涼風野外文学堂

文学・政治哲学・読書・時事ネタ・その他身の回り徒然日記系。

英語が「読めない」日本人?

2009年10月26日 | 政治哲学・現代思想
 前回のエントリで、とある行政法の先生の書き物について触れました(誤解のないように申し上げておきますが、実務家出身の研究者として、机上の空論ではなく実務の用に耐えうる研究成果を多数発表しておられ、その業績は高く評価されてしかるべき先生です。しかし、だからこそ、重箱の隅をつつかれることもあろうかと)。その後同じ文章を読み返していて気づいたのですが、引用・参考文献が、ほとんど日本人の著者によるものに占められ、海外の論文は翻訳ものを含めてもごく少数、日本語以外の言語による文献は皆無でした。もしかしてこの先生英語読むの苦手かしらん、と思うと、若干の同情を余儀なくされます。
 政治学、政治哲学は、基本的に英語圏の学問なので、一次文献として英語で書かれたものに当たらないと、事の正否を論ずることさえできません。リバタリアニズムについて語るのに、ハイエクもノージックも読んでない。コミュニタリアニズムについて語るのに、サンデルもマッキンタイアも読んでない。公共哲学について語るのに、アーレントもハーバーマス(おっと、これはドイツ語圏だ)も読んでない。これでは、一般人や学生向けに語るには耐えられても、研究者仲間からは相手にされないと思います。

 涼風は大学の法学部なんてところを出ておりますので、第2外国語と言えば、ドイツ語かフランス語と相場が決まっていました。時勢を汲んで中国語を学ぶ人も最近では多数に上りますが、伝統的な学問の風潮からは、ドイツ語かフランス語、最低でもどちらかを学んでおかないと、馬鹿にされます。
 それは結局、この国の法律の成り立ちからして、基本的な文献に当たり、あるいは、比較法学的な立場から日本の法制度を概観する際に、どうしてもドイツ語かフランス語の論文を読まざるをえなくなることを意味しています。いわゆる「法曹」として現場に出て、ナマの法律事件を扱うなら、中国語や韓国語、タイ語、ポルトガル語なんかが扱えた方が便利でしょうが、研究者の道に進むのであれば、ドイツ語かフランス語です。
 ちなみに、政治学を学ぼうとするのであれば、とにかく英語です。隣接学問としての哲学を学ぼうとするならやはりドイツ語かフランス語が(より深く学ぼうとするなら、さらにラテン語が)必要になるでしょうが、政治学の重要文献の出典は、そのほとんどがアメリカに集中しています。

 このように考えていくと、やはり外国語を「読む力」というのは、学問を究めんとする人々にとっては必要不可欠なのだな、と思えてきます。そのような観点から、昨今の英語教育を巡る議論などを見ていると、「使える英語」に拘泥し、リスニングに重きを置きすぎるあまりに、リーディングの教育が疎かになってしまうのではないか、との懸念が浮かびます。(いずれにしても、小中学校の9年間のうちごく限られた時間を英語教育に充てたくらいで、外国語が使い物になるレベルに達するとは思えないのですが)

日本におけるリバタリアニズム?

2009年10月20日 | 政治哲学・現代思想
 個人的には、リバ=コミュ論争なんてのは「既に終わった話」だと思っています。それなのに、日本国内のブログやメディアなどでは、未だに「リバタリアニズム」という単語を見かける機会が少なくありません。
 今日も仕事の関係で、とある行政法の先生(その業界では有名な方です)の書いた文章を読んでいて、「最近の行政法制度の改正を理解するには、その背景にある哲学をも読み解かなければならない」という話から、具体的には指定管理者制度(地方自治法244条の2)を挙げて、「その背景の思想として、リバタリアニズム、ネオ・リベラリズムといった、NPM理論の基礎となる哲学を理解しなければならない」のような話が展開され、そこからリバ=コミュ論争の紹介(しかも、ところどころ間違ってる)に発展したところで、のけぞりました。あんまりびっくりしたので、70年代のリバタリアニズムも80年代の小さな政府論も90年代の新自由主義も一緒にするな、という点から、70年代アメリカ政治学の停滞とロールズ『正義論』の登場がいかにセンセーショナルであるか、ゆえにノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』でこれへの反論を試みたこと等について、つい同僚に講義してしまいました。

 ノージックが「自由至上主義(リバタリアニズム)」という語を用いたのは、アメリカ政治学の用語における「リベラル」(これの対義語は「コンサーバティブ」です)の射程を超えていることを主張したかったためと思われます。
 『アナーキー・国家・ユートピア』が世に出されたのは1974年のことです。60年代後半から70年代前半のアメリカを想像すると、例えばウッドストックであったり、ヒッピー・ムーブメントであるというようなイメージをもって、理解する必要があると思うのです。
 したがって、これをリバタリアニズムの中心的理論と位置づけるのであるならば、その背景に、体制的なものへの警戒感があることを理解しなければいけないと思うのです。だからノージックは「何故アナーキーであってはいけないのか」を議論のスタートに置き、アナーキーとの対比で最小国家の正当性を肯定する。
 ところが、今日の日本における「自称リバタリアン」たちは、こうした警戒感をまったく抱くことなく、単に「市場への信頼」を言うために「リバタリアン」を自称する傾向が、強いように思います。90年代以降のいわゆる新自由主義が新保守主義と親和的であったことが示すように、単純に国家的規制を緩和し市場の自由に委ねると、実は、官民問わず多くの組織は肥大化し、体制は堅固化し、これに対峙する個人の無力さは「それはそれで自己責任」として切り捨てられる結果になります。ノージックはこの点について警戒心を抱いていて、だからこそ最小国家の先に「ユートピア」を構想したのですが、この点の是非について論じるリバタリアンを日本でついぞ見かけないのです。

 そう考えると、昨今の日本で語られる「リバタリアニズム」は、もはやノージックがその語を用いたときとはまったく別のものを指し示すものになっているのかもしれません。日本独自のリバタリアニズム、と言えば聞こえはいいですが、もしかしたら、思想と呼べるほどの一貫性がない(どちらかといえば「信念」や「信仰」に近い)類のものに、ただ名前だけを付けて満足しているだけかもしれない、と思うと、多少やるせない気持ちになってきます。

 結論:ノージックはお前らよりもう少しちゃんと物事考えてるからしっかり読め。

日本国憲法――未完のプロジェクト?

2009年07月27日 | 政治哲学・現代思想
 前回のエントリに関連して、自分と同じものの考え方をする人を発見して、ちょっと嬉しくなったので、備忘録的に引用しときます。


 それは、例えば阪神・淡路大震災があった直後、一口に死者五千人と言われました。最終的には六千四百人を超えたわけですが、そのときにビートたけしがある評論の中でこういう発言をしました。ジャーナリズムは五千人死んだ、地震が起きた、五千人、五千人と言っているけれど、違うと。一人死んだ悲劇が五千回、五千個同時に起きたんだと言ったわけですね。これは極めて重要な問題の見方です。数字で一まとめにするんではなくて、一人一人の人間、一つ一つの家族がそれぞれの人生や生活をしていき、それぞれの価値観を持っている。それが、命が絶たれる、死亡するというそういう悲しみに直面したときに、そこに生まれる物語というものは全く別です。この見方が極めて重要なんですね。
 ちなみに、我々は、例えばイラクやアフガニスタンでテロ行為があって今日は五十人死んだとか百人死んだといっても、その一人一人の現実は見えないわけですね。あるいはナチス・ドイツがユダヤ人せん滅作戦で六百万人を殺害しましたけれど、その実像は見えてきません。ところが、アンネ・フランク一人の死というものを見ると、極めてリアルに人間の死というものが立ち上がってくるわけです。この視点から臓器移植の現場というものを見ると、また違った姿が見えてくるということです。
 それからもう一点は、専門家の陥りやすい視野の偏りについて、大変僣越でございますが、申し上げたいと思いますのは、現代社会というのは、科学や法律や様々な意味で専門的職業人を要請し、社会はそれで成り立っているわけですが、専門的業務に専念すると、その業務の範囲内で専門的知識と経験を生かしてある仕事を達成しようとします。そして、パフォーマンスを上げようとします。そうすると、自分の専門以外のこと、あるいは今、自分が目の前で直面していること以外のものについて余り関心を持たないか、視野の外に置いてしまうということですね。
 これら視点の二つを、私なりにこの移植問題について申し上げますと、臓器をもっと欲しい、法律を変えれば五百個臓器が増えるという見方と、その五百個のうちの一つ一つに人生の悲しみ、人々の悲しみ、家族の悲しみ、つらさというものがこもっているという視点がいつの間にか欠けてしまってはいないかということ。そしてまた、移植医療を推進するときに、法律を変え、あるいは手続を簡便にすることによって移植医療が推進するということを言っているうちに何かそこで忘れ物がないだろうか。
 私は、いろいろな取材や講演活動の中で面と向かって移植学会の幹部の方に言われたことがあります。柳田さん、もっと臓器を取りやすくするように法律を直してくださいよ、協力してくださいよと言われました。こういう視点が専門家の陥りやすい視野の偏りというものではないかと思うんですね。恐らく、その先生は悪意で言ったわけではない。しかし、自分の専門業務、あるいは自分が診ている患者さんを救いたいというその一点に焦点を絞ったがゆえにそういう言葉が出てきてしまうんだろうと思うんです。
 そしてまた、日本人は奉仕の精神がないから駄目なんだとも言われました。では、脳死状態で今みとろうとしている家族の前で、そして脳死に同意しようか迷っている人の前で、あなたは奉仕の精神持っていますか、欠落していませんかと言えるのかどうか。これが一人一人の現実の命や人生というものを見ていく視点ではないかと思うんです。

【中略】

 しかし、移植医療というものは二つの死に直面した命の間で初めて成立するものです。言うまでもなく、死んでいく人がいるから臓器提供が行われるわけです。そして、死に直面した人、そしてその家族が、一刻も早く臓器提供があり、この病者を救いたい、病気から解放してあげたいと思う、この二つの相矛盾する立場、これをどう調整するかということこそ今問われている問題ではないかと思うんです。
 そこの接点をどこに求めるのか。私が情報の偏りと言ったことは、救われる人たちの声、救われた人たちの声、そういうものはこの二十年の間、非常にしばしば言われてきました。移植学会もそれを代弁して強調してまいりました。しかし、提供した人がどういう状況にあるのかについてはほとんどだれも公にしてきませんでした。まれにドナー家族が本を書いたり、新聞にインタビューに答えたりしても、それは積極的に評価して、うちの娘は宝だ、臓器提供した娘は我が家の家宝だと、こういう家族たちは表に出ます。しかし、悲しみに触れ、PTSDになったり、うつになったりした人たちは、外部から接触されることさえも拒否しています。そういうことを考えて、移植現場、臓器提供の現場というものがもっともっと現実に即した形で考えられなければならないし、そのことを踏まえて法律はどうあるべきかということを検討していかなければいけないと思うんです。
※参議院厚生労働委員会会議録(平成21年7月2日)より、参考人柳田邦男氏の発言。強調は引用者によります。


 いや、こうした心配があまり深く省みられず法改正がされた点を憂慮すべきであって、喜んでいる場合と違うのでしょうが。

 さて、臓器移植法の話題はこれでおしまいにして、世間一般の興味も、臓器移植法よりは来るべき衆議院議員選挙と政権交代の可能性の方に向いておりますので、そのへんに関連して少々思うところを。
 知っている方は知っているとおり、涼風は、公共セクターのお仕事を生業としております。その中でも特に、地域密着性の高いオフィスでのお仕事をしていますので、うっかり「今回の総選挙の争点のひとつは、地方分権である」なんて話を聞いてしまうと、心穏やかではいられません。
 地方分権、というタームには何やら前向きな取り組みであるように感じさせる効果があるようで、自民党も民主党も経団連も知事会もこぞって、地方分権せよ、地方分権せよ、と騒ぎ立てております。ただ地方分権と百遍唱えれば極楽浄土に行ける、という性質のものではないでしょうから、問題は地方分権の「中身」でしょう。どのような地方分権か。あるいは、何が地方分権なのか。議論の中身をよくよく見ていくと、「地方分権」の語の指し示すものの中には、「国だけじゃ仕事やり切れないからあとは地方でやってよ」的なものから「金足りないからもっと地方に金くれよ」的なものまで、まったく性質の異なる主張が押し込められていることが分かります。地方分権という同床異夢です。

 このような「地方分権」の議論が出てきた背景には、小泉‐竹中ラインに代表される「小さな政府」論者による、サッチャー・レーガン改革に倣った「行政経営の効率化」という視点があることを、見落とさない方がいいでしょう。つまり、「民間にできることは、民間に」「地方にできることは、地方に」という議論は、まず行財政改革の必要にかられ、より少ないコストで効率的な行政運営をするための仕組みとして、導入されたものだったのです。
 国の行政運営を効率化するための、ツールとしての地方分権。乱暴に言い表してしまえば、これは「上からの地方分権」です。
 なぜこのようなことをわざわざ指摘する必要があるのかというと、現在の地方分権を取り巻く議論の根底には「上からの地方分権」があり、総じて「下からの地方分権」という視点を欠いている、ということを指摘したいからなのです。
 まがりなりにも民主主義国家であることを標榜するのであるならば、政治は「人民の(人民による、人民のための)」ものでなければなりません。したがって、本来、地方分権ということを深く考えるのであるならば、「俺たちの政府」としての「地方政府」において、人民(活動的市民)が自ら統治の形態を考え、また、統治に参加すること、そのための仕組みを作ることこそが、地方分権の究極目的でしょう。基礎自治体の数を1000にするか300にするか道州制でどことどこの県くっつけようか直轄事業負担金はぼったくりバーだ、なんて話題は、地方分権の枝葉の先の先でしかありません。

 不勉強なりにこの国の歴史を振り返ってみますと、明治維新により近代国家の仲間入りをした際、政治は、必ずしも人民のものになりませんでしたし、そして今もなお人民のものになっているとは言いがたい状況にあります。
 大日本帝国憲法は、今日の目から結果論として見れば、天皇による統治を実現するためのツールでした。列強と対等に渡り合うために、ひたすら富国強兵を推し進めることが喫緊の国家的命題であった当時の情勢下では、いかに自由民権運動だ大正デモクラシーだといっても、国家の仕組みの根本的な部分では、中央集権的にならざるをえなかったのでしょう。
 この頃の地方制度を思い返してみれば、府県知事は「官選」であり、中央の政府が地方の統治のために送り込んでくる、役人でした。都道府県知事が公選されるようになったのは、戦後、日本国憲法が作られてからのことです。
 このような側面からも、この国において「地方分権」の第一歩が記されたのは、何をさしおいても、まずは日本国憲法であった、ということがいえるのです。
 ところで、この日本国憲法は、アメリカ的な国家観の影響を随所に受けています。そのことの功罪をここで語ることは避けておきますが、いずれにせよ、国家制度の根幹たる憲法の制定に際して、アメリカという「世界に類を見ない、特殊な国」を参照してしまったことは、この国の事情を大変複雑にしていると思います。
 涼風が好んで引用するアーレント『革命について』の整理によれば、アメリカ独立革命こそが、人類史上唯一の、成功した革命である、ということになります。そして、アメリカの建国者たちは、その革命の仕上げの作業として、権力の源泉たる人民とは別に、法の源泉としての憲法、国家制度の骨格たるConstitutionを創設する、という作業を行ったわけです。
 つまり、日本国憲法は、世界で唯一の革命の成功例に倣い、革命の過程(それは必ず「下からの運動」を伴います)を経ないままに、革命の成果品である「憲法」だけを、落下傘的に受け入れてしまったものである、という性質を有しているのではないでしょうか。

 そうであるならば、日本国憲法とは、革命の成果である「自治」(住民が自ら統治の主体となる、という意味で)において、その目指すべき結論を先に持ってきていながら、かれこれもう60年以上も、自治の実現を待ち続けている「未完のプロジェクト」である、と評価することもできるのではないでしょうか。
 そのように考えると、今回の総選挙を「政権選択選挙」と位置づけ、「官僚主導の政治から国民が主役の政治へ」と呼びかける民主党の戦略は、基本路線としては、なかなかいい線をついているのではないかな、と思えてくるのです。(具体的な政策の是非は措きます)
 遅かれ早かれ、地方分権はこの国の仕組みとして必要になります。しかし、それは、単に霞ヶ関と全国知事会が権限と予算の引っ張り合いをするためのものではありません。予め憲法というゴールを示されている革命のルートを、これから走破する、という、制度史上おそらく類例のない稀有な出来事の中で、必然的に、「人民の(人民による、人民のための)」政治の実現として、浮上してくるものでしょうし、また、そうであってほしいと願います。

オバマは日本には(日本にも)出現しない。

2009年01月26日 | 政治哲学・現代思想
 太平洋の向こう、アメリカ合衆国では、第44代大統領バラク・オバマが就任式を行い、アメリカのみならず全世界の注目を集めました。これほどまでに、全世界から期待され、待望されて登壇した大統領というのも、近年珍しいのではないでしょうか。
 われらが日本もご多分に漏れず、(他に大きなニュースがなかったこともあって)ちょっとしたオバマ・フィーバーの様相を呈していました。国営放送のみならず民法各局でも、該当インタビューに応じる市民が「日本にもオバマさんのような人が出てきてほしい」と熱っぽく語る姿が報道されたものです。

 そんな過熱気味の報道を尻目に「うん、それ無理」と冷静に呟いたのは、私一人ではなかったことと思います。

 ところで、何故日本にはオバマのような政治家が出現しないのか、というこのインスピレーションを、どうにか筋道立てて言語化しようと考えているうちに、問題の立て方が間違っていて、何故アメリカにはオバマのような政治家が出現する土壌があるのか、ということを考えた方が早道であることに、ようやく気づきました。新聞にオバマの就任演説全文も掲載されたことですし、ここでひとつ、オバマを通じて見るアメリカ、という話題を。

 オバマがこれほどまでに全世界の注目を集め、期待を背負わざるをえないのは、もちろんアメリカの置かれている現在の苦境と、それにも関わらずアメリカこそが世界に最も大きな影響を及ぼすアクターであるという揺るぎない事実に基づくものですが、オバマ個人が衆目を集める契機となった部分に着目すると、「出自」と「演説」であることを認めざるをえないでしょう。
 出自の点については、アフリカにルーツを持ち、幼少時代をインドネシアで過ごした等の多層的な絡まりが、アメリカの現状を投影しているようであり、まさに「融和の象徴」としてうってつけであったことが挙げられます。
 他方、演説においては、「change」の語がオバマのキーワードとして定着したように、停滞し、行き詰まった現状を打破する強い言葉の力を、民衆が感じ取ったと言えるのでしょう。
 これらを重ね合わせたときに、「ユニラテラリズムとさんざん他国から批判された上に、アフガニスタンもイラクも北朝鮮も思うように状況は好転せず、そのうえ結局国内経済は崩壊し、銀行も証券会社もビッグ・スリーでさえ窮地に陥るといった形で、ずたずたに引き裂かれたアメリカのプライド」を前提に、それを再生する象徴としてのオバマ、という読み方をしても、あながち的外れではないと思います。
 アメリカは、変わらなければならない。このまま失意の底に沈むわけにはいかない。融和を遂げ、変革し、アメリカは再生する。そのための象徴、僕らのバラク・オバマ!そんなアメリカ人にとっての「希望のシナリオ」が、透けて見えるような気がします。

 このようなシナリオ=思考法を可能にするのは、ひとえに、アメリカという国家の特殊性に由来するものであって、他の国が真似できるものではない。だから、バラクのような人材を国家のトップに持ち上げるエネルギーを、他の国は(もちろん日本も)持ち得ない、というのが、私の分析結果です。

 就任演説の冒頭近くで、オバマは非常に印象的なことを言っています。

Forty-four Americans have now taken the presidental oath. The words have been spoken during rising tides of prosperity and the still waters of peace. Yet, every so often, the oath is taken amidst gathering clouds and raging storms. At these moments, America has carried on not simply because of the skill or vision of those in high office, but because we, the people, have remained faithful to the ideals of our forebears and true to our founding documents.
So it has been; so it must be with this generation of Americans.

(今や、44人のアメリカ人が、大統領の宣誓を行った。これらの誓いの言葉は、繁栄の上げ潮の中で、あるいは平和の水面の上で口にされたこともあった。しかしながら大概において、宣誓は、雲が集まり、嵐が荒れ狂う中で行われたのだ。このような場面を、アメリカが乗り越えてこられたのは、単に高い地位にいた人々の技量やビジョンのためだけではない。われわれ人民が、われわれの先祖の理想に忠実であり続け、また、われわれの建国の文書に誠実であり続けたからなのだ。
 これまでは、そうだった。この世代のアメリカ人も、そうでなければならない。)


 このような感覚は、おそらく日本人には、ぴんとこないのではないでしょうか。
 われわれが安易に「日本にもオバマさんのような人が出てきて欲しい」などと口走るときに、抜け落ちているのが、このような「建国の理念」を「共有」している感覚だと思うのです。

 このような「アメリカ人固有の感覚」を読み解く参考書としては、やはりアーレントの『革命について』をおいて他にないと思います。
 アーレントの分析によれば、アメリカ独立革命こそが(たとえ部分的であれ)成功した世界で唯一の革命であり、フランス革命やロシア革命その他の革命は(自由の創設、という点で革命を評価する限り)革命の失敗作に過ぎない、ということになります。もう少し説明を加えれば、フランスその他の革命は、その当初には自由の設立を目論んでいたかもしれないが、結局社会問題(必然性=貧窮)に回収され、単なる解放のための闘いに変節して終わった。ところが、アメリカ独立革命だけは、社会問題から切り離され、絶対王政から切り離されていたことから、憲法=構成体の設立を通じて、曲がりなりにも自由の設立を成し遂げたのだ、と。
 同書から印象的な部分を引用してみます。

The singular good fortune of the American Revolution is undeniable. It occurred in a country which knew nothing of the predicament of mass poverty and among a people who had a widespread experience with self-government; to be sure, not the least of these blessings was that the Revolution grew out of a conflict with a 'limited monarchy'. In the government of king and Parliament from which the colonies broke away, there was no potestas legibus soluta, no absolute power absolved from laws. Hence, the framers of American constitutions, although they knew they had to establish a new source of law and to devise a new system of power, were never even tempted to derive law and power from the same origin. The seat of power to them was the people, but the source of law was to become the Constitution, a written document, an endurable objective thing, which, to be sure, one could approach from many different interpretations, which one could change and amend in accordance with circumstances, but which nevertheless was never a subjective state of mind, like the will.

(アメリカ革命における類まれな幸運の存在は、否定できない。この革命は、大衆的貧困の状態をまったく知らない国で起こったばかりか、広範な自治の経験を持つ人々の間で起こったのである。確かに、この革命が「制限君主制」との対立から生起したということは、少なからず恵まれていたことであった。植民地が袂を分かったところの、王と議会による統治には、法から解放された絶対権力potestas legibus solutaは存在しなかった。したがって、アメリカの構成体(=憲法)を組み立てた人々は、新たな法源を創設し、新たな権力のシステムを捻出しなければならないことは知っていたけれど、法と権力とを同一の起源から引き出そうという誘惑には決して与しなかったのである。権力の所在地は人民であったが、法の源は、書かれたるところのもの、耐久性のある客観的なモノであり、確かに、多くの異なった解釈によるアプローチが可能であり、事情に従って変更や修正をも受け入れるものであるが、しかし「意志」のような心の主観的状態では決してありえない、「憲法」であった。)


 アメリカの建国の理念=物語の基底には、カリスマ的な人格でも、超越的な神でもなく、「耐久性のある客観的な」憲法があるのです。だからこそ、時代を超え、世代が入れ替わっても、この国の「建国の理念」は失われることなく、共有される。このことこそが、「アメリカ的物語」が強固に揺らぐことのない力の根源であり、オバマを「われわれの代表者」として送り出す、人民のエネルギーなのでしょう。
 そしてこれは世界で唯一「成功した革命の歴史」を持つアメリカにのみ可能な出来事であって、その最終的な結果の部分だけを拾って「日本にもオバマのような政治家を」と口走ることは、まったくこの国の歴史を見ていない、無責任な英雄待望論に他ならない、と言ってしまっても、言い過ぎではないのではないでしょうか。

 さて、以上のような観点から「日本国憲法」ってどうヨ?という問いの立て方をするのも、なかなか面白そうな気がしますが、さすがに長くなりすぎたのでまた次の機会に。この国の憲法はこれはこれでまた「アメリカ的価値観を丸呑みして自分のものにしてしまった」という日本人のユニークさの顕れと見ることができ、興味深いのですよ。言うなれば「アメリカ産の牛肉を醤油で味付けした」ような憲法といった感じ。

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※ 本エントリ中、オバマ大統領の就任演説については朝日新聞1月24日付け朝刊から、アーレント『革命について』についてはペンギンブックス版から、それぞれ引用しています。
 対訳はブログ管理者によりますが、朝日新聞の対訳及びちくま学芸文庫版の志水速雄による訳を大いに参考にしつつ、より原文に忠実な訳を心がけた結果です。無論、誤訳や不適切な言い回し等の責任は、すべて涼風に帰属します。


※ 遅ればせながら、あけましておめでとうございます。ってほんとに遅れすぎ。

見えない敵、あるいは、絶望的な結論。

2008年11月25日 | 政治哲学・現代思想
 元厚生事務次官宅が相次いで襲撃される、というショッキングなニュースに若干注意喚起されたこともあって、『ロスジェネ別冊2008秋葉原無差別テロ事件「敵」は誰だったのか?』なんぞ買ってきました。若干、寄附による運動支援みたいな気持ちもあったことも事実です。
 さて、以前『SIGHT』を読んだ際のエントリで、東浩紀の停滞について触れましたが、この『ロスジェネ』内での彼の迷走ぶりは、シンポジウムの発言記録、という形式の影響はあるでしょうが、以前よりは、共感が持てる種類の迷い方だな、と思えました。一部引用しますと、

 僕はもともと哲学とか現代思想をやっていました。20世紀には希望を語る言葉はけっこうあった。ナショナリズムやマルクシズムだけではなく、例えば経済成長の神話もそうです。モダニズム全体がそうです。そして20世紀は希望を語る言葉が、その裏返しで人を傷つけてきた歴史だというのが僕の考えです。僕は、そういうのを学生のころからずっと学んでいたということもあって、希望を語る言葉に対しては躊躇せざるをえない。

 というような問題意識は、おそらく大筋で間違っていないと思えるのです。
 ところが、

 僕は最近、いまの世の中について考えると、結局これは宗教の問題に行くんじゃないかという気がし始めています。

 とかうっかり思考停止の発言をしてしまって、

 正確に言うと、宗教をつくるというより、世界宗教が開いた他者性や外部性を再検討してみるということですが。

 と他のパネリスト(大澤信亮)からフォローされて、

 そうですね。そういうのは一個一個変えていくべきだよね。どうもいま、僕はちょっと危ないところへ行っていた。もっと細かくやることがある。危ないところだった(笑)。

 と慌てて訂正する一幕があったりします。
 おそらく東浩紀は、現代思想、特にニューアカ的手法の行き詰まりに十分自覚的で、そこから距離を置くことで新たに批評的な言語表現を獲得しようとしている。ところが、彼はまさに哲学・現代思想のフィールドで言語を獲得してきた出自を持つのであるから、そこから離れることは、たいてい、腰の座らない一過性の思い付きに終わる。だから『SIGHT』の時はリバタリアニズムに近寄ってみたり(アメリカ政治思想の前提知識を欠いているがゆえの失敗)、今回は神学論争(論理的思考の放棄に近い)に足を踏み入れそうになったり、迷走を続けているわけです。あなたの探している言葉は、きっと現代思想の文脈の中にしかないよ、とアドバイスを送ってやりたくもなりますが、迷う姿そのものは実に人間味があって、共感できます。

 さて、長い前書きは終わりまして、ここからが本題。
 この本全体を通して見ると、例えば雨宮処凜や赤木智弘といった「素人代表」というべき面々においては、「ネオリベが悪い」とか「正社員は敵だ」といった、簡単に敵を措定する論理に、親和的なところがあります。他方で、東浩紀や萱野稔人といった、比較的アカデミックな方面のパネリストからは、このような単純な論理に対する相応の警戒感が見て取れます。
 そして本全体を通して見れば、結局のところ「確かな敵などいないのではないか?」「にも関わらず、この圧倒的な敵意は何だ?」という疑問が浮き彫りになる、と言えると思います。われわれ(という危険な用語を、さして吟味もせず用いるという蛮勇を奮いたいと思います)は、常に「姿の見えない敵と戦っている」ような、困難に晒されているのではないか。この本のサブタイトルからして、本の制作者たちがこうした困難に十分自覚的であることの証左でしょう。
 それは、ある意味で世代間闘争であり、またある意味で階級闘争でもある。あるいは、この『ロスジェネ』の中で十分触れられてはいませんが、地域間格差の問題も、避けては通れない(例えば、ワーキングプアの若者が食べる格安の牛丼やコンビニ弁当が、世界のどの場所で、どのような低賃金労働によって生み出された食材を用いているのかを考えてみる。あるいは、地方出身者の就職活動と都心在住者のそれを比較してみる)。
 そこでは敵と味方、同質と差異、こちら側とあちら側が簡単に入れ代わる。決定的な同質も差異もない。――言い換えれば、自分以外はすべて敵、ということにもなる。

 おそらく、この本に出てくるパネリストのほとんどは、それぞれの人なりの認識の仕方でもって、このような「アトミズム的世界」の姿を、確かに視界に捉えているのだと思います。
 万人の万人に対する闘争、というのは一種のファンタジーだったはずなのに、気が付けば現実がそれに近づいている。われわれは圧倒的な孤独に晒されていて、それは早晩「世界全体を敵とみなす」ことに結び付かざるをえない。イコール、秋葉原の無差別テロ事件に寄り添ってしまう。これを否定するために、例えば敵を特定しようとしたり、連帯を導入しようとしたり、共通の希望を探したりしている、というのが、私なりに各パネリストの発言を分析したところです。
 ――そしてそれは、明らかに行き詰まりつつあるムーブメントです。敵は特定できるはずがないし、これほど分断化された世界ではもはや連帯こそがファンタジーだし、一言で言い表せる希望が簡単に見つかるようなら苦労はない。これらの運動は、いずれも壁に突き当たっています。

 おそらく、皆が気付いているのです。
 多くのパネリストが、ことはグローバル資本主義の問題であることに言及し、しかしながら、そこから深く掘り下げることはできずに終わっています。杉田俊介が

 でも、広い意味での日本の左派のなかに、それをやれる人は正直いない。マルクスが19世紀の産業資本主義を(当時の古典派経済学を踏まえつつ)分析したように、現在の21世紀のグローバル資本主義を(新古典派・近代経済学を踏まえつつ)科学的に分析できる人が。

 と指摘しているのは当を得ていると思いますが、それで終わりにしてしまってよいものでしょうか。
 各パネリストが、これ以上深くに踏み込めない理由を、邪推してみます。グローバル資本主義の問題だと気付いていながら、これを語る言葉を持ちえない、というより、語ろうという挑戦さえしない。それは、この問題の向こう側に、より本質的な問題が透けて見えるからではないか。

 あえて挑戦的に言ってしまいましょう。ことはグローバル資本主義の問題でさえないのではないか、と。「グローバル」を外した、単なる「資本主義」の問題なのではないか、と。

 これは絶望的と言うべき指摘になるでしょう。「万人が万人から切り離されてたった一人で世界と敵対する」という状態が、資本主義の失敗の結果として生じるのではなく、資本主義が深化した当然の帰結として生じるのだとしたら。
 さらに言えば、近代的な人権概念と私的自治の当然の帰結であるこの資本主義システムこそが、その完成型として、決定的に分断され孤独に追いやられたアトミズム的世界の実現へと収束するものであるとしたら。

 ……さて、このエントリを携帯で書き始めてから、既に1週間くらい経過してしまったので、ここらで1回アップロードしておきます。この間に、厚生事務次官宅襲撃事件の犯人も名乗り出てきてしまいましたし。
 そして、ブログで扱うにはちとボリュームの大きすぎる話題になってきたかもしれないので、もう少しじっくり考えてみることにします。


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労働の劣化?

2008年11月04日 | 政治哲学・現代思想
 連休明け、当オフィス宛ての大量の郵便物を分別していると、1通の誤配郵便物を見つけました。
 毎日膨大な郵便物を受け取るオフィスなので、誤配は日常茶飯事なのですが、今日の誤配はひどかった。宛先は、隣の市。差出人も、隣の市。封筒の表に「料金不足のため返却いたします」の貼り紙。
 ……こういうもの誤配しちゃマズいだろ。
 ちなみに、当オフィスとの共通点は、7桁の郵便番号のうち頭の1桁だけです。

 統計取ってるわけではないので体感的な感想に過ぎませんが、最近、郵便物の誤配の件数が増えた気がします。それも、1年くらい前には考えられなかったような、仕様のない凡ミスが目立ちます。
 同じようなことが、例えばスーパーのレジや居酒屋の注文取りでも感じられるようになってきました。値札より高い値段でレジ通されたり注文した酒が届いてないのに伝票だけ入ってたりするので、片時たりとも気が抜けません。しかも、こちらが間違いに気付いて指摘してあげても、バイト君はマニュアル外の行動に咄嗟に対応できなかったりして、数少ない社員さんを呼び出したりしてる間にレジの背後に長蛇の列が出来てたりします。かなり気が重くなります。

 今日における「資本と労働の関係」ということを、ここしばらく考えていて、いまいち考えがまとまらないのですが、差し当たり今日は、基本的な前提条件として、いくつか問題提起をしておきたいと思います。
 労働は以下の2つの点で、市場経済に順応しません。第1に、需要の増減があったからといって、そう簡単に供給量を調節できない点。第2に、個々の労働者が労働力の供給主体であると同時に貨幣を行使して他人の労働力の成果を享受する客体でもあり、この重層構造が、市場メカニズムからの分析に馴染まない点です。
 ごく初歩的な「合成の誤謬」さえも説明できない、市場原理主義の如きは、雨乞いかまじないに等しいものであって(この辺り、金子勝の受け売り)、正面から論ずるにも当たらないと思っているのですが、苦々しくもあえて言及するなら、役所でも企業でも経営改革が持て囃され、NPMからかんばんシステムまで多種多様なコストカットの手法が導入されたこの10年ばかりの間、この国の雰囲気として蔓延していたのは、短期的なコストカットが、長期的な経済成長の端緒となるという、根拠のない信念でした。
 しかし実体経済は、市場原理主義者が考えているよりも格段に複雑なメカニズムで動いているのであって、実験室での実験がそのまま自然現象の説明に使えないのと同様に、単純化された市場モデルで得た理論は、そのままでは実体経済を理解する役には立ちません。
 各個別の経済主体は、市場におけるプレイヤーとして完全な情報を有しているわけではないのですから、市場原理主義者が考えるように、常に最適行動が取れるはずはありません。結果、「合成の誤謬」に代表されるように、各個人が自己の利益を最大化しようと行動することが、かえって全体のパイを小さくしてしまい、それがさらに極端な利己行動を誘引するという、悪循環を招くことになります。
 不幸なことに、こうした「市場原理主義の失敗」が、特にコストカット競争として現れたことが、この国の、ひいては世界の「労働-市場」を自壊させてしまいました。自らの足を食む蛸のように、愚かしくも、経済システムを支える大前提であるべき「人間の生存権」を蝕んでしまったのです。

 ここからは憶測の色合いがより強くなり、論理の精度が落ちますが、こんな考え方は成り立たないでしょうか。
 本来市場経済に馴染まないはずの「労働」が、コストカット圧力に晒され、切り詰められる(非正規雇用の増大・雇用流動化についてもはや言うにも及ばず)ことは、長期的に、全体的に見れば、労働の「質を下げている」のではないか。
 このような「労働の劣化」は、市場における交換の場面で需給双方にストレスをもたらし、このストレスは「想定外のコスト」となって全体のウェルフェアを目減りさせているのではないか。

 ……んー、携帯からはこのへんが限界です。
 また後日ゆっくり考え直してみます。


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もっとも不都合な真実。あるいは、環境と人権。

2008年07月23日 | 政治哲学・現代思想
 先頃のサミットでも話題になりましたが(それ以前に、サミット自体が全然話題になりませんでしたが、というのは置いといて)、今日の国際的関心を集める、もっとも主要な政治的課題は、環境問題だったりします。原油価格の暴騰、そこから派生するエネルギー問題、食糧問題、二酸化炭素問題。こうした、現代社会に顕著なグローバル化した問題を見ていくと、二十世紀以後のわれわれの生活を支える大量消費型の生活スタイルは、これまで、自然環境を侵食し、食いつぶしていくことで成り立っていましたが、いい加減にそのやり方が成り立たなくなってきた、ということが分かります。今日の全世界的な大量のエネルギー需要を支えるには、この世界のエネルギー資源は、足りない。だから投機的マネーは原油に一極集中して価格高騰のスパイラルを描くのだし、国際的に天然ガスや鉄鉱石の奪い合いが始まっているのだし、食糧の囲い込みは着実に貧困層を飢餓へと向かわせる。環境問題というのは、大量消費社会による自然環境からの過剰な収奪なのです。
 企業活動におけるエネルギー消費の抑制には、経済効率との兼ね合いから、どうしても限界があります。このため近年では、エネルギー消費抑制圧力の矛先は、もっぱら個人の日常生活に向けられています。ネクタイを外してみたり、食堂にマイ箸を持ち込んでみたり、およそ涙ぐましい努力が奨励されます。まるで戦時中です。

 このような今日的な環境問題には、実は、劇的で、抜本的な解決策があります。しかしそれを口にする人はまずいません。
 要するに、世界的なエネルギー需要が、この世界で安定的に循環できる範囲にとどまればいいのです。エネルギーの供給量を増やしたり、二酸化炭素に代表される燃焼行為の環境負荷の自然吸収量を増やしたりすることには、限りがあります。それよりもっと現実的で即効性のある解決策は、エネルギー需要の方を減らすことです。
 つまり人間の数さえ減れば、環境問題など解決してしまうのです。
 少子化対策など実施してはいけません。医療の進歩にも歯止めをかける必要があるでしょう。衛生環境の向上、感染症の撲滅など、もってのほか。延命治療など許しがたい地球規模の犯罪です。
 そうして、地球人口が自然に半減するくらいのところまで持っていければ、森には緑が戻り、虫が飛び交い、小鳥がさえずる、生物多様性に満ちた自然環境が、取り戻せるのではないでしょうか。

 ……このような過激な指摘をしながら、もちろん私は、「地球環境のために人間半分くらい死んだ方がいいよ」などと考えているわけではありません。ただ、環境問題というのは基本的に、人権と緊張関係にあるのだ、ということを自覚する必要を感じており、それを前提とした上で、環境問題と人権問題の折り合いのつく地点を探さなければならないのだ、ということをアピールしたいのです。
 例えば鯨の乱獲阻止のため(鯨の保護が地球規模の環境バランス調整に寄与するのかどうか、という点の疑念はさておき)であれば、運送会社の倉庫から段ボールが1箱盗まれたとしても、罪に問われるべきではない、という主張がなされます。主張する者は、環境保護を錦の御旗に掲げます。これは実に象徴的な行動で、環境保全のためには、私有財産など無視すべきですし、自力救済を禁ずる近代刑事法の伝統など紙くず同然なのです。そうでなくちゃ環境保護など主張できないのです。
 あるいは、コンビニエンスストアの深夜営業を規制します。いったいその措置により、どの程度エネルギー消費が縮小できるか、なんてのは、問題ではないのです。大量消費社会の象徴を切り崩すこと、そのために私権(営業の自由)に制限をかけること、それ自体が重要であり、環境保護の取り組みのもっとも本質的な部分なのです。

 われわれはどうしても、「地球に優しい」だの「エコ」だのという言葉の耳障りの優しさに騙されて、つい、環境保護というのはソフトな活動で、優しいものなのだ、と考えてしまいがちです。
 しかし環境問題というのは、われわれが近代社会を形成する過程で発達させてきた、大量生産大量消費型の社会構造と真っ向から対立するだけでなく、われわれが発達させてきた人権概念とも、対立するものなのです。そのことを意識した上で、持続可能な社会とは何か、ということを考える段階に、さしかかっているのだと思います。

 余談ですが、このような観点から見れば、「自由と独立の国」アメリカが、どうして環境問題に対しこれほど取り組みが消極的なのか、ということが分かる気がします。近代的人権概念を最大限に尊重する(銃の個人的所持さえ憲法で保障される=国家による暴力独占を警戒するだけでなく、個人の権利として捉えている)ことは、とりもなおさず、環境問題への消極的な姿勢と表裏一体なのです。


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集団化する知。

2007年09月20日 | 政治哲学・現代思想
 富士ゼロックスのテレビCM(一人一音の演奏会・ピアノ編)を初めて見たときは衝撃を受けました。鍵盤が一つしかないグランドピアノが何十台も並んでいて、ピアノ1台に1人ずつ人がつき、それぞれ鍵盤を叩くと、全体でリストの難曲「ラ・カンパネラ」の演奏になる、というものです。(最近流れている「ギター編」は、どうも二番煎じの感があってあまり感銘を受けません)
 単純にCMの企画としても非常に面白いものでしたが、加えて、このCMの意図するところとして、それぞれのピアノが個人の「知」を暗示し、「知はつながる」というメッセージを表現しているところが、実に興味深いものです。
 そしてこれは、まさにわれわれの「知」が置かれている現状を、的確に表しているように思うのです。1年以上前の記事になりますが、ブログというのは要するに「個人をデータベースの内側に取り込む」ものであることに言及しました。ブログに限らず、ウィキペディアでも2ちゃんねるでも、個人の発信する情報が集合化して、一体化した大きな情報を構成する様は、まさに前述のCMのようなものといえるでしょう。

 それでは、かように「知の集団化」が進んでいく中で、「集団としての知=データベース」の「内側」に取り込まれた「個としての知」のアイデンティティはどうなるのか?ということを、ここ数日、つらつらと考えています。
 われわれは、知が日常的に集団化する世界の中を生きている。そうであるならば、われわれは制度的に(と言ってよいほど)、個人としての卓越を示す機会を取り上げられている、という見方もできるのではないでしょうか。
 どれほど個人として独創的な意見を述べようとしても、それは顔のある個人の主張というよりは、データベースを構成する一部品に成り下がります。それでもなお、わたしはここにいるのだ、わたしはわたしなのだ、という主張を繰り返したとて、その叫びは空虚なものではないでしょうか。

 知は新たな局面にぶつかり、困難な時代を迎えているのだ、と理解しています。その中で私はブログを書き、同業者が集まるBBSで他人に仕事のアドバイスをしています。それらの場所で紡ぐ言葉は、私のものであると同時に、誰のものでもないデータベースの一部でもあります。
 そのように、共有/分有され、拡散していく「私のものであり、私のものでない言葉」を、再びかき集めて統合し、そこに「わたし」を見出すことができるのかどうか。あるいはそのように再構成された「わたし」は「わたし」と呼ぶに値するものなのかどうか。
 新時代のアイデンティティ・スタディーズとも言うべき問題として、そんなことを考えて、あるいは考えさせられているのです。


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食育基本法をデリダが見たら何を想うだろう?

2007年06月12日 | 政治哲学・現代思想
 問題はただ単に、主体の概念が、少なくともその支配的な図式において、男根ロゴス中心的な構造であることを喚起することではないだろう。ぼくはいつか、この図式が肉食的男性性を含んでいることを証明したいと思っている。(…中略…)主体は、ただ単に、自然の主人にして能動的な所有者たらんとするのではない。われわれの諸文化では、主体は供犠を受け入れ、肉を食べる。(…中略…)われわれの諸国で、自ら菜食主義者であることを公的に、したがって範例的に宣言しつつ、国家元首になるチャンスを、そのようにして「先頭」に到達するチャンスを待っている人がいるだろうか?指導者は肉を食べる者でなければならない。
〔…中略…〕
 これらの問いに応答することで得られるのは、単に支配者〔dominant〕の、今日なお、政治的なものや国家において、法律や道徳において支配するものの共通分母の図式ではなく、主体性そのものの支配的図式〔scheme dominant〕なのだ。それは同じ図式だ。さて今、生物と非生物の間の境界も、「人間」と「動物」の間のそれと同様、少なくとも対立的境界としてはきわめて怪しいものになり、「食べ=話し=内化する」(象徴的ないし現実的)経験において、倫理的な境界線はもはや、(人間を、汝の隣人を)「殺すなかれ」と「生物一般を死なせてはならない」の間に厳格に走っているのではなく、他者の概念〔=懐胎conception〕=自己固有化=同化の、いくつもの、無限に異なった様態の間に走っているのだとすれば、その場合には、あらゆる道徳の「善」〔Bien〕に関する問いは、自己を他者に、また他者を自己に関係づける最良の仕方、もっとも感謝にあふれた、そしてまた、もっとも多く贈与する仕方を規定することに帰着するだろう。体孔の(口唇ばかりでなく耳や眼の――そしてすべての「感覚」一般の)縁辺で生起するあらゆることについて、「正しく食べること」の換喩がつねに通例となるだろう。問題はもはや、他者を「食べる」のが、またどんな他者を「食べる」のが、「よい」〔=美味しいbon〕かどうか、あるいは「正しい」〔bien〕かどうかではない。いずれにせよわれわれは他者を食べるのだし、他者によって食べられるがままになるのだから。(…中略…)したがって、道徳的な問いは、食べなければならないのは、あるいは食べてはならないのはこれであってあれではない、生物か非生物か、人間か動物かということではない。かつて一度たりとそうであったことはない。そうではなく、いずれにせよとにかく食べねばならない〔il faut bien manger〕以上、そしてそれが〈正しい=快適な〉以上、問題は、いかに正しく(善く=適切に=快適に=美味しく)食べるべきか〔comment faut-li bien manger〕ということになる。そして、このことには、どんな内容が含まれているだろう?

『主体の後に誰が来るのか?』(ジャン=リュック・ナンシー編、現代企画室)より
『「正しく食べなくてはならない」あるいは主体の計算』(ジャック・デリダ)



 食育基本法、というキテレツな法律があります。食い物のことで人に指図されるのが大嫌いな涼風にとって、これほど腹の立つ法律も他にないのですが、議員立法の多数の例に漏れず、条文そのものの作りも甘いところが、涼風の腹立ちに拍車をかけます。大体「食育基本法」というタイトルのわりに、前文から本則附則全部読んでも結局「食育とは何か」が分からないって辺りが素晴らしすぎる。
 で、この法律がいかに出来が悪いかということを妻に愚痴っておりましたところ、ふと、前掲のデリダの「正しく食べなくてはならない」というフレーズが脳裏をよぎり、何やらぴんとひらめいたので、この本をマクドナルドに持ち込み、フライドポテトとアイスコーヒーをついばみながら該当箇所を読みふけっておりますと、不思議なことに、学生時代とはまるで違って、乾いた砂に水をたらしたように、すいすいと頭に入っていく(ような気がする)のでした。
 そもそも国家というものに、国民を飼育しようとする性格があることは否定のしようもありませんが、普段はその性格を隠していて、表に出さないこともまた、国家の生き残りの戦略であると思うのです(だからこそ柳沢厚労相の「産む機械」発言が政治的問題となる。柳沢発言の分析はこのへんこのへん参照)。それにもかかわらず、これほど露骨に、国家が国民に対し、法という形式を用いて、「正しい食べ方」を教示しようという、今のこの国を覆う「鈍感さ」をどのように理解したらよいのでしょうか。
 逆説的にわれわれは、マックで巨大なハンバーガーとラージサイズのコーラをかっ喰らい、ハニーシロップ味のポップコーンの大袋に手を突っ込みながら映画を見、テレビゲームのコントローラーを握る合間にホームサイズのアイスクリームのカップに直接大きなスプーンを突っ込んで食べなければいけないのかもしれません。スローライフだのロハスだのが「正しい食べ方」に絡め取られる危険性が高まっている昨今、むしろメガマックこそが、主体のテクストを攪乱するラディカルなムーブメントと言えるのではないか、とさえ思えてくるのですが、どうでしょうか?

 ……そんなことを思いついてからこのブログの記事にするまでに1ヶ月近くかかってますorz何だか忙しいというより気が急いてます。精神的余裕が不足しています。
 で、何で今日唐突に思い出して先月の話を記事にしようと思ったのかというと、昼食にメガてりやきを食べたからなのですが。

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※ 件の「食育基本法」はこちらからご参照ください。

銃と巨乳。

2007年04月01日 | 政治哲学・現代思想
 実に1ヶ月ぶりのご無沙汰でございます。この時期仕事が超多忙なのは例年のことなので織り込み済みだったのですが、実を言うと仕事以外の部分でまあ色々ありまして。プライベートなので詳細は控えさせてもらっていいですかそうですか(謎
 ともかく、3月はまったく投稿しなくて申し訳ありませんでした。この反省を活かし、4月は1日1トピックスの投稿を心がけたいと思います、とか言ってみる今日は4月1日なので信用しちゃ駄目ですよ。例によって、無理しない程度に時々更新して参りますので、生温かく見守ってやってください。

 さて、復活一発目のネタのタイトルとして↑これはどうだと思わないでもないのですが。

 背景を説明しますと……
 昨年まで、防衛庁の共済部門を受託する外郭団体である「財団法人防衛弘済会」というところが発行していた雑誌で「セキュリタリアン」というものがありました。これが防衛庁編集協力ということで、防衛庁のPR活動に一役買っていたのですが、昨年の夏をもって休刊となり、代わりに扶桑社から「MAMOR(マモル)」という同趣旨の雑誌が発行されるようになったのでした。
 で、私のような素人の目から見て、同一コンセプトの雑誌である「セキュリタリアン」と「MAMOR」の大きな違いは、何と言っても「巻頭に女性グラビアがあるかないか」ということなのです。「MAMOR」は創刊以来各号の巻頭で「Monthly Venus 防人たちの女神」と称して、グラビアアイドルが迷彩服着て戦闘機のコックピットで微笑みながら敬礼している、というような感じの写真グラビアを数ページずつ掲載しています。ちなみに最新号(5月号)の巻頭グラビアは佐藤江梨子。
 で、これを毎号見るたびに思い返すのが、映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」で、抜群のプロポーションの女性が露出度の高い迷彩柄の服を着て肩から銃を提げている、軍のPR用の映像が、批判的に引用されていたことなのです。同映画の中では、銃や軍隊に対する親近感を持たせ、市民社会に浸透させようとするプロパガンダの一例である、という程度のメッセージしか与えられていなかったように思いましたが、最近の「MAMOR」を見るたび、どうやらこの問題を掘り下げて考える必要があるのではないかな、と思えてきたのです。すなわち「銃と巨乳は親和的である」というテーゼについて検討する必要があるのではないかな、と。
 「MAMOR」の創刊号のグラビアは夏川純だったし第3号はサトエリだし、第2号も私がよく知らないグラビアアイドルだったんで名前は忘れましたが、ともかく3人とも、いわゆるグラビアアイドル、水着で写真の被写体となることを活動の主なフィールドとしている(いた)ような、特定ジャンルの芸能人であったと記憶しています。防衛庁/防衛省及び自衛隊の活動について、国民の理解と支持を深めようとするのがこの雑誌の目的であるならば、国民人口の約半数は女性であるのだし、女性グラビアを載せる必然性はないでしょう(例えば、巻頭カラーでKAT-TUNが基地案内してくれる号があったっていいじゃないか?)。
 そんなことを考えているうちに、「ボウリング・フォー・コロンバイン」で引用されていた軍のPR映像も、「MAMOR」の各号の巻頭を飾る女性グラビアも、単なるPRという意図を超えて、より深いところで、軍隊=国家が独占する暴力の本質を象徴しているのではないか、と思い始めた次第です。われわれは単に「戦闘美少女萌え~」などと安易な感想を抱くのでなく(苦笑)、軍隊という組織が先天的に内包するファロセントリックな暴力の欲求について、警戒するとともに、その仕組みについて深く知ろうとしなければならないように思うのです。

 さて、どっちかっていうと左寄りの涼風が何だって「MAMOR」を毎号読んでるのかっていうと、それもまた秘密ってことで(汗


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