涼風野外文学堂

文学・政治哲学・読書・時事ネタ・その他身の回り徒然日記系。

RPGツクールDS【使用上の注意】

2010年05月05日 | 日記・身辺雑記
 ♪三十路なのに中二病 三十路なのになぜか中二病

 ども。「心はいつも14歳(主にリビドー方面)」の涼風でございます。大変なご無沙汰をしてしまいましたがまあいつものことですよね!(開き直り
 いや、実は4月から担当業務が変わりまして、例年だと3月が殺人的に忙しくて4月暇だったのが、今年は3月が例年通り殺人的に忙しかった上に4月も新業務で忙しいという救いのない状況になっておりまして、更新が滞っていたのは決して3月末に買ってしまったRPGツクールDSのせいではありません。ありませんったら(説得力ゼロ

 ……と、いうわけで。文学的思考とはまったく無縁の数ヶ月を過ごしておりましたので、今日は軽めにRPGツクールDSの話でお茶を濁してみます(今回、分からない人にはまったく分からない話で申し訳ありません)。
 いやぁ素晴らしいですよねツクールシリーズ。PC版は正直「ふーん」「自分でプログラム組めば?」「アリスのシステム3.xでも良くね?」的気分にならないでもないのですが、これをコンシューマーでやってしまう度胸はやはり尊敬に値します。スーファミのパッドでちくちく文字拾ってた十数年前の日々が今でも鮮明に思い起こされます。
 そんな、スーファミ版から馴染んできたわたくしですが、プラットフォームがプレステ系に移ってからは、記録媒体の貧弱さなどの問題もあって、しばらくご無沙汰してました。そんな涼風がすごーく久しぶり、RPGツクールGB以来ですからおそらく10年ぶりくらいに手にとったRPGツクールDS、果たしてどうなっているのか?以下、つれづれに感想。

1.操作感覚は10年前と変わらない。
 イベント作成命令の組み合わせ方とかは、基本的に10年前、いや20年前のシリーズと基本的に変わっていません。10年ぶりに手にとったオールドユーザーですが、マニュアルに手を触れることなくいきなり作り始めても何の支障もありませんでした。

2.タッチペンは偉大。
 十字キーのパッドで文字入力していた時代を知る人間としては、タッチペンで初めて操作したときは「初めて火を見つけたサル」くらいの感動を覚えました(嘘)。冗談はさておき、タッチペンのおかげで、歴代のシリーズに比べて文字入力のストレスは格段に緩和されてます。あとなにげに、DSの利点として、起動が軽くセーブも軽い、という携帯機ならではのメリットが、子育て中のパパには強い味方です。

3.日本語変換の出来はいまいち。
 文字入力がストレスレスになったのに、残念なことに、かな漢字変換がストレスいっぱいです。予測変換の読み込みが重く、語彙が貧困です。ATOKのロゴが悲しく感じられます。

4.相変わらず容量不足。
 まあ、これは歴代コンシューマーのツクールシリーズを触ってきた人間なら、買う前から覚悟していることですよね。それにしても、フィールドマップを作ると全体容量の4分の1を食う、という仕様はちょっと引きます。例によって、ラスボスのセリフが1行長くなるたびに最初の村から村人が一人消える、というぎりぎりの調整を迫られます。

5.若干バグ多め。
 このへんもネット上で既に多くの同志が指摘していることですので、今更繰り返しませんが。いやしかし、ただでさえ容量足りないのに、イベント作成時のメモリ残量チェックにバグがあって、作れるはずのイベントで容量不足指摘されるのは勘弁してほしい。あと、船の上でモンスターに遭遇したときに戦闘後に音楽がフィールドに戻ってしまうのも(結局繰り返してる

 と、色々言ってみましたが、いや、全体的に今までのシリーズに比べてもいい出来だと思いますよ。
 とりあえずFull版で1本作ってみましたが、残念ながらWi-fiでコンテストに投稿できるのはDP版だけなんですよね。Fullですらこれだけ容量足りないのに、その半分以下の容量のDP版では、投稿作品が「一発ネタ」ばかりになってしまうのも仕方のないことかもしれません。
 とりあえずFull版の場合の容量節約のアドバイスとしては、新規にイベントを作成する際の容量の食い方が、既存のイベントのページ増やす際と比べて半端ないので、「フロアに入ったときの自動発生イベント」とかを独立で作成せず、「階段」とか「通行人」とかと兼ねてしまうのが吉です。それと、先述のバグがあるので、メモリ残量あるのにメッセージ入力中にメモリ不足指摘されてしまうときは、データベースから何か削って容量確保して(モンスターデータ等を紙にメモって一旦消してしまうのがお薦め)、イベント作ってから再びデータベースにさっき消したデータを入力し直すと、上手に容量使い切れます。
 あと、街や村はマップだけでデータ食いまくるので、なるべくダンジョンマップを活用しましょう。それと、建物や城や神殿を作るときは、不要な階段を思い切って消してしまうとけっこう容量稼げます。
 DP版は…まだちょっと触ってみただけなので分かりませんが、とりあえず、タイトル画面の画像は諦めるのと、戦闘時の武器や魔法のアニメーション表示を諦めるのは基本だろうと思います。
 って、おそらくほとんど誰の役にも立たないアドバイスですが、まあ、Bunちゃん見てますかー(超個人宛て

がんばれ若者。

2010年02月06日 | 時事・社会情勢
 最近、2歳の娘がNHK教育『ニャンちゅうワールド放送局』の「めがねのうた」をエンドレスで歌ってるので思考回路破壊されてます。それはパパが眼鏡萌えと知っての攻撃ですかそうですか。

 年末の話ですが、NHK教育テレビが「もう一度見たいETV50周年」とかそんな名前の特番組んでて(ゴールデンウィークに1回やった特集の焼き直しですが)、『おーいはに丸』だの『できるかな』だのといった昔の「名作」を放送してました。
 で、『はたらくおじさん』とか『たんけんぼくのまち』とか見ながら妻がふと、「こうやって見ると、昔の教育番組と今の番組って違うよねー」とか言い出すわけです。妻曰く、昔の教育番組は「早く大人になりたい」あるいは「どんな大人になりたいか」というメッセージが頻繁に含まれていたのに、最近の教育番組には、それがない、と。言われてみると確かに、最近の子供向け番組(娘のおかげで私もすっかり教育番組に詳しくなりました)は、子供である現在をありのままに楽しむことに主眼を置いていて、大人へ向かう一過程としての子供、という捉えられ方はされていないように思えます。

 ところで最近、涼風は通勤の車内でflumpoolの1st『What's flumpool!?』を聴きまくっております。年末の千葉テレビで『見つめていたい』のPVが流れてるのをふと耳にして、すっかり気に入って買ってきたのですが、まあ、こんな若い子たちが(とか言ってしまえる歳になってしまいました)、今時こんな古典的なバンド・スタイルの音楽を作っていることにまずはびっくり。ドラム&ベースのハードな作り込みと、だだ甘のメロディーライン&歌詞のギャップというか、危ういバランスが心地よいです。ただ、とにかくドラムが上手すぎるので、却ってこのバランスがいつまで保てるか少々不安。
 って、今回は音楽の話というより、歌詞の話なのですが。上記アルバムの最後に収録されている曲『フレイム』は、就活応援サイト「マイナビ2011」の「就活応援ソング」なんだそうです。応援ソング、なんていうフレーズからは前向き一直線な印象を受けますが、実際のところは

 走った分だけ 磨いた分だけ すべて報われるわけじゃない

 とか、平気で後ろ向きな歌詞を歌い上げています。

 所謂「リーマン・ショック」以後、就職難が再びクローズアップされています。政治家の皆様は「第二のロストジェネレーションを作らない」とか息巻いてますが、その言い方ではすっかり見捨てられたこと確定となる、第一次ロストジェネレーション真っ只中の涼風としては、何だか他人事とは思えません。
 企業が採用枠をぐっと絞ってる中で就職活動を続けるというのは、結構精神的にしんどい作業です。自分自身を商品として、誰も買ってくれない中で飛び込み営業を繰り返しているようなものです。「買わないよ、邪魔だ、帰れ」と何度も門前払いを食いながら、それでもなお「労働力いかがっすかー」と売り歩く訪問販売です。何度も拒絶され、否定されていくうちに、こうまでして働く価値があるのか、こうまでして生きている意味があるのか、みたいな「就活うつ」に陥る事例も、少なからずあるでしょう(実際、私はなりかけました)。
 そのうえ、少なくとも私が就活していた頃は、周囲もむやみに「頑張れ」を繰り返すわけです。振り返れば就活に限らず、受験でも何でも、「大丈夫だ、お前はやればできる、頑張れ」的な応援というのは涼風の身の上に繰り返されてきた出来事であって、それは重圧となって、あるいは理想と現実のギャップとなって、若かりし頃の涼風を苦しめてきた出来事であったわけです。
 そう考えると、今就活に向かう、涼風より一回り若い世代の人々は、「頑張っても上手くいかないことがあることを知っている」分だけ、涼風たちの世代より強くなれる可能性がある、のかもしれません。少なくとも、flumpoolが歌うように、拒絶され、否定され、傷つき、疲れたとしても、そんな経験もひっくるめて全部自分を肯定できるように、そっと支えて応援してくれる雰囲気があるのであれば、「第二のロストジェネレーション」などとあまり悲観しなくてもいいのかもしれません。
 『はたらくおじさん』的な将来が唯一絶対の正解ではないのだ、ということを、涼風の世代の場合はある程度大人になってから知らされてがっかりしたわけですが、今の大学生くらいの人たちは、そんなことにはずっと子供の頃から気づいてるんじゃないかと思うのです。

 指で創ったフレイムを覗きこめば
 遠くで手を振る 真っ白な僕がいる
 くたびれたリュックは空っぽのまま
 それでも微笑(わら)って Yesと答えたい
 自分で良かったと思える瞬間
 この世に出会えて良かったという瞬間
 自分で良かったと叫びたい瞬間を追いかけて歩く
 生きてゆくよ

 『フレイム』の歌詞のクライマックスを引用して終わっときます。
 頑張れ、あるいは、頑張るな、若者。

歴史を逆回しに学んでみる、という発想。

2010年01月15日 | 日記・身辺雑記
 中学・高校の頃、日本史や世界史の授業のたびに、どうしてサルの時代の話から始めなきゃならんのか、と思っていた記憶があります。歴史を古い順に学んでいく作業は、中学生男子的には、さっぱり面白くない。戦国時代くらいに達すればだんだん面白くなることが分かっているとしても、そこに至るまでがとことんウザい。もう平安時代飽きたヨ、とか言って教科書の角にパラパラ漫画を描き始めることになるわけです。
 さすがに当時よりは年を取って分別をわきまえまして、歴史というのは連続性の中で理解しなければならないから、順番を入れ替えたり美味しそうなところだけつまみ食いしたりしたのでは歴史の上っ面しか理解できない、という事情は分かりました。しかしながら、中学校で歴史を学んだ子がみんな歴史研究者になるわけではないのですから、多少の逸脱は見逃してもらえないものだろうか、という気持ちは拭えません。

 阪神・淡路大震災から、まもなく15年になります。当時私は高校生で、横倒しになった高速道路の橋脚の映像にショックを受けて、訳も分からないなりに、部活の仲間に働きかけてなけなしの小遣いをかき集め、義援金を送りました。そんな感覚がつい先日のことのように思い出されますが、冷静に考えれば、これはもはや「現代史」として教えられるべき出来事になりつつあります。
 例えば、2歳になった私の娘が中学生になる頃には、きっと歴史の教科書の最後の方には、阪神・淡路大震災もそうですし、ソ連の崩壊も地下鉄サリン事件も、9・11テロだって、歴史上の出来事として記されているのでしょう。それらの物事を、今後、どのように娘に教えていくことができるのか。少々気が早い話ですが、そんなこともぼつぼつ考えていかなければいけないような気もしています。
 そう考えると、歴史というのは、個別の出来事の羅列ではなく、連続したひとつの流れとして今・ここにまで繋がっているものであるから、逆に「今・ここ」を基準として、歴史を遡りながら学んでいく方が、却って理解しやすいのではないか、という気がしてきました。最近の出来事から順に、次第に過去へと向かいながら、歴史を学ぶ。そうすれば、明治維新が、徳川幕府が、現代に繋がるどのような仕組みを産んだのか、理解できようというものです。…学生時代にこういうことに気づいていれば、もう少し日本史や世界史の成績良かったと思うんだけどな。

 そんなこんなで、最近の涼風は「あの戦争」の辺りまで遡ったところで思考停止中で、手塚治虫『アドルフに告ぐ』とかこうの史代『この世界の片隅に』だとかを読みながら若干涙腺ウルウルさせております。

 遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
 今年も当ブログをよろしくお願いします。

未だに「純文学」という幻想を捨てられない人々。

2009年12月25日 | 読書
 先日のエントリの末尾で触れた、大森兄弟『犬はいつも足元にいて』を読んでみました。感想としては、新人賞を受けるに相応しい力量と完成度を備えた作品であることは確かですが、反面、新人賞受賞作としてはもったいないことに、小さくまとまりすぎている印象を受けます。「純文学では珍しい、兄弟による合作!」なんていう新聞記事的煽りに乗せられて変な先入観を抱いて読んでしまった私がいけないのですが、それにしても、

「文学は個人の自我の発露である」という旧来の文学観は音を立てて崩れ去る。
ぜひ読んで驚いていただきたい。――斎藤美奈子氏

※河出書房新社ホームページより転載

 などとおっしゃる方は、失礼ながら、町田康や中原昌也なんぞお読みにならないのでしょうかね、と尋ねてみたくなってしまいますが。

 既に清水良典は10年以上前から「純文学」に代えて「純文章」を、と提唱していますが、そのネーミングセンスの是非はさておき、問題としたい部分は理解できます。要するに「純文学」というカテゴリーが、既に十分に相対化され、無化されつつあるにもかかわらず、書き手の側にそのことへの危機感がないことへの苛立ちです。
 文学は個人の自我の発露である、的幻想が通じない程度に、今や「個人の自我」なんて口走るのが恥ずかしくなるくらい、われわれのアイデンティティは希薄で、分散化したものになっています。そのことに気づいた鋭敏な書き手は、すでに「拡散したきり、集束しない」作品を多く世に問うているのであって、その意味で「文学は個人の自我の発露である」という旧来の文学観、などというものは、大森兄弟の登場を待つまでもなく、もうとっくに崩れ去っているのです。

 ……冒頭の作品の感想に話を戻しますが、この調子で年に10作書くか、逆に、この調子で3年かけて10倍の長さの作品を書くか、どちらかができれば、大森兄弟は「本物」だと思います。それができなければ、無駄に猛スピードの現代社会の中で、この優れた才覚も埋没してしまう危険を孕んでいると思います。いずれにせよ、この1作のみで判断するのは難しく、要経過観察、といったところです。

Google日本語入力は文学を変革するか?

2009年12月10日 | 文学
 Google日本語入力をインストールしてみました。予測変換が鬼過ぎると方々で噂になっていますが、早速試してみます。有名どころでは

ぱんつじ → パンツじゃないから恥ずかしくないもん
ひとがご → 人がゴミのようだ

 なんてのが世のヲタどもの感涙を誘っていますが、

むだむ → 無駄無駄無駄無駄無駄無駄
くりり → クリリンのことか
のびたの → のび太のくせに
おやじに → 親父にもぶたれたことないのに

 のようなクラシックなところにも対応していますし、

よーし → よーしパパ特盛頼んじゃうぞー

 とか、

あなたと → あなたとは違うんです
それなん → ソレナンテ・エ・ロゲ

 辺りはさすがに吹きそうになりました。

 さて、このままでは単なる2ちゃん支援ツールになってしまうので、仕事で使えるものかどうか、一例として法律用語の予測変換度合いをうかがってみますが、

ごうけんげ → 合憲限定解釈
きょうどうふ → 共同不法行為
ひさいべ → 非債弁済
だいしゅ → 代襲相続
こうせいよ → 構成要件
みひつ → 未必の故意
きょうどうせい → 共同正犯
じじょうは → 事情判決
げんこくて → 原告適格

 さすがにヲタ語に比べるとそんなに凄くはない。
 とはいえ、

そんぞくさ → 尊属殺法定刑違憲事件
やくじほう → 薬事法薬局距離制限規定違憲事件

 辺りは大変なことになっています。

 現代思想のテクニカルタームを試してみますと、

じつぞ → 実存主義
こうぞうし → 構造主義
ぽすとこ → ポストコロニアル
ぽすとこ → ポスト構造主義
ぽすとも → ポストモダン
ふらんくふ → フランクフルト学派

 とか、

じょうぶこ → 上部構造
せかいな → 世界内存在
るさん → ルサンチマン
あんがー → アンガージュマン
だつこ → 脱構築

 とかいった感じで、まあまあじゃないでしょうか。

 さて、これで「感動した。おわり」として今日の記事を終了してもいいのかもしれませんが、今回Google日本語入力を試してみた最大の目的は、この操作感覚が自分の文章にどのような影響を及ぼすものか、確認してみたかったことにあります。
 というのも、インターフェースの進化は世間で流通するテクストの文体に、確実に影響を及ぼします。このように、予測変換が常に文書作成をサポートしてくれるようになると、予測結果をまったく見ずに文章を書くわけにはいかなくなるでしょう。インターネットという巨大なデータベースから引き出されたボキャブラリーと、その人独自の傾向とが混在しながら、その人に「最適な」文書作成環境が整備されていきます。それは果たしてその人が「自分で書いた」文章といえるのでしょうか。ここにも、ウェブ時代のアイデンティティの拡散が見て取れます。
 音楽の世界では、既に小室哲哉がこのような経験をしてきています。機械のサポートを受けながら定型パターンの組み合わせ方をただ延々と組み替えていくことによって作成される音楽。私は、文学も今後そのようになっていかざるをえないのではないか、という気がしていて、Google日本語入力の登場は、もしかしたらそのような「文学の新時代」を暗示させる、象徴的な出来事なのかもしれない、と思い始めているのです。
 長らく、近代文学とは個人の内面を描くものである、というような幻想が支配的であったのですが、しかしこの幻想は実はもうとっくに崩壊を始めているのであって、われわれはそれに気付いていないだけなのではないか。Google日本語入力は、そのような「近代文学の崩壊」を目に見えるものとして進める、その第一歩なのではないか。そんな気がしてならないのです。

 ……とか偉そうなこと言いつつ、まだ大森兄弟の文藝賞受賞作も読んでいないワタクシですが。

雑感(2題)。

2009年11月21日 | 時事・社会情勢
 政治・行政ネタは少し減らそうと心がけていたのですが、そうしたら書くことが何もないことに気づきました。本読め自分。

【お題その1:事業仕分け】
 事業仕分けの実態が財務省主計局主導であることは、実は大した問題ではありません。(今までほとんど注目されることのなかった予算査定作業を、公開の場で、注目を集めて行うことだけでも意義がある)
 事業廃止等の決定理由が一面的に過ぎるとか、言い分を聞いてくれないとかいうのも、実は大した問題ではありません。(公費で行う事業である以上、どの事業にも公益があり、なかなか廃止し難い事情があるのは当たり前。それを強引に選別し、経営資源を一極集中するための手法が事業仕分けなのだから、切られる側にとっては強引に・一方的に切られるのはむしろ当然のこと)
 最大の問題点は、すべての事業について行わなければ意味がない作業を、一部の事業についてだけ実施していることであって、この「仕分けを行う事業と行わない事業の選別」が必ずしも透明な手続で行われているとは言いがたいところが、今回一番まずいところです。

【お題その2:カツマーvsイケノブ】
 うん、べつに、どっちでもいいですが。
 インフレターゲット論なんて、私が大学在学中ですから、そうですね、もう十年も前に、ほとんど終わった議論だと思ってました。
 別に政策の是非を云々するんじゃなくて、単に技術論としてですが、この超低金利の状況で中央銀行が人為的にインフレ起こす手立てが何かあるのかどうか。単に紙幣たくさん刷れば貨幣価値下がる、みたいな単純な社会構造でないことくらい、さすがに素人の私でも分かります(信用取引がこれだけ高度化した社会で、実体貨幣の流通量はそんなに大きなファクターじゃない)。ジンバブエみたいに国内産業崩壊させればインフレ起こるかもしれませんが本末転倒。

英語が「読めない」日本人?

2009年10月26日 | 政治哲学・現代思想
 前回のエントリで、とある行政法の先生の書き物について触れました(誤解のないように申し上げておきますが、実務家出身の研究者として、机上の空論ではなく実務の用に耐えうる研究成果を多数発表しておられ、その業績は高く評価されてしかるべき先生です。しかし、だからこそ、重箱の隅をつつかれることもあろうかと)。その後同じ文章を読み返していて気づいたのですが、引用・参考文献が、ほとんど日本人の著者によるものに占められ、海外の論文は翻訳ものを含めてもごく少数、日本語以外の言語による文献は皆無でした。もしかしてこの先生英語読むの苦手かしらん、と思うと、若干の同情を余儀なくされます。
 政治学、政治哲学は、基本的に英語圏の学問なので、一次文献として英語で書かれたものに当たらないと、事の正否を論ずることさえできません。リバタリアニズムについて語るのに、ハイエクもノージックも読んでない。コミュニタリアニズムについて語るのに、サンデルもマッキンタイアも読んでない。公共哲学について語るのに、アーレントもハーバーマス(おっと、これはドイツ語圏だ)も読んでない。これでは、一般人や学生向けに語るには耐えられても、研究者仲間からは相手にされないと思います。

 涼風は大学の法学部なんてところを出ておりますので、第2外国語と言えば、ドイツ語かフランス語と相場が決まっていました。時勢を汲んで中国語を学ぶ人も最近では多数に上りますが、伝統的な学問の風潮からは、ドイツ語かフランス語、最低でもどちらかを学んでおかないと、馬鹿にされます。
 それは結局、この国の法律の成り立ちからして、基本的な文献に当たり、あるいは、比較法学的な立場から日本の法制度を概観する際に、どうしてもドイツ語かフランス語の論文を読まざるをえなくなることを意味しています。いわゆる「法曹」として現場に出て、ナマの法律事件を扱うなら、中国語や韓国語、タイ語、ポルトガル語なんかが扱えた方が便利でしょうが、研究者の道に進むのであれば、ドイツ語かフランス語です。
 ちなみに、政治学を学ぼうとするのであれば、とにかく英語です。隣接学問としての哲学を学ぼうとするならやはりドイツ語かフランス語が(より深く学ぼうとするなら、さらにラテン語が)必要になるでしょうが、政治学の重要文献の出典は、そのほとんどがアメリカに集中しています。

 このように考えていくと、やはり外国語を「読む力」というのは、学問を究めんとする人々にとっては必要不可欠なのだな、と思えてきます。そのような観点から、昨今の英語教育を巡る議論などを見ていると、「使える英語」に拘泥し、リスニングに重きを置きすぎるあまりに、リーディングの教育が疎かになってしまうのではないか、との懸念が浮かびます。(いずれにしても、小中学校の9年間のうちごく限られた時間を英語教育に充てたくらいで、外国語が使い物になるレベルに達するとは思えないのですが)

日本におけるリバタリアニズム?

2009年10月20日 | 政治哲学・現代思想
 個人的には、リバ=コミュ論争なんてのは「既に終わった話」だと思っています。それなのに、日本国内のブログやメディアなどでは、未だに「リバタリアニズム」という単語を見かける機会が少なくありません。
 今日も仕事の関係で、とある行政法の先生(その業界では有名な方です)の書いた文章を読んでいて、「最近の行政法制度の改正を理解するには、その背景にある哲学をも読み解かなければならない」という話から、具体的には指定管理者制度(地方自治法244条の2)を挙げて、「その背景の思想として、リバタリアニズム、ネオ・リベラリズムといった、NPM理論の基礎となる哲学を理解しなければならない」のような話が展開され、そこからリバ=コミュ論争の紹介(しかも、ところどころ間違ってる)に発展したところで、のけぞりました。あんまりびっくりしたので、70年代のリバタリアニズムも80年代の小さな政府論も90年代の新自由主義も一緒にするな、という点から、70年代アメリカ政治学の停滞とロールズ『正義論』の登場がいかにセンセーショナルであるか、ゆえにノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』でこれへの反論を試みたこと等について、つい同僚に講義してしまいました。

 ノージックが「自由至上主義(リバタリアニズム)」という語を用いたのは、アメリカ政治学の用語における「リベラル」(これの対義語は「コンサーバティブ」です)の射程を超えていることを主張したかったためと思われます。
 『アナーキー・国家・ユートピア』が世に出されたのは1974年のことです。60年代後半から70年代前半のアメリカを想像すると、例えばウッドストックであったり、ヒッピー・ムーブメントであるというようなイメージをもって、理解する必要があると思うのです。
 したがって、これをリバタリアニズムの中心的理論と位置づけるのであるならば、その背景に、体制的なものへの警戒感があることを理解しなければいけないと思うのです。だからノージックは「何故アナーキーであってはいけないのか」を議論のスタートに置き、アナーキーとの対比で最小国家の正当性を肯定する。
 ところが、今日の日本における「自称リバタリアン」たちは、こうした警戒感をまったく抱くことなく、単に「市場への信頼」を言うために「リバタリアン」を自称する傾向が、強いように思います。90年代以降のいわゆる新自由主義が新保守主義と親和的であったことが示すように、単純に国家的規制を緩和し市場の自由に委ねると、実は、官民問わず多くの組織は肥大化し、体制は堅固化し、これに対峙する個人の無力さは「それはそれで自己責任」として切り捨てられる結果になります。ノージックはこの点について警戒心を抱いていて、だからこそ最小国家の先に「ユートピア」を構想したのですが、この点の是非について論じるリバタリアンを日本でついぞ見かけないのです。

 そう考えると、昨今の日本で語られる「リバタリアニズム」は、もはやノージックがその語を用いたときとはまったく別のものを指し示すものになっているのかもしれません。日本独自のリバタリアニズム、と言えば聞こえはいいですが、もしかしたら、思想と呼べるほどの一貫性がない(どちらかといえば「信念」や「信仰」に近い)類のものに、ただ名前だけを付けて満足しているだけかもしれない、と思うと、多少やるせない気持ちになってきます。

 結論:ノージックはお前らよりもう少しちゃんと物事考えてるからしっかり読め。

ウイスキーを飲む余裕。

2009年10月05日 | 日記・身辺雑記
 馬頭親王氏のブログの9月28日付けエントリ辺りを読むにつけ、そういえば最近ウイスキー飲んでないナァ、などと遠い目をしてしまいました。
 根っからアル中の涼風ですから、酒を飲んでいないわけではなくて、毎晩缶ビール1本くらいは空けるようにしているわけですが、冷静に考えてみると、ここ数ヶ月、ビール以外の酒を口にしていないような気がしてきました。
 涼風はウイスキーが大好きです。いや、もちろん、ワインもブランデーも紹興酒も焼酎も大好きですが、その中でも、ウイスキーは別格です(ちなみに、ビールについては、もはや好きとか嫌いとかの次元を超えて、三度の飯を食うのと同じ感覚で、日常の一環に入り込んでいます)。
 しかし、大好きだからこそ、多忙の合間を縫って飲むものじゃない、という変なこだわりがあります。ビールなら、大騒ぎする娘に夕飯食わせながら片手間で飲み干すことができますが、ウイスキーではそうはいきません。ウイスキーは、家族が皆寝静まった夜半に、一人で静かに飲むものです。普段水やジュース飲むのに使ってる3個500円の無印良品のタンブラーではなく、底がどっしりして飲み口の薄い、ロイヤルドルトンのウイスキーグラス(といっても、涼風の安月給では正規品は買えないので、気泡が1個入ってしまったB品ですが)でなければなりません。

 このように考えていくと、最近ウイスキーを飲んでいない、というよりは、最近ウイスキーを飲むような心のゆとりを欠いている、ということなのかな、という気がしてきました。と同時に、ウイスキーが好き、というのは、ウイスキーの味が好きということよりも、ウイスキーを飲む、ということに付随して自分で用意するあれこれが好き、ウイスキーを飲んでいる時間が好き、という、一種の儀式みたいなものであることが理解できてきました。
 学生時代、あるいは社会人になって名もない頃、小説書いたりウェブサイトに乗せる書評書いたりしていたときに、傍らにウイスキーが置かれていたころを思い返してみると、最近の自分の書き物にどうも色気がなくなってきたような気がするのは、このような「ウイスキーに象徴される余裕」を失していることによるのかもしれません。

 そんなことをつらつら考えているうちに、無性にウイスキー飲みたくなってきたので、妻と娘が寝入ったところを見計らって、とっときのバランタイン(21年!)をお気に入りのロイヤルドルトンに注ぎ、ちびちび舐めながらこのエントリ書いてるわけですが、冷蔵庫を開けて気の利いたチーズのひと欠けも見当たらないことに愕然としました。日常的にウイスキー飲んでた頃なら、チーズとクラッカーとナッツ類は切らさなかったのにな。
 そんなわけで今日の酒のアテはオムレツ。全然贅沢な気分になれねぇorz

大事なのは世襲制限じゃなくて。

2009年09月28日 | 時事・社会情勢
 一部で「史上もっとも注目されない総裁選」などと揶揄された自民党総裁選ですが、実はこっそり注目してました。正直、やる前から結果の見えてた衆議院議員選挙などより、よっぽど注目してました。それだけに、結果を見て「うん、まぁ、そんなもんか」と軽い失望を覚えたのも、まあ自業自得といったところでしょう。
 どこに注目していたかというと、河野太郎が、議員票をどれくらい取れるか、というところです。蓋を開けてみると3候補中最下位の35票という結果で、ああ、野党になったからってそんな簡単に変わるもんじゃないんだなぁ、と慨嘆するに十分でした。

 衆院選での惨敗を受けて、自民党の国会議員の年齢構成がいびつになってしまったことは、多くのメディアが指摘しているところです。派閥の領袖クラスを含むベテラン議員が、小選挙区でことごとく敗れた結果、比例区でこれらのベテラン議員ばかりが復活当選し、名簿下位の若手議員まで椅子が回ってこなかった、というお話です。
 しかし、であるからこそ、ここは国民にアピールするチャンスであったと思うのです。
 小選挙区制が導入され、世論のちょっとした動向が思いもよらぬ議席数の変動に影響する、そんな状況だからこそ、小泉純一郎はあえて、特定郵便局長という自民党最大の集票マシーンを「ぶっ壊す」ことによって自民党を延命させることに成功したのだし、その後を継いだ3人はまったく「風を読む」ことができず、旧来の自民党的なものの考え方に掴まって、ただ党勢が衰退していくのを指をくわえて見守ることしかできませんでした。
 今回自民党は衆院選で大敗し、野党になりました。前回(一時的に)野に下った時とは異なり、過半数を失っただけでなく、最大政党でもなくなったことで、政権に返り咲く展望は、短期的なスパンでは描くことができなくなっています。
 つまり、今誰が自民党総裁の座に就いたとしても、それは(河野洋平が総裁になった時と比べてもさらに絶望的なまでに)総理になる可能性の乏しい総裁です。
 もっと言ってしまえば、ここで総裁になった者が多少何かをやらかしたからといって、今の自民党に失うものなどありません。野党である自民党は、積極的にリスクを取りに行くことのできる立場です。このタイミングで、いちばん無難な候補を選んでどうするのか、と問いたい。
 河野太郎は、今の自民党の中では数少ない、「とんがった」政治家であると思います(良くも悪くも)。一国の首相としてはそれではいけないのかもしれませんが、野党第一党の党首なら、それでもいけると思うのです。
 もしかしたら、前原誠司が民主党の代表を務めたときの偽メール問題のように、派手なやらかしをしてしまうかもしれない。しかし、その時にこそ、谷垣禎一のような「無難な人材」への取替えが可能なのであって、先に無難な人材を使ってしまったら、その後反転攻勢に出ようとしたところで、そう簡単には、とんがった人材への取替えはできないと思うのです。


 私が「自民党はもう駄目かもしれない」と思ったのは、衆院選よりもう少し前、世襲制限が与野党間で話題になっていた頃のことです。この問題に対する対応は、民主・自民どちらも的外れであったと思いますが、自民党の某ベテラン議員が、世襲制限に対して、「憲法が保障する職業選択の自由に反する」と真顔で言っていたことです。

それ言うなら職業選択の自由じゃなくて参政権だろ。

 国会議員はいつから「職業」になったのでしょう。アーレント風に言えば、彼らは政治の場で活動actionをするのではなく、仕事workをするのだと明言しているのです。それはもはや公的領域の行為ではなく、当該議員自身の必然性に裏打ちされた、私的領域の出来事です。
 まさにこの議員は「政治家」ではなく「政治屋」であることを自ら告白したのであって、職業的に、自らの食い扶持のために議員であろうとしているだけであり、国家の舵取りを担う覚悟など、微塵もないことを明らかにしているのです。
 出自が世襲かどうか、など問題ではありません。世襲、即、無能、と決まったわけではない。ただわれわれは、「政治屋」ではない「政治家」にこそ、国政を託したいのです。われわれは世襲を批判しているのではなく、世襲議員が政治の世界を私物化していることを批判しているのです。

 もう少し補足すれば、世襲問題とは「世襲議員が多すぎるから、世襲の候補者が立候補できなくすべきだ」という「間口を狭める」問題ではなく、「世襲議員が多すぎるから、世襲ではない候補者がもっと選挙で戦える下地を整えるべきだ」という「間口を広げる」問題として捉えなければならなかったと思うのです。
 この問題を突き詰めると「サラリーマンが立候補できる仕組みづくり」を考えなければいけない、という話になるのですが、既に話がだいぶ逸れてきて、今回のエントリの趣旨から少し外れてきたので割愛します。

 とりあえず、野党になってもまだ、国会議員を当選回数でランク付けしたり、派閥の論理で物事が動くと思っているうちは、自民党は過去の栄光を懐かしむ敬老クラブとしての機能しか果たさない、と、あえて苦言を呈しておきましょう。今までの自民党政治の中で当たり前だった物事をいったん取り払い、自民党の骨組みを根幹から考える。野党となった自民党に求められているのは、そのような「自民党を見直す」作業であり、ここでは谷垣禎一という食事療法より、河野太郎という劇薬を投じるべきではなかったのかな、と思うのです。少なくとも、旧体制の破壊、という効能については、この劇薬はきっと効いたんじゃないかな(その後の骨格形成に効くかどうかは未知数ですが)、と思うと、つくづく、今回の総裁選の結果は残念でなりません。