱う当ブログとしては、ここで同アルバム中の楽曲の詞の部分に特に着目したいと思います。いや、詞とメロディとアレンジ/バッキングが全体として調和していることは大前提として、あえてそこは目をつぶって、特に詞だけをピックアップするという邪道な鑑賞をしてみるわけですね。
 これらの歌詞はいずれも(例えばアジカン辺りと比べて)非常にシンプルで分かりやすいものですが、同梱ブックレットと併せて、全体に通底する雰囲気を象徴的に表しているのが、7曲目「ハンマーソングと痛みの塔」だと思います。物語仕立ての歌詞になっており、溜め込んだ「痛み」を箱に詰めているうちに、誰かに気づいてもらいたいと思ってその箱をいくつも積み上げていくようになり、箱を積んでは登り、積んでは登っていくうちに、却って周囲との距離は遠くなっていく、といった内容です。ちょっと引用してみます。

  そうか これでもまだ足りないのか 誰にも見えてないようだ
  それじゃどんどん高くしなくちゃ 世界中にも見えるくらい

  どんどん高く もっと高く 鳥にも届く痛みの塔
  そのてっぺんに よじ登って 王様気分の何様

  何事かと大口開けた やじ馬共を見下ろした
  ここから見たらアリの様だ 百個目の箱積み上げた

  お集まりの皆様方 これは私の痛みです
  あなた方の慰めなど 届かぬ程の高さに居ます

  きっと私は特別なんだ 誰もが見上げるくらいに
  孤独の神に選ばれたから こんな景色の中に来た


 さて、90年代のアーティストなら、おそらくここまでで終わりです。
 椎名林檎や浜崎あゆみの名を挙げればぴんと来るとおり、90年代は「痛みを叫ぶ女の子の時代」であったのではないかな、と、涼風はわりと本気で考えているのです。そしてその流れは未だ途絶えることなく、書店ではレイプやDVや友人の自殺といった「痛いモチーフ」を使い回した、女の子のためのケータイ小説が幅を利かせています。
 そうした「痛い女の子たち」を横目に(モーニング娘。や華原朋美もまた、違った意味で、痛々しい存在であったことに変わりはないのです)、男の子たちは何をしていたのだろう、という件については、少し前のエントリで触れた(ロス・ジェネ文学としての『ラブやん』。)ところでもあるのですが、この「orbital period」に至って、ようやく、荊の城で眠る姫を救いに入る王子が現れた、と、涼風は確信しました。
 先に引用した「ハンマーソングと痛みの塔」にはオチがあって、痛みの箱を積み上げた塔のてっぺんで孤独に打ち震えている「王様」を、下から誰かが「ダルマ落とし」の要領で助けに入るのです。

  下から順にダルマ落とし 誰かが歌うハンマーソング
  皆アンタと話したいんだ 同じ高さまで降りてきて


 これは、90年代にはなかなか有り得なかった展開だと思うのです。
 痛みと孤独を叫ぶ楽曲は、数多く歌われてきました。浜崎あゆみがその代表格であるように、そうした痛みは「共有される」ことによって幾許かの癒しを得てきました。
 BUMP OF CHICKENは(というより藤原は)こうした痛みや孤独を直視しながらも、それを共有しようとしません。傷を舐め合い、二人きりで安全な場所に引きこもるのではなく、自らが開かれた世界への架け橋になろうと試み、孤独の殻に閉じこもった少女に声をかけ続けるのです。
 これこそが、痛みと孤独、さらにそれを紛らすための(往々にして安易な)「癒し」を超えて、次へ進んでいくための、もっとも誠実な姿勢なのではないでしょうか。

 個人的な話をすれば「孤独」を克服するための「出会い」の重要性、というテーマは、涼風が10代から20代前半にかけて、追いかけ続けてきたものでした(文学界新人賞に初めて投稿した『ゼリィ・フィッシュの憂鬱』という小説が、まさにこのテーマに沿っています)。不可能なことですが、もしこの頃の涼風が「痛みの塔とハンマーソング」を聴くことができたなら、ひょっとしたらその後の人生違ったんじゃないか、とさえ思えてきました。……考えすぎ?

 さて、「痛みの塔とハンマーソング」から読み取ってきた「痛みと孤独を直視し、それを超えるために、出会おうとすること」という基本姿勢は、「orbital period」所収の多くの楽曲に共通して見られるものです。
 このような観点から聴くと「傷付ける代わりに/同じだけ傷付こう/分かち合えるもんじゃないのなら/二倍あればいい」と言い放つ「メーデー」や、「あなたが花なら/沢山のそれらと/変わりないのかもしれない」と平然と言ってのける「花の名」の凄みも、また違った形で伝わるというものです。
 もちろん、このアルバムの真のクライマックスは、「星の鳥」のテーマのリプライズに続いて14曲目に収録された「カルマ」であると信じて疑わない俺がここにいます。シングルで聞いたときと明らかに印象違います。アルバムの曲を頭から順に聴き、歌詞カード兼ブックレットのページを繰りながら、終盤でこの曲に行き着くと、真剣に「すげー」と思います。ほんとはここで「カルマ」の歌詞全部引用して終わりたいくらいですが、何と言うか無駄な労力だし、著作権関係も若干うるさいらしいので、上のリンクから各自歌詞参照して終わっといていただければ幸いです(ぉぃ


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※ 独断と偏見によりこのエントリのカテゴリは「文学」にしときます。

地下鉄、あるいは、同じ月を見ているということ。

2006年12月11日 | 文学
 少しばかり個人的な体験について語ることをご容赦ください。もう十年以上も昔の話。高校は卒業したものの、大学受験に失敗し、行き先を失っていた私は、御茶ノ水にある某大手予備校への入学手続のため、JR総武線にことことと揺られておりました。3月のある穏やかに晴れた日の朝、通勤ラッシュより少し遅い時間の鈍行列車の車内はさほど混み合ってもおらず、私はロングシートに腰掛け、うとうとしながら、御茶ノ水駅への到着を待っていたのでした。
 そんな車内が急に賑やかになったのは、どこの駅からでしょうか。本八幡か市川か小岩か、どうも正確には覚えていないのですが、突然、平常時では考えられないような大量のお客さんが、総武線の車内に乗り込んできました。扉の外では、地下鉄で何か事故だか異臭だかがあったとかで、電車とホームが混み合っていることをしきりにアナウンスしています。何だ、騒々しいな、とその時の私は自分勝手な感想を抱き、目を閉じて、うたた寝を再開したのです。
 そして予定どおり御茶ノ水の駅で降り、予備校への入学に必要な書類を提出すると、千葉で友人たちと集まってTRPGをする約束があったので、今乗ってきたのと反対方向の総武線に乗り込み、再び穏やかな日差しの差し込む平穏な車内で、かたことと、1時間ばかり揺られていったのでした。

 それが1995年3月20日のことです。

 地下鉄サリン事件のことは友人たちと会ったときに初めて聞かされましたが、そのときは断片的な情報しかなかったこともあって、それほど大きな事件があったとは認識していませんでした。友人宅でTRPGを1セッション遊び、夕飯まで御馳走になってしまい、自宅に帰ったのはわりと遅い時間で、それからようやく、どうやら大変なことが起こったらしい、ということを理解したのでした。

 その頃、父は九段下に、母は茅場町に勤めていました。
 その日に限って父はたまたま営団東西線ではなく都営新宿線で出勤しており、その日東西線に乗車していた母はサリンの撒かれた車両より何本か遅い列車に乗っていたため、難を逃れました。しかし考えてみれば、新宿の学校に通っていた姉を含め、この日は一家4人全員が千葉から都心へ向かう列車に朝から乗り込んでいたのであり、4人の中の誰かが何かの拍子に命を落としたとしても、何ら不思議ではなかったのです。

 その日から私の中に「何故だろう?」という疑問が渦巻いていて、その疑問は今でも消えることはありません。その日、私の目と鼻の先で、何人かの人が殺され、何人かの人が深刻な障碍を負いました。私の父や母や姉が乗っていたのとほぼ同じ時間帯の地下鉄で、無差別殺人が冷徹に実施されました。何故彼らは死に、私や私の家族は生きているのか。何故彼らであって、私ではなかったのか。彼らと私を分かつものは何であったのか。それは未だに分からないままなのです。

 その後私は1年間、総武線で御茶ノ水の予備校に通っていました。通勤ラッシュの時間帯に、酢飯のように押し合いへし合いしながら、満員電車に揺られて行きます。その間も僕を捉えた「何故?」の思いは消えることはありませんでした。
 毎日同じ時間の電車の、同じ車両に乗ります。毎日同じ顔を見かけます。毎日ドアの近くに立っている女の子は、いつも熱心に文庫本を読んでいます(これがチェーホフとかドストエフスキーだったらある意味「絵になった」のかもしれませんが、残念ながら、と言ってよいのかどうか、彼女が読んでいたのは『スレイヤーズ!』でした)。彼女が読んでいる本を、私も読んだことがあります。しかし、この狭い空間で、読んでいる本の文字が横から覗けるくらいに非常に接近してありながら、私が彼女と同じ本を読んでいることなど、この空間では、まったく問題にされません。
 この満員電車の中に「詰め込まれた」無数の人々は、私も含めて、それぞれに固有の物語を生きています。その中で例えば、私と同じ車両の彼女は私と同じ本を読んでいるのだし、私と同じ音楽を聴く人や、私と同じ紅茶を好きな人や、私の父と同じ職場に通う人なんかが、この15両ばかりの列車のどこかに、乗っているはずなのです。物語の交差する可能性は無数にあります。それでも、これらの物語は決して交差することなく、すれ違い、過ぎ去ってゆくのです。

 思い返せば、それからの十年と少々の間を、私はただひたすらこの「何故?」と向き合うことに費やしてきたのだ、と言っても、過言ではないかもしれません。私にとって、私がただ今生きているということ、ただ平穏に生きているということ、それ自体に対する違和感が、常に働いていたのです。どこにでもいる同じ世代の人々の多数派と同様に、予備校に通い、大学受験に一喜一憂し、大学に滑り込み、サークル活動にいそしみ、酒を飲んで騒ぎ、単位に一喜一憂し、就職先に滑り込み、初任給で両親に食事をおごり、車を買い、結婚し(1995年3月20日のあの日にTRPGを遊んだメンバーの一人と結婚した、というおまけのエピソード付き)、新婚旅行に行き、家を買い、そんな諸々の最中に時折ふと、振り向いて何かを確認しなければならないというある種の強迫観念が、こんな風に平穏無事に生きているということそれ自体が何か間違っているというような気が、してならなかったのです。
 その背景には、地下鉄サリン事件に「ニアミスした」という個人的体験、そして「それにも関わらず、何事もなかったかのように走り続ける」満員電車にその後一年間揺られ続けたという個人的体験が、渦巻いているように感じられるのです。

「だってあの列車の中では、誰もがパパだったり娘だったり、ママだったり息子だったり、眠たかったり冴えていたり、嬉しかったり悲しかったり、したはずなのよ。それが寒天に閉じ込められたカエルの発生段階の胚みたいに、みんな、固定されてしまった。運動を停止させられてしまった。だからそこで、場に向かう食肉牛みたいに殺されていったのは、無数の物語であると気づいたの。
「ねえ、だってそうじゃない?あの列車の中には、パパだったりママだったり、貞淑だったり奔放だったり、夢があったり諦めがあったり、そんな区別なんてありはしないんだって、証明されてしまったのよ。あたしたちの生きるこの世界では、もう誰も物語ることができない。だってそれぞれの物語はすべて、何の区別もなく場の牛みたいに、無差別に殺されていくんだもの。そんなのって――そんなのって、信じられる?」
(『スイヒラリナカニラミの伝説』)


 それは決定的な経験だったのだと言うことができるでしょう。十代の最後の時期、このときに私は、満員電車で偶然乗り合わせた大勢の人々との間で、互いに共有することが可能と思われるはずの物語をそれぞれに有していながら、互いにそれらにアクセスすることができないのだということを、思い知らされた、のでしょう。(もちろん今だから言えることなのですが)
 私が例えば小説を書き、下手な漫画を描き、下手な音楽を作曲し、素人仕事のノベルゲームを作成し、そんなことをしながら追いかけようとしていたテーマは、ある種の原初的な孤独――ヒトは結局のところ他のヒトと何ものをも共有しえないということ――なのではないだろうか、と、ここ十年のうちに自分が作ってきたものたちを振り返って見ながら、思います。そのような「原初的な孤独」を、人生のうちで初めて、しかも決定的に、思い知らされたのは、やはりあの満員電車だったのではないか、とも思います。

 そんな絶望的とも言える、逃れようのない孤独の深い闇を眼前に認め、それでもなおここに立ち続けようとするならば、この絶望的な闇を照らす一条の光は――「同じ月を見ている」ことなのではないかな、と思います。この地球上の、緯度も経度も異なる別の地点=ポジションから見上げる月は、それぞれ誰の目にも異なって映るかもしれない。自分の目に映った月のイメージを誰かと共有することは、やはり原初的に不可能だ。しかし、それでも、月はひとつなのだ――そんなささやかな灯火を、これからの十年、例えば小説を書いていく中で、追い続けていければいいな、と考えているのです。


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俺内対話

2006年11月28日 | 文学
「久しぶりだね」
そうかい?
「この何年かというもの、君は僕にまったく話しかけてくれなかったじゃないか」
忙しかったんだよ。
「あるいは君はもう、僕のことなんか忘れてしまっていたのかもしれない」
そうかもしれない。
「だけど今、こうして話しているっていうことは、珍しく君が僕の助言を必要としているっていうことだ」
まあね。否定はしない。
「上手くやっているつもりかい?」
何だい、やぶからぼうに。失礼な物言いだな。
「まあ聞きなよ。多少の回り道はしたかもしれないが、まあそれなりに名の知れた大学を出て、就職氷河期の時代に小さいがまあ安定したところに就職して、今の仕事ももう6年目だ。それなりに責任ある仕事を任されてもいる。初めてのボーナスを頭金に買った車はとっくにローンも終わっているが、大して手も入れずにまだまだ走る。結婚生活も3年目、夫婦ともにちょっと残業は多いかもしれないし、そんなに高給取りってわけでもないけれど、それでも年に2度3度は旅行に行って、週に1度くらいは外食か宅配ピザでも食べて、それでも3年間の貯蓄で、マンションの頭金くらいにはなる。都心から1時間半、私鉄の終点からひとつ手前の駅前にマイホーム。素晴らしいね。順風満帆ってやつだ」
何だ、皮肉かい。勘弁してくれよ。
「このくらい露骨に言ってやらないと、皮肉だってことに気づかないんじゃないかと思ってね。なにしろ、今の君ときたら、冬眠寸前の爬虫類みたいに鈍重きわまりないんだもの。それで、どうなんだい。上手くやっているつもりなんだろう?」
――つもりじゃない。上手くやってるんだ、実際。
「どうだか。君が思っているほど、甘いものじゃないと思うけれども」
その台詞はそのまま君に返してやりたいね。実際、ここまでは上手くやってきたのさ。それも、全身全霊を費やして、どうにか落下せずにきた、と、その程度のことだ。実際のところ、ほんの些細なきっかけで、すべてを台無しにしてしまう可能性が、常に僕の眼前で大口を開けて待ち構えているんだ。明日には僕は交通事故を起こすかもしれないし、何かひどい失敗をするか他人の嫉みを買ったかで、職場内で不利な状況に立たされるかもしれない。毎日が、先の見えない綱渡りのようなものだ。いつバランスを崩して墜落し、不幸な生涯を閉じてもおかしくはない。
「しかし君はその綱に必死でしがみついている。明らかに、かつての君が有していた軽やかさは失われている。十年前の君はきっと、落下することを恐れずに、その綱の上で華麗なジャンプを何度も繰り返すことができただろう」
君の言いたいことは分かるよ。つまらなくなった、って言いたいんだろう?
「そのとおりさ。そして、君自身がそのことを自覚しているからこそ、僕を呼び出したんじゃないのかい?」
まったくだ。それも否定しないよ。
「かつて、僕と二人三脚で世界を歩んでいた頃の君は、もっと果敢だった。様々な嘘を暴きたて、何事かを隠蔽しようとする幕を引き剥がし、世界の真の姿を見ようとしていた。真の姿なんてほんとうはどこにもないものだとしてもね。それは、必要なムーブメントだった。そんな君の牙は失われてしまったのかい?」
実に魅力的な挑発をありがとう。実際のところ、確認したかったんだ。あの頃の僕と、今の僕とでは、立ち位置が異なるということをね。そして僕はここに立つことを自ら選んだんだ、ということも。
「あの頃のポジションへ戻りたいとは思わない?」
空想しないこともない。でもそれは結局、夢物語だ。
「後悔はしていない?」
どうかな。まったくない、と言えば嘘だろうね。だけど、どちら側に立ったとしても、そこに僕の選択が介在している限り、いずれにせよ、後悔は避けられないものではないかしら。
「これが最後の選択というわけでもない」
それも分かっているよ。
「逃げ切れたというわけでもない」
分かっている。だからまた、君を呼んだんじゃないか。
「――ふうん。もっと錆び付いているかと思ったけれど、案外、分かっているじゃないか。それならどうして、そんなつまらない場所を自ら選んで固執するんだい?こちら側に、帰ってくればいいじゃないか」
いずれもう一度そちら側に帰ることになるんだろうね。だけどそれは、今じゃないんだ。5年後か10年後か、ひょっとしたら何十年も未来のことかもしれない。それまで僕が無事に命をつないでいる保障だってどこにもない。それ以上は上手く説明できないけれど、そういうことなんだ。
繰り返すけれど、僕は別段気楽な立ち位置にいるわけじゃないんだ。毎日が綱渡りだ。かつてのように身を乗り出して深淵を覗き込む大胆さは、今の僕からは失われているかもしれない。だけどそこに、闇があることを知っている。僕らを飲み込もうと待ち構えているその闇の深さは、あの頃よりも、もっとよく分かっている。分かっているつもりだよ。
だから――君は、もう少し眠っていてくれても構わない。いずれ、僕が君を叩き起こすことになるのか、君が僕を穴ぐらから引きずり出すことになるのか。どちらかは分からないけれど、その時は、来る。だからそれまでは――
「ふうん。まあ、そこまで分かっているなら、僕から何も言うことはないね。じゃあ言われたとおり、おとなしく眠っていることにしようか。だけど、僕は君を忘れないし、君も僕を忘れられない。これは一種の呪いのようなものだ。逃げ場はどこにもない」
しつこいな。分かってるって。
「本当かね」
もっとも、僕自身が分かっていようがいまいが、「その時」が来れば否応なしに引き込まれることになるんだろうけどね。
「なんだ、分かってるじゃないか」
だから分かってるって言ってるじゃないか。
「ああ、そうだったね。――それじゃあ、とりあえず今は、おやすみ」
おやすみ。また明日。


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