涼風野外文学堂

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障害者自立支援法(4)~平等の次のステージへ~

2006年10月25日 | 政治哲学・現代思想
 懲りずに第4弾です。いい加減他の話題も書きたいのでってじゃあこんなん書くなよ俺。と自らツッコミつつ「同じ話題で何回か続ける」というスタイルも一度やってみたかったので続けてみます。ちなみに第1回はこちら第2回はこちら第3回はこちら




 ポジティブ・アクションへの攻撃の口実に「公平」や「平等」が使われるのは今に始まった話ではない。ポジティブ・アクションというのは、例えば何かの委員を選出するときに「女性を何割登用する」とあらかじめ決めておくことや、大学の入学試験や奨学金で人種別の枠を設けるなどの活動であるが、こうした活動に対し「機会の均等に反する」との批判は根強いものがある。
 ここでは、近代的な人権概念の成果を象徴するかのような「自由」や「平等」が、現実に弱い立場に置かれている人々の発言を封殺する作用を成している、という逆転現象が生じている。一貫しているのは、個人を独立した主体として観念し、その自己決定権が侵害されることのない自由に置かれることこそが真に平等である、という、素朴な新自由主義的発想である(こうした発想には、「自律的な主体」という前提条件事態がフィクションに過ぎない、という批判を加えることができるが、本稿の趣旨からは割愛する)。
 これに対し、弱い立場に置かれた者の権利を擁護する側の言説からは、効果的なものが現れ出てきていないのではないか、という危惧を感じる。例えば、マイノリティ問題やフェミニズム、ホームレス支援や犯罪被害者支援といった言説の中でも、平気で「自己決定権」という用語が顔を出す。これは新自由主義的批判の格好の餌食である。
 このような事態に直面し、今なお頼ることができる(しかし非常に頼りない)拠り所は、「語ることのできないサバルタン」のか細い「声なき声」に「耳を澄ます」こと、言い換えれば、全き他者へのインタレストしか有り得ないのではないか、というのが、私の持論である。

 話を障害者自立支援法に戻そう。この法律の問題点をもう一つ挙げると、「保険でもないのに、保険の装いをしている」ことである。
 前回も触れたような「財政上の事情」があって、障害者自立支援法はとにかく「総額を抑制すること」「持続可能な制度とすること」を最優先に組み立てられた。その最終的に目指すところは、「介護保険制度との統合」であるのは、有名な話である。
 ここで、「介護保険はメジャーな問題だが、障碍者はマイノリティ問題である」と言ってしまえば語弊があるだろうか?なるほど、例えば千葉県の統計を見れば、介護保険法に基づく要介護認定を受けた者と、障害者手帳等受給者との数を比較した場合、それほど違いがあるわけではない。どちらかが多数でどちらかが少数と言うほどではないかもしれない。
 しかし、介護保険は基本的に「国民皆保険制度」である。65歳以上になれば無条件に被保険者となるし、多くのサラリーマンは40歳以上になれば被保険者である。日本国民である以上、法に基づき自動的に被保険者となり、保険料を納入する義務を負うことと引き換えに、自らが要介護状態となった場合に、その保険料を財源とした、法に基づくサービスを受給することができる。
 最も身近な「国民皆保険制度」の例である、医療保険と比較して考えてみよう。医療保険も保険料が国民から徴収され、代わりに病気等の際にその加療に保険が適用されるために、自らの負担は少なくてすむという制度である。同じ保険料を払っていても、年に何度も病気をして医者にかかる人と、年間通じて健康体で一度も医者にかからなかった人とでは、この保険制度から実際に恩恵を受けた度合いはまったく異なるのである。これは不平等だろうか?そんなことを言い出す者はいまい。なぜなら、保険とは本来が「転ばぬ先の杖」であるからである。昨年はたまたま医者にかからなかっただけで、今年はこの人が、思わぬ大病を患い加療に多大な費用を要するかもしれない。可能性はすべての人に開かれている。だから、そのリスクを国民全体でシェアしようというコンセンサスが生まれるのである。
 介護保険制度はどうだろうか。介護保険によってシェアされようとするリスクは、加齢による運動能力その他の体機能の低下が著しくなり、日常生活に支障をきたす事態である。このようなリスクが国民共通のリスクとして観念されるようになったのは、医療技術の向上、さらには少子高齢化(なお、少子化それ自体は特段悪いことではない、というのが私の持論であるが、ここでは詳細な議論は避ける)により、国民の中の相当数にとって、「要介護状態となる」というリスクが現実味を帯びたことによるのである。
 このようなコンセンサスがないところでは、国民皆保険制度は成立しない。

 それでは、障碍者となることのリスクは、国民共通のリスクとして観念され得るのか?もちろんすべての人にとって、何らかの事故や疾病により、明日にも障碍者となることの可能性は、常に開かれている。しかしそれは、加齢というファクターがもたらすリスクである介護保険制度とは異なり、多くの人にとって現実味を帯びないものである。加えて、そのような「国民全体のリスク」として障碍者問題を観念することそれ自体が「先天的な障碍者への差別」と親和的である。
 現状では、障碍者福祉を国民全体のリスクとして皆保険制度により全体でシェアする、というコンセンサスを形成するのは困難ではなかろうか。その意味合いにおいて、障碍者問題とは、現状、一種のマイノリティ問題なのである。

 そのような理由によるのか否かは判然としないが、ともかく、今回の障害者自立支援法制定の段階では、介護保険制度との統合はひとまず見送られた。
 問題は、介護保険制度との統合が見送られたにも関わらず、将来の統合を見越して、介護保険制度と「中途半端に似せた」制度となっているところである。
 介護保険は国民皆保険制度であるから、被保険者が一定の保険料を負担し、いざ要介護状態となった場合には保険適用により自己負担を緩和する、というのが基本の組み立てである。であるからこそ、自己負担が「定率1割」であることにも制度設計上の(一応の)合理性を認めることができる。
 ところが障害者自立支援法は、保険料収入を念頭に置いた特別会計ではなく、あくまで国・県・市町村の負担により、つまりは一般の税収を財源としている。それにもかかわらず、自己負担を定率1割とする部分だけは介護保険と共通である。そこには何ら一貫した考え方のない、言うなれば「哲学なき制度」である。
 これは非常に気味の悪い「ねじれ」である。そもそも、行政上のカテゴリーとしての《障害者》とは、憲法において保障される生存権の実現のため、公的支援を必要とする者を分別するための括りであったはずだ。それなのに、そのカテゴリー分けだけが一人歩きして、皆保険制度の枠組みに取り込まれる。これでは、わざわざ《障害者》というカテゴリーを作ってそこに放り込んだ上で「お前が障害者なのは、お前の自己責任だ」と言っているようなものではないか。

 再度、前々回の問いを繰り返さねばなるまい。障碍者とは誰か?
 今回の障害者自立支援法は、障碍者の実態に即さない制度である。そのことを指摘するのはいい。あらゆる障碍者は、個人として尊重されなければならない。それもいい。しかしそのような主張を声高にしていくことが、却って「平等」や「自己責任」の新たな陥穽に自ら突き進む結果となりはしないか。そのことを意識し、真に「声無き者の声」に耳を澄ますため、新たな戦略を検討すべき段階に来ているのはないか。そのような観点から今一度批判を構築しなおさなければ、障害者自立支援法という醜悪なキマイラが内包する根深いねじれに、対応することができないように思うのである。




 ……ふう、やっとここまで来たぞ。
 あと、国が面倒見切れないものを見捨てる手段として「地域」を持ち出すのもいい加減やめてくれないか、という話もあるのですが(これは介護保険法にも共通した問題。介護保険法では「地域支援事業」、障害者自立支援法では「地域生活支援事業」という、名前も中身もよく似た制度があります。制度、というほどちゃんとした制度ではありませんが)、そのへんを深く話すと次回で終わらなくなるので割愛。
 次回こそは千葉県のいわゆる障碍者差別禁止条例について語ります。次回で完結します。つーか、完結させます。必ず。終わらなくても終わりにします。


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