涼風野外文学堂

文学・政治哲学・読書・時事ネタ・その他身の回り徒然日記系。

未だに「純文学」という幻想を捨てられない人々。

2009年12月25日 | 読書
 先日のエントリの末尾で触れた、大森兄弟『犬はいつも足元にいて』を読んでみました。感想としては、新人賞を受けるに相応しい力量と完成度を備えた作品であることは確かですが、反面、新人賞受賞作としてはもったいないことに、小さくまとまりすぎている印象を受けます。「純文学では珍しい、兄弟による合作!」なんていう新聞記事的煽りに乗せられて変な先入観を抱いて読んでしまった私がいけないのですが、それにしても、

「文学は個人の自我の発露である」という旧来の文学観は音を立てて崩れ去る。
ぜひ読んで驚いていただきたい。――斎藤美奈子氏

※河出書房新社ホームページより転載

 などとおっしゃる方は、失礼ながら、町田康や中原昌也なんぞお読みにならないのでしょうかね、と尋ねてみたくなってしまいますが。

 既に清水良典は10年以上前から「純文学」に代えて「純文章」を、と提唱していますが、そのネーミングセンスの是非はさておき、問題としたい部分は理解できます。要するに「純文学」というカテゴリーが、既に十分に相対化され、無化されつつあるにもかかわらず、書き手の側にそのことへの危機感がないことへの苛立ちです。
 文学は個人の自我の発露である、的幻想が通じない程度に、今や「個人の自我」なんて口走るのが恥ずかしくなるくらい、われわれのアイデンティティは希薄で、分散化したものになっています。そのことに気づいた鋭敏な書き手は、すでに「拡散したきり、集束しない」作品を多く世に問うているのであって、その意味で「文学は個人の自我の発露である」という旧来の文学観、などというものは、大森兄弟の登場を待つまでもなく、もうとっくに崩れ去っているのです。

 ……冒頭の作品の感想に話を戻しますが、この調子で年に10作書くか、逆に、この調子で3年かけて10倍の長さの作品を書くか、どちらかができれば、大森兄弟は「本物」だと思います。それができなければ、無駄に猛スピードの現代社会の中で、この優れた才覚も埋没してしまう危険を孕んでいると思います。いずれにせよ、この1作のみで判断するのは難しく、要経過観察、といったところです。

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