涼風野外文学堂

文学・政治哲学・読書・時事ネタ・その他身の回り徒然日記系。

何のために生け捕りにしたのか。

2006年12月31日 | 時事・社会情勢
 今月は投稿サボりまくりで申し訳ありませんでした。年明けて1月から3月くらいの間は仕事が修羅場につきなおいっそうサボりまくる予定なのであらかじめ申し訳ありません。
 で、大晦日くらいはしずしずと身の回りのことでも書いて穏やかな年越しを迎えようと思っていたところ。

 人道に対する罪で死刑判決を受けたイラクのサダム・フセイン元大統領(69)に対する絞首刑が30日午前6時(日本時間同日正午)ごろ、バグダッドで執行された。4半世紀にわたりイラクを支配した独裁者は、かつて自らが弾圧したイスラム教シーア派やクルド人指導者たちが主導する政権下に設置された法廷で裁かれ、死刑確定後4日で処刑された。
 元大統領の影響力を完全に断ち切りたいマリキ政権が断行した形だが、これによりイラクの治安情勢が一段と不安定になる恐れもある。また、裁判の公平性には批判も多く、死刑執行の妥当性は論議を呼びそうだ。
 2003年の旧フセイン政権崩壊後、同政権の犯罪を裁くために設置されたイラク高等法廷による死刑判決が執行されたのは初めて。29日深夜にマリキ首相が米当局者と会談したと伝えられており、その際に執行時間が最終的に決まったとみられる。(時事通信)


 ……人類はニュルンベルクからもトーキョーからもイェルサレムからもハーグからも何も学んでいない。

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 ともかくも、皆様1年お疲れ様。
 来年がよりよい年でありますように。

週末に買った本の中から。

2006年12月17日 | 読書
 気分転換や暇つぶしのためにショッピングをする人は少なくないでしょうが、涼風の場合、ショッピングの対象は概ね本です。しかも古本より新刊本を買う割合が高いのでお財布に優しくないことこの上ない。
 さて、この週末に購入した本をだらだらと書き連ねて今日の記事を埋めてみます。

『生かされて。』(イマキュレー・イリバギザ、PHP出版社)
 ルワンダ大虐殺のサヴァイバーである著者による回顧録。原題は『Left to Tell』副題は『Discovering God amidst the Rwandan Holocaust』……どう考えてもこの日本語題は原題の趣旨を汲んでいないと思います。
 私自身の宗教的な出自について言えば、クリスマスにはケーキとチキンを食べお正月には神社に初詣に行き節分には豆をまきバレンタインデーにはチョコを送ったり送られたりする、でも実家の法事には坊さんが来て南無妙法蓮華経を読み上げる、という無節操な状態で、しかしそれが日本人の典型的なスタイルではないかと思っています。そのような「典型的日本人」に、イマキュレーが死の淵で見いだした「信仰」の重さを感じることができるのか、彼女がこの本を書くに至った宗教的使命感の強さを感じることができるのか……と考えると、だからこそなお、原題は副題も含め直訳されてしかるべきだったのではないでしょうか。
 ところで、この本を読めば、典型的日本人であるところの私はどうしても、それを自分の属さないどこか遠い世界の物語として受け止め、その凄惨さに慄然とし、彼女の命を救った彼女自身の聡明さに感嘆し、奇跡と呼ぶほかないいくつかの偶然に不覚にも涙ぐむことになります。
 しかし、証言に対する受容のあり方として、それではいけないのではないか?という疑念が同時にわき上がるのです。いったいこの違和感は何なのだろう?素直に読めば、素直に涙が浮かびそうになるのを、必死で否定しようとする私の中のこの感覚は、何なのだろうか?
 ――そんな問いにひとつの方向性を示してくれそうなのが、

『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』(ジョルジョ・アガンベン、月曜社)
 ということになるのかどうか分かりませんが。わざわざこういう本をセットで買う私のセンスもどうなのか分かりませんが。
 まだほんのさわりしか読んでいないので、詳しい感想はいずれ機会があれば。とりあえず気になったフレーズをそのまま引用して今日は終わり。
 証人は、通常は真実と正義のために証言する。そして、その言葉は、この真実と正義から充実と充足を得ている。しかしここでは、証言は、本質的には、それに欠けているもののゆえに価値がある。ここでは、証言は、その中心に、証言しえないものを含んでおり、それが生き残って証言する者たちから権威を奪っている。「本当」の証人、「完全な証人」は、証言したことがなく、証言しようにも証言することができなかった者である。「底に触れた」者、回教徒、沈んでしまった者である。生き残って証言する者たちは、さも証人であるかのような顔をして、かれらの代わりに代理として語る。生き残りたちの供述する証言は欠落した証言なのだ。しかし、代理について言い立てても、ここではなんの意味もない。沈んでしまった者たちは、語るべきものはなにももっておらず、伝えるべき教えも記憶ももっていないからである。かれらは「物語」(Levi 3,p.82)も「顔」ももっておらず、まして「考え」(ibid.)ももっていない。かれらのために証言する責務を引き受ける者は、自分が証言するのは証言することの不可能性のためでなければならないことを知っている。しかし、このことは証言の価値を決定的に変え、証言というものの意味を思いがけない領域に探しにいくことを強いる。

 その他は漫画で、
『風雲児たち 9』(みなもと太郎、リイド社)
 第9巻の注目ポイントは、何と言ってもオビの推薦コメントを手塚眞が書いていること。ちょうどこの巻で、手塚治虫の曽祖父が福沢諭吉と同時期に適塾に入った、なんてエピソードが出てくるのでひっかけたのでしょうが。
 私はみなもと太郎を「手塚チルドレンたちが忘れ去ってしまった漫画手法を再び生き返らせる者」として非常に高く評価しているので、何年か前の手塚賞特別賞受賞といい、今回のオビといい、なかなか不思議なものを感じます。いずれみなもと太郎の「漫画文法」については詳細に検討してみたいなあと思っていますが思っているだけ。

『曹操孟徳正伝 2、3』(大西巷一、メディアファクトリー)
 雑誌のほうで追いかけなくなったので単行本で印税収入に貢献してみた。さすがに連載が続くうちに小ゴマの描き込みが荒くなっていくのですがこれは筆者の本意じゃないでしょう。体壊さないように頑張ってください大西先生。

『ビブリオテーク・リヴ』(佐藤明機、コスミック)
 まさかこんな本が復刊されていようとは。大人毛ない。


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地下鉄、あるいは、同じ月を見ているということ。

2006年12月11日 | 文学
 少しばかり個人的な体験について語ることをご容赦ください。もう十年以上も昔の話。高校は卒業したものの、大学受験に失敗し、行き先を失っていた私は、御茶ノ水にある某大手予備校への入学手続のため、JR総武線にことことと揺られておりました。3月のある穏やかに晴れた日の朝、通勤ラッシュより少し遅い時間の鈍行列車の車内はさほど混み合ってもおらず、私はロングシートに腰掛け、うとうとしながら、御茶ノ水駅への到着を待っていたのでした。
 そんな車内が急に賑やかになったのは、どこの駅からでしょうか。本八幡か市川か小岩か、どうも正確には覚えていないのですが、突然、平常時では考えられないような大量のお客さんが、総武線の車内に乗り込んできました。扉の外では、地下鉄で何か事故だか異臭だかがあったとかで、電車とホームが混み合っていることをしきりにアナウンスしています。何だ、騒々しいな、とその時の私は自分勝手な感想を抱き、目を閉じて、うたた寝を再開したのです。
 そして予定どおり御茶ノ水の駅で降り、予備校への入学に必要な書類を提出すると、千葉で友人たちと集まってTRPGをする約束があったので、今乗ってきたのと反対方向の総武線に乗り込み、再び穏やかな日差しの差し込む平穏な車内で、かたことと、1時間ばかり揺られていったのでした。

 それが1995年3月20日のことです。

 地下鉄サリン事件のことは友人たちと会ったときに初めて聞かされましたが、そのときは断片的な情報しかなかったこともあって、それほど大きな事件があったとは認識していませんでした。友人宅でTRPGを1セッション遊び、夕飯まで御馳走になってしまい、自宅に帰ったのはわりと遅い時間で、それからようやく、どうやら大変なことが起こったらしい、ということを理解したのでした。

 その頃、父は九段下に、母は茅場町に勤めていました。
 その日に限って父はたまたま営団東西線ではなく都営新宿線で出勤しており、その日東西線に乗車していた母はサリンの撒かれた車両より何本か遅い列車に乗っていたため、難を逃れました。しかし考えてみれば、新宿の学校に通っていた姉を含め、この日は一家4人全員が千葉から都心へ向かう列車に朝から乗り込んでいたのであり、4人の中の誰かが何かの拍子に命を落としたとしても、何ら不思議ではなかったのです。

 その日から私の中に「何故だろう?」という疑問が渦巻いていて、その疑問は今でも消えることはありません。その日、私の目と鼻の先で、何人かの人が殺され、何人かの人が深刻な障碍を負いました。私の父や母や姉が乗っていたのとほぼ同じ時間帯の地下鉄で、無差別殺人が冷徹に実施されました。何故彼らは死に、私や私の家族は生きているのか。何故彼らであって、私ではなかったのか。彼らと私を分かつものは何であったのか。それは未だに分からないままなのです。

 その後私は1年間、総武線で御茶ノ水の予備校に通っていました。通勤ラッシュの時間帯に、酢飯のように押し合いへし合いしながら、満員電車に揺られて行きます。その間も僕を捉えた「何故?」の思いは消えることはありませんでした。
 毎日同じ時間の電車の、同じ車両に乗ります。毎日同じ顔を見かけます。毎日ドアの近くに立っている女の子は、いつも熱心に文庫本を読んでいます(これがチェーホフとかドストエフスキーだったらある意味「絵になった」のかもしれませんが、残念ながら、と言ってよいのかどうか、彼女が読んでいたのは『スレイヤーズ!』でした)。彼女が読んでいる本を、私も読んだことがあります。しかし、この狭い空間で、読んでいる本の文字が横から覗けるくらいに非常に接近してありながら、私が彼女と同じ本を読んでいることなど、この空間では、まったく問題にされません。
 この満員電車の中に「詰め込まれた」無数の人々は、私も含めて、それぞれに固有の物語を生きています。その中で例えば、私と同じ車両の彼女は私と同じ本を読んでいるのだし、私と同じ音楽を聴く人や、私と同じ紅茶を好きな人や、私の父と同じ職場に通う人なんかが、この15両ばかりの列車のどこかに、乗っているはずなのです。物語の交差する可能性は無数にあります。それでも、これらの物語は決して交差することなく、すれ違い、過ぎ去ってゆくのです。

 思い返せば、それからの十年と少々の間を、私はただひたすらこの「何故?」と向き合うことに費やしてきたのだ、と言っても、過言ではないかもしれません。私にとって、私がただ今生きているということ、ただ平穏に生きているということ、それ自体に対する違和感が、常に働いていたのです。どこにでもいる同じ世代の人々の多数派と同様に、予備校に通い、大学受験に一喜一憂し、大学に滑り込み、サークル活動にいそしみ、酒を飲んで騒ぎ、単位に一喜一憂し、就職先に滑り込み、初任給で両親に食事をおごり、車を買い、結婚し(1995年3月20日のあの日にTRPGを遊んだメンバーの一人と結婚した、というおまけのエピソード付き)、新婚旅行に行き、家を買い、そんな諸々の最中に時折ふと、振り向いて何かを確認しなければならないというある種の強迫観念が、こんな風に平穏無事に生きているということそれ自体が何か間違っているというような気が、してならなかったのです。
 その背景には、地下鉄サリン事件に「ニアミスした」という個人的体験、そして「それにも関わらず、何事もなかったかのように走り続ける」満員電車にその後一年間揺られ続けたという個人的体験が、渦巻いているように感じられるのです。

「だってあの列車の中では、誰もがパパだったり娘だったり、ママだったり息子だったり、眠たかったり冴えていたり、嬉しかったり悲しかったり、したはずなのよ。それが寒天に閉じ込められたカエルの発生段階の胚みたいに、みんな、固定されてしまった。運動を停止させられてしまった。だからそこで、場に向かう食肉牛みたいに殺されていったのは、無数の物語であると気づいたの。
「ねえ、だってそうじゃない?あの列車の中には、パパだったりママだったり、貞淑だったり奔放だったり、夢があったり諦めがあったり、そんな区別なんてありはしないんだって、証明されてしまったのよ。あたしたちの生きるこの世界では、もう誰も物語ることができない。だってそれぞれの物語はすべて、何の区別もなく場の牛みたいに、無差別に殺されていくんだもの。そんなのって――そんなのって、信じられる?」
(『スイヒラリナカニラミの伝説』)


 それは決定的な経験だったのだと言うことができるでしょう。十代の最後の時期、このときに私は、満員電車で偶然乗り合わせた大勢の人々との間で、互いに共有することが可能と思われるはずの物語をそれぞれに有していながら、互いにそれらにアクセスすることができないのだということを、思い知らされた、のでしょう。(もちろん今だから言えることなのですが)
 私が例えば小説を書き、下手な漫画を描き、下手な音楽を作曲し、素人仕事のノベルゲームを作成し、そんなことをしながら追いかけようとしていたテーマは、ある種の原初的な孤独――ヒトは結局のところ他のヒトと何ものをも共有しえないということ――なのではないだろうか、と、ここ十年のうちに自分が作ってきたものたちを振り返って見ながら、思います。そのような「原初的な孤独」を、人生のうちで初めて、しかも決定的に、思い知らされたのは、やはりあの満員電車だったのではないか、とも思います。

 そんな絶望的とも言える、逃れようのない孤独の深い闇を眼前に認め、それでもなおここに立ち続けようとするならば、この絶望的な闇を照らす一条の光は――「同じ月を見ている」ことなのではないかな、と思います。この地球上の、緯度も経度も異なる別の地点=ポジションから見上げる月は、それぞれ誰の目にも異なって映るかもしれない。自分の目に映った月のイメージを誰かと共有することは、やはり原初的に不可能だ。しかし、それでも、月はひとつなのだ――そんなささやかな灯火を、これからの十年、例えば小説を書いていく中で、追い続けていければいいな、と考えているのです。


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