涼風野外文学堂

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障害者自立支援法(1)~発端~

2006年10月16日 | 政治哲学・現代思想
 今年の夏、鼻炎が悪化したので耳鼻科へ行った。もともと鼻炎とは物心ついた頃から四半世紀以上のお付き合いをしてきているのだが、今年は例年になく重症だったので、耳鼻科でレントゲン撮ったり聴力検査やったりしてもらって「副鼻腔炎」との診断を受け、現在に至るまで薬で散らす毎日である。
 で、聴力検査をやった際に言われたのが「普通の人の7割くらいの音しか聞こえてないですねー」という検査結果。
 正直、ちょっとショックだった。
 というのは、それほど「耳が聞こえづらい」という自覚症状がなかったからなのだ。確かに、耳の奥に「飛行機に乗ったときのような」気圧差というか違和感は感じていたので、多少は聞こえも悪くなっているかな、と予想していたが、それにしても、通常の7割ってことはないだろう、と。

 その時、初めて気づいたのだ。
「俺って、実は、普段からちゃんと音聞こえてなかったんじゃないか?」

 そう考えるといろいろつじつまが合う部分も出てくるのだ。
 もともと私は、人の話を一から十まで全部聞く、ということがなかなかできない性分である。良く言えば「一を聞いて十を知る」ようなところがあるが、悪く言えば「早合点」である。断片的に人の話を聞いて、そこから人の話の全体像を勝手に補足して勝手に理解してしまう。
 それは生来のせっかちな性癖なのだろう、と勝手に理解していた。だが、そうではなかったとしたら?私は「性格的に」他人の話をちゃんと聞くことができないのではなく、そもそも「人の話がちゃんと聞こえていなかった」のではないか?
 人の話を100%音声として耳で拾うことができないから、聞こえない部分を脳内で補完しながら会話をする。だから、個別の単語ではなく文脈に依存した話法になる。「話し方がまわりくどい」と言われるのは、途中の単語が一つ二つ抜けても文脈が崩壊しないような、そんな語法に基づいて思考しているからだ。
 講義や会議などで長時間人の話を聞き続けるのが苦手だ。途中でどうしても集中力を切らしてしまう。単にこらえ性のない人間だと切り捨てられればそれまでだが、要するに、そもそも人の話を聞き漏らし無く聞く、ということが物理的に困難なのだから、集中力が持続するはずがないのだ。その証拠に、ところどころ聞き飛ばしているわりには、録音もしていない会議などで会議録を起こすのは得意だ。ごく断片的な聞き取りだけでもメモ書きで残しておけば、そこから全体を復元できるからだ。
 仕事上の打ち合わせを行う際、相手の説明をひとしきり聞いた後「それは●●ということですか?」と必ず聞きなおす。慎重な性格だから、というわけではない。そうしないと決定的な単語を聞き逃したおかげで、まったく別の意味で相手の話を捉えている危険性があるからだ。そのような致命的な聞き違いをこれまでに何度も経験しているから、どうしても慎重に相手の話の主旨を確認する習慣が身についているのだ。

 上記はあくまでも仮説にすぎない。他人の耳に音がどのように聞こえているか、なんて、私には分からないわけだから、私は自分の耳に聞こえるとおりの音を信じる以外にない。しかし、私がふだんとほとんど変わらないかほんの少し聞こえづらい程度、と自覚した聴力は、耳鼻科で検査を行った限りでは「通常人の7割程度」ということだった。
 ということは、見方を変えれば、私は「通常人に比べ聴力に3割程度のハンディキャップを負っている」のであって、しかもそれは、先天的と言ってもいいくらい、幼少期からのものだ。そして私は後天的な訓練による技術(思考法)の習得によって、このハンディキャップを概ね問題とすることなく、日常生活を過ごすことができている。……とまで言えば、さすがに言いすぎだろうか?

 さて、実際のところ、「聞こえが通常人の7割」と宣告されたところで、7割は聞こえているのだから、日常生活にはさほど支障ない(聞こえない3割の部分は、そもそも日常生活にさして必要のない部分なのかもしれないし)。私に関しては、その程度なのだから、問題化する必要もない。
 しかし、世の中には耳の聞こえが「通常人の5割」の人もいるだろうし、「通常人の1割」の人も、「通常人の1%」の人もいるだろう。仮にこれらの人々が支援を必要とするならば、それぞれ、必要とする支援の種類も質も違うはずだ。単に「ゆっくり喋ってもらえれば充分」なのか。「補聴器が必要だが、補聴器さえつけていれば生活には困らない」のか。「視認又は触覚で確認できるサインが随所に必要(例えば、市販の目覚まし時計では起きることができない)」なのか。
 もちろん「自分で何とかするから、面倒を見てもらう必要はない」という人もいるだろう。聴力に関して私の立場は概ねそのようなものだ。「他人の7割しか音が聞こえていない」からといって、もし誰かが親切にも、私に話しかけるときは常に3割増しの拡声器を使用して喋ってくれたとするなら、正直、有難いどころか騒々しいばかりで、ありがた迷惑もはなはだしいところである。そんなことをしてもらわなくとも、私は物心ついた頃から見につけてきた話法によって、自分の聴力の不足部分をカバーするばかりでなく、それを自分のひとつの特性として活かしてさえいるのだから。

 このように考えてくると、「障碍者」というカテゴライズの仕方が、いかに乱暴でデリカシーのないものかが分かるはずである。そのような名付け方それ自体の中に、大雑把に一括りにされてしまった彼ら「障碍者」が、それぞれ個々に有している個性や感情や欲求を、包み隠してしまう暴力の契機が、既に含まれているのだ。
 したがって、論の出発点はまず、「障碍者=かわいそうな人=助けなきゃ」というような、手前勝手で実態を外れたラベリングを、否定するところから始める。




 上記のようなイントロダクションから、今後何日かに分けて「障害者自立支援法」という法律が、(その名称からして既に)抱えている根本的な問題点について、指摘してみようと思います。合わせて、千葉県で最近制定された、いわゆる障碍者差別禁止条例についても触れることができたらいいなぁと思いつつ予定は未定。


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