涼風野外文学堂

文学・政治哲学・読書・時事ネタ・その他身の回り徒然日記系。

ラスコーリニコフ再考。

2009年08月31日 | 読書
 8月もすっかり更新サボっておりましたが、これは怠惰や多忙のためというより、ひとえに体調不良が原因である、と釈明をさせてください。比喩的表現抜きで、1ヶ月のうち半分くらい熱出してました。まあ、解熱剤飲んで無理に出勤してるからなかなか治らないわけですが。

 最近、ドストエフスキー「罪と罰」を再読しています。残念ながら亀山郁夫の新訳ではなく、新潮文庫版(工藤精一郎訳)です。
 学生時代にざっと斜め読みしたきりなので、かれこれ10年ぶりくらいの再読になります。しかも学生当時、読んだ感想としては「ロシア人の名前は分かりにくいナァ」という程度で、内容はまったく心の琴線に触れなかったもので、お話の筋などもすっかり忘れておりました。おかげで、非常に新鮮な気持ちで読み進めることができています。
 さて、何故今になって「罪と罰」なんぞを再読しようと考えたのかというと、もう何ヶ月も前、下手をすると1年くらい前になるかもしれませんが、番組名は忘れました、何かNHKのドキュメンタリーで、いわゆる「振り込め詐欺」グループのリーダー格にインタビューをしていたのを見たのが、きっかけです。発言のディテールは忘れてしまったのですが、確かその男(察するに、涼風と同世代です)は、高齢者を騙して金を奪うことについて、自分を正当化するために、何か小理屈をこねていたのです(おそらく、「老人が金を貯めこんでいるから何も良くならない、だから俺たちがその金を使ってやるんだ」とか、「本来、俺たちの世代に分配されるはずの金を、老人どもが汚い手段で貯めこんでいる、俺たちはそれを取り戻しているだけだ」とか、そんなことを言っていたのではないかな、と考えます)。涼風はその姿を見て(ボカシは入ってましたが)、何故か、唐突に、その男がラスコーリニコフに見えて仕方がなかった。それで、もう一度「罪と罰」を読んでみようと思い立ったのです。
 今にして読み返してみると、学生時代には気づくことのできなかった、新たな発見がいくつもありました。まず、第一部。ラスコーリニコフが金貸しの老婆とその妹を叩き殺すに至るまでの描写を、学生時代の涼風は、せいぜい「冗長だナァ」ぐらいにしか感じていなかったのです。しかし、今読み返してみると、この部分の長々とした描写が決定的に重要であること、ここでラスコーリニコフを取り巻く「孤独と貧困」について緻密に描写することが、その後の殺人と、さらにその先の苦悩を描くに当たって欠かせなかったのだ、ということを、理解できます。
 さらにその後の苦悩、厭世観、青臭い理論の応酬、古い価値観と新しい価値観の衝突、といった、全体として混乱している様を読み解こうとするとき、19世紀後半の帝政ロシア、農奴解放令により緩やかに近代化が始まり、今日の目で見れば「革命前夜のはじまり」と見ることもできそうな、社会背景を意識しなければならないことも、学生の頃はあまりよく分かっていなかったのです。今なら少し、分かるような気がします。
 こういうものを「感覚として理解できる」ということは、つまり、現代を生きる涼風の感覚が、19世紀後半のロシアの感覚と、何がしか相通ずるものがある、ということなのかもしれません。
 大胆に言ってしまえば、今、この日本に生きるということと、19世紀のロシアに生きるということの間に、何らかの共通点、似たような空気の流れるところが、ある。そんな可能性も空想することができます。
 こんなことも考えられないでしょうか。例えば、秋葉原の交差点で、あるいは荒川沖駅の構内や通路で、無差別殺人に手を染めた、彼らもまた、ラスコーリニコフなのだ、と。ずいぶん乱暴な議論だ、との批判はごもっともですが、しかしそれでも、私はこの自らの推論に、少なからず魅力を感じるのです。

 まあ、とりあえず今日は、そんな読書感想文、というか、思い付きを述べるだけで終わっておくことにします。もう少し深く掘り下げて考えたいところではありますが、正直、まだそんなに頭が整理できていません。
 大体、上記の推論にはいささか問題点がありまして、もし今の日本の社会の雰囲気を、「罪と罰」の背景と同一視するとするならば、殺人犯ラスコーリニコフを打ちのめした娼婦ソーニャの信仰に当たるものは、果たしてこの日本に、何か存在するのでしょうか。このことを考えると、何だかどんどん怖い考えになってしまいそうなので、今のところ、深く考えないようにしている、というそんな事情もあったりします。