涼風野外文学堂

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障害者自立支援法(2)~障碍者とは誰のことか~

2006年10月18日 | 政治哲学・現代思想
 10月16日付け記事『障害者自立支援法(1)~発端~』の続きです。よろしければ前回記事から続けてお読みいただければ幸いです。




 ところで、障碍者とは誰のことだろうか。これは少しばかり卑怯な問いかけであるが、それだけにラディカルな問いであるともいえる。というのも、ある種の差別や不平等について語ろうとするとき、必ずつきまとう問いであり、しかも、これに正面から回答することは、常に少なからず「何かを切り捨てる」ことを要求している。
 例えば先の問いを少しアレンジして「女性とは誰のことか」と問いかければ多くのフェミニストに困難な問いを突きつける結果となるし、「ニートとは誰のことか」「ホームレスとは誰のことか」「もてない男とは誰のことか」云々。いずれにせよ、包括的な議論を行うにはある程度の抽象化を免れ得ない事象であるところに具体化を求められるから無理が生じるのだが、逆に言えば、現実の問題に対応しようとしたときに、具体的に当てはめることが常に困難であるというアポリアを、これらの「現代的な人権問題」は包含しているのだ。
 再度考える。障碍者とは誰のことか。
「ノーマライゼーション」や「ユニバーサルデザイン」のような思想の究極目標(それは究極的には到達不可能な目標かもしれないが、常にその目標の方向に向かって運動を続けることに意義があるだろう)は、障碍者というカテゴリーそのものを無化することである。現在「障碍」と呼ばれているものを「個性」と呼ばれるレベルで扱うことができる、そのための下地を整えるのが、例えばユニバーサルデザインという発想であろう。
 他方で、現実に目を向ければ、他者の介助がなければ日常生活に支障をきたすような「障碍」を有する人は現に存在する。そのような人が、ユニバーサルデザインの発想だけで、生存権の保障された生活を送れるようになるだろうか?現在のところそれは、夢物語であると言わざるをえまい。
 したがって、現実的な、あるいは行政実務的な妥協点としては、「憲法上の生存権を保障するため、現状として、公的な支援を必要とする者」を選別し、定義し、これを対象として公的な支援を行うこととなる。かくして、行政上の理由から《障害者》は定義される。

 この法律において「障害者」とは、身体障害、知的障害又は精神障害(以下「障害」と総称する。)があるため、継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける者をいう。(障害者基本法第2条)

 《障害者》とは、行政上の必要から生じたカテゴリーであることを確認した。したがって、このカテゴリーに包含される者の性質は、本来、単一でない。先に掲げた《障害者》の定義の中にも、真っ先に《身体》《知的》《精神》のサブカテゴリーが顔を出す。そればかりではない。(私のような)素人にもイメージしやすい《身体障害》を例に取れば、視覚障害と聴覚障害と上肢障害がまったく別物であることは分かるだろう。
 このように、細分化に限りはなく、結局のところ、ひとりひとりの障碍者がそれぞれに「世界にただ一人の」「何者とも同一でない」「それぞれ完全にユニークな」存在であることに帰結する(それは人間である以上当たり前のことなのだが)。それらを、行政上の必要からやむなく一括りにしているのが《障害者》というネーミングなのだ。

 障害者の福祉に関する施策は、障害者の年齢及び障害の状態に応じて、かつ、有機的連携の下に総合的に、策定され、及び実施されなければならない。 (障害者基本法第8条第1項・強調は引用者による)




 それでは、このような「それぞれ完全にユニークな障碍者」における相互の「ちがい」を、障害者自立支援法がどのように扱っているのか……という辺りで「次回につづく」ことにします。

追記:
 本文中「障害」と「障碍」の使い分けは、一般的には「障碍」を、特に法令上の概念として扱う場合には「障害」を用いるよう意識していますが、不適当な部分がもしあればご指摘願います。


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