涼風野外文学堂

文学・政治哲学・読書・時事ネタ・その他身の回り徒然日記系。

RPGツクールDS【使用上の注意】

2010年05月05日 | 日記・身辺雑記
 ♪三十路なのに中二病 三十路なのになぜか中二病

 ども。「心はいつも14歳(主にリビドー方面)」の涼風でございます。大変なご無沙汰をしてしまいましたがまあいつものことですよね!(開き直り
 いや、実は4月から担当業務が変わりまして、例年だと3月が殺人的に忙しくて4月暇だったのが、今年は3月が例年通り殺人的に忙しかった上に4月も新業務で忙しいという救いのない状況になっておりまして、更新が滞っていたのは決して3月末に買ってしまったRPGツクールDSのせいではありません。ありませんったら(説得力ゼロ

 ……と、いうわけで。文学的思考とはまったく無縁の数ヶ月を過ごしておりましたので、今日は軽めにRPGツクールDSの話でお茶を濁してみます(今回、分からない人にはまったく分からない話で申し訳ありません)。
 いやぁ素晴らしいですよねツクールシリーズ。PC版は正直「ふーん」「自分でプログラム組めば?」「アリスのシステム3.xでも良くね?」的気分にならないでもないのですが、これをコンシューマーでやってしまう度胸はやはり尊敬に値します。スーファミのパッドでちくちく文字拾ってた十数年前の日々が今でも鮮明に思い起こされます。
 そんな、スーファミ版から馴染んできたわたくしですが、プラットフォームがプレステ系に移ってからは、記録媒体の貧弱さなどの問題もあって、しばらくご無沙汰してました。そんな涼風がすごーく久しぶり、RPGツクールGB以来ですからおそらく10年ぶりくらいに手にとったRPGツクールDS、果たしてどうなっているのか?以下、つれづれに感想。

1.操作感覚は10年前と変わらない。
 イベント作成命令の組み合わせ方とかは、基本的に10年前、いや20年前のシリーズと基本的に変わっていません。10年ぶりに手にとったオールドユーザーですが、マニュアルに手を触れることなくいきなり作り始めても何の支障もありませんでした。

2.タッチペンは偉大。
 十字キーのパッドで文字入力していた時代を知る人間としては、タッチペンで初めて操作したときは「初めて火を見つけたサル」くらいの感動を覚えました(嘘)。冗談はさておき、タッチペンのおかげで、歴代のシリーズに比べて文字入力のストレスは格段に緩和されてます。あとなにげに、DSの利点として、起動が軽くセーブも軽い、という携帯機ならではのメリットが、子育て中のパパには強い味方です。

3.日本語変換の出来はいまいち。
 文字入力がストレスレスになったのに、残念なことに、かな漢字変換がストレスいっぱいです。予測変換の読み込みが重く、語彙が貧困です。ATOKのロゴが悲しく感じられます。

4.相変わらず容量不足。
 まあ、これは歴代コンシューマーのツクールシリーズを触ってきた人間なら、買う前から覚悟していることですよね。それにしても、フィールドマップを作ると全体容量の4分の1を食う、という仕様はちょっと引きます。例によって、ラスボスのセリフが1行長くなるたびに最初の村から村人が一人消える、というぎりぎりの調整を迫られます。

5.若干バグ多め。
 このへんもネット上で既に多くの同志が指摘していることですので、今更繰り返しませんが。いやしかし、ただでさえ容量足りないのに、イベント作成時のメモリ残量チェックにバグがあって、作れるはずのイベントで容量不足指摘されるのは勘弁してほしい。あと、船の上でモンスターに遭遇したときに戦闘後に音楽がフィールドに戻ってしまうのも(結局繰り返してる

 と、色々言ってみましたが、いや、全体的に今までのシリーズに比べてもいい出来だと思いますよ。
 とりあえずFull版で1本作ってみましたが、残念ながらWi-fiでコンテストに投稿できるのはDP版だけなんですよね。Fullですらこれだけ容量足りないのに、その半分以下の容量のDP版では、投稿作品が「一発ネタ」ばかりになってしまうのも仕方のないことかもしれません。
 とりあえずFull版の場合の容量節約のアドバイスとしては、新規にイベントを作成する際の容量の食い方が、既存のイベントのページ増やす際と比べて半端ないので、「フロアに入ったときの自動発生イベント」とかを独立で作成せず、「階段」とか「通行人」とかと兼ねてしまうのが吉です。それと、先述のバグがあるので、メモリ残量あるのにメッセージ入力中にメモリ不足指摘されてしまうときは、データベースから何か削って容量確保して(モンスターデータ等を紙にメモって一旦消してしまうのがお薦め)、イベント作ってから再びデータベースにさっき消したデータを入力し直すと、上手に容量使い切れます。
 あと、街や村はマップだけでデータ食いまくるので、なるべくダンジョンマップを活用しましょう。それと、建物や城や神殿を作るときは、不要な階段を思い切って消してしまうとけっこう容量稼げます。
 DP版は…まだちょっと触ってみただけなので分かりませんが、とりあえず、タイトル画面の画像は諦めるのと、戦闘時の武器や魔法のアニメーション表示を諦めるのは基本だろうと思います。
 って、おそらくほとんど誰の役にも立たないアドバイスですが、まあ、Bunちゃん見てますかー(超個人宛て

歴史を逆回しに学んでみる、という発想。

2010年01月15日 | 日記・身辺雑記
 中学・高校の頃、日本史や世界史の授業のたびに、どうしてサルの時代の話から始めなきゃならんのか、と思っていた記憶があります。歴史を古い順に学んでいく作業は、中学生男子的には、さっぱり面白くない。戦国時代くらいに達すればだんだん面白くなることが分かっているとしても、そこに至るまでがとことんウザい。もう平安時代飽きたヨ、とか言って教科書の角にパラパラ漫画を描き始めることになるわけです。
 さすがに当時よりは年を取って分別をわきまえまして、歴史というのは連続性の中で理解しなければならないから、順番を入れ替えたり美味しそうなところだけつまみ食いしたりしたのでは歴史の上っ面しか理解できない、という事情は分かりました。しかしながら、中学校で歴史を学んだ子がみんな歴史研究者になるわけではないのですから、多少の逸脱は見逃してもらえないものだろうか、という気持ちは拭えません。

 阪神・淡路大震災から、まもなく15年になります。当時私は高校生で、横倒しになった高速道路の橋脚の映像にショックを受けて、訳も分からないなりに、部活の仲間に働きかけてなけなしの小遣いをかき集め、義援金を送りました。そんな感覚がつい先日のことのように思い出されますが、冷静に考えれば、これはもはや「現代史」として教えられるべき出来事になりつつあります。
 例えば、2歳になった私の娘が中学生になる頃には、きっと歴史の教科書の最後の方には、阪神・淡路大震災もそうですし、ソ連の崩壊も地下鉄サリン事件も、9・11テロだって、歴史上の出来事として記されているのでしょう。それらの物事を、今後、どのように娘に教えていくことができるのか。少々気が早い話ですが、そんなこともぼつぼつ考えていかなければいけないような気もしています。
 そう考えると、歴史というのは、個別の出来事の羅列ではなく、連続したひとつの流れとして今・ここにまで繋がっているものであるから、逆に「今・ここ」を基準として、歴史を遡りながら学んでいく方が、却って理解しやすいのではないか、という気がしてきました。最近の出来事から順に、次第に過去へと向かいながら、歴史を学ぶ。そうすれば、明治維新が、徳川幕府が、現代に繋がるどのような仕組みを産んだのか、理解できようというものです。…学生時代にこういうことに気づいていれば、もう少し日本史や世界史の成績良かったと思うんだけどな。

 そんなこんなで、最近の涼風は「あの戦争」の辺りまで遡ったところで思考停止中で、手塚治虫『アドルフに告ぐ』とかこうの史代『この世界の片隅に』だとかを読みながら若干涙腺ウルウルさせております。

 遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
 今年も当ブログをよろしくお願いします。

ウイスキーを飲む余裕。

2009年10月05日 | 日記・身辺雑記
 馬頭親王氏のブログの9月28日付けエントリ辺りを読むにつけ、そういえば最近ウイスキー飲んでないナァ、などと遠い目をしてしまいました。
 根っからアル中の涼風ですから、酒を飲んでいないわけではなくて、毎晩缶ビール1本くらいは空けるようにしているわけですが、冷静に考えてみると、ここ数ヶ月、ビール以外の酒を口にしていないような気がしてきました。
 涼風はウイスキーが大好きです。いや、もちろん、ワインもブランデーも紹興酒も焼酎も大好きですが、その中でも、ウイスキーは別格です(ちなみに、ビールについては、もはや好きとか嫌いとかの次元を超えて、三度の飯を食うのと同じ感覚で、日常の一環に入り込んでいます)。
 しかし、大好きだからこそ、多忙の合間を縫って飲むものじゃない、という変なこだわりがあります。ビールなら、大騒ぎする娘に夕飯食わせながら片手間で飲み干すことができますが、ウイスキーではそうはいきません。ウイスキーは、家族が皆寝静まった夜半に、一人で静かに飲むものです。普段水やジュース飲むのに使ってる3個500円の無印良品のタンブラーではなく、底がどっしりして飲み口の薄い、ロイヤルドルトンのウイスキーグラス(といっても、涼風の安月給では正規品は買えないので、気泡が1個入ってしまったB品ですが)でなければなりません。

 このように考えていくと、最近ウイスキーを飲んでいない、というよりは、最近ウイスキーを飲むような心のゆとりを欠いている、ということなのかな、という気がしてきました。と同時に、ウイスキーが好き、というのは、ウイスキーの味が好きということよりも、ウイスキーを飲む、ということに付随して自分で用意するあれこれが好き、ウイスキーを飲んでいる時間が好き、という、一種の儀式みたいなものであることが理解できてきました。
 学生時代、あるいは社会人になって名もない頃、小説書いたりウェブサイトに乗せる書評書いたりしていたときに、傍らにウイスキーが置かれていたころを思い返してみると、最近の自分の書き物にどうも色気がなくなってきたような気がするのは、このような「ウイスキーに象徴される余裕」を失していることによるのかもしれません。

 そんなことをつらつら考えているうちに、無性にウイスキー飲みたくなってきたので、妻と娘が寝入ったところを見計らって、とっときのバランタイン(21年!)をお気に入りのロイヤルドルトンに注ぎ、ちびちび舐めながらこのエントリ書いてるわけですが、冷蔵庫を開けて気の利いたチーズのひと欠けも見当たらないことに愕然としました。日常的にウイスキー飲んでた頃なら、チーズとクラッカーとナッツ類は切らさなかったのにな。
 そんなわけで今日の酒のアテはオムレツ。全然贅沢な気分になれねぇorz

アブラハムの宗教とソーズ&ソーサリーの精神。

2009年09月27日 | 日記・身辺雑記
 最初に涼風の宗教的な出自を申し上げておきますが、典型的な日本人です。一応、父の生家は曹洞宗の、母の生家は浄土真宗のそれぞれ檀家ですが、母方の祖父は教会に通ったりもしてましたし、うちの父などは俺が死んだら散骨してくれなどと申しております。クリスマスにはケーキを食べお正月には初詣に行く、そんな家庭で育ちましたので、特定の宗教に自分が肩入れしているという自覚はありません。

 ところで、ここ1年以上ずっと「ラノベ書きてぇ」と言い続けてきて、実際に作業も進めていないわけではないのですが、ひたすら設定ノートばかりが増えて行き、原稿本体はまだ1文字も書き始めていない状況です。
 実際に何の作業をしているのかというと、書こうとしているソーズ&ソーサリー小説の舞台設定、より具体的には、都市構造と宗教の設定ばかりを日々書き留めています。
 特に宗教の設定は手を入れ始めたらきりがなくなってきたので、どこで手を引こうかと躊躇っているところなのですが、創生の物語、預言者の物語、聖典の成り立ちといった、ある程度「一神教の基本セット」みたいな部分は作っておこうと思っています。このへんの作業を今のうちにしっかりやっておけば、いざ原稿を書くときの負担はだいぶ軽減されるはず……(しかしながら、設定倒れになる危険性も大)。

 作業をしながら思うのは、やはりソーズ&ソーサリーには多神教より一神教の方が親和性があるなぁ、ということです。
 以前、ドイツを旅行し、ヴュルツブルクだのローテンブルクだのといったいかにも中世な町並みを見て回ったことがあります。帰国してから、たまたま昔の仲間とTRPGをやる機会があって、システムは「ソード・ワールド」にして、GMをやらせてもらったのですが、今回はシティアドベンチャーにしよう、と、ドイツで見てきた街の風景を思い浮かべながら、舞台となる都市の地図を紙に書こうとして、

「……書けない」

 手が止まったわけです。

 どうしても、世界観と宗教観というのは一体化しているようで、やはり都市の中心には教会があって、教会広場があって、決まった曜日に礼拝が行われて、というのがないと、あのような都市構造にはならないような気がしてきたのです。
 ソード・ワールドのような多神教世界を前提に、ひとつの街に複数の教会を置いてしまうと、街の構造はどうしても放射線状ではなく、碁盤目状になってしまいます。そうすると、どこが街の中心でどこが外延なのか、よく分からなくなります。結果、城壁や城門の位置も、何だか据わりが悪くなってきます。
 そんな経験があったので、今回、小説を書く準備として、実在しない一神教の世界をひとつ考えてみているわけです。

 このような作業を進めるに当たり、改めて、いわゆる「アブラハムの宗教」に共通する部分、人間の知覚を超越した神の存在、神の言葉を人々に伝える預言者の必要、人間は神に似せられた不完全な被造物であること、といったものを、意識せざるをえなくなっています。
 正直これが今の私にはとても楽しい作業で、多分、今の私が書きたいと思っているものの方向性に、マッチしているんだと思います。人間は不完全で、欲深く、嫉妬心や猜疑心にまみれた罪深い生き物であるが、しかし、だからこそ、愛すべきなのだと。ラノベであっても、そんなニュアンスを織り込めたら理想的だな、と考えているときに、アブラハムの宗教を意識した世界観は、大きな助けになりそうな気がしてきました。

 ……こんなこと書きながらふと、キリスト教がなければ君の国ではどうやって道徳を教えるのだ、と尋ねられた母校の大先輩を思い出しましたが。
 逆に言えば、キリスト教のある国ではキリスト教を離れたところでの道徳なんて想像だにできない、ということでもあるのでしょうね。

「正しくモテなければならない」という圧力。

2009年04月26日 | 日記・身辺雑記
 美容室に髪を切りに行きますと、最初にスタイリストさんと打ち合わせして、どんな髪型にしたいか話し合うわけですが(そして「伸びた分てきとーに切って」とか言っちゃうワタクシ)、その打ち合わせ机の上に、いつも必ず、「ヘアカタログ」なる冊子が置いてあります。いろんな髪型のモデルの写真が載ってて、この中から好きなの選べってことらしいのですが、今さら髪型ちょっといじったくらいでは市原隼人にも小池徹平にもなれないことは分かりきっていますので、あまり参考にはしていません。
 それより、涼風が気になって見ているのは、このヘアカタログ内にある、髪型と関係のない「特集記事」や「広告」の類です。色々な出版元から出ている、それぞれ別の本であるにも関わらず、これらのヘアカタログは、特集記事や広告の作りまで含めて、どれもまったく同じに見えます。特集記事として、必ず載っているのは、自分でやるスタイリングの仕方(ドライヤーの使い方やスタイリング剤のつけ方)と、フレグランス特集。広告としては、幸運のお守り系と、脱毛、身長を伸ばす系、あとは、男性自身を大きくする系、と決まっています。
 そして、これらの特集記事や広告に共通するキーワードが「モテ」です。これらの記事や広告の中には、必ずといっていいほどどこかに「モテる」の文字が躍っています。そこらの女子にモテるかどうかより、娘に嫌われないかどうかのほうに関心を取られているパパ涼風としては、もはや遠い世界の出来事にしか見えないのですが、あるいは遠い世界の出来事だからこそ、そこで乱発される「モテ」の脅迫的な感じに、違和感を覚えます。

 そういえば、と思って手元にある「ロスジェネ」辺りを見返してみたのですが、秋葉原の無差別殺傷事件の犯人と絡めて、「モテ」の問題は、案外切実なものとして語られています。
 しかしながら、この「モテ」への渇望、「モテなければならない」という強迫観念、「モテ」と「非モテ」で人間が二分され、「非モテ」は人格すべてを否定されてしまうかのような殺伐とした感覚が、涼風には、どうも理解できません。
 もちろん、誤解のないように申し上げておけば、十代の頃辺りを振り返ってみれば、涼風は、お世辞にもモテた方とは言い難い男子でした。基本、男子ばっかりでつるんでゲーセン行ったりTRPGやったりしてるか、一人で部屋に籠もって小説書いてるかTRPGのシナリオ書いてる、そんな感じの、色恋沙汰の点から評価したらかなり薄暗くて湿気っぽい感じの青春時代を過ごしてました。
 しかし、だからこそ、昨今はびこるこの「モテない」ことへの悲壮感というのが、どうも感覚的に理解できないわけです。思い返してみても、さっぱり女っ気のない中高生の頃、自分は悲惨で救いようのない暗黒の時間を過ごしていただろうかと考えると、そんなことはなくって、むしろ女の子のご機嫌をうかがうより、男ばっかりで集まって遊んでる方が楽しかった実感すらあるのです。

 このように考えると、今時の中高生は、涼風が中高生の頃よりももっと切実に、「モテ」の圧力に晒されているのだろうか?と心配せずにはおれません。
 冒頭に挙げた「ヘアカタログ」のメインターゲットは、どう考えても、中高生です。そこに「モテ」を人生の指標として掲げるような、「モテない男子は生きる価値なし」とでも言いたげな言説が入り込んでいることを、どのように評価すべきなのでしょうか。十代も前半のうちからすでに、「イケてる髪型で、汗臭くなくて、金もまあまああり、毛深すぎず、背も高くて、立派なものを股間にぶら下げている」男子であることを求められる、熾烈な競争社会に放り込まれているのでしょうか。それはある意味、受験競争社会などより、よっぽど過酷な生存競争かもしれません。
 だとすれば――「ロストジェネレーション」などと言ってますが、世代論的に言えば、本当に大変なのは実はより若い世代、これから学校を卒業し、社会に出て行かなければならない世代なのではないでしょうか。
 既にバブルのフロンティア(あるいはニッチ)は先の世代に食い尽くされ、何ら美味しい果実は残されていない世代。社会保障制度の構築を怠ってきたツケがたまって、しかもそれを少子化のせいにされている中で、担い手とならなければならない世代。大学出て就職して結婚して子供育ててマイホーム建てて、みたいな物語が神話か笑い話にしか聞こえない世代。そして――未来に希望は持てないし、家族は負担でしかないし、人間関係は希薄極まりない中で、(湯浅誠風に言えば「溜め」が決定的に不足している中で)唯一の希望、あるいはファンタジーを、「モテ」の中にしか見出すことのできない世代。

 私も含め、彼らより年上の世代は、せめて自らの命が惜しければ、これら若い世代が「暴発」する前に、何らかの手を打つ必要があるのかもしれません。

激流の中で年度始め。

2009年04月05日 | 日記・身辺雑記
 2ヶ月以上も留守にしてしまいました。このブログの(数少ない)常連読者の皆様にあっては、「あーまた年度末だし仕事忙しいのね」と生暖かく見守っていただいていたものと思いますが、実をいうと、仕事は例年に比べればかなり暇でした。
 それなら何でブログ更新しないんじゃい、とツッコミの入りそうなところですが、これはもう、仕事が原因でないとするならば、プライベートに原因があるに決まってるわけでして、この2月から妻が仕事に復帰し、娘が保育園に通い始めたあたりに原因を見出すほかありません。つーか、走り過ぎです1歳児。文化系パパはもう体力的に追い付けません。

 さて、この2ヶ月間、ブログのネタにしたい出来事は色々ありました。村上春樹のイェルサレム賞受賞スピーチとか(あれはメタファーに過剰な意味を代入するよりも、比喩は比喩のまま聞いた方が却って分かりいいんじゃないだろうか)、闇サイトで知り合った3人がやらかした拉致殺人の地裁判決とか(更正を主目的とするこの国の刑罰の考え方は、いかにしても更正の可能性を見出せない被告人の闇の深さに直面したとき、沈黙せざるをえない)、気になる物事は多々あったのですが、もはや旬の話題ではなくなってしまっていて、今さらこれらの話題でブログにエントリすることが躊躇われる辺り、インターネットメディアの圧倒的なスピード感に呆然とさせられるところです。
 そして、このようなスピード感と文学的思索とは、やはりあまり相性が良くないナァ、と思い始めている次第です。立ち止まって深く考えたい事項がそこかしこに散らばっているのに、日常的な必然性の波にあっという間に押し流されてしまう。それはインターネットの世界だけの出来事ではなく、全世界を覆う現象であり、こんな時代にどんな文学が生起しうるのだろう、というややもすると悲観的になりがちな問いに、私はまだ答えを出せていません。

 そうは言いつつ、文学的なものも非文学的なものも含めて、やりたい事だけは山のようにあります。
 とりあえず、すっかり野ざらしになっている『涼風文学堂』を何とかしたいところです。現状、どうしても更新頻度や即応性の面からは、ブログが中心となっていくのはやむを得ません。そうであるならば、前線基地であるブログに対して、ウェブサイトはロジスティクスとなるべく、多少は腰を据えた思索に基づいた、時間を経過しても古びることのないコンテンツを格納しておく場にならなければいけないでしょう。
 それと、欲を言えば、ブログをもう一つ持ちたい気持ちがあります。現状、このブログは「文学」を標題に掲げておきながら、時折(しばしば?)お仕事の話に傾いてしまうので、できれば「お仕事ブログ」は別で持ちたい、という願望があるのです。

 ……いずれにせよ、もう少し時間を上手に使えるようになってからの話です。
 好きと嫌いとに関わらず、猛スピードで展開を続けるこの現代世界に生きる我々は、忙しさを理由にして何も生み出さずに時間を浪費するよりも、忙しさを馴化して時間に都合を付けることを考えた方がいいに決まってるのです。
 決して、このエントリ書いてる途中で、娘が目の前でうんち漏らしちゃったくらいで、挫折してはいけないんです。いけないんですったら。


【追伸】
 懸案となっていた454枚の長編は、結局大した手直しもせず、適当な文学賞に送り付けました。正直、1次予選も通過できそうもないと思ってますが、書き上げた小説ちまちま手直しするよりも、新しい小説書きたいんですもの。
 ……ところで、送付先からわざわざ「届いたよー」ってハガキ届いたのですが。今まで色々投稿してきて初めての経験なのですが、よほど丁寧なところなのか?それとも、最近みんなそうなの?

行政法を学び直す(という、決意だけはしてみる)。

2008年10月08日 | 日記・身辺雑記
 長らく更新お休みしていましたが、ちょっと期間の長い宿泊研修に出かけていて、留守にしてました。
 ……いや、自分のパソコン研修所に持ち込んでたんで、ネットに繋ごうと思えば繋げたんだけど、さすがに研修中ではブログ更新する余裕はありませんでした。

 で。

 この夏友人と会った際に「初学者向けの行政法の教科書でお勧めあったら教えて」と聞かれて返答に窮した法学士失格の俺様がここにいますが、今回、行政法関係の研修を受けるに当たって、いろんな教科書を自分で買ったり図書館で借りてきたりして読み比べているうちに、今さらながら、この国の行政法学の現状が自分なりに整理できてきて、今後どの教科書を手元に置いておくべきなのかについても、何となく見えてきた気がします。
 私自身も、これを機にちょっと真面目に行政法を勉強し直してみようかな、と思った次第ではあるのですが、この友人への今さらながらの返答も兼ねて、行政法学の現状分析と既存の教科書のマッピングを自分なりにしてみたいと思います。

 そもそも、この国の法体系は「上からの近代化」と言われるように、明治時代に主として「大陸法」をアレンジしながら輸入してきたものです。
 その中でも、行政法の分野は、司法裁判所と別に行政裁判所を置いた、というシステムの部分で、大陸法モデルを参照してきたところから、行政法学の理論も、大陸法、特にドイツ行政法学の色濃い影響を受けてきた、というのが、一般的な理解です(ああ、超ざっくり説明してるのでディテールは突っ込まないでね)。
 この観点から、日本の行政法学は「行政行為論」に代表されるように、行政の作用に特別の法律関係(権力関係)を認め、「公定力」のような特別の機能を見出す理論を中心として、展開してきました。

 このような「伝統的な」行政法学(美濃部達吉に源流を発し、田中二郎が完成させた)は、今日においてもなお、行政法の理論体系として強い影響力を保ち続けていますが、その源流は、司法裁判所と行政裁判所を別に置く大日本帝国憲法下の体制から発しているのですから、裁判所が一元化された日本国憲法の体制化では、色々不都合が生じてきます。既に当の田中二郎自身が、日本の行政法学における大陸法から英米法への転換についてその著書で指摘している箇所もありますし、田中二郎の一番弟子というべき塩野宏、さらにその後継者というべき宇賀克也という並びで見ていくと、行政行為の公定力を認め事後的救済に重きを置く(行政の正当性がある程度前提にされている)大陸法的行政法から、透明性と手続的正当性を重視する(行政の無謬性を疑ってかかる)英米法的行政法へのゆるやかなモデルチェンジ、と理解することもできます。

 一方で、こうした伝統的行政法学に対する有力な批判として、そこで論じられる行政法の体系が「体系のための体系」である、というものがあります。
 日本の行政法体系は、戦前においては大陸法的な大日本帝国憲法のもとで組み立てられ、戦後は英米法的な日本国憲法が導入されて、全体としては、大陸法と英米法のハイブリッドのような様相を呈しています。これを体系的に説明しようとするから無理が生じるのであって、現にある法律を総体的に捉え、行政の作用全体を「行政過程」として捉えようという発想が、研究者の中で提唱されていきます。
 早い時期からこのような「行政過程論」の必要性を提唱していたのは遠藤博也ですが、大学紛争の影響などもあって、この点についてのまとまった論考は実を結ばなかったようです。塩野宏も比較的早期から行政過程について言及していますが、どうも問題点の指摘にとどまっていて、詳細な考察を加えているとは言い難い。
 行政過程、という表現を用いてはいませんが、阿部泰隆『行政の法システム』(有斐閣)は、このような考え方を教科書のレベルで纏め上げた、おそらく最初の成果品であったのではないかと思います。伝統的行政法学が行政庁-被処分者という二面的モデルしか持たなかったのに対し、行政庁-被処分者-利害関係者という三面的モデルを提唱したのは、遠藤博也の「複数当事者の行政行為」の理論の発展形と捉えることもできそうですし。

 さて、以上のような理解を踏まえて、どのような教科書を手元に置いておくべきか、と考えると、次のような候補が挙がります。

1:
 まず、受け入れるにしても批判するにしても大前提として、伝統的行政法学の流れを汲んだ教科書を手元に置く必要があります。といっても、今さら田中二郎の教科書をスタート地点に持ってくるのはどうかな、と思いますし、塩野宏『行政法(1)~(3)』(有斐閣)が現実的でしょうか。
 今後のスタンダードを先取りするなら宇賀克也『行政法概説(1)~(3)』(有斐閣)だと思います。田中・塩野行政法を現代的に補強・発展させた教科書とも言えるでしょうし、何より東大ローの教官である宇賀の教育が今後の法曹に影響を及ぼさない筈がない、という実務上の事情もあります。
 3分冊の教科書(作用・救済・組織)というのも田中行政法の伝統を忠実に受け継いでいるようでそれはそれで品質証明のようなものですが、もう少しコンパクトなものを探すなら、原田尚彦『行政法要論』(学陽書房)あたりがメジャーでしょうか。
 より初学者向けということでいえば、藤田宙靖『行政法入門』(有斐閣)が、薄い本にもかかわらずスタンダードな理論の要点を過不足なく押さえています。最高裁判事の考え方に親しむ、ということで、訴訟対応にも向く、かも?口語体の文章に慣れられるかどうかで好き嫌いが分かれそうなところでもあります。

2:
 その上で余裕があれば、こうした伝統的学説への批判的な視座を持った教科書を、合わせて読みたいところです。遠藤博也が北大法学論集に分載した「複数当事者の行政行為」は、今読んでも古びていない明晰な論ですが、残念ながら大学紛争で研究室封鎖されたために未完です。
 そうするとやはり阿部泰隆『行政の法システム』(有斐閣)が完成度高いですが、残念ながら版元在庫切れで入手困難です。涼風は近所の図書館で借りて読みましたが、やはりこの種の本は手元に置いておきたいものです。同じ著者の教科書として、中央大学での講義のレジュメを教科書化したものが11月に出るとの噂に、ちょっと期待してます。
 すると結局、現在容易に手に入る教科書の中で、このような視座を持ったものとなると、大橋洋一『行政法―現代行政過程論』(有斐閣)以外にない、ということになります。これは非常に読みやすい教科書ですが、他の標準的な教科書と並べて読まないと、なかなかその良さが伝わらないかもしれません。
 変り種では、田村泰俊(編)『最新・ハイブリッド行政法』(八千代出版)。テーマが風営法、という辺りで初学者向けに見えますが、前掲の阿部・大橋らの教科書に多大な影響を受けているため、実はそこで展開される理論はなかなか高度です。

 ……というわけで、今から行政法の勉強をするなら、1冊目の教科書としては原田尚彦『行政法要論』か藤田宙靖『行政法入門』のどちらか好きなほうを、スタンダードな理論をより深く学ぶなら宇賀克也『行政法概説(1)~(3)』を、これらを批判的に検証しようとするなら、2冊目以降の教科書として大橋洋一『行政法―現代行政過程論』をお勧めしておきますが、2ヶ月遅れの回答としてはこんなところでいかがでしょうか水薙君。


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※ それにしちゃ文学関連のエントリ少ないじゃん、とか突っ込んじゃダメです。


ケータイで書いてみる。

2008年05月21日 | 日記・身辺雑記
 ケータイ小説始めました(激しくマテ

 かれこれ3年以上かかってまだ書き上がらない小説放ったらかしにして、新たに携帯で小説書き始めた俺がいますよ。白狐と鬼と陰陽師の出てくるギャルゲー風ほんのり伝奇風ラノベですよ。
 だってパソコン立ち上げて小説書く暇なんてありえないんですもの。今日ひさびさにパソコン起動したらウィルス対策ソフトさんに「15日も更新してないぞコラ」と叱られましたよ。

 ……なんだかどちらの小説も未完に終わるんじゃないかという懸念が。

 先日、昔の友人とひさびさに会って酒飲みながら話したことなのですが(Bunちゃんお疲れ様、また飲もうね&コーネリアスのCD返ry)、涼風が狙っているのは「オトコノコのためのケータイ小説」なのです。
 巷を賑わしているケータイ小説に涼風はほとんど目を通していないのですが、遠めに見て「女の子のための共感ツールだなぁ」というイメージを漠然と抱いているのです。これではいけない。今こそ、男の子の男の子による男の子のためのケータイ小説を立ち上げるべきではないのか!なんて、ちょっとそんな使命感みたいなものも抱きながら、書き始めたわけです。
 それで行きつく先が「ギャルゲー風」ってのも俺らしいですが。

 ちなみにそんな自論を語ったところ、上記の友人からのアドバイスは「男の子のための小説だったら、むしろ、ジャンプ風じゃない?」でした。一理ある。
 ……戦闘力の数値化でも導入してみるか(オイ


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新生活はじめました(遅

2008年04月23日 | 日記・身辺雑記
 更新滞ってましたが、この間何をしていたかというと、引越ししてました。既に1年半も前のエントリの話なので何を今さらの感がありますが、一昨年に購入したマンションがようやく完成したとかそんな話。
 とはいえ、このマンションに入居したのは3月26日のことなので、既に1ヶ月前のお話なんですけどね。しかし3月というのは涼風の仕事が一番ヤバい時期なので、引越しの前日に日付変わるまで残業してて午前3時にようやく寝て8時に起きてゴミ出しして娘を妻の実家に預けてマンションの鍵受け取って住民票の異動と印鑑登録の手続きをして一旦妻だけ前のアパートに送り返してから新居に取って返して床拭いてワックスがけして押入れに除湿シート引いて引越屋の荷物の搬入指示して搬入終了が夜9時。翌日家具屋からダブルベッドとソファとダイニングセットが届くため、搬入経路を確保するために寝室とリビングとその周辺の動線確保に係るところだけ片付けてやっと寝たのはやっぱり午前2時、とかそんな感じの引越しでした。
 で、ネット環境が色々変わって接続プロバイダも変わって色々聞いてない話を後から持ってくるのでちょいと喧嘩して職場も人事異動があって新しく仕事で関わるようになった人と春先から大喧嘩してそうこうしてる間にあっという間に1ヶ月ですよ。いけませんな。これはひとつ「ビール1本飲むにつき記事1本投稿」とか制約を設けないと更新が滞って仕方がない……とか言いつつ、この1ヶ月は涼風にしては珍しく、酒も大して飲んでないので、やっぱり更新滞りそうです。

 ところでそんな息つく暇もない怒涛の3月の主な原因となった仕事は、税制改正関連の話だったりするので、これだけプライベートも忙しい(引越しの準備を妻に任せきりにしていた、とも言える)中で、必死こいて毎晩残業してこさえた仕事の成果品は、この度の政局がらみで結局ボツになりましたが誰か俺を慰めてくれますかorz


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近況(進捗状況)報告。

2008年03月04日 | 日記・身辺雑記
 400字詰め原稿用紙に換算して345枚。まだ完結しません。

 ……ええと。
 携帯を4年ぶりに買い換えました。過去の経験からして、涼風の携帯買い換えサイクルは3~4年は軽くいくので、ここはあえてガツンと最上位機種を、ということでSH905iTV。買い換え前がmovaだった辺りが泣ける。そしてたまたま偶然なのですが、PHSの時代から4台続けてシャープの機種買ってる俺様回し者ですか。
 せっかくワンセグ付いてるので、毎朝勤務時間前に『ピタゴラスイッチ・ミニ』を見るのが日課になっております。

 で、なんでこんな話をしたのかといえば。
 今書いてる小説が完結したら、ケータイ小説に挑戦しようかな、なんて漠然と考えています。別にケータイ小説といっても、友の自殺と彼氏のDVとリストカットの話を書くつもりはぜんぜんなくって、ただ単に、小説を書くための入力デバイスをPCから携帯に切り替えよう、というだけのことですが。
 これには切実な事情がありまして、ここ数ヶ月いろいろ姿勢を変えたり机と椅子の距離を変えたり試行錯誤してみたのですが、ついに娘を抱っこしながらパソコンで文字書くの不可能という結論に達したのですよ。その点携帯なら片手で操作可能。
 ところが、涼風が4年にわたり苦楽を共にしたSH505i様は、メモ帳は128B、メールは500Bが容量の限界。これじゃあ何をどうやっても小説なんぞ書けるはずがありません。加えて、メールに添付できる写真サイズが小さすぎて、孫の写真が見られないと涼風母が憤慨しておりましたので、買い換えようという気分になったのでした。
 しかしまあ、もうかれこれ足掛け3年ほどかけて書いてる長編小説がまだ完結しないので、それだけでも書き上げてから次なるケータイ小説に着手しようかな、と、ここ数ヶ月小説執筆のピッチ上げた結果が冒頭のとおり。物語はようやくクライマックスに差し掛かりましたが、この調子だと、最終的に400枚を超える長さになりそうです。
 ……書き上げても投稿する先もネェorz


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