涼風野外文学堂

文学・政治哲学・読書・時事ネタ・その他身の回り徒然日記系。

未だに「純文学」という幻想を捨てられない人々。

2009年12月25日 | 読書
 先日のエントリの末尾で触れた、大森兄弟『犬はいつも足元にいて』を読んでみました。感想としては、新人賞を受けるに相応しい力量と完成度を備えた作品であることは確かですが、反面、新人賞受賞作としてはもったいないことに、小さくまとまりすぎている印象を受けます。「純文学では珍しい、兄弟による合作!」なんていう新聞記事的煽りに乗せられて変な先入観を抱いて読んでしまった私がいけないのですが、それにしても、

「文学は個人の自我の発露である」という旧来の文学観は音を立てて崩れ去る。
ぜひ読んで驚いていただきたい。――斎藤美奈子氏

※河出書房新社ホームページより転載

 などとおっしゃる方は、失礼ながら、町田康や中原昌也なんぞお読みにならないのでしょうかね、と尋ねてみたくなってしまいますが。

 既に清水良典は10年以上前から「純文学」に代えて「純文章」を、と提唱していますが、そのネーミングセンスの是非はさておき、問題としたい部分は理解できます。要するに「純文学」というカテゴリーが、既に十分に相対化され、無化されつつあるにもかかわらず、書き手の側にそのことへの危機感がないことへの苛立ちです。
 文学は個人の自我の発露である、的幻想が通じない程度に、今や「個人の自我」なんて口走るのが恥ずかしくなるくらい、われわれのアイデンティティは希薄で、分散化したものになっています。そのことに気づいた鋭敏な書き手は、すでに「拡散したきり、集束しない」作品を多く世に問うているのであって、その意味で「文学は個人の自我の発露である」という旧来の文学観、などというものは、大森兄弟の登場を待つまでもなく、もうとっくに崩れ去っているのです。

 ……冒頭の作品の感想に話を戻しますが、この調子で年に10作書くか、逆に、この調子で3年かけて10倍の長さの作品を書くか、どちらかができれば、大森兄弟は「本物」だと思います。それができなければ、無駄に猛スピードの現代社会の中で、この優れた才覚も埋没してしまう危険を孕んでいると思います。いずれにせよ、この1作のみで判断するのは難しく、要経過観察、といったところです。

ラスコーリニコフ再考。

2009年08月31日 | 読書
 8月もすっかり更新サボっておりましたが、これは怠惰や多忙のためというより、ひとえに体調不良が原因である、と釈明をさせてください。比喩的表現抜きで、1ヶ月のうち半分くらい熱出してました。まあ、解熱剤飲んで無理に出勤してるからなかなか治らないわけですが。

 最近、ドストエフスキー「罪と罰」を再読しています。残念ながら亀山郁夫の新訳ではなく、新潮文庫版(工藤精一郎訳)です。
 学生時代にざっと斜め読みしたきりなので、かれこれ10年ぶりくらいの再読になります。しかも学生当時、読んだ感想としては「ロシア人の名前は分かりにくいナァ」という程度で、内容はまったく心の琴線に触れなかったもので、お話の筋などもすっかり忘れておりました。おかげで、非常に新鮮な気持ちで読み進めることができています。
 さて、何故今になって「罪と罰」なんぞを再読しようと考えたのかというと、もう何ヶ月も前、下手をすると1年くらい前になるかもしれませんが、番組名は忘れました、何かNHKのドキュメンタリーで、いわゆる「振り込め詐欺」グループのリーダー格にインタビューをしていたのを見たのが、きっかけです。発言のディテールは忘れてしまったのですが、確かその男(察するに、涼風と同世代です)は、高齢者を騙して金を奪うことについて、自分を正当化するために、何か小理屈をこねていたのです(おそらく、「老人が金を貯めこんでいるから何も良くならない、だから俺たちがその金を使ってやるんだ」とか、「本来、俺たちの世代に分配されるはずの金を、老人どもが汚い手段で貯めこんでいる、俺たちはそれを取り戻しているだけだ」とか、そんなことを言っていたのではないかな、と考えます)。涼風はその姿を見て(ボカシは入ってましたが)、何故か、唐突に、その男がラスコーリニコフに見えて仕方がなかった。それで、もう一度「罪と罰」を読んでみようと思い立ったのです。
 今にして読み返してみると、学生時代には気づくことのできなかった、新たな発見がいくつもありました。まず、第一部。ラスコーリニコフが金貸しの老婆とその妹を叩き殺すに至るまでの描写を、学生時代の涼風は、せいぜい「冗長だナァ」ぐらいにしか感じていなかったのです。しかし、今読み返してみると、この部分の長々とした描写が決定的に重要であること、ここでラスコーリニコフを取り巻く「孤独と貧困」について緻密に描写することが、その後の殺人と、さらにその先の苦悩を描くに当たって欠かせなかったのだ、ということを、理解できます。
 さらにその後の苦悩、厭世観、青臭い理論の応酬、古い価値観と新しい価値観の衝突、といった、全体として混乱している様を読み解こうとするとき、19世紀後半の帝政ロシア、農奴解放令により緩やかに近代化が始まり、今日の目で見れば「革命前夜のはじまり」と見ることもできそうな、社会背景を意識しなければならないことも、学生の頃はあまりよく分かっていなかったのです。今なら少し、分かるような気がします。
 こういうものを「感覚として理解できる」ということは、つまり、現代を生きる涼風の感覚が、19世紀後半のロシアの感覚と、何がしか相通ずるものがある、ということなのかもしれません。
 大胆に言ってしまえば、今、この日本に生きるということと、19世紀のロシアに生きるということの間に、何らかの共通点、似たような空気の流れるところが、ある。そんな可能性も空想することができます。
 こんなことも考えられないでしょうか。例えば、秋葉原の交差点で、あるいは荒川沖駅の構内や通路で、無差別殺人に手を染めた、彼らもまた、ラスコーリニコフなのだ、と。ずいぶん乱暴な議論だ、との批判はごもっともですが、しかしそれでも、私はこの自らの推論に、少なからず魅力を感じるのです。

 まあ、とりあえず今日は、そんな読書感想文、というか、思い付きを述べるだけで終わっておくことにします。もう少し深く掘り下げて考えたいところではありますが、正直、まだそんなに頭が整理できていません。
 大体、上記の推論にはいささか問題点がありまして、もし今の日本の社会の雰囲気を、「罪と罰」の背景と同一視するとするならば、殺人犯ラスコーリニコフを打ちのめした娼婦ソーニャの信仰に当たるものは、果たしてこの日本に、何か存在するのでしょうか。このことを考えると、何だかどんどん怖い考えになってしまいそうなので、今のところ、深く考えないようにしている、というそんな事情もあったりします。

壁と卵とカナファーニー。

2009年04月19日 | 読書
 昨日、自宅から徒歩10分のショッピングモール内の本屋で、娘に絵本を買ってやるためにうろうろしておりますと、ふと、文芸書新刊のコーナーに、ガッサーン・カナファーニーの短編・中編集『ハイファに戻って/太陽の男たち』を発見してしまいました。
 確かに、岡真理らの熱心な紹介もあって、日本でもその名前を聞く機会が増えてきた昨今ですから、いずれ邦訳で読めるようになるチャンスもあるだろうとは思っていましたが、絶版になっていた筈のこんな本を、直ちに新装新版として再版した河出書房新社の対応の素早さは、さすがだと思います。あと、こんな一般に売れそうも無い本を、住宅街の端っこにある家族連れしか来ないようなSCの本屋で入荷してしまう担当者さんも凄いと思いました。もちろん、そういうものを本棚の片隅でしっかり発見して購入してくる俺様も凄いと思います。

 パレスチナ問題というのは、現代社会の喉にささり続けている棘のようなもので――もちろん、ミャンマーも、スリランカも、アフリカの多くの国々も、いわゆる「ポストコロニアル」世界の問題については、すべて同じ比喩が当てはまるのですが、その歴史的経緯から現在の複雑な感情までを考え合わせると、これはもはや当事者だけの問題ではなく、世界人類が背負った原罪のようなものの、突出した一部分なのではないか、と思えてくるところです。
 これらの問題の中で、特にパレスチナ問題を語る上で意識しなければならないのは、第2次大戦における「ホロコースト」の存在でしょう。「表象不可能」と言われたこの歴史的事件――出来事は、その後のシオニズム運動を語る上で、常にその暗い影を落とし続けています。「証言」により「出来事」を生起させることを狙った、クロード・ランズマンの『ショアー』は、もちろんこのような「表象不可能な、暴力的な出来事」を考える重大な手掛かりを与えてくれる作品なのですが、その第三部・第四部辺りから、「ユダヤ人国家」という理想を守るための暴力の正当性が、いささか安易に描かれてしまうところが、この作品の限界を表すところであり、また、ホロコーストがその後のシオニズム運動のあり方にある種の限界を与えてしまったことを、如実に表しているところだと思います。

 昨年末から年初にかけてのイスラエル軍のガザ侵攻、そしてその只中で、日本を代表する作家である村上春樹が「イェルサレム賞」を受賞したことで、日本人の目も多少はこの地域に向くようになったのでしょうか。

 受賞スピーチが報道されてすぐに、「イェルサレム・ポスト」紙の英文記事に行き当たったので、これを和訳して掲載しようと思っていたのですが、そうこうしてる間にスピーチ全文が出て、和訳も出て、すっかり時期遅れになってしまいました。
 しかし、今だからこそ、この新聞記事を再読してみようと思います。今、私の興味があるのは、イェルサレム賞の受賞スピーチで村上春樹が何を喋ったか、そのことをどう解釈すべきか、ということより、彼のスピーチを、イスラエルの人々が、どのように受け止めたか、ということなのです。
 せっかく途中まで和訳したところだったので、この際、今日、記事の全文を和訳してみました。

Murakami, in trademark obscurity, explains why he accepted Jerusalem award
(「薄明の作家」ムラカミ、イェルサレム賞受賞の理由を語る)

Israel is not the egg.
(イスラエルは、卵ではない。)

Confused? This might be the only explanation we will ever hear from Japanese bestselling author Haruki Murakami - and in true Murakami style, even it will be somewhat vague.
(混乱させてしまっただろうか?しかしこれが、日本のベストセラー作家、ハルキ・ムラカミから聞くことのできる、唯一の説明かもしれない。まさにムラカミ式の、いくらか漠然とした。)

Murakami on Sunday night defeated jetlag, political opposition and droves of photographers to accept the Jerusalem Prize for the Freedom of the Individual in Society at the opening of the 24th Jerusalem International Book Fair held at Jerusalem's International Conference Center.
(ムラカミは、日曜の晩、時差ぼけと、政治的反対と、多くのカメラマンとを振り払って、イェルサレム国際会議場で開かれる第24回イェルサレム国際書籍フェアのオープニングで、「社会における個人の自由のためのイェルサレム賞」を受けた。)

Flanked by President Shimon Peres and Jerusalem Mayor Nir Barkat, he took the prize with quiet poise. Then, alone on the podium and free of camera flashes, the author got down to business.
(Shimon Peres大統領、Nir Barkatイェルサレム市長と並んで、彼は静かに、落ち着いて、賞を受けた。それから、一人で登壇し、カメラのフラッシュからも解放されて、作家は、仕事を始めた。)

"So I have come to Jerusalem. I have a come as a novelist, that is - a spinner of lies.
(「それで、僕はイェルサレムに来ました。僕は、小説家として――嘘の紡ぎ手として、ここへ来ました。

"Novelists aren't the only ones who tell lies - politicians do (sorry, Mr. President) - and diplomats, too. But something distinguishes the novelists from the others. We aren't prosecuted for our lies: we are praised. And the bigger the lie, the more praise we get.
(「小説家ばかりが嘘をつくというわけではありません――政治家だって(すみません、大統領)、外交官だって、嘘をつきます。だけど、小説家は、他の嘘つきとは少々違うところがあります。われわれは、自らの嘘つきのかどで起訴されることはありません。むしろ賞賛されます。さらに、嘘が大きければ大きいほど、さらなる賞賛を得ます。

"The difference between our lies and their lies is that our lies help bring out the truth. It's hard to grasp the truth in its entirety - so we transfer it to the fictional realm. But first, we have to clarify where the truth lies within ourselves.
(「われわれの嘘と他の人々の嘘との間にある違いは、われわれの嘘は、真実を明らかにすることの助けとなる、ということです。真実を、完全な形でつかむということは難しい――だから、われわれは真実を、フィクションの領域に変換するのです。しかし、まず、われわれは心の中で、真実がどこにあるのかを明らかにしなければなりません。

"Today, I will tell the truth. There are only a few days a year when I do not engage in telling lies. Today is one of them."
(「今日、僕は真実を伝えようと思います。僕が嘘をつくことと係わり合いにならない日は、年に何日もないのですが。今日は、そのうちの一日です。」)

Murakami's novels are surreal and imaginative, often bordering on bizarre. Reading his books is like gazing at a Picasso: a certain detachment from normalcy is required so that the objects and events in Murakami's world can settle into their own logic.
(ムラカミの小説は、超現実的で、想像力に富み、しばしば風変わりなものに触れる。彼の本を読むことは、ピカソの絵を見ることに似ている。ムラカミの世界における物事や出来事を、それら自身のロジックの中に落ち着かせるためには、ある種の日常感覚からの乖離が必要とされるのだ。)

But at the heart of each novel, standing in stark contrast to the logical chaos around him, is a very human, self-aware, humble soul-searching individual - and one whose internal struggles are the same as our own.
(しかし、どの小説の中心にも、彼を取り巻く論理的なカオスとまったくの対照をなして、まさに人間が、―自覚的で、矮小な自分探しをし、そして、われわれと同じ内部的葛藤を持つ、人間が、いる。)

The panel that chose Murakami as its winner made its decision quickly and unanimously, citing Murakami's themes of universal humanism, love for humanity, and battles with existential questions that have no easy answers. But while the award panel debated little about who should receive this year's award, Murakami himself was torn about accepting it.
(選考委員は、普遍的なヒューマニズム、人類愛、容易な答えのない実存的な問いとの格闘といった、ムラカミのテーマを掲げながら、すぐに、そして満場一致で、ムラカミを受賞者に決定した。しかし、選考委員が、誰を今年の受賞者にするかについて大した議論もしていない間、当のムラカミ自身は、この賞を受け取るかどうかで、引き裂かれていたのだ。)

"When I was asked to accept this award," he said, "I was warned from coming here because of the fighting in Gaza. I asked myself: Is visiting Israel the proper thing to do? Will I be supporting one side?
(「この賞を受賞するかと打診があったとき、」彼は言った、「ガザでの戦闘を理由に、ここへ来ることについて警告を受けました。僕は自問しました。イスラエルを訪れるのは、適切なことなのだろうか? 一方に加担することになりはしないだろうか?)

"I gave it some thought. And I decided to come. Like most novelists, I like to do exactly the opposite of what I'm told. It's in my nature as a novelist. Novelists can't trust anything they haven't seen with their own eyes or touched with their own hands. So I chose to see. I chose to speak here rather than say nothing.
(「このことについていくらか考えを巡らせて、それから、僕はここへ来ることを決めました。大概の小説家と同様に、僕もまた、人から教えられたこととまったく逆のことをやりたくなってしまうのです。それが、小説家としての僕の性癖なのです。小説家というものは、自分の目で見て、自分の手で触れたもの以外は、信じようとしません。だから、僕も見ることを選びました。僕は、何も言わないことよりも、ここで喋ることを選んだのです。)

"So here is what I have come to say."
(「それが、僕がここに話しに来ているということなのです。」)

And here Murakami left behind the persona of his main characters and took on the role of a marginal one (the lucid wisdoms in his novels tend to come from acquaintances of the protagonist), making a clear statement that left no room for reinterpretation. No time for ambiguity, this.
(ここに至って、ムラカミは、主要な登場人物の立場から一歩引き、再解釈をする余地のない明確な主張をする、端役(彼の小説において、明快な知見はしばしば、主人公の知人によってもたらされる)を引き受けた。)

"If there is a hard, high wall and an egg that breaks against it, no matter how right the wall or how wrong the egg, I will stand on the side of the egg.
(「もし、硬くて高い壁があって、そこに卵がぶつかって砕けているとするならば、どれだけ壁が正しく、卵が誤っていようとも、僕は卵の側に立とうと思います。)

"Why? Because each of us is an egg, a unique soul enclosed in a fragile egg. Each of us is confronting a high wall. The high wall is the system" which forces us to do the things we would not ordinarily see fit to do as individuals.
(「何故かと問われれば、僕たちは皆、固有の魂を壊れやすい殻に包んだ、卵であるからです。僕たちは皆、高い壁に直面しています。その壁とは「システム」、僕たちが、個人としてはそれをすることを通常、適当と考えないようなことを、僕たちにそうするよう強いるものです。)

"I have only one purpose in writing novels," he continued, his voice as unobtrusive and penetrating as a conscience. "That is to draw out the unique divinity of the individual. To gratify uniqueness. To keep the system from tangling us. So - I write stories of life, love. Make people laugh and cry.
(「僕が小説を書くのは、ただひとつの目的のため、」彼は、控えめで、それでいて良心に貫かれた声で、続けた。「それは、個人の中にある固有な神性を、引き出すことです。固有性を満足させることです。システムによって、僕たちがぐちゃぐちゃにされないようにすることです。そのために―僕は人生を、愛を、物語ります。人々を笑わせ、あるいは泣かせます。)

"We are all human beings, individuals, fragile eggs," he urged. "We have no hope against the wall: it's too high, too dark, too cold. To fight the wall, we must join our souls together for warmth, strength. We must not let the system control us - create who we are. It is we who created the system."
(「僕たちは誰もが人間であり、個人であり、壊れやすい卵です。」彼は力説した。「壁に向かったとき、僕たちは無力です。それはとても高く、暗く、冷たい。壁と戦うために、僕たちは、暖かく、強くあるために、魂を互いに結び合わなければなりません。僕たちは、システムに僕たちがコントロールされることを、許すわけにはいきません―システムに僕たちが何者であるかを決めさせてはいけません。システムを作り出したのは、僕たちなのです。」)

Murakami, his message delivered, closed by thanking his readership - a special thing indeed from a man who does not make a habit of accepting awards in person.
(ムラカミは、彼のメッセージが届けられると、読者への謝辞で締めくくった―自ら進んで賞を受けるという習慣のない彼にあって、本当に、特別なものであった。)

"I am grateful to you, Israelis, for reading my books. I hope we are sharing something meaningful. You are the biggest reason why I am here."
(「イスラエルの皆さん、僕の本を読んでくれてありがとう。僕たちが、意義のある何かを共有することができていれば、幸いです。あなたたちの存在こそが、僕がここにいる最大の理由です。」)


 どうでしょうか。
 スピーチ全文と比較して、どの部分がかいつままれ、どの部分が報じられなかったのか、を見る必要もあるでしょうが、差し当たって、記者もどう報じたらよいものか戸惑っているような感じはします。
 その戸惑いの背景にあるのは、スピーチの時期からして「イスラエル=壁、ガザの市民=卵」という解釈が容易に成り立つものであり、記者としては、そのことに触れたくなかった、ということなのではないかな、と邪推します。

 しかし、そのような形で村上春樹のスピーチを理解し、そしてさらにそのことに目をつぶろうとしている限り、状況は好転しないのではないかな、という気がします。
 私が読む限りでは、ガザで空襲や銃撃にさらされた無辜の市民が卵であるのと同様に、ガザの市民に銃口を向け、引き金を引かなければならなかったイスラエルの兵士もまた、ひとつの卵なのです。そして、村上春樹が警戒している「壁」とは、「イスラエル国家」や「イスラム原理主義組織」といった簡単な言葉で言い表せるものではなく、パレスチナ人にロケット砲を握らせ、イスラエル軍に白リン弾を放たせる、彼らにそうすることを強いている、より大きな「何か」なのではないでしょうか。

 このことを、カナファーニーは、もう何十年も前に指摘していたのです。
 冒頭に挙げた作品集の表題作『ハイファに戻って』は、ユダヤ軍の侵攻を受けてハイファの自宅を捨て、乳飲み子を家に残したまま逃げ出さざるをえなくなった、サイードとソフィアの若い夫婦が、二十年の時を経て、ハイファの自宅に戻る物語です。彼らが残していった乳児は、同じ家に入居したユダヤ人夫妻が自分の子として育て、成人し、こともあろうにイスラエルで兵役に就いています。二十歳になった自分の息子、ユダヤ人として育てられ、祖国のためにイスラエル軍に入った息子に、自らを捨てたことを責められ、サイードは、このように返します。

 しかし、いつになったらあなた方は、他人の弱さ、他人の過ちを自分の立場を有利にするための口実に使うことをやめるのでしょうか。そのような言葉は言い古され、もうすりきれてしまいました。そのような虚偽でいっぱいの計算ずくの正当化は……。ある時は、われわれの誤りはあなた方の誤りを正当化するとあなた方は言い、ある時は、不正は他の不正では是正されないと言います。あなた方は前者の論理をここでのあなた方の存在を正当化するために使い、後者の論理をあなた方が受けねばならぬ罰を回避するために使っています。

 ユダヤ人とパレスチナ人のいずれかだけが過ちを犯したわけではなく、いずれか一方のみを否定すれば問題が解決するわけではありません。それにも関わらず、互いが互いの破滅を望み、どちらか一方が完全にこの土地の上から姿を消すことでしか物事が解決しないと信じているのであれば――それは、現実的でないばかりでなく、論理的に正しいことですらないのです。
 卵と壁の比喩を、単純な二分法で理解しようとする発想は、もうやめにした方がよいでしょう。そのような発想は、却って村上春樹が指摘する「壁=システム」の存在を、見えづらいものにしてしまいます。幾重にも重なり合った過ち、憎しみ、悲しみの中で、しかしすべての個人に、固有の神的なものが宿り、そしてそれは壊れやすい卵の殻で包まれている――それを引き出すのは小説家の仕事かもしれませんが、それを受け止めるのはわれわれ、読者の仕事です。

少年たちは王子様になれるか?

2009年04月10日 | 読書
 昨年テレビを買い換えて、デジタル対応になって以来、TOKYO MXとBS11が見られるようになったので、我が家のお茶の間のオタク度が上昇中です。現在も「エウレカセブン」をBGM代わりにだらだら流しながらパソコンいじってます。こういう世界からはもう長年遠ざかっていたのである意味新鮮です。ああ、エヴァンゲリオン後の世界ってこんな感じなのね、って。

 さて、「エウレカセブン」の前は「地獄少女 三鼎」を、これはBGM代わりではなく、ソファに腰を落ち着けてじっくり見ていたのですが、正直「地獄少女」は、涼風的にここ数年の中でもっとも「気になった」少女漫画です。何が気になるって、漫画の内容よりも、掲載誌がKissとかデザートじゃなくて「なかよし」って辺りが。今日びの小学生女子はこんなもの読んでるのか、って思うと、娘を持つ父親としては複雑な心境です(気が早すぎ)。「おはよう!スパンク」や「あおいちゃんパニック!」で育った世代としては、隔世の感です(ああ歳がバレる)。
 気になった、と言いつつ、コミックス1巻買ったきり続きを買うのを躊躇っています。だって、怖いんですもの。
 いや、一般的な意味での「怖い」雰囲気の漫画は、涼風が「なかよし」読んでたン十年前にだってありましたよ。高階良子とか、松本洋子とか、なんかおっかない漫画描いてる漫画家が、当時の「なかよし」にもいたような記憶はあります。
 しかし「地獄少女」の怖さは、一般的なミステリ漫画の怖さとは、方向性が違います。涼風がこの漫画を「怖い」と感じるのは、この漫画に通底する救いの無さや、未来への希望の無さであって、そしてそれが「なかよし」という、小学生をメインターゲットとする漫画誌で受け入れられている、という事実なのです。

 涼風の世代は、大きく捉えれば、ガン黒茶髪ルーズソックスの女子高生ブームの走りとも言うべき世代であって、同世代あるいはそれより年少の少女たちが、セクシュアルな記号として市場経済に溶け込まされ、濫費されていくのを、ずっと見てきた世代でもあります。
 そのような、ほとんど人身売買のような市場の暴力に対し、疎外されて、ただ「見てただけ」の立場にあった少年たちのやるせなさ、世界への不信といったところについては、過去に「ラブやん」を絡めて触れたことがあるのですが(2007年8月26日付け「ロス・ジェネ文学としての『ラブやん』。」)、同じ頃、こうした市場の暴力に直接にさらされ、その中に自ら溶け込み、自らを濫費させていくことでしか世界に承認されることのなかった、理不尽な圧力と救いのない孤独の下にあった、同世代の少女たちのやるせなさ、世界への不信の深さは、いかほどだったでしょうか。
 「地獄少女」が怖いのは、こうした「少女たちの抱く、世界への不信」が、ますます悪化していることの、一端を示しているからに他なりません。少女たちはいつも非力で、しかもたった一人で、彼女らを利用し、傷つけ、貶めようとする、途方もない害意と、戦わなければなりません。それは苦しい戦いで、しかもどうにか戦い抜いて生き延びたところで、その先に展望が開けているわけではありません。

 このような、少女たちの抱える闇の深さについては、別段「地獄少女」を見たり読んだりしたから考えたわけではなく、むしろ椎名林檎の楽曲あたりをきっかけに、もう何年もずっと考えていたところです。
 しかし涼風は少女ではなく、もはや少年ですらなくなっているわけで、自身がこうした少女たちに何か道を指し示すことができるとは、あまり思っていません。それよりは、少しでも可能性があるとするならば、少年たちに、人生の先達として、自ら果たせなかった希望を預けること、深い深い闇の奥で息を潜めている少女たちの、腕を引っつかんで光の当たる場所に無理やり引っ張り出してくる、そんな荊姫の童話にあるような「王子様」になるための道を指し示すことの方ではないかな、と思っているのです。

 以前BUMP OF CHICKENの音楽に乗じて、少年たちが「孤独の先の世界」を見ることの可能性に触れたこともありますが(2007年12月25日付け「痛み、孤独、その一歩先に。」)、音楽だけでなく漫画の世界でも、少年たちにそうしたメッセージを届ける可能性があるものがないだろうか、と思って、「BAKUMAN」の1巻を買ってきたのが、2、3ヶ月前のことです。正直、期待以上でした。
 まあ、「DEATH NOTE」のガモウ×小畑(ガモウって言うな)コンビですから、一筋縄ではいかないだろうと読む前から思ってはいましたが、これだけ斜に構えてるくせに、ちゃんとジャンプの伝統である「努力・友情・勝利」のスローガンに真正面から立ち向かっている辺りがスゴいです。「DEATH NOTE」のときは、「すげーおもしれー」と思いつつ「こういうものを読まざるを得ない今時の小学生は大変だナァ」とも思っていたのですが、「BAKUMAN」はもう少し素直に(あるいは気楽に)「面白いナァ」と言って読むことができます。相変わらず、世の中を見透かして軽く失望して、あくまでもクールにドライに物事を進めようとしていながら、「BAKUMAN」には「DEATH NOTE」にはない、若気の至りとでも言うべき熱気があって、ああ、こういうのも悪くないじゃん、と素直に思わせてくれます。やればできるじゃんガモウひろし(だからガモウって言うな)。

 少年たちは、少年であるがゆえに、夢を抱き、希望を(あるいは野望を)持つべきなのです。私の母校にずっと昔いた先生も「小僧ども、野心を持て」って言ってました(涼風訳では)。
 そして、われわれ「大人たち」が、少年たちのために何かできることがあるとするならば、無責任に無謀な挑戦を焚き付けることではなく、この時代において、夢や希望を持ち続けることがいかに困難であるかを承知した上で、それでもなお、夢や希望を持ち続けることの可能性を示すことではないのかな、と思うのです。
 その意味において、「地獄少女」の怖さを打ち破ることができるのは「BAKUMAN」の若すぎるくらいの情熱なのではないか、と、最近本気で思い始めています。涼風自身も、ラノベ書きたい、とか、たまにはハッピーエンドの話書きたいとか考えるようになってきましたが、そうした欲求の背景には、こうした「少年たちに伝えたいメッセージ」が感じられるようになってきたことがあるのです。

 ……しかし、とはいえ、「BAKUMAN」はギャグがいちいち古いかマニアックすぎで、やはり小学生男子には難しいような気もします。単行本1巻170ページの「伝説の編集」なんて、絶対マシリトでしょ(マシリトって言うな)。

笙野キタ――(゜∀゜)v――

2008年05月29日 | 読書
 手持ちの1万円札を崩さないと明日のお昼ごはんが食べられないという緊急事態に陥り、仕事帰りに近所の本屋へ。取り立てて欲しい本もなかったのですが、ここ数日気になっていた「論座」6月号を手にとってみました。
 いや何が気になってたかって、笙野頼子の特集。
 文芸誌ならいざ知らず、論壇誌で特集するにはあまりに無謀な作家のチョイスです。気になります。とても気になります。しかも朝日です。なんか目も当てられない大惨事になってるんじゃないかと思い、天下一武道会の決勝戦に向かう孫悟空ばりに、オラわくわくしながらページを繰ります。
 特集記事の冒頭は笙野本人へのインタビューでした。インタビュアーは「ネオリベ現代生活批判序説」なんて、タイトル聞いただけでおなかいっぱいもう結構です、と言いたくなるような書物で名を馳せた、白石嘉治です。この人選に朝日的意図が見え隠れします。これは悲惨なことになりそうです。
 案の定、白石はインタビューの冒頭で、笙野の「だいにっほん」三部作のキーワードを「ネオリベ批判」と決めうちし、「そうした『だいにっほん』三部作のキーワードについて伺いたいのですが」と水を向けます。やっぱり悲惨なことになりました。「こいつ文学読めてネェ!」と指差して罵倒したくなります。「絶望した!ネオリベだの新自由主義だの名前をつけただけで全部分かったつもりになる浅薄な連中に絶望した!」と喧伝しながら駆け回りたくなります。
 しかし、これに対する笙野の返答が、秀逸でした。ちょっと引用してみます。

 よい紹介をありがとう。照れますね(笑い)。でも白石さんごめんなさい。あなたも大切にしているはずの差異を確認し、そこから始めましょう。私がネオリベ批判に行き着く必然(的)とあなたはいま言われた。でもそれは必然ではなくて、私の創意です。また文学をネオリベの手がかりにするのではなく、ネオリベをキーワードとして使い文学を隈取るのです。※強調は引用者による

 ……。

 …………。

 笙野キタ―――ヽ(ヽ(゜ヽ(゜∀ヽ(゜∀゜ヽ(゜∀゜)ノ゜∀゜)ノ∀゜)ノ゜)ノ)ノ―――!!!!

 いやはや心配無用でした。こんな政治的で朝日的な誘導なんぞに笙野頼子は引っかかりません。それどころか、そんなもの粉砕です。言うなれば「あんたみたいな馬鹿を叩き潰すためにアタシは文学やってんのよ」って言ってるのと大差ないです。
 今日はもうこのひとくだりのためだけに780円払う価値があると確信し、生まれて初めて「論座」を金を出して買い、帰路に着いたのでした。

 ……さて、目下の問題点は、この「論座」、笙野の特集以外にほんとにまったく読むところがないことなのですが。


※ このブログを書いている涼風のウェブサイト「涼風文学堂」も併せてご覧ください。
 「涼風文学堂」は小説と書評を中心としたサイトです。

ローカルとグローバルの狭間で。

2008年02月03日 | 読書
 昨日はひさびさに都内に出る用事(法事ですが)があったので、ついでに本屋を覗いてきました。アーレントの新刊だとか、ジジェクによるラカン入門書(!)だとか、刺激的な書架のあちこちに興味を引かれつつ、結局今さらながら『生きさせろ!―難民化する若者たち』(雨宮処凛、太田出版)なんぞを買ってしまいました。

 さて、雨宮処凛は「プレカリアート問題」を扱うようになってから、メディア露出度も急激に上昇しているので、今さら説明せずとも皆様ご存知のことかと思いますが、この本は、現代の若者における貧困の問題(ネットカフェ難民とかワーキングプアとか非正規雇用問題とか)について扱ったものです。
 本の大部分を現地取材のルポルタージュが占め、巻末近くになって社会学者とかへのインタビューを加えることによりネオリベ批判と結びついて、全体として「若者の貧困は、個人の能力の問題ではなく、社会的・構造的な問題である」「したがって若者であるわれわれは、生存権の獲得を訴えて、社会構造の変革を求めなければならない」という文脈に焦点を絞っていきます。そうして、本のタイトルである『生きさせろ!』というシュプレヒ・コールが、変革を求める運動の合言葉になっていく、という狙いです。
 正直、本を手にする前に想像していたよりも、なかなかいい線をついているな、というのが、一読してみた涼風の感想です。少なくとも、「自己責任」だの「自己決定」だのという語が、公的セクターの責任放棄の口実でしかないことを見抜いていること(涼風的にはこれに「自立支援」も加えてもらいたい)や、現在の低賃金労働の現場の凄惨さに絶滅収容所の強制労働との近似性を見出したり自傷行為・家庭内暴力との親和性を見出したりする辺りの嗅覚の鋭さは、『現代思想』のホームレス特集号や、この期に及んでリバタリアニズムに転ぶ東浩紀などに比べて、格段に的確なポイントを押さえています。
 一方で、直接現場に取材するものの限界がどこにあるかも、この本には現れ出ています。例えば生活保護の受給について「とにかく申請書を出すこと、福祉事務所に申請書置いてくれば勝ち」というような事実への言及はされており、それはそれでまったくもって正しいのですが、他方で「なぜ所謂『水際作戦』のような(違法と言うべき)事務が、福祉事務所の現場でまかり通っているのか?」という疑問は、脳裏をかすめもしません。
 もちろんそのことをもって本書の評価が貶められる必要は微塵もありません。貧困の現場において重要なのは「いかにしていま・ここのわたしが生存するか」であって、その背景の社会構造を読み解くのは、現場の仕事ではなく、学問の仕事です。この点から、現場で確かな仕事を成し遂げた雨宮処凛に応えるためにも、学問の立場から、誰かがこの仕事に別角度からの光を当てて、補完してやらなければならない必要が生じているわけです。
 そこで不肖・この涼風めが、学問の世界を遠ざかって久しい身ながら、できる限りで「異なる視点からの貧困問題」について言及し、雨宮処凛のこの仕事に「国際政治」という異なる角度からのスポットライトを浴びせてみようと思います。キーワードはずばり「グローバル資本主義」。

 そもそも、国際政治学をかじったことのある人間なら、「貧困」とは構造的な問題、すなわち「政治の失敗」の結果としてしか起こりえない、ということを、ほとんど「常識」として知っているはずです。なぜなら、国家とはまず第一に、その国民を食べさせなければ成り立たないからであり、ゆえに国家には国民を「飼育する」性質が本来的に備わっているからです。
 貧困とは、ウェルフェアの絶対量の不足によって生じるのではなく、ウェルフェアの分配機構の崩壊によって生じます。例えばネパールでは、統計上の国民1人当たりGDPは上昇しているにもかかわらず、貧困はいっそう深刻化しています。市場経済が入り込んできたことによって、どこの農村でも見られた自給自足型のライフスタイルが崩壊したからです。世界で1年間に生産される穀物の熱量は、世界人口が1年間に消費する熱量の理論値を上回ります。にもかかわらずなぜアフリカで餓死者が絶えないのか?彼らが食すべきエネルギーはどこへ消えたのか?――アフリカに送られれば餓死者を劇的に減らすほどの膨大な量のトウモロコシが、例えば牛の飼料となってわれわれの食卓を彩るハンバーガーとなり、あるいはバイオ燃料に加工されてハイウェイを疾走する原動力となっているのです。
 さて、既に本題に一部触れてしまいましたが、現代の貧困というのは、世界経済の問題と切り離して考えることはできません。冷戦構造が崩壊して、世界全体が巨大なひとつの市場に飲み込まれてから、まだ何十年も経ったわけではありませんが、例えばアメリカの住宅ローンの焦げ付きがヨーロッパや日本の銀行に大損害をもたらすといった風に、世界市場の問題は今日、われわれの身の回りの至る所にその断面を見せています。
 『生きさせろ!』の中でも、労働者の賃金がより低い外国との国際競争の面に言及した箇所がありますが、企業が「世界戦略の中でのコスト削減」を言い訳に労働条件の切り下げを正当化していくに当たり、今やわれわれの労働力も、世界市場に組み込まれているという事実を確認せざるをえないでしょう。
 そして政府の方も、ここ1年ばかりバックラッシュが来つつあるものの、基本的には、労働者の論理よりも、国際社会で勝負する大企業の論理の方に肩入れしてきたと言ってよいでしょう。金融業界の再編にしても、特区法に象徴される各種の規制緩和にしても、大企業が国際社会で戦うに当たり有利になるための取り計らいなのです。

 『生きさせろ!』の中では、当の貧困層が、例えば小林よしのりに傾倒してみたり、小泉純一郎に投票してみたり、右傾化に親和的、あるいは自己責任論に親和的であることにも言及されています。それはもちろん自らの首を絞める行為であるのだから、「俺が飯も食えないほど貧乏なのは、俺に能力がないせいじゃない」と叫ぶこと、要約して「生きさせろ!」と叫ぶことが薦められており、これは現場の運動としてはまさに正解です。
 学問サイドの仕事としては「なぜ貧困層と右傾化や自己責任論が親和的なのか」というその構造を読み解くことが必要になります。さて、政治を学ぼうとするなら、歴史を学ぶこと、過去の実例を分析することは、常に有効な手段として検討する必要があります。なぜ貧困層と右傾化や自己責任論が親和的なのか。シンプルな回答を発見しました。それは「戦時中だから」という答えです。
 戦時中、といっても、主権国家同士の交戦状態を示す「戦争」という語は、60年以上も前に、総力戦と大量殺戮兵器のために、戦闘員と非戦闘員の区別がなくなり、戦闘と虐殺の線引きが困難になったあたりで、決定的に陳腐化しました。今や局地的な「戦闘」や、国家の内部統治機構の崩壊による「内戦状態」は想定しえても、古典的な意味での「戦争」は考えられません(アメリカがイラクやアフガニスタンで行ったのは、短期間における一方的な殺戮と、それに続く慢性的な内戦状態に過ぎず、到底戦争と呼ぶに値しません)。
 今日の戦争は「経済戦争」の形でしか起こりえないのです。そしてこの戦争においても、圧倒的優位に立つのは「基軸通貨」という決定的な武器を握っているアメリカです。これに対抗するために、ヨーロッパ諸国は連合して立ち向かっていますし、ベネズエラでは大衆の圧倒的支持に支えられてチャベスが登場しました。
 さて、翻ってわが国の世界戦略はといえば、何だかアメリカとアジアの両にらみ(板挟み?)のような気配も感じますが、工業製品の輸出中心、という基本戦略は、容易に転換するわけにもいきません。この点から、世界に製品を輸出することのできる製造業を中心に据えて、これらの大企業が世界で戦いやすくするようプラットフォームを整えようとするのが国家的基本戦略になってくるわけですが、その延長線上で、労働力コストの切り下げ、というのは避けて通れない道であったわけです。
 かくして戦時体制が敷かれます。数々の戦時立法により、この国は総力戦の体制を整えていくのです。国家の目指すところは今目の前で行われている戦争に、最終的に勝利することであって、その過程では、少々の無理もやむを得ません。国民生活にいくばくかの犠牲を強いても、ともかく、この戦争に勝たなければならないのです。
 このような状況下におけるスローガン、さて、どんなのがありましたっけ?

 「欲しがりません、勝つまでは」

 国が自己責任論だの自立支援だのと喧伝するのは、公的セクターの責任放棄であるとは先に触れましたが、もう少し突っ込んで言えば、国は目の前のこの戦争に勝利するために、国民生活の負担を増大させることを戦略的に選び取ったわけで、そのことを国民心理に浸透させるために「欲しがりません勝つまでは」に倣ったスローガンとして「自己責任」を使用している、といえるわけです。

 ――うーん、案外深いテーマかもしれない。これで論文1本くらい書けそう。
 「経済戦争と現代の貧困」については、今後もしばらく継続して検討していこうと思います。色々な日常の理不尽を「世界の中の日本」という観点から見直していくと、少なからず新発見があると思いますので、皆様もぜひお試しください。


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ロス・ジェネ文学としての『ラブやん』。

2007年08月26日 | 読書
 先週は毎年恒例となった有明方面のオタ祭りに参加してました。大学の同期や後輩たちが一所懸命に漫画描いて日々これ腕前を上げているのを目の当たりにして、ようし俺もちょっと気合入れて小説書くぜ、とその時は思うのですが翌日には忘れてます。つーか今年に関しては、コミケから帰ってきたらリムネットのサーバの機材故障で俺様のホームページ『涼風文学堂』が消滅しておりましたので、取り急ぎパソコン内に残っていたバックアップデータを引っかき集めて再度アップロード作業をしているうちに力尽きましたorz

 さておき、涼風が待ちに待っていた、田丸浩史『ラブやん』の最新刊が、先月発売されました。こういう本を心待ちにしちゃう俺様もいかがなものかと思いつつ。
 いや、なかなか馬鹿にできないっすよラブやん。全国に掃いて捨てるほどいる(と思われる)ロリでオタでパラサイトで三十路前後の男の生き様(ムシロ生態)を、圧倒的なリアリティで描くその筆致は、もはや文学的色彩を帯びてきたと言っても過言ではないです。……ごめんやっぱ言い過ぎ。
 わりと真面目に思うところなのですが、例えば最近の朝日新聞が「ロストジェネレーション」と称して、今の25歳~35歳くらいの世代に固有の問題系にスポットを当て(その大半を就職氷河期の問題に回収しようとし)ていることとか、あるいは「ポータブル・パレード」のような小説が「下流生活をリアルに描写している」とかその程度の理由で新人賞を受賞してしまったりすることとかを見ていると、「オッサンども/オバサンどもは、僕らの世代について何も知らないくせに、僕らの世代について何かを語ろうとしている」のではなかろうか、と。そうであれば、われわれの世代がどのように生きてきて、どのような困難に直面しているのかを伝えることも必要なのではなかろうか、と思いを致すことになり、ひいてはわりに文学的な観点から「おまいら『ラブやん』くらい読んどけ」とか言いたくなるわけです。
 いやほんとに、ラブやんには世代論的に見過ごしがたい観点が実に的確に描写されていて、これは文学的鑑賞に堪えうる漫画だと思うのですよ。例えば

「女子高生……この言葉から貴様は何を連想する?」
「ボウボウ…援交…合コンに彼氏との旅行……そしてチョベリバ……!!」
「チョッ チョベリバ!? なんか…10年ぶりに聞いたぞ それ!!」
「だがしかし誰もが通る道それがチョベリバ……おお神よ……!!」
  (第56話)

 こんな会話から、この世代の男子が置かれてきた微妙な立場を見てとることができるわけです。
 この世代は「女子高生ブーム」の走りの世代でもあります。茶髪ルーズソックス(ガングロはもうちょい先)の女子高校生が、(往々にして性的な面で)記号化され、商品として流通した、まさにその世代なのです。女子高生がより上の世代から(往々にして性的な面で)注目を集めていたその陰で、男子高校生たちは何をしていたのか?したり顔でニート批判など垂れているオッサンどもには想像もつかないでしょう。
 ラブやん的には、その頃の男子高校生たちのうちのいくらか(おそらく無視し得ない人数)は、部屋に籠もってギャルゲーやエロゲーに熱中していたのです。同世代の少女たちがセックスシンボルとして市場社会で流通し、購買力のある大人たちの食い物にされている状況に背を向けて、生身の女体から乖離することでより商品として、記号として純化されたセックスシンボルに目を向けていたのです。
 あるいは、

「友達とわいわい遊んでたら楽しいし……それがそのまま続いてくれたらいいんだけど」
「いずれ『特別な友達』を選ぶ日が来るんだよな遅かれ早かれ」
「わいわい楽しくいきたかったから先送りにしてた面もあるんだけど」
「それじゃ遅いんだよな」
  (第58話)

 幼馴染みの女性(庵子)が結婚するという話を聞いた主人公(カズフサ)の独白シーンですが、この台詞の中には、この世代が「未来に対して決定的に失望している」ことが的確に言い表されています。主人公のカズフサは単なる小児性愛者として描かれているのではなく、年齢を重ねること、大人になることを拒否し、小学生の年代をこそ理想とするものとして描かれています。例えば小学生の頃の自分を起点として、そこから「理想とすべき中学生/高校生の頃の自分」を空想することは可能ですが、実際に自分が中学生・高校生であった頃を、自分の理想状態として空想することはあまりしません。つまりこの世代にとって、未来に希望を抱くことができたのはせいぜい小学生の頃までで、それ以降は「だんだん楽しくなくなっていく人生」を見透かして、失望し続けているわけです。

 このような観点から、ニートの問題やパラサイトシングルの問題を見ていけば、それは単に「就職氷河期だったから」というような理屈では片付けられないはずなのです。かように「ロストジェネレーション」を理解する手掛かりとなる視座を与え、世代を読み解き、ひいては社会を読み解く視座を与える、このような著作が文学的でないとすれば、いったい何が文学だというのでしょうか?……ごめんまた言い過ぎ。
 ともあれ、今後も『ラブやん』から目が離せないことだけは、確かです。


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東浩紀はほんとうに駄目になってしまったのか?

2007年07月31日 | 読書
 前回のトピックスに対して、せっかく馬頭親王様から鋭いコメントを頂いたのに、日常の瑣末な事柄に追われまくっているうちに半月以上も放置プレイ……あまりに申し訳ないので、馬頭様への返答を兼ねて、最近の東浩紀に対して涼風が思うところを少々。

 とか言いつつ実際のところ、涼風は「動物化するポストモダン」から先の東浩紀の著作をろくに追いかけていません。『郵便的不安たち』が明晰な書物であり、これに比べれば『動物化するポストモダン』を始めとするその後の著作はクオリティが劣るものだと言わざるをえない、という点について、涼風は「ああ、きっとそうだな」と思える程度に同意できますし(この辺り馬頭親王様のブログ「公的自閉の場」から6月4日付け「期待すればこそ」を参照のこと)、涼風が東浩紀の著作を追っかけなくなったのは、『動物化するポストモダン』以降、さまざまな場面で「がっかりさせられてきた」からだと言って差し支えないでしょう。
 さて、先日の記事で触れた『SIGHT』連載の東浩紀の記事『東浩紀ジャーナル第5回:現代思想の復活と新しい国家論』ですが、この記事は要約すると「萱野稔人と対談したら面白かったよ」というだけの超・自己満足テクストで「あーはいはい分かったから帰ってオナニーして寝てろよこのクズ野郎」と思わず言ってしまいたくなります。しかしまあ、そんな気持ちをぐっとこらえてこの記事をもう少し細かく読んでみると、要するに「福祉国家論の萱野vsリバタリアニズムの東」という議論が面白かったよ、という話です。フランス思想をホームタウンとする2人のことですから、アメリカ現代思想にはもしかしたら疎い(あるいは、興味がない)のかもしれませんが、リバ=コミュ論争の縮小再生産を今さらやってどうする。

 今回、このたかだか4ページの記事から、現在の東浩紀の立ち位置というものを、随所に窺うことができます。たとえば、

 現在思想の議論は、凡庸な状況認識と難解なテクニカルタームを一足飛びに結びつけ、自己満足に終わるものが多い。互いの政治的立場が異なっても、萱野氏と筆者は、そのような自己満足を避ける意志だけは共有していた。
 おそらくその意志は、筆者たちがともに、二〇代にポストモダニズムの洗礼を浴びながら、その力が急速に衰えていく時代を長く見てきたことに由来している。筆者たちは現代思想の力を信じているが、それがそのまま通用するとは思っていない。というよりも、思えない。その諦念が、抽象的な議論に、独特の手触りとわかりやすさを与えている。


 というような記載があります。はっきり言ってこの表現そのものが陥っている自己満足のまずさに比べれば、一般的な現代思想の言説が陥りがちな自己満足など可愛いものだ、とも思えるのですが、ともかくここから読み取れることは、東浩紀に「ニューアカデミズムの嵐とその爪痕」が常に大きな影を落とし続けているということ、そしてそれを回避しようとして、一般的な現代思想のテクニカルタームを回避しようとすればするほど、結果的にニューアカデミズムの例とよく似た陥穽に陥っているということ、であるように思えます。
 したがって、ここであえて意図的に、東浩紀に同情する視線でもって再読してみると、ニューアカの負の遺産というのは、東らの世代にとっては、ほとんどアレルギーと言うべき反応が示されるところのものなのだ、ということが読み取れるのです。ともかく、ニューアカの同じ穴に転落するわけにはいかない、という気持ちが何にも増して先立つので、小手先でいろいろ細かくこね回して回避しようとするから、その手垢に塗れた分だけ、テクストが明晰さを失っていく。先日の記事で涼風が東浩紀を「策士策に溺れる」と評したのは、要するに、そういうことだと思うのです。

 これと比較すれば、彼のデビュー作と言うべき『ソルジェニーツィン試論』辺りを含む『郵便的不安たち』が明晰な書物であったことは、むしろ当然のことなのでしょう。簡単に言ってしまえばそれは「若さ」なのかもしれません。姑息な計算が先に立たず、あっけらかんとしていることが、テクストに活力と明晰さを与えるのでしょう。
 そのような観点からすれば、この『SIGHT』誌全体が「あっけらかんとした作り」である中で、東浩紀だけがただ一人「苦悶し、試行錯誤し、のたうち回っている」がゆえに「姑息な計算が鼻につき、活力を失し、明晰さを欠いている」という結果に陥っている、との説明も成り立つと思います。
 かような事態を打破するために、東浩紀にはどこかで「軽やかさ」を身に付けていただきたい、と、涼風は願います。ここで「軽やかさ」と言うときに、涼風の脳裏によぎる第一の人物は柄谷行人で、第二の人物はアガンベンです。思い返せばデリダにも、時空を自由自在に泳ぎ回るような、ある種の軽やかさが常に伴われていたのではないでしょうか。願わくば、東浩紀もそのような「軽やかさ」の方向へ足を踏み出してもらいたいものです。現代思想のテクニカルタームを毛嫌いして遠ざけるのではなく、手懐けて使いこなしてこそ、道が開けるのではないでしょうか。ハイカルチャーもサブカルチャーも、政治も思想もエロもオタクも、分け隔てなくごった煮にして語っていただきたいものです。

 補足。
 リバタリアニズム批判については、涼風の専門分野ですので大いに語りたいところですが、ここでは簡単に以下の2点を指摘するにとどめます。

1:リバタリアニズムはその前提として、ロック由来の「自然人」のイメージを描いており、これは「真に自律的な主体」という幻想を抱いているものと批判できる。現代思想のテクニカルタームを用いれば「主体≒現存在の被投性」を無視した架空の議論であり、したがって実験室の実験と同様、特定の条件の下で特定の帰結をもたらすことの観察としては興味深いとしても、現実の社会の分析に当てはめるには、不適切なツールである。

2:ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』がロールズ『正義論』の批判として記された経緯から、両者は「自由至上主義的リバタリアニズム」と「福祉国家的リベラリズム」の正典であるかのように扱われ、種々の(往々にして不毛な)議論を呼んだが、そもそも自著がこのような運動を引き起こすことは、ノージックの本意だったのかどうか。読み方を変えれば同著は「ロックの自然状態からスタートするもっとも極端な仮定から論を展開しても、やはり『最小国家』としての国家を否定できない」という、国家擁護論として採用することも可能なのではないか。


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ロックンロールと左派言説との親和性。

2007年07月10日 | 読書
SIGHT」(株式会社ロッキング・オン)

 ……いやはや。かねてより「ロックンロールの衰退と左派的言説の衰退とは無関係ではない」と主張してやまない涼風が、こんな雑誌の存在をすっかり見落としていたとは。うっかりしてました。最近は「世界」にもまるで食指をそそられないし、かといって「諸君!」だの「文芸春秋」だの読む気にはさっぱりなれないし、あげく「現代思想」も年々これ質が落ちているという中で、ひさびさのヒットです。
 涼風の個人的な見解としては、もはや右だの左だのという対立軸そのものが大した意味をなさなくなってきていて、不確かな自らの立ち位置を無理矢理確認するために他者の言説にウヨクだのサヨクだのレッテルを貼ることだけに長けた輩がやかましい昨今、「ああ、右とか左とかはっきり区別できた時期が懐かしいなぁ」と感慨すら覚えていたところなのですが、これだけあっけらかんと「左派の復権」を指向した雑誌が、しかも渋谷陽一の手によって世に出されるというのは、まさに我が意を得たりという感じです。
 私が買ったのは現時点の最新号である2007年夏号ですが、加藤紘一や菅直人のインタビュー、高橋源一郎と斎藤美奈子の対談など、非常に興味深い記事が並んでいる中で、やはり特集のメイン記事である、坂本龍一と藤原帰一との対談がひときわ目を引きます。特筆すべきは坂本龍一の発言で、別段小難しい小理屈をこねるでもなく、実にあっけらかんとしながら、それでいてポイントを外さずにいるところが、まさにこの雑誌の立ち位置を象徴しているように思うのです。ちょっと引用してみます。

 そうですね。9・11を身近で体験してしまったので、ということでしょうね。別に僕はもともと反戦論者でも、非戦論者でもなかったけど、たまたまそこに住んでいた。遭遇してしまったら何らかの責任、関わりはできちゃうというかね。目の前の川で誰か溺れてたら、黙って通り過ぎないのと同じですよ。(p.18)

 (前略)……やっぱり音楽家とか芸術家なんて理想論を言う役目なんじゃないかな。音楽とかアートとか文学は、現実政治とは関係ないとこで生きてる人間がやってるんだし、やっぱり誰かが理想的なことを言わないといけないと思う。……(中略)……イラク戦反対運動でも血気盛んだったのはチョムスキーだけ(笑)。だから、自分はそういう役目なのかなという気もするんですよ。(p.20)


 前者は現代思想の重要なキーワードである「責任=応答可能性」(responsibility=response+ability)について、中学生でも分かるような平易でしかも的確な説明となっていますし、後者はそこからさらに発展して、文学の世界では既に大半が放棄したような「アーティストの使命」を自らに課すことを確認しています。
 かつては、このような「あっけらかんとした」言説の下地を支えていた、その柱のひとつは、ロックンロールにあったのではないでしょうか。もちろん、ウッドストックの頃にはまだ生まれていなかった涼風の言うことですから、多分に断片的な情報に立脚しているがゆえの偏見があるとは思いますが、ブルーハーツにしてもBOφWYにしてもX(-JAPAN)にしても、システマティックなものに噛み付き、モラルを笑い、自由を尊ぶ、そんな基本姿勢に立脚していたのではないでしょうか。(そうした「古き良きロック魂」みたいなものと比較してみると、例えば小室哲哉が安室奈美恵をして「Are you ready for system 2000 ?」と歌わせた(『LOVE 2000』)ことがいかにグロテスクかということも見えてくるわけです)
 システマティックなものに飲み込まれ、モラルの陰で息を潜め、不自由から逃れることもできずもがいているような音楽が数多く生み出されるここ10年ばかりの状況に対して、「でもやっぱアフガン/イラク戦争って変じゃね?」と、理論的裏づけもなく思いつきで声を上げることは、実は左派の復権であると同時に、ロックンロールの復権でもある、と涼風は思うのです。
 理屈をこね回すのもそれはそれで大事なところもあるのですが、今必要とされているのは、どちらかといえば「理屈抜き」の「象徴的」な「左派的言説」なのではないかな、という気がしてきました。そしてこのような言説にアクセスする経路を作ったのが、既存の文壇・論壇とそれを支えるメディア・出版社ではなくて、ロッキング・オンであったということにも、納得、という感じです。
 そんなわけで「SIGHT・2007年夏号」オススメです。思想系や論壇系の雑誌に比べて独特の「軽さ」はありますが、今という時代にあっては、この「軽さ」こそが決定的に大事なのではないか、とわりと真剣に考える涼風の最近のイチオシです。

 ……余談ですが、ここまで取り上げてきたような「SIGHT」全体の雰囲気の中で、東浩紀の連載記事は明らかに物足りないです。この雑誌の他の記事と見比べて、最近の東浩紀に何が足りないのか、何がイカンのかと考えると、要するに「策士策に溺れる」の典型例なのだな、ということが分かってきたような気がします。これだけぐるぐる回って行き着く先がリバタリアニズムって、あーた(苦笑)。


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週末に買った本の中から。

2006年12月17日 | 読書
 気分転換や暇つぶしのためにショッピングをする人は少なくないでしょうが、涼風の場合、ショッピングの対象は概ね本です。しかも古本より新刊本を買う割合が高いのでお財布に優しくないことこの上ない。
 さて、この週末に購入した本をだらだらと書き連ねて今日の記事を埋めてみます。

『生かされて。』(イマキュレー・イリバギザ、PHP出版社)
 ルワンダ大虐殺のサヴァイバーである著者による回顧録。原題は『Left to Tell』副題は『Discovering God amidst the Rwandan Holocaust』……どう考えてもこの日本語題は原題の趣旨を汲んでいないと思います。
 私自身の宗教的な出自について言えば、クリスマスにはケーキとチキンを食べお正月には神社に初詣に行き節分には豆をまきバレンタインデーにはチョコを送ったり送られたりする、でも実家の法事には坊さんが来て南無妙法蓮華経を読み上げる、という無節操な状態で、しかしそれが日本人の典型的なスタイルではないかと思っています。そのような「典型的日本人」に、イマキュレーが死の淵で見いだした「信仰」の重さを感じることができるのか、彼女がこの本を書くに至った宗教的使命感の強さを感じることができるのか……と考えると、だからこそなお、原題は副題も含め直訳されてしかるべきだったのではないでしょうか。
 ところで、この本を読めば、典型的日本人であるところの私はどうしても、それを自分の属さないどこか遠い世界の物語として受け止め、その凄惨さに慄然とし、彼女の命を救った彼女自身の聡明さに感嘆し、奇跡と呼ぶほかないいくつかの偶然に不覚にも涙ぐむことになります。
 しかし、証言に対する受容のあり方として、それではいけないのではないか?という疑念が同時にわき上がるのです。いったいこの違和感は何なのだろう?素直に読めば、素直に涙が浮かびそうになるのを、必死で否定しようとする私の中のこの感覚は、何なのだろうか?
 ――そんな問いにひとつの方向性を示してくれそうなのが、

『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』(ジョルジョ・アガンベン、月曜社)
 ということになるのかどうか分かりませんが。わざわざこういう本をセットで買う私のセンスもどうなのか分かりませんが。
 まだほんのさわりしか読んでいないので、詳しい感想はいずれ機会があれば。とりあえず気になったフレーズをそのまま引用して今日は終わり。
 証人は、通常は真実と正義のために証言する。そして、その言葉は、この真実と正義から充実と充足を得ている。しかしここでは、証言は、本質的には、それに欠けているもののゆえに価値がある。ここでは、証言は、その中心に、証言しえないものを含んでおり、それが生き残って証言する者たちから権威を奪っている。「本当」の証人、「完全な証人」は、証言したことがなく、証言しようにも証言することができなかった者である。「底に触れた」者、回教徒、沈んでしまった者である。生き残って証言する者たちは、さも証人であるかのような顔をして、かれらの代わりに代理として語る。生き残りたちの供述する証言は欠落した証言なのだ。しかし、代理について言い立てても、ここではなんの意味もない。沈んでしまった者たちは、語るべきものはなにももっておらず、伝えるべき教えも記憶ももっていないからである。かれらは「物語」(Levi 3,p.82)も「顔」ももっておらず、まして「考え」(ibid.)ももっていない。かれらのために証言する責務を引き受ける者は、自分が証言するのは証言することの不可能性のためでなければならないことを知っている。しかし、このことは証言の価値を決定的に変え、証言というものの意味を思いがけない領域に探しにいくことを強いる。

 その他は漫画で、
『風雲児たち 9』(みなもと太郎、リイド社)
 第9巻の注目ポイントは、何と言ってもオビの推薦コメントを手塚眞が書いていること。ちょうどこの巻で、手塚治虫の曽祖父が福沢諭吉と同時期に適塾に入った、なんてエピソードが出てくるのでひっかけたのでしょうが。
 私はみなもと太郎を「手塚チルドレンたちが忘れ去ってしまった漫画手法を再び生き返らせる者」として非常に高く評価しているので、何年か前の手塚賞特別賞受賞といい、今回のオビといい、なかなか不思議なものを感じます。いずれみなもと太郎の「漫画文法」については詳細に検討してみたいなあと思っていますが思っているだけ。

『曹操孟徳正伝 2、3』(大西巷一、メディアファクトリー)
 雑誌のほうで追いかけなくなったので単行本で印税収入に貢献してみた。さすがに連載が続くうちに小ゴマの描き込みが荒くなっていくのですがこれは筆者の本意じゃないでしょう。体壊さないように頑張ってください大西先生。

『ビブリオテーク・リヴ』(佐藤明機、コスミック)
 まさかこんな本が復刊されていようとは。大人毛ない。


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